雷閃と永海を先に帰して職員室に鍵を返却した琴と里穂子は、ゆっくりと階段を下りていた。ふたりに追いついてしまっては意味がないから。
「そうだ、五月女先輩。今、練習してる曲って、けっこう色んな学校でも歌われてるらしいですね」
「えぇ、卒業式では特に使われやすい合唱曲ですからね」
「あたしあの歌を初めて聴いたとき、すごーく感動したんです。で、このあいだ歌詞をじっくり読んでみたら、最高のラブソングでびっくりしました。合唱曲にもラブソングってあるんですね」
里穂子の感想を聞いて、琴も歌詞を思い出す。
「ラブソング、でしたか?」
「あれっ、違いました?」
「ラブソング……。いえ、そうですね。あれは愛の歌です」
琴が同意すると里穂子は「やっぱり」とはにかんだ。里穂子は合唱の経験がないわりによく声が出た。運動部だったから腹筋が鍛えられているからかもしれない。逆に帰宅部だった永海と雷閃はいつも星田先生に「お腹から声が出てないわよ」と指導されていた。
ハイルが去ったあと、永海は少しのあいだ虚ろな目をしていた。琴は今まで通り寄り添って永海のそばを離れなかった。永海の感情は琴には知ることができない。焦りはあったが、少しずつ元気を取り戻していく永海に、琴も安心していった。
永海は時折、大きな音に怯えた。自分をおびやかす何かがまた現われやしないかと、不安になっていた。しかしそれもすぐに改善の兆しを見せた。特に、永海は雷閃と一緒にいるときは不安が軽減されているようだった。それは当然の結果だ。永海を救ったのは雷閃なのだから。
琴は、雷閃のように「永海を幸せにする」なんて宣言、自分には一生できないだろうと思っている。
永海がハイルの餌食になったのに琴は無事で、幸福を許されていた。その罪悪感は年を追うごとに大きくなっていった。大人になっても永海はハイルから逃れられないのだろうか。いつになれば永海は不幸でいなくても済むのだろうか。琴はずっと、考えているだけだった。
雷閃が羨ましかった。永海を本当に救ってしまった雷閃が、羨ましくて、ほんの少し、憎たらしかった。
しかし琴はそんな嫉妬、許されるものではないとわかっている。ずっと同じ場所にうずくまって恐怖に怯え、何の行動も起こせなかった自分が嫉妬する権利はない、と。
だから雷閃が永海とふたりきになれるよう琴は里穂子を連れて時々席を外す。永海も雷閃も、ふたりを邪魔だなんて思っていないだろう。雷閃に至っては琴の配慮をおせっかいだと非難するかもしれない。
「ねぇ、中本さん。朝来くんは永海のこと、本当はどう思ってるのでしょうか」
「えぇ? 大好きなんじゃないですか?」
率直な物言いに琴は吹き出してしまう。
「きっと、永海も、そうでしょうね。幼馴染が取られてしまうのは、寂しいですけど」
「五月女先輩にはあたしがいるじゃないですか! そうだ、夏休みどっか行きましょうよ! どうせ朝来と永海先輩もふたりでデートするんだろうし!」
「どこか……?」
「んー、遊園地とか! あたし、中学の修学旅行で遊園地に行ったんですよ。で、あたしジェットコースターが大好きで! その遊園地にあるジェットコースターを十回くらい乗り回したんですけど、友達は五回目でリタイアしたんすよねー。五月女先輩はジェットコースター好きですか?」
夕焼けが里穂子を赤く染めている。眩しいな、と琴は目を細めた。
「ジェットコースターですか。わたし、実はジェットコースターに乗ったことが一度もありませんの」
「そうなんですか⁉ それはもったいないなぁ! ぜひ一緒に遊園地でジェットコースターを乗り回しましょうよ! あたし、今なら百回くらい乗れちゃいそうです!」
里穂子の笑顔は眩しい。琴はいつもそう思う。
ハイルがいなくなった日、永海は「琴ちゃんも幸せになって」と言った。永海がそう望むなら、琴も幸せにならなくてはいけない。
難しいと思っていた。琴は、理想の幸福を現実のものにするのは、至難の業だと諦めていた。けれど、そうではないかもしれない。
琴は将来を悲観していた。あのままハイルが永海を苦しめ続ければ、永海は大学に行っても就職をしても、幸福を望めなかった。琴も同じように歳をとる。琴だって大学に行けば永海といつも一緒にはいられなくなるし、就職すれば、なおさらだ。
高校は永海と同じ学校を選べたけれど、そこから先の将来、琴は永海から離れなければならなくなる。
未来を描けなかった。苦しみ続ける未来なんて考えれば考えるほどつらくなるだけだ。琴は塾に通うことを永海から逃げていると感じていた。行きたい大学に行った方がいいと永海が言ってくれたから、琴はその言葉に甘えて永海から離れ、塾にいくたびに自分を責めた。
懺悔がやむことは一生ないかもしれない。琴は一生をかけて、永海を救えなかった過去を後悔するだろう。
だけど、だからと言って琴は不幸ではない。過去はもうここにはない。永海を苦しめる魔人はどこにもいない。
忘れることが怖いと、琴は思う。永海とふたりで苦しみを共有していたあの日々を忘れるのは寂しい。でもそれでは幸福は遠ざかるばかりだ。永海が未来に希望を抱いたのなら、琴も自分の望む通りの希望を描くべきだ。
「ジェットコースター、乗ってみたいです」
琴は知らないものを見たり、体験したりするのは好きだ。今までは永海を差し置いて自分だけ楽しむことはできないと我慢していたが、もうそれも終わりだ。
「ジェットコースターにも乗りたいし、コーヒーカップにも乗りたいです。それから……水しぶきの上がる、アレとか。アレはなんという名前なのですかね」
「いっぱい遊びましょ! 夏はこれからですよ!」
「ねぇ、中本さん」
「はーい?」
「わたしは、永海と一緒に遊んだりしても、いいのでしょうか」
「え? 朝来のこと気にしてんですか? そこは気にしなくていいですよ! 今のところは永海先輩、朝来より琴先輩の方が好きですし!」
「そうなんですか?」
「当たり前ですよ! だって琴先輩の方が、朝来よりも永海先輩のこと、好きでしょ?」
永海を奪うかもしれないヒーローは、琴にとってのヒーローでもある。けど、今は。
「そうですね、朝来くんには負けていられませんね」
今まで楽しめなかった分、永海と心から幸福を感じ合いたい。
いつかは、あの子は琴よりも好きなひとができたと言うだろうから。そのときは、王座を譲ってあげよう。
おわり