「え、えっと……?」
 第二音楽室は机と椅子がきっちり並べられていた。そのまんなかのひとつに、女子生徒がひとり座っていた。
「あ、あれ……? ここって……?」
 雷閃は戸惑いながら教室を見渡した。部活動紹介のとき、合唱部には二・三年生の男女合わせて六人の部員がいます、と部長が話していた。部長の男子生徒は淡々と「興味があればぜひ第二音楽室へどうぞ」と言っていたはずだ。
「が、合唱部、は……?」
 おそるおそる雷閃が少女に尋ねた。青っぽさのある濃い黒髪の少女は、大きな瞳を輝かせて席を立った。胸の名札が黄色。ということは二年生らしい。
「新入部員、ですか⁉」
 先輩にあたる少女はボブカットを揺らして駆け寄ってきた。雷閃よりもずっと背の低い少女は、雷閃の前まで来る途中で椅子に足を引っかけて豪快に転んだ。
「うわっ、大丈夫ですか⁉」
 慌てた雷閃が肩をつかんで少女を起こすと、彼女は顔を上げて笑った。
「ごめんなさい、ありがとうございます。えへ、ここの椅子、いつも足ひっかけちゃうの」
 立ち上がった少女はおでこをさすって雷閃を見上げた。雷閃は素直に、この子のことをかわいいと感じた。ひとつ上の先輩のはずだが、年下の女の子のような雰囲気がある。
「あの、えっと。私は合唱部の二年生、安良田永海(あらたえみ)です。君は一年生?」
「はい、朝来雷閃といいます。えーっと……合唱部の活動の見学に来たんですが……」
 雷閃は音楽室の奥の方まで見てみるが、この安良田永海以外には生徒も教師もいない。雷閃が怪しむ表情をしたら、永海は焦ったように「大丈夫だよ!」と言った。
「三年生の先輩たちは部活来ないけど、私は来るから!」
「……三年生、来ないんですか」
「こ、来ない、けどぉ……私は来てるよぉ……」
 実質廃部したような合唱部だと雷閃が気づいたことに、永海はあからさまに落胆したようだった。第二音楽室にはほかの教室と同じように机と椅子が並べられ、ピアノが一台ある。
第一音楽室は吹奏楽部が使っているらしいが、今日は休みのようで何の楽器の音もしない。
 この小さな少女たったひとりが使うには広すぎる音楽室。雷閃は彼女を哀れに感じると同時に、かわいらしさも感じていた。かわいそうで、かわいい。
「安良田先輩、でしたっけ。俺、合唱部に入りたいんですけど、顧問って誰ですか?」
 そう言うと、永海はぱっと顔を上げた。
「ほんとう⁉ 顧問の先生は星田先生だよ! 星田先生、今なら職員室にいるよ!」
「あー……すいません、星田先生の顔わからないです」
「じゃあ私も一緒に行くね!」
 子犬みたいにはしゃぐ永海は荷物を取りに机に戻った。そして、こちらに来る途中でさっきの椅子に足を引っかけた。
「いったぁい!」
 そう叫んだが、今回は転ばずに済んだ。涙目の永海を雷閃は哀れに思う。
「……いつも引っかけるなら、椅子ずらしたらどうですか?」
「えへ……いいの、いいの! 早く行こう!」
 永海の隣を歩きながら、雷閃は尋ねる。
「二年生は安良田先輩しかいないんですか?」
「ううん、もうひとり二年生の女の子がいるんだけど……塾とかで忙しいんだって。難関大学に行きたいから毎日勉強が忙しいって言ってた。今度紹介するね」
「へぇ……俺以外の今年の新入部員は?」
「まだいないよ、だからひとりめだよ!」
 やったね! と永海は笑ったが、雷閃には何がいいのかはわからなかった。ただ、この子の笑顔はとてもかわいい。ゴールデンレトリバーの子犬みたいな笑顔だ。人間の悪意を知らない、純真な愚かさ。
 職員室は第一校舎にある。渡り廊下を通って校舎を移る。校庭では野球部とサッカー部が走ったり飛んだりしている。
「朝来くんは中学も合唱部だったの?」
「いえ、帰宅部でした。でも歌は好きなので、気になってました」
 嘘ではない。一年の夏以降は帰宅部だったし、音楽も好きだ。父親の影響でほんの少しならピアノやギターも弾ける。
「そうなんだ~。じゃあごめんね……うちの合唱部だと、ぜんぜん歌えないの……」
