平穏は人間を退屈にさせるだろうか。雷閃は試験結果を見てそう思った。何も問題はなかった。どちらかと言えば、良い方だった。
 まだ頑張れる。頑張れば、もっと成績は良くなる。今までは放棄してきた努力の権利を、今では大事に思う。
 合唱部はそれなりに活動して、それなりに活動をサボっている。星田先生がいるときは指導を受けるが、生徒だけになると遊んでしまう。
「五月女先輩は、中学の部活でちゃんと合唱部をしてたんですよね。こういういい加減な活動は嫌だったりしないんですか?」
 机に広げたトランプを集めながら雷閃は琴に尋ねた。
「実を言うと、こういう活動にも憧れていましたの。頑張ってばかりの青春もいいけれど、私には遊んでいる青春のほうが似合っていますから」
「似合うかどうかで言うなら、まじめな青春の方が似合ってますけどね」
 雷閃はトランプを配る。永海と里穂子が自分の手札を見て嬉しそうに「勝てる!」と言った。
 ポーカーのルールをちゃんと知っていたのは雷閃だけだった。ポーカーをやったことがないという永海に簡単に説明したら、やってみたいと言われ、里穂子が百均でトランプを買って来た。
 雷閃は、カードを引いてはころころと表情を変える永海に、ポーカーフェイスの意味まで教えておくべきだったかと反省した。
 何度目かのポーカーで、里穂子は「ぜんぜん勝てないじゃん!」と不満をあらわにした。運の強さが大事になるゲームではあるが、こんなに勝てない人間がいるのかと驚くほど、里穂子は勝てなかった。
「もぉ、あたしちょっと手洗ってくる。手汗かいちゃった」
 里穂子が席を立つと、琴も「わたしもご一緒します」と言って音楽室を出て行った。琴は以前、汗をかく体質ではないと言っていた。永海と共に残された雷閃は、これは配慮とか、気遣いとかいうやつか、と琴を恨んだ。
「トランプって楽しいよね。私はね、神経衰弱が得意だよ」
 永海がトランプをまとめながら言う。
「俺はあんまり得意じゃないですね。スピードは得意ですよ」
「なにそれ、知らない。やりたい。教えて」
「安良田先輩はたぶん、得意じゃないタイプだと思うんですけど」
「どういうところが?」
「判断の速さが大事なんで」
「そっか。それは確かに苦手かも。でもやりたい」
 永海がねだるので、仕方なく雷閃はスピードを教える約束をした。
 しかし、琴と里穂子が遅い。手を洗うだけでこんなに時間がかかるはずがない。これも配慮なのか、と雷閃はむず痒さを感じる。
 そのとき、音楽室の扉が開いた。当然、琴と里穂子が戻ってきたものだと思った。しかしそこにいたのは三年生の男子生徒だった。
 きょとんとした顔で雷閃を見て、あぁ、と納得している。
「新入部員か」
 男子生徒は音楽室に入ってくると、永海に向かって親しげに「久しぶり」と声をかけた。
「お久しぶりです、部長!」
 永海がそう呼んだので、雷閃はようやく思い出した。入学した当初に行われた部活同紹介でステージに立っていた生徒だ。
 部長はトランプを見つけて「楽しそうじゃん」とからかうように笑った。
「部長はお元気でしたか?」
「うん、元気。でも勉強大変すぎて無理。つらすぎ。やばい」
「受験ですもんね……お疲れ様です。今日はどうしたんですか?」
 永海の丁寧な敬語だ、と雷閃は珍しく感じた。先輩に対しても永海はあの人懐こさを発揮して、かわいがられるのだろうか。
 それは少し気分が悪いな、と雷閃は顔をしかめた。
「今日はねー、準備室に忘れ物取りに来た。俺たぶん、去年かな。準備室にUSBメモリを忘れて行ってるんだよね。見たことない?」
「んーと……あ、あります! 確か準備室の机の引き出しに入ってます」
「よかったー。ありがと。あのUSBには俺がやってたオンラインゲームのIDとパスワードをメモしたファイルが入ってるんだよね。久々にやろうと思ったらIDもパスワードもわかんなくって。困った、困った」
