「久しぶりだね、試験終わったんでしょ? まとめて会えてよかったよ。永海ちゃんと朝来くんはもちろん僕が誰だかわかるよね? 琴ちゃんは初めまして。いつも永海ちゃんのお守をしてくれてありがとね!」
 饒舌な魔人は、黒い杖をついていた。だが足が悪いようにも見えない。杖をくるくると回したり、杖で地面を強く叩いて大きな音を出したりするだけだ。
「久しぶりだな、ハイル。意外と早く来てくれて助かったよ」
 挑発するように雷閃が言えば、ハイルは簡単にこちらを睨みつける。気分を害したように杖で何度も地面を突く。
「はぁ? なんで君が上から目線なわけ? 僕は君のために来たわけじゃないのにさ、勘違いも甚だしいよ。だから人間は嫌なんだ。弱いくせに、まるで自分が強い存在になったみたいな顔しちゃってさ」
「それはおまえだろう。ろくにお人形遊びもできないクズ野郎が」
 雷閃は自転車を端に停めて永海と琴の前に出る。雨が降り出した。ハイルの憎しみのこもった視線など全く気にならないというように、自転車から傘を抜き、開いてみせる。
「おまえの存在なんかよりも、雨に濡れる方が大問題だからな」
「へぇ~、君は馬鹿だね。頭が悪いよ。誰に従うべきなのかわかってない。愚かで鈍感な、下等生物だ。僕は人間と違って強いんだ! さぁ、見ろ! これが僕の強さだ!」
 ハイルは杖を天にかざした。すると杖に巻きつくように炎が出現し、周囲に広がった。
 永海と琴は小さく悲鳴をあげて後退る。炎を纏ったハイルは狂気的な笑い声を上げて永海の自転車のかごに乗せたリュックを見た。
「あれぇ? これ永海ちゃんの傘? 駄目だよ、永海ちゃん。僕、駄目って言ったよね? 君は雨でも傘をさしちゃいけないって、僕、言ったよねぇ? なのに何で傘があるの? おかしいよね、君たちはおかしいことばかりするね。駄目だよ、こんなもの使わせない。永海ちゃんはずぅっと雨に濡れてなきゃいけないんだ。そうだよね?」
 ハイルは永海のリュックからわずかに見えていた折りたたみの傘を取り上げ、嘲笑した。紺色の傘は永海によく似合う。だがハイルはその傘を地面に叩きつけると、杖を向け、燃やしてしまった。
 傘の燃えるにおいが濡れたコンクリートのにおいと混じり合う。ぱちぱちと音を立てて傘が燃えていく。雨がひどくなってきた。傘の火は雨で消されてしまったが、使い物にはならないだろう。
 永海は琴に守られるように抱かれ、絶望した顔でその傘を見つめた。
「さ、永海ちゃん。これでよくわかったね? 君が従うべきは誰? そう、僕だよ。永海ちゃんは僕以外の誰にも従っちゃ駄目。このルールは守られるべきだよ。だって、永海ちゃん。嫌だよね? 君の家族と、琴ちゃんと朝来くんが自分のせいで殺されちゃったら、嫌だよねぇ? だったら君は僕に従わなければいけない。さぁ、こっちにおいで」
 ハイルは永海に手を差し出した。雨はどんどん強くなる。しかしあの杖の炎を一瞬で消せるような勢いはない。雷閃は考える。あの杖がなければ、ハイルの身体能力は人間の大人とそう変わらないはずだ。あの杖を持ってきたということが何よりの証明になる。
 永海が琴の腕から離れ、一歩前に出た。
「仕方ないよね」
 震えているのは雨の冷たさによるものではない。琴は初めて対面した魔人に怯えながらも、周囲を見渡して解決の糸口を探している。
 雷閃がさしている傘は、父にもらった大きな傘だ。七十センチの傘は、しかし雷閃がひとりで使うには大きすぎると思っていた。
「仕方なくありません」
 はっきりと、雷閃は永海に告げた。瞬時にハイルが杖を向け、永海が「やめて」と叫ぶ。
「人間ごときが僕に歯向かうなよ。僕は永海ちゃんを魔界に連れて帰る。邪魔するなら殺してやる。僕は人間が死んだって何とも思わないよ。殺されたくなければ近寄るな。永海ちゃんは一生、僕だけに従わなきゃいけないんだ」
 雷閃は自分に「冷静になれ」と言い聞かせる。冷静さを失えば永海は魔界に連れて行かれてしまう。雷閃は傘をたたみ、雨に濡れるくらい平気だ、という態度でハイルに近寄る。
「前に言った通り、俺はおまえの邪魔をする。殺したければ殺してみろよ。そもそも人間が死んだくらいで何とも思わないなら、どうして最初から俺を殺さないんだよ。おまえは何を恐れてるんだ? もしかして、おまえよりも強い何かに怯えて……」
「うるさぁい!」
 今だ、と雷閃は思い切り傘を振った。バットのように思いっきり振って、杖を吹っ飛ばした。
 あの杖は炎が大きくなるまでにタイムラグがあった。そしてハイルは感情的になればなるほど、意味のない動きが増える。どんなに強い相手でも隙ができたときがチャンスだ。隙のない生物なんていない。その瞬間を作り出せばネズミだって人間にけがをさせる。
雷閃はハイルが杖を追うよりも早く、転がって行った杖の前に立ちはだかり、永海に向かって叫んだ。雨の音に負けないように、大きな声で。
「安良田先輩! 先輩はもうこの魔人に従わなくていい。こいつの約束は、先輩が不幸で居続けることだろう。だったらもう、あんたはその約束を守れない。だって、あんたは幸せでしょう。こいつにどれほど脅されたって、誰かと笑っていたら、幸福を感じているでしょう。それでも不幸だと思うなら……家族や五月女先輩や中本だけじゃあんたを幸せにできないって言うなら、俺があんたを幸せにします。だから二度と、あんたは不幸な少女に戻れない」
 立ちすくむ永海を、琴が抱きしめた。永海は震える唇を開き、ハイルに向かって言った。
「……私は幸せだよ。ハイル、あなたも見ててわかったでしょ。私には私を守ってくれる幼馴染がいる。私を幸せにしたいと言ってくれるひとがいる。明日また会いましょうねって楽しみにしてくれる後輩もいる。それから、私の成長を望んでくれる家族がいる。だから私も応えたいの。みんなのおかげで私は幸福になれたから、それを壊すあなたを、私は拒絶する。もうあなたの言いなりにはならない」
 なんで、と言ったハイルの声は悲痛だった。だが同情もしないし、理解も共感もしない。雷閃は杖を拾って永海と琴の隣に立つ。ハイルはうなだれ、髪をかきむしり、癇癪を起したように吠えた。
「なんでそんなこと言うの? 僕は永海ちゃんをかわいがりたいだけじゃん? なんでそれが駄目なの? 意味わかんねー……僕は……僕は人間なんかに馬鹿にされていい存在じゃない……! 間違ってるのは君たちの方だ!」
 ハイルは喚いて、強引に永海に手を伸ばした。永海は琴を引っ張ってハイルから距離を取る。雷閃は自分よりも力の強いであろうハイル相手だと殴り合っても負けるだろうと予測していた。
 たたんだままだった傘の先を強く握り、持ち手の部分でハイルの向こう脛を力の限り殴った。ハイルは足を抑えて倒れこみ、のたうち回って泣き喚いた。
 もしものときのために護身術の動画を観ていてよかった。雷閃には柔道や合気道のような技は使えないが、動画は人間の急所を教えてくれた。弁慶でも泣くほどの痛みを感じる向こう脛は、魔人をも泣かせた。
 ひとまず命は助かったが、この魔人はどうすればいいのだろう、と雷閃は迷った。痛みが引けばハイルはまた襲い掛かってくるに決まっている。たいした力はなくても、殺してやるという意志は雷閃や周りの人間の脅威になる。ハイルの執着はこの程度で消えるものでもないだろうし、憎しみは執着を悪い方向へ倍増させる。
 だったら、そうなる前にこいつを殺すべきなのか。
 雷閃は雨に打たれて惨めに縮こまる魔人を、今なら殺せると思った。人間と同じように心臓が止まれば死ぬのだろうか。この魔人は永海を解放したとしても、どうせまた新しいターゲットを見つけるだろう。そうなる前に、息の根を……。
「あぁ、こんなところにいたのか」
 突然、低く厳しい声がした。ハイルを取り囲むように数人の男が立っている。一斉に軍服のような身なりの男たちはハイルを取り押さえた。
 一瞬たりともハイルから目を離していないはずなのに。雷閃は突如出現した謎の人物たちに恐怖を覚える。
「君、その杖をこちらへ」
 あご髭の濃い、がっちりした体格の男が雷閃の杖を指さした。ハイルは男たちに縛り上げられて言葉にならないうめき声をあげている。
「……ん、どうしたのかね。なるほどそうか、私たちが怖いのか。そうだね、その通りだ。でも安心なさい。私たちは……えぇと、君たちにはどう表現すればいちばんわかりやすいのかな。私たちは……魔界の警察、と言えばよろしいかな?」
「警察……」
「そうだ。このハイルくんは昨日、博物館に展示している大事な杖を盗んで行ったんだ。そう、その杖のことだ。だから返していただきたいのだが」
 魔界から来たのなら、ハイルと同じ魔人ということか。雷閃は警戒しつつも、杖をあご髭の男に渡す。ハイル以上の力を持つ魔人であれば、雷閃は逆らえない。
「いい子だ。しかしまったく、困ったものだね、ハイルくんは。十年ほど前だったかな? 人間界で猫を殺した罪で博物館をクビになってから、どこで何をしていたのかと思えば……まさかまだあの子に付きまとっていたとは。呆れて物も言えないよ」
 拘束されたハイルは無理やり立ち上がらされると、嫌だ、と叫んだ。
「僕は……ッ、僕はただ……!」
「駄目だ、君の意見は尊重できない。そんなことばかりしているから仲間に嫌われるんだ。君は反省が必要だ。こんなに長いあいだ人間界に干渉して、君は迷惑をかけることしか能がないのかい。ハイルくん、君は重罪だ。まずは反省から始めてもらおう。そのあとは、せいぜい死刑で済むことを祈っているんだね」
 あご髭はくるりと反転してこちらを向いた。雷閃は身構えるが、あご髭は「大丈夫だ」と言った。
「ハイルくんはね、私たちの仲間のなかでも嫌われ者でね。確か……高等……? 貴族……ナントカとか自称して、手を煩わせていたんだ。博物館で働かせてやってもさっぱり仕事をしないし、その上、人間界で猫を殺すなんて罪を犯してきた。我々はね、人間に気づかれてはいけない存在なんだよ。どうしてかわかるかな? いや、わからなくていい。我々は人間とは違う存在だ。ハイルくんのやり方は我々も間違っていると思うが、人間博物館は実際にあるんだよ。……はは、信じる必要はないよ。ただ私は生まれてから一度も嘘をついたことはない」
「俺たちは……もう解放されたということですか」
 雷閃の質問に、あご髭は深くうなずいた。
「長らく迷惑をかけてしまったね。ハイルくんはこちらで処理しておくよ。しかし、杖を盗んだことで彼の野望は潰えたものかと思ったが、どちらにせよ彼の望みは叶わなかったようだね。それでは、えぇと……永海さん、だったかな?」
 あご髭に呼ばれた永海はびくりと肩を震わせた。あご髭は親指でハイルを指して「復讐するかい」と尋ねた。
 ハイルは暴れすぎたために男のひとりに殴られ、猿轡をはめられている。あれほどまでに永海をおびやかしていた存在が今や、こんなにも弱く、醜い。
 永海はハイルを見つめた。幼い永海から幸福を奪った魔人は、すがるような目で永海を見つめ返した。
「……だいっきらい」
 それだけ言うと、永海は琴に抱き着いて顔を隠した。泣いているのかもしれない。あご髭はうなずき、男たちはハイルを連れて消滅した。
「では、さよならの時間だ。もう二度と会うことはないでしょう。みなさん、どうか、私たちのことは内緒にしていてくださるかな? もし我々の存在が人間に知られてしまったら……我々も『対処』をしなくてはいけなくなるからね」
 意味深に微笑み、あご髭はおじぎをして消滅した。真っ黒に燃えたはずの傘もその場には落ちていない。
 通り雨だったらしく、いつのまにか雨はやんでいた。雷閃はふらつく足で自分の鞄からタオルを取り出した。永海と琴に渡すと、ふたりもようやく動けるようになった。
「あのね、琴ちゃん」
 顔をぬぐった永海はまだ震えている声で琴の手を握った。
「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。私は琴ちゃんのおかげでずっと幸せでいられた。ずっと、不幸なんかじゃなかった。私はもう大丈夫だから、琴ちゃんも、幸せになろう」
 琴は永海の手を握り返した。彼女たちの悲劇はこれで終わりだ。
 水たまりに光が反射している。太陽に照らされる永海を見て、雷閃はやっぱり、この子はかわいい子だと思った。
「朝来くんも、ありがとう。思い切り巻き込んじゃってごめんね」
「いえ、俺も、ありがとうございました」
「えっと、何に対して?」
「俺、頑張ったんですよ。こういうの苦手なのに。本当は逃げたかったのに。けど、先輩のおかげで、また努力できるになりました。そのお礼です」
 よくわかんない、と言って永海は笑った。その笑顔が、雷閃の最も欲しかったものだった。