第一幕

   家族愛

 人間とは、つくづく馬鹿な生き物だ。少なくとも、僕はそう思えてならない。
 ふと思うのだ、もしかすると、これはみんな僕をからかっていて、馬鹿な演技をしているのではないか、と。それくらい、おかしくて、見ている方が恥ずかしくなるのだ。
 嘲笑するのにふさわしい見世物だ。みんな、様々な面を付け替えて、滑稽な演技をしている。
 例えば、僕の家族なんかは良い例だ。彼らは、僕を見ると「笑顔」の仮面を被って、非常に滑稽な、「家族愛」ってやつを演じる。
 僕はそれを滑稽だと言ったが、時々、恐ろしくなる。
 彼らは愛ってやつを、他人の中、いわゆる心の奥へ、土足で入り、踏み荒らすことのできる権利だと勘違いしているのだ。それはもう無残に踏み散らしていく。
 しかし、恐ろしいというのは、そんな事ではない。真に恐ろしいのは、それが親切だと思い込んでしているということだ。
 つまり、悪意ってやつが無くて、無意識のうちに、こちらの心を荒れさせ、そして、自分が満足したら、それを片付けもせず、放り捨てる。自己中心的だと言って一喝したいくらいだが、それを彼らは純粋な善意でやっているから、こちらはなすすべなく、ただ堪えて、彼らの荒らしたものたちを片付けなければいけない。
「明信、今度の休みは、空いているか? 家族でまた旅行に行こう。温泉なら、疲れも癒せるし、いいんじゃないか? お前、最近疲れているだろう」
「分かった、行こう。あとお父さん、僕は疲れてなんかいないよ。ただ最近、少し学校で行事が多いだけさ。座って勉強をする方が、僕には合っているんだよ」
「そうか、それだけならいいが……何かあったら、相談しろよ」
「分かっているよ。でも、気を遣われるのは嫌いなんだ。気持ちは嬉しいよ、ありがとう」
 家族で旅行。そんなくだらない時間を、何故過ごさなければいけないのだろう。
 子供の時から僕は、少し人より体力が無くて、ついていくのが大変で、家族はそんな僕を、哀れみを含んだ目で見ていた。
 僕はそんなこと、気にしていないのに、とても深刻そうな顔をして、慰めの言葉を並べる。それが、おかしくて、見ていられなかった。
 そんな僕を見て、家族は、僕を頻繁に様々な場所へと連れ出すようになった。
 ――おとなしい、というのを、彼らは、元気が無い、と同義だとでも思っているのだろうか。
 そうやって、他人の心を勝手に推測して、余計な世話を焼かれるのが、僕は嫌いだ。
 それに、本当に元気が無いのだとしても、それは個人の問題だ。他人が何をしたところで、できるのはせいぜい傷口を広げる程度のこと。つまり、何もしないのが一番なのだ。
「家族」というコミュニティは、ほとんどの人が属する、当たり前にあるもの、という認識が一般的なのだろうが、僕は、そのコミュニティこそ、この世で最も奇怪なものだと思う。
 家族ってやつには、他の全てのところにはつきものの、「利害関係」ってやつが無い。
 これは、常に「家族愛」とか、そういう、実に抽象的なものにつながれている。
「家族愛」って魔物は、人の潜在意識に入り込み、彼らに仮面をつけていくのだ。僕はその魔物が、怖くて仕方がない。

 先刻、僕は人間を愚弄する言葉を言い放ったが、別に、全ての人間がそうであるという訳ではないと思う。それは、身近に、本物の顔、つまり、仮面をつけていない人が、あまりいないから、そう表現してしまったのだ。
 けれども僕の友人の中には、様々な表情を、自身の顔で表現するのが得意な奴がいる。
「明信、これから帰りか? コンビニ寄って帰るんだけど、一緒に帰らないか? 何かおごってやるよ」