 部長はそう言いながら準備室に入って行った。受験勉強の息抜きにゲームでも、と考えたのだろうか。雷閃もあと二年すれば受験生になっている。今のうちに遊んでおこう、と雷閃はこっそり誓った。
「あのひと……部長って、難関大学に行きたいひとでしたっけ」
「そうだよ。いいひとなんだけど、部活には来てくれないの」
 ちぇ、と言って永海は唇をとがらせた。雷閃は初めて、他人への対抗心を抱いた。
「俺は毎日ちゃんと来てますけどね」
 そう言った雷閃に、永海は意外そうな顔をする。雷閃自身も、自分がこんなことを口にするなんて意外だと感じている。でも言わずにはいられなかった。永海を奪うのは魔人だけじゃない。
「そういえば朝来くん、ほんとに毎日ちゃんと来てるよね」
「……えらいでしょう」
「うん、えらい」
「部長よりも?」
「それはどうかな」
 準備室から部長が出てきた。「あったよ」と言ってUSBを見せてくれた。部長は雷閃よりも背が高そうだ。難関大学を志望しているということは、雷閃よりも頭がいい。顔はどうだろう、どこか眠そうな雰囲気だけど。
「安良田さん、ごめんね。三年生、ぜんぜん部活来ないままで」
 久々に顔を出したらしい部長は軽い口調で謝罪した。雷閃はその口ぶりが気に入らなかった。
「いえいえ、大丈夫ですよ。今は後輩もいますから」
 ね、と永海は雷閃に微笑みかけた。突然話題を振られて雷閃は口ごもる。会話が苦手だなんて思ったこともないのに。
「おぉー、一年生くんも安良田さんに負けず劣らず、かわいいねー。しっかり青春したまえよ。俺もキャンパスライフを楽しむから」
「受験、頑張ってください」
 永海の応援を受けて、部長は出て行った。入れ違いで琴と里穂子が戻ってきて「部長に会いました」と言った。
「先ほど部長に言われたのですけど、次の部長はどうするのか、って」
「琴ちゃんじゃないの?」
「わたしは塾がありますのでいつもは来られませんから……。いつも来られる永海が部長をするべきだと思います」
 琴の提案に永海はしぶる。
「でも私は部長とか、そんなリーダー気質じゃないし……」
 そんな永海の背中を里穂子が叩いた。
「大丈夫ですよぉ! 永海先輩もすっごく頼りになります!」
「そ、そうかな……」
 里穂子は結局、ハイルの存在を知らないままだ。だが誰も教えようとはしない。あんな存在は、無かったものとした方がいいと雷閃は考えている。里穂子だってあんな話を聞かされたら、気を病んでしまうかもしれない。里穂子は自分のために頑張らなければならないのだから、過去の悲劇を気にする必要はない。
「朝来は? 朝来は安良田先輩のことどう思う?」
 意地の悪い質問のしかただ、と雷閃は里穂子を横目で睨む。部長は永海でいいかどうかだけ聞けばいいものを。
「俺も安良田先輩がいいと思いますよ。もちろん五月女先輩も頼りになるし、統率者って感じはしますけど」
「あまり嬉しくない褒め方ですね」
 雷閃の誉め言葉に喜ばない琴に、里穂子のようにはいかないか、と反省する。今まで他人に無関心でいたものだから、上手な誉め方がわからない。
「いや、統率者っていうか。このひとに任せたら大丈夫だろうなっていう安心感っていうか。そういうニュアンスですよ」
「ひとまず納得してさしあげましょう」
「でもほら、そんなに熱心な部活じゃないですから。時々いない部長より、いつもいる部長の方がいいかと思います」
 雷閃の意見に、永海は「確かに」と賛成した。集めたトランプを箱にしまって里穂子に返す。
「じゃあ次の部長は私ね! さー、帰ろっか! 来週からは夏休みだねぇ、みんなはどこか行く?」
 各々、片付けを始めながら夏休みの計画を語る。雷閃は母が何か予定があると言っていたのを思い出す。
「あたしは中学のときの友達とお泊りしまーす!」
