放課後。雷閃は若干の緊張を胸に第二音楽室を目指した。昨日は問題なく永海と会話ができたが、雷閃は「先輩」という存在を恐れている。永海は「恐ろしい先輩」ではないだろうけど、先輩と後輩である立場は事実だ。
もし永海に「もう来ないで欲しい」と言われたら、しばらく立ち直れない。他人に拒絶されること、否定されることは、何よりも悲しい。
「失礼します……」
扉は開いていた。鍵は永海が職員室から持ってくると言っていたから、すでに永海は来ているらしい。
「あ、朝来くん!」
昨日と同じ、まんなかの席に座る永海は嬉しそうに顔を上げた。読んでいた本を閉じて手招きする。
「隣おいでよ!」
ほんの少し、緊張している。雷閃は先輩との正しい付き合い方を知らない。
「今日はね、お話しよう」
永海の隣に座ると、彼女はそう言った。
「おはなし?」
「親睦を深めるってこと!」
「あぁ、なるほど……」
永海は身体ごと雷閃の方を向いた。永海の瞳は、よく見ると髪と同じ、濃い青色をしている。彼女の名前の通り海みたいだ、と雷閃は思った。
「朝来くんはどうして合唱部に入ろうと思ったの?」
「まぁその……正直言うと、あんまり活動してないところがいいって思ったんですよね。熱心なの、苦手で」
「え、そうなの」
「こんな理由ですいません。でも音楽は好きですよ。口笛も吹けますし、ちょっとならピアノとギターも弾けますし。父が音楽好きなので」
「すごい! あとで聴かせてね」
「いや……人前で披露するほどじゃないですよ」
「そっか。じゃあどうして私しかいない合唱部に、毎日来ようと思ったの?」
その声には感情がなかった。驚いた雷閃に、永海は微笑む。深海の瞳には温度がない。
「熱心に部活をしたくないなら、ろくに活動してない合唱部に毎日来る必要なんてないよね。それこそ、何か別の目的がないと、おかしいよね」
疑われている。雷閃は瞬時にそう悟った。慌てて首を横に振る。
「違います! 下心とかはぜんぜんなくて! ただ……俺はこの……平和そうな雰囲気とか、穏やかな時間が気に入ったというか!」
「ほんと? じゃあ琴ちゃんを狙ってるわけじゃないんだね?」
「もちろ……ん⁉ コトちゃん⁉」
「ほんとに違う?」
「いや、違うもなにも……コトちゃんって誰ですか……?」
雷閃が当然の疑問を口にすると、永海は「よかったぁ」と上体を机に投げ出した。
「琴ちゃんは二年生の、もうひとりの部員だよ。私の友達。琴ちゃんはすごく美人で性格も良いの。だから昔から男の子に付きまとわれやすくて……」
「はぁ……そ、そうなんですか……」
「でもよかった。朝来くんは違うんだね」
安心しきった永海に、これも当然の疑問が浮かぶ。いや、あんた、自分の心配は?
「琴ちゃんに会ったらびっくりするよ。本当にとっても美人だから」
そう言って友達を誉める永海に、雷閃は拍子抜けする。この子、本気で純真なのか。本物の清純なのか。
この子に男として見られているのか、いないのか。微妙なラインだな、と小さくため息をついた。いや、意識されたいわけじゃない。雷閃だって永海のことを女として見ていない。だったらおあいこだ。問題なんかない。
「で、安良田先輩はその友達のことが心配だったんですね?」
「うん。ごめんね、疑ったりして……」
「いいですよ、別に。美人な子はそれだけ苦労も多いでしょうからね」
「そうだよね……琴ちゃんとは小学生からの幼馴染なんだけど、本当に苦労してると思う……」
その口ぶりでは、永海は苦労してこなかったらしい。こんなにかわいいのにな、と雷閃は思う。でもそうか、この子は相手を男として意識する能力が低いのか。大丈夫だろうか。この世には悪い男が山ほどいるっていうのに。男だけじゃない。こんなにかわいいと、同性からも狙われるかもしれない。
「……そのもうひとりの先輩って、彼氏はいないんですか?」
「いない、というか、合格者がいないんだって」
「合格者?」
「琴ちゃんは理想が高いから、その合格点に達してないと彼氏にしないって言ってた」
「はぁ……ちなみにどんな理想なんですか? あ、挑戦する気はないですよ」
「えっとねー……十回連続でジェットコースターに乗っても酔わずにまっすぐ歩けるひと、だって」
「そりゃハードル高いですね⁉」
よくわからない基準だがその先輩なりに、言い寄ってくる男を撃退する方法のひとつとして基準においているのかもしれない。
「安良田先輩は?」
「私はジェットコースター苦手だよ」
「違いますよ、なんでそこ気にすると思ったんですか。彼氏いるんですか、って聞いてるんです」
「えー……えっとぉ……どっちだと思う?」
「いないでしょ」
「ちょっとは悩んでよ!」
「絶対いないでしょ。なんていうか……誰かの彼女っていう色気がないっていうか……」
「ひっどい! でも私もそれは思ってる!」
「思ってるのかよ」
ショックを受けましたという表情で永海は「すごくよくわかる!」と同意した。だからこの子はまったく、自分が狙われるかもしれないという心配をしていないのか。
こんなにかわいいのに、と雷閃は思う。夕方の陽光を浴びて紫っぽくなるさらさらの髪の色とか。孤独な海を潜ませたような瞳とか。甘い缶詰のような声とか。保護したくなるような危うさとか。男が好きな要素はたくさん持っているはずなのに。
「私もね、もっと背が高かったらいいのになーって思う」
「何センチなんですか?」
「ないしょ」
「百五十くらい?」
「なんでぴったりジャストで当ててくるの?」
不満そうに永海は雷閃を睨んだ。
「朝来くんは何センチ?」
「俺は百七十……三、くらいだったかと」
「私と二十センチも差があるんだね~。でも座ると関係ないからね! 朝来くんもわたしと同じ目線になっ……てない……?」
そりゃあ二十センチも差があれば座高にも差が出るだろう。どうしてそんなに絶望したような目をするんだ。それくらいの予想はつくだろう。
「……先輩もこれから伸びますよ。それに女の子は小さい方が可愛がられるんじゃないですか?」
「私はもっと背の高い私になりたかったの~!」
「それは……骨を恨んでください」
「骨のばか~!」
くだらない話をしていたらいつの間にか十七時半を回っていた。この時期の部活は十八時半まで可能だが、永海はいつもこのくらいに帰るらしい。
「ひとりで音楽室にいるときは何してたんですか?」
開けていた窓を全部閉めて雷閃は永海に尋ねた。永海は音楽室の鍵をしっかり施錠する。
「本読んだり、テスト勉強したりかな。でもいつもひとりってわけじゃないよ。琴ちゃんもいるからね」
永海は「琴ちゃん」のことを自慢げに話す。彼女の幼馴染であるらしい「琴ちゃん」はどんな人間なんだろう。
来週には会えるのか、とわずかに緊張した。