「ありがとう、智。じゃあ、飴買ってよ。いつもの」
「そんなに毎日同じもの、ましてや飴なんて、よく飽きないな、お前」
 呆れた、とでも言いたげな、それでも笑顔も隠し切れていない表情で、僕の隣に立った。
 智は、家族ぐるみの付き合いもあって、幼い頃からずっと近くにいた。高校生になった今でも、その関係は変わることは無い。本当に信頼できる、数少ない大切な友人だ。
 飴は、僕の唯一の好物なのだ。例えば、他人に自分の中を踏み荒らされた時、飴を食べると、なんとなく安心感を覚える。そして、その安心感が、僕の片づけを手伝ってくれる。
「ほらよ、これだろ? たまには、他の菓子でも買ってみたらどうだ。冒険しようぜ」
「いいんだよ、これが好きなんだ。智こそ、いつも違うものを買っているようだけど、好きなものは無いの?」
「俺はお前と違って、いろんなものを食べて、それから好物を決めるんだ。飴ばっかり食っているから、大きくなれないんだぞ」
 勝ち誇った顔で、僕を見下ろす。確かに数年前まではそこまで変わらなかった身長も、今では十センチほど智の方が大きい。
 体質だろう、と反論したが、智の言うことにも、一理ある気がして、静かに笑った。智といるときだけは、僕も、自分の顔を安心して見せることができる。
 しかし、楽しい時というのは、あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。カラスたちが、沈む太陽に向かって鳴き始め、僕らも家路についた。

「おかえりなさい、明信。ごはんはできているから、みんなで食べましょう」
 笑顔で僕を迎える母親を、こちらも笑顔で見返す。逃げ出したい気持ちを何とか堪え、食卓に向かう。
 ――最近の疲れは、この時間が原因なのかもしれないなあ……。
 こんなことを考えているうちに、いつの間にか半分ほど食べ終わっていた。
「そういえば、明信、中間テストはどうだったんだ。高校入学後、初めてのテストだったのだろう? 心配はしていないが、勉強はしていた方が、何かと良く働く。こんな学歴社会の国でも、お前には幸せになってもらいたいんだ」
「……うん、大丈夫。結構良かったよ。学年でも一割の中には入る順位だし」
「そうか、それなら安心だ。これからも、頑張るんだぞ」
「……はい」
 父はそう言ってにっこりと笑う。それを見て、悪寒がした。気の遠くなるのを何とか抑え、返事をした。顔にまで鳥肌が立っていないか心配になるほど、恐ろしく、不気味に思えた。
 今、父の発言に矛盾があったのに気づいただろうか。心配はしていないなんて、どの口が言っているのだろう?
 逆らうのは後が面倒だから、大体は聞き流す。それでも、時々、ついうっかりこぼれてしまいそうになるのだ。
「父さん、そんな勉強のこと一々言ってないで、たまには違う話題無いの? もう飽きちゃったよ、この会話」
 無神経にそう言い放つのは、晴樹、三つ下の弟だ。
「そういえば、今週末、温泉街に泊まりで旅行に行くんだよね? 朝早くから行って、お土産たくさん買おうよ。友達に買っていきたいんだ」
 無邪気に笑ってそう言う晴樹を見て、なんだか肩身の狭い思いがした。自分はこんなにもつまらない人間なのだと、厳しい現実を突きつけられる。
 晴樹のように、なんでも楽しみ、いわゆる思い出ってやつを純粋に受け入れることができたなら、どれほど良かっただろうか。
 それに、自分をいつまでも隠して過ごすわけにもいかないのだ。そろそろ「家族愛」を演じるのも、限界がきている。
「どうした、明信、手が止まっているぞ」
 はっとした。考え込んでいるうちに、結構な時間が過ぎていたらしい。
 心配そうに顔を覗き込む父や母を見て、なんとも言えぬ不快感を覚える。
「ごめんなさい、今日は、智と一緒にお菓子を食べたから、あまりお腹が空いていないんだ。残りは明日の朝食べるから、ラップをかけておいてくれる?」
 逃げるように、二階の自分の部屋へと急ぐ。
 階段を上がるとき、ちらりと食卓の方を見た。悲しそうな、不安そうな視線があった。その視線は、とても鋭く、僕の中で跳ねまわり、様々なものを壊していく。僕が制止しても、全くいうことを聞かない。ただ、壊されていくのを見ながら、絶望し、崩れ落ちる。早く片付けなければ。――飴が欲しい。

 部屋で飴を食べ、やっと片付けが終わろうとしていた時、ドアをノックする音が聞こえた。
 ドアを開くと、そこには珍客がいた。
「兄ちゃん、どうしたの? 具合悪いの?」
 この時間はいつも部屋でゲームをしているはずの、晴樹が来た。大方父と母に、様子を見てくるよう頼まれたのだろう。
 少しからかってやろうと思いつき、晴樹を部屋に招き入れる。
「お前は、父さんと母さんは好きかい?」
 僕の問が突然だったもので、晴樹はきょとんとした目で僕を見る。
「好きだよ、家族だもの。最近兄ちゃん、元気無いから、父さんと母さんが心配だって話していたよ。僕はいつもゲームばかりしているから、分からないけど、そんなに勉強って、大変なの? それなら、一緒にゲームして遊ぼうよ。勉強なんか忘れてさ」
 ――なるほど、家族は、僕がいつも部屋にいるのを、勉強のためだと思っているのか。でも、僕はいつも、そんなくだらないことをしているんじゃない。
「そうだね、今度一緒にやろう。……ねえ、話を戻すけど、晴樹は、家族だから、僕たちの事が好きなの? じゃあさ、家族じゃなかったら、どうかな?」
 僕の問が不快だったようで、ほんの少し、声を大きくして答えた。
「いつもそんな事を考えているから、疲れるんだよ。もっと、単純に考えようよ。僕は、今、この家族が好きだよ。もし家族でなかったら、なんて、考えるのは無駄だ」
 そこまで言って、晴樹は、はっと我に返り、うつむいた。
 僕を傷つけたとか、くだらない心配をしているのだろう。その気遣いが、僕にとっては迷惑だとも知らずに。
 晴樹は元々、仮面をつけてはいなかったのだ。
 でも、「家族愛」って魔物の虜になってしまってから、そいつからたくさんの仮面をもらい、付け替えて楽しんでいる。これは僕がひねくれているから、そう感じるのだろうか。
 僕はいつも、部屋で、紙とペンが置いてあるだけの机に座っている。打開策を考えているのだ。
 どうすれば、この日常という演劇を楽しむことができるのか、或いは、どうすれば、この嘲笑すべき見世物を見ずに過ごせるのか。
 そんな事ばかり考えるのは、やはり異常だろうか。
 僕自身、正常だと言い張るつもりは無いが、狂人だとも思えないのだ。僕には、やはり、周りの、僕以外の人間が狂っているように思えてならない。
 晴樹が去った後、閉められたドアを見つめ、ため息をつく。
 僕は、この家族の一員なのだ。その事実は、変えることはできない。変えられたとしても、人が変わるだけで、この関係事態を自分から断ち切ることはできない。
「なんで、僕なんかに気を遣うんだろう」
 ベッドに寝転がりながら、そう呟く。語尾は何故か震えていて、目頭が熱くなっていく。一体何が僕のこの感情の原因になりうるのか、僕自身には理解できかねる。
 僕は、無神経な、自己中心的な奴と一緒にいるのが楽だ。その方が、こちらも勝手にやれる。
 気を遣う、ということは、相手にも気を遣わせるから、互いに壁を高くしてしまっているのだと思う。
 もちろん、親しき中にも礼儀あり、と言うように、最低限のマナーというものはあるのかもしれない。けれども、気を遣う、というのとは、どうも違う気がする。

 そうこうしているうちに、「家族旅行」という名の地獄めぐりの日が来てしまった。
 晴樹は、昨日の事でも、寝ればすっかり忘れてしまう便利な頭を持っているから、当然数日前の事は、記憶から抹消されているのだろう。
 晴樹の良いところは、気を遣うことも知らないような、その無神経さだ。
 山道を抜け、少しずつ見かける人の数も多くなっていく。
 やっと観光地らしくなってきたとき、晴樹が歓声を上げた。
「すごい、お土産屋がたくさんある! 後で、みんなで来ようよ」
「そうね、一度温泉に浸かってから行きましょう。温泉には浴衣もあるみたいだから、それも着て、ね」
 楽しそうに笑っている仮面をつける三人を見るのは、なんだか複雑な気分だった。楽しさが分からない僕は、曖昧に笑うことしかできない。
 しかし、温泉街という場所には、とても興味がわいた。古風な茶店や土産屋が立ち並ぶ風景は、僕の虚無な心に流れ込むように、鮮明に記憶された。
 車を止め、予約を取ってあった旅館を探す。ついた先は、窓から小川が見え、その先には竹藪の広がる、風情のあるところだった。
 久しく感動ってものをしていなかった僕だが、この瞬間、それを、いや、それ以上の、何かを感じた。言葉で表現するならば「感動」が一番近い気がするが、この気持ちを表すにふさわしい言葉を、きっと僕は知らない。

「気持ちいいな。やっぱり、風呂や銭湯と違って、自然の温かさは、体の芯の疲れも全て取り払ってくれる。そうは思わないか、明信?」
 ここで話題を振られると思っていなかった僕は、一瞬狼狽したが、何とか持ちこたえる。
「そうだね、父さん。明日、帰る前に、また来ようよ」
 笑顔でそう言うと、父さんは安心した様子で、笑顔を返した。
 傍から見れば、仲睦まじい親子だと思えるのだろう。しかしその本質は、父に恐怖心を抱き、また、そんな父の事を滑稽だと言う子供と、それに気づかぬ哀れな父の姿なのだ。
「父さん、そろそろ体を出ようよ。もうのぼせそう!」
 風呂が嫌いな晴樹は、温泉にもそこまで興味は無いらしく、いじけた様子であった。土産屋に行って、おいしい食べ物を買うのが、よほど楽しみなのかもしれない。
「そうだな、日が暮れる前に、土産屋に行くと言っていたし、この辺でやめておこう。ほら、明信も行くぞ」
 少し先を行く父が、とても遠ざかっているように見えた。
 部屋へ戻ると、既に女湯から戻った母が、浴衣を着て待っていた。土産屋巡りに行く準備も済ませ、遅い、とでも言いたげな視線を、僕らに向ける。
 けれども楽しみだという気持ちは隠し切れず、結局口元は緩んでしまっていた。
 そんな母を見て、父は一言謝り、大急ぎで支度を始める。僕と晴樹は、ただ浴衣を着ていくだけだから、ものの三分で終えることができた。
 父の遅い支度を待ち、ようやく四人そろって、にぎやかな温泉街へと向かう。
 しかし僕は堪えきれず、他の店に興味があるふりをして、三人の後ろを行く。夕日に照らされて歩く三人は、今にもその空へ溶けてしまうようだった。

「たくさん買えた! 学校の友達、喜んでくれるかな」
「きっと喜ぶぞ。温泉街の饅頭は特に、あまり良く見るものでないからな」
 部屋に戻った父と晴樹は、自分たち用に買った温泉饅頭を食べながら話していた。
 他にも、豆腐やおはぎなど、この地ならではの土産が手に入り、坂道を歩いてくたくたになっても、どこか満足感があった。
 温泉好きの母は、再び温泉に入ると言い、部屋に残った男三人、部屋でくつろいでいた。
「そういえば晴樹、友達といっても、一体誰に土産を渡すんだ?」
「決まっているじゃない。クラスみんなだよ。もちろん先生にもね。四十人くらいいるから、二箱くらい持って行かなくちゃ!」
 そう意気込む晴樹を見て、父はなんだか嬉しそうだ。
「そうか、友達は多い方がいい。学校が楽しそうでなによりだ」
 本当に、そうなのだろうか。僕は反対だ。浅い付き合いの友達が多くたって、何も得は無い。
 僕は、智のように、深く付き合う友人と、ほどほどに付き合う友達が数人いれば、満足だ。
 それとも、父は、友の人数で、己の地位が左右されるとでも思っているのだろうか。一言で片づけるのなら、この上なく馬鹿らしい。
 いつもこのように、誰かが言うことに心の中で反論をし、嘲笑するのは、僕の悪い癖だ。
 考え方なんて十人十色で、それが普通なんだってことくらい、分かっている。こうすることで、さらに自分がひねくれていくのも、分かる。
 そんな僕も、土産を買った。晴樹ほど多くは無いが、三、四人くらいに渡そうと思っている、温泉饅頭などのお菓子だ。菓子好きの智の事だから、温泉街の珍しい菓子には、きっとすぐ飛びついてくるだろう。
 そしてそれ以外に、自分用に、写真を撮ったのだ。美しい景色、自然に住まう生き物、そのどれもが、自分とは程遠くにある気がして、思わずシャッターを切った。
 僕はなにも、その写真に写る、切り取られた絵に、興味はない。ただ、いつか、僕自身の記憶が欠けたときも、写真を見れば、今感じている寂しさや、感動、そして、今日見た光景が、少しでも思い出されるだろう。
「明信、お前は、何を買ったんだ?」
 そう言って、僕の買った土産の袋を覗き込んでくる。そして、父は、あるものを見つけた。
「ほう、お前、これを買ったのか」
 それは、誰かにあげるために買ったものでない。一つの、控えめなとんぼ玉をぶら下げた、キーホルダーだ。とんぼ玉は、全体が黄緑色に透明で、水色、紫色、桜色などの朝顔が、まだらに描かれている。
 偶然立ち寄った茶店に、とんぼ玉のコーナーがひっそりと置いてあった。三人が、木でできたベンチに座っておはぎを食べている間、暇だったから、そこでとんぼ玉を眺めていたのだ。
 その中で、僕の目を引くものがあった。それが、この朝顔のとんぼ玉だ。
 他にも、名前の分からない花が描かれたものはあったが、どれも、旅行客に向けて作られた、空虚な気持ちしか感じられなかった。
 けれどもこのとんぼ玉は、他と違い、どこか、心に訴えかけられるものを感じた。僕の気のせいだとは思うのだが、これを逃すと、もう手に入らない、この感覚も、分からなくなってしまう、そんな気がして、思わず買ってしまったのだ。
 普段ならキーホルダーなんてもの、使い道がないからと言って見向きもしないのに、こんなにも心を動かされるのは、やはりこのような街が持つ力なのだろう。
「珍しいな、お前がこんなものを買うなんて。大事にするんだぞ」
 父は、一瞬考え込むような素振りを見せたが、また笑顔の仮面をつけ、そう言った。
 僕は改めて、とんぼ玉を見つめる。ため息の出るほど、美しかった。弟はそんな僕を、不思議そうに見つめていた。

 夜は個室食事処で、お膳に乗っているエビフライや、刺身、山菜を堪能した。このような楽しい食事は、なんだか懐かしいものであった。
「こら、晴樹、好き嫌いせず食べなさい。野菜ばかりこんなに残してどうするの?」
「だって、たけのこもたくわんも、あんまり好きじゃないんだもん。トマトとか、普通の野菜だったら食べられたのに」
 晴樹はそう言って不貞腐れている。まったく贅沢な奴だ。
 父と母は、晴樹を何とかなだめて、再び食事を楽しむ。
 父は大好きな酒を飲み、母は大好物の刺身を食べ、実に満足そうな顔で笑った。この笑顔は、本物らしかった。
 食事が終わって部屋に戻ると、既に布団が敷かれていて、はしゃいだ晴樹は父に枕をぶつけ、父もそれに張り合うように、ぶつけ返す。そんな二人を母は一喝し、やっとのことで静かになった。
「隣にだって泊っている人がいるかもしれないでしょう? 楽しむのはいいけれど、はしゃぎすぎて人に迷惑をかけるのはだめですよ」
「ごめんなさい」
 父と晴樹の声が重なり、僕と母はそれを見てくすっと笑う。今日は、僕もこの家族の一員であることに、なぜだか少し愛着がわいた。

 夜、みんなが寝静まった頃、僕はなんだか眠ってしまうのが惜しく思えて、必死に睡魔と戦った。ついに睡魔は、僕の事を諦めたらしい。
 しかし、睡魔とやらを追い払ったところで、やる事は無いのだ。人間の活動する時間ではない。
 暇を持て余し、僕はただ窓から外を眺めていた。そして、思いついた。
 ――少し、散歩に行ってみようかな。
 昼間に館内を散策していた時、自由に出入りできる庭を見つけた。そこから外に出られたはずだと考え、懐中電灯を持ち、三人を起さないよう、忍び足で部屋を出た。みんな土産屋めぐりで疲れていたのだろう、とても深い眠りについていた。
 館内を足早に歩いている時、忘れ物に気づいた。カメラだ。
 来た道を戻り、再び部屋の扉を開ける。そっと、音を立てないように。
 ――よし、あった。
 自分の鞄からカメラを取り出し、今度こそ庭へと向かう。夜に出歩くという行為に、僕は気が高ぶっているのを感じた。緊張感が心地よかった。
 庭の鍵を開け、寝静まった外へと足を踏み出す。人工的に造られたような、小さな川をこえ、懐中電灯を付けて竹藪へ入っていった。
 参道を少し歩いたところに、脇道があった。好奇心から、暗いその道に迷わず駆ける。
 暗いと思っていたそこには、黄緑色の光が、泉を中心にして、無数に飛び交っていた。蛍だ。懐中電灯の光は、必要なかった。
「夏も、いいな」
 泉を見下ろすと、そこには自分の姿と、蛍の光が、一緒に映っていた。本当に幻想的で、夢と勘違いしそうになった。
 泉から少し離れ、蛍たちと泉が一緒に写真に写るように調節し、シャッターを切る。自分の部屋の写真立てに飾ろうと決めた。
 それから先ほどの参道に戻り、奥へ、奥へと進んでいく。もう、懐中電灯はつけなかった。
 竹藪の中を深く行くのにつれ、自然のいびきが聞こえるようだった。動物たちは静まり返り、植物たちがよりいっそう存在感を強めている。
 ふと、空を見上げてみた。今日は、晴れていて、星がきれいに光り輝き、月もくっきりと形が見える。三日月の映える、風流な夜空であった。安いカメラなので、この夜空が撮れないのを残念に思った。代わりに、忘れることの無いよう、目に焼き付けておこうと思い、じっと空を見つめる。首が疲れてきたころ、ようやく満足した。
 生きている自然をカメラに収めながら歩くうち、随分と深くまで入っていたようだ。一時間ほど歩いた頃、この風景を堪能し尽くし、戻ることにした。帰りは、来た時とは違った風景が見られ、それもまた美しいものだった。
 帰りの参道を歩きながら、もう帰ろうかと考え始めた頃、再び僕の中の好奇心ってやつが、温泉街の、土産屋辺りにも行ってみようと、僕にささやく。その言葉に、僕は賛成し、足は既に、その方へと向かっていた。
「昼は人が多くて、にぎやかだったのに、夜はこんなにも静まるのだな。これはこれで、とても風情がある」
 昼間に来たのと同じ場所だとは思えないほど、静かで、僕は、なにか、足の先からこみ上げてくるものを感じた。時代劇に出てきそうなその街も、何一つ、忘れたくなくて、この目に深く焼き付けた。
 坂を下るように歩いていき、ふと一つの土産屋に目が留まる。坂の上の方から三軒目の店屋だ。
「ここは確か、あのとんぼ玉を買ったところか」
 土産屋の中でも特に大きく、人で賑わっていたそこが、今では、深く眠っているように、静かだ。
 無意識に、その店屋に向かってシャッターを切る。カメラがフラッシュを出さなくなったことで、もう、太陽の光の届く時間になっているのに気づいた。
 それから、ゆっくり、街を下って行った。三人が起きるのは、恐らく八時頃だろうから、一時間後の六時には部屋に戻ろう。
 左手を流れる小川は、竹藪の方から来ていた。
 ずっと住宅街に住んでいた僕にとって、天然の水、それも、直接飲んでも大丈夫なくらいの、透き通った水が、川となって流れているのは、とても新鮮な感覚であった。近くまで行き、手ですくってみた。それでもやはり、綺麗だ。思わず吐息がもれる。
 ここは観光地なだけあって、通行の配慮が、きちんとなされている。僕が今歩いている、土産屋や茶店中心の通りは、歩行者専用。そして、小川を挟んで向こう側にあるのが、車専用の通りで、店では、持ち帰り用の、大きめの土産を並べているのが多いように見えた。
 今はどの店も扉が閉められていて、置いている商品を見ることはかなわなかった。
 そうやって、最後の大福屋まで、辺りを観察しながら歩いてきた。
 ところで、大福屋と饅頭屋が並んであるのは、何故だろう? 
 昨日、幼い子供を二人つれた家族が、ここにいるのを見たのだ。その時、大福と饅頭、どちらの方が温泉に似合うか、という、何気ない会話をしているのが聞こえた。僕は饅頭だと思うが、その父親は、大福だと言った。
「あなた、大福の方がいいと思っているの? そんなわけないじゃない。温泉饅頭、とも言うように、温泉には、一口で食べられるくらいの、小さな、饅頭が似合うわ」
 母親は、少しむっとした様子で、そう抗議した。父親は笑顔でそれをなだめる。
「僕はね、そりゃあ、饅頭も似合うと思っているよ。温泉饅頭、という言葉も、知らないわけじゃあ無い。ただね、それでも僕は、大福が似合うと思うんだ」
 先刻はすぐ抗議の言葉を探していた母親も、黙って主張を聞いていた。
「僕は、別に、大福に特別な思い入れがあるとか、饅頭を恨んでいるんじゃあない。僕は大福の中でも特に、豆大福が好きなのだけど、その大福を見ると、どうも、嬉しくなるんだ。知っているだろうが、豆大福ってやつは、いくつかの豆が、一つの大福の中にある。僕はこの大福を見る度、あんたたち家族を、愛しく思うんだ。それは、僕ら家族が、どんな形であれ、一つになっているということだ。中の餡は、思い出。多くなればなるほど、甘くて、幸せな気分になるだろう?」
 そう言って、父親は笑顔を見せる。母親は、饅頭好きの立場を放棄して、一緒に、本当に嬉しそうに笑う。子供たちも、言葉は理解できていないようだが、両親の笑顔につられるように、笑顔になった。
「そんな事を一々考えているから、いつも食事が遅いのですよ」
 そんな憎まれ口をきくも、顔には、やはり笑みが見える。
 遠目から見ていた、無関係の僕が、その家族に口出しできることなど、何一つない。ただ、一つ、願ったことならある。
 ――この家族は、誰一人、仮面を付けることがありませんように。