 里穂子が元気よく手をあげた。
「わたしは……お墓参りですね。母の実家は少し遠くて、新幹線で行くんです。永海は?」
「私はなんもないよ! じーちゃんもばーちゃんもうちに遊びに来たいって言うから、今年はあっちに行かないんだよね。だからたくさん怠けるよ!」
 準備室の鍵を閉めて永海は怠惰な夏休みを宣言した。それもいいかもしれない。何もしなくても、何かは起きている。
「朝来は?」
「俺はなんかあったかな。あー、親戚のところに行くんだったかな。そんなに遠くないから日帰りだけど」
 身支度を整えた琴と里穂子は先に音楽室を出て行った。永海は音楽室を出るとき、雷閃のアドバイス通り、広い方の通路を通るようになった。
少しずつでいい。長らく幸福を禁じられてきた永海が、いつか自ら幸福を望めるようになる。
 琴は里穂子と一緒に鍵を返すために職員室に行ってしまった。先にふたりで帰っててもいいですよ、と里穂子に言われ、永海と雷閃は先に校舎を出た。こういう気遣いは別にいらないのに。
「ねー、朝来くん。夏休み、暇なの?」
梅雨があけて日差しが強くなった。強すぎる日差しは毒だ。
「暇ですよ。クラスの友達と遊ぶくらいはするかもしれませんけど」
「ふーん。あのさ、この前……。あの、朝来くん、私を幸せにしてくれるって言ったでしょ?」
 思わず転びかけたが、なんとか誤魔化す。ハイルを前にして、勢いのままあんなセリフを吐いてしまったが、思い返すと羞恥で死にそうになる。だけど撤回する気もない。しかし責任を取っていいのかもわからない。雷閃と永海は、後輩と先輩だ。
「あんな状況だったのによく覚えてますね」
「覚えてるよ。嬉しかったからね」
「……で、なんですか?」
「星田先生が前に合唱コンクールに連れて行ってくれるって話してたでしょ? あれ、先生の都合で行けなくなったんだって」
「あぁ……俺が入部した日に言ってましたね」
 星田先生は意外と忙しいひとらしく、試験が終わった後に「悪いけど夏休みの部活は無しね」と言っていた。
「それで、ね……。あ、朝来くんは私を世界一幸せにするって言ったでしょ?」
「それは言ってないですね」
「私ね、夏休みに朝来くんと会えなくなったら、不幸になっちゃう」
 隣の永海は雷閃よりも背が低いから、どんな顔をしているのかは見えない。永海が顔を上げない限りは、雷閃も永海に自分の表情を知られない。
 身長差があって助かったと、雷閃は斜め上に視線をやった。
「不幸になられるのは……困り、ますね」
「ね、困るよね」
「……俺がせっかく安良田先輩からハイルを退けたのに、そんなに簡単に不幸になられたら俺の努力が無駄になりますからね。俺は努力が無駄になるの嫌なんで、その、安良田先輩に不幸になられると困るんですよね。努力が水の泡になるんで」
「急によく喋るね」
「……夏休み、必ず連絡します」
 雷閃が約束すると、下から視線を感じた。見ると、永海がこちらを覗き込んでいる。雷閃は慌てて取り繕う。トランプの最中以外でポーカーフェイスなんて不可能だ。
「なんでそんなにこっち見るんですか」
「見られて欲しくなさそうだったから」
「じゃあ見ないでくださいよ。あんたは五月女先輩と中本の配慮を見習ってください」
「配慮?」
 気づいていなかったのか。雷閃は落胆する自分が恥ずかしくて嫌になる。意識していたのは自分だけだったのか。
けれど、雷閃に会えないなら不幸になると言う永海は、かわいらしく思った。永海が求めるものが自分であることが嬉しかった。永海の幸福の一部になれることが、雷閃を幸福にさせた。
 おそらく、永海はいつか疑問を口にするはずだ。朝来くんはどうして私を幸せにしたいのか、と。その答えは早く用意しなければならない。
 でも永海の穏やかな笑顔を見ていたら、永海に問われる前に自分から告げてしまいそうだと雷閃は思った。