 職員室の前で永海は足を止めた。それは永海のせいじゃない。部活に来ない三年生のせいだ。
「別に大丈夫ですよ。俺は別に熱心な部活がしたいわけじゃないですから。大会に出たいとか、そういうのもないです。音楽が楽しめたらそれでいいです」
 雷閃はできるだけ普通の声でそう言った。頑張りたくないから、とか。裏切られたくないから、とか。そういう意思がにじみ出ないように、普通に。
「そう、なの? じゃあいっか……。そうだ、先生に許可もらってCDとか流そっか! 披露する場所はないけど、歌えたら楽しいし!」
 明るい表情に変わった永海は職員室に入っていった。雷閃もあとに続く。職員室だけエアコンが効いていてずるい。顧問の星田先生は窓側の方に席を持っていた。
「先生、新入部員です!」
 永海は誇らしそうに宣言した。星田先生は四十代くらいの女性の教師だった。穏やかそうな、優しそうな瞳をしている。
「あら、あら。新入部員? それは嬉しいわねぇ。入部届の紙、どこにあったかしらねぇ。あなたは何組の生徒なの?」
 優しい声で星田先生は目を細めた。
「一年二組です」
「そう、柳先生のクラスね。わかったわ、柳先生にも伝えておくわね。それで、えぇと、入部届ね、探してくるから待っててちょうだいね」
 星田先生は職員室の棚の方へ向かった。雷閃の担任である柳先生は、豪快に笑う初老の男性教師だ。柳先生は入学初日に「まず、おまえたちが最初に覚えなくてはいけないこと。それは俺の名前である『柳』という漢字だ」と言った。
けっこう誰でも書けるけどな、と雷閃は思った。
「ねぇ、朝来くん。部活の活動日なんだけどね」
 星田先生が戻って来る前に、永海は部活の話をした。
「基本的に毎日活動することになってるけど、三年生はずっと来ないと思う。私は毎日音楽室に行けるけど、朝来くんは……いつ来られる?」
 毎日部活があるなら、部員は毎日行かなければならないんじゃないのか。雷閃は疑問に感じたが、この人数ではそんな常識も通用しないのかと納得する。
「毎日行けますよ。俺は塾にも通ってないし、早く帰る理由もないんで」
「そ、っか……じゃあ毎日来てくれる、の?」
「はい。え、もしかしてダメなんですか?」
「ううん、違う! う、嬉しいなって、思っただけだから……」
 はにかむ永海はやっぱりかわいい。中一で部活をやめた雷閃には後輩というものがいない。彼女は先輩だが、後輩みたいな顔をする子だな、と思った。
「あ、でもテスト期間中は部活禁止だから、お休みね。あとは……特に決まりはないかな~。部長はいるけどたぶん引退するまで来ないと思うからなぁ」
「去年は……今の三年生が二年だったころは、来てたんですか?」
「んーん……あんまり来てない……」
 苦笑して永海は首を横に振った。
「先輩たちは『高校時代は合唱部』っていう事実だけ欲しいんだって。部長は難関大学を志望してるから『部長』に肩書が欲しいって言ってた。だからずっと私と、もうひとりの子だけしか来てないの」
「もうひとりの子って、二年生の?」
「うん。来週は来ると思う。今週は、塾で模試対策中だからって言ってたし」
 この人数は雷閃にとっては都合がよかった。頑張らなくていい。楽にやっていける。それはきっと居心地がいいに違いない。
「入部届あったわよ~」
 星田先生が戻って来た。雷閃はその用紙に名前を記入して、星田先生に提出した。
「柳先生には私から言っておくわね。朝来くん、これからよろしくね。あんまりたいした活動はしてないけど……そうだ、夏になったら合唱コンクール、見学に行こうか」
 星田先生が提案すると永海は「行きたいです!」と食いついた。
「じゃあ準備しとくわね。うちは人数が足りないから出場できないけど、見に行く分には問題ないからね~。永海ちゃん、楽しみにしててね」
「はい!」
 そうして雷閃の合唱部への入部が決まった。その日はそのまま解散したが、明日から雷閃は合唱部の部員として放課後を過ごす。最高に楽しい、なんて思えなくていい。ただ平和に、誰にも傷つけられずに過ごせたらそれで十分だ。