職員室から音楽室に向かう途中で琴に会った。同じ場所に向かうのだから当然、並んで歩いた。
「安良田先輩は?」
雷閃が尋ねると琴は「担任に用事を頼まれて職員室に」と答えた。どうやらすれ違ったようだ。
「あの、五月女先輩って、安良田先輩の幼馴染なんですよね」
「えぇ、そうですよ。家も近くて、小学二年生のころからずっと一緒です」
「じゃあ五月女先輩は魔人のハイルが安良田先輩に何をしたか知ってるんですね」
ぴたりと、琴の足が止まった。見たことのない表情だった。まるで罪を公にされた罪人のような顔だった。
「実は、二回会いました。安良田先輩はあの魔人に脅されて不幸を背負わされたんですね。五月女先輩のことも知ってるみたいでしたけど、あいつに何かされたりしていませんか?」
音楽室のある階の踊り場で、琴は不規則な呼吸を繰り返した。吹奏楽部は今日から部活を休みにしているらしく、服が擦れる音さえ大きく聞こえる。
「……わたしは、その魔人と会ったことがないんです」
琴は罪を告白するように、静かな声で話し始めた。
「小学三年生のときでした。わたしはあの日、永海と遊ぶ約束をしていました。家を出る前、母に『フレンチトーストを作ったけど、食べてから行く? それとも帰ってから食べる?』と聞かれました。わたしは『今食べる』と言って、フレンチトーストを食べました。わたしは母の作るフレンチトーストが大好きだったので、すぐに食べたいと思ったんです。そのせいで、待ち合わせの時間を十分ほど過ぎてしまいました。わたしが急いで永海の家に行くと、永海は玄関の前で泣いていました。そのとき永海のご両親は不在で、それが余計に永海を怖がらせたのでしょう。永海は『まじんにころされちゃう』と言って泣いていました。わたしは意味がわからなくて、永海が何か勘違いをしているのだと思いました。ですが、地面に座り込んだ永海の隣に、猫が死んでいたんです。あまり、言いたくはありませんが、かわいそうな殺され方をしていました。わたしも怖くなって、永海を慰めながら家に入りました。永海の両親も、わたしの両親も、魔人のことは知りません。大人たちは猫の死体を、猟奇的な人間によるものだと片づけました。たぶん小さなニュースにもなったと思います。当時は、わたしもそれが魔人のしわざだと信じていました。だから口外すれば魔人に気づかれてしまうと恐れていました。でも中学生になるころ、わたしは永海が魔人ではなく、人間に脅されているのではないかと推測しました。魔人なんて存在を信じていられるほど、わたしは空想的な子供ではなかったのです。けれど、永海はたびたび、魔人ハイルが来たと言って怯えるんです。もしかしたら猫を目の前で殺されたショックによる影響で、幻覚のようなものを見ているのではないかと思いました。ですが、永海が話す内容は到底、中学生の女の子が考え付くようなものではありませんでした。永海は魔界にある『人間博物館』という場所で行われている残虐な人体実験の話をしました。魔人ハイルはこういう話を、嬉々として永海に聞かせるのだと。それでもわたしは、永海に然るべき処置を受けさせなければいけないと思いました。でも永海は、わたしがどんなに説得しても『そんなことをしたらお父さんとお母さんとマリーが殺されちゃう』と言うのです。『ハイルは自分の年齢を好きなように操って見た目を変えるから、誰もハイルを見つけることなんかできない』と。ずっと、半信半疑でしたけれど……本当なんですね、魔人の存在は……」
語り終えた琴は深呼吸をした。小学三年生といえば、まだ十歳にも満たない歳だ。幼い子供を脅して執着するハイルの異常さに、雷閃は吐き気がした。それがハイルの幸福の在り方だと言うのなら、雷閃は共感どころか理解もできない。そんな幸福が認められていいはずがない。
「……もし、わたしがあの日、時間通りに家を出ていれば、といつも考えるんです」
ぽつりと、琴は懺悔をこぼす。琴が永海の不幸を許している理由。それは罪の意識からくるものなのだろう。
「五月女先輩にとっても、つらい話だったんですね。軽率に踏み入ってしまって、すいません」
雷閃が頭を下げると琴は「いいえ」と言った。
「何もできないわたしが悪いんです。後悔ばかりして、永海を慰めるだけで、何もできずにいるわたしが……」
「じゃあ、今からどうにかしませんか」
頭を上げると同時に雷閃は琴としっかり目を合わせる。琴は動揺したように瞬きする。
「何もできなかった過去の話はもういいです。今から俺は安良田先輩を救う話をします。あの魔人は、自分の年齢を操作する以外の能力を持っていません。要するに『魔人』と言っても、倫理感が欠如した最低のクズに過ぎないってことです。感情的で、自分に逆らう人間を嫌悪する上に攻撃もする、存在自体が許しがたい奴です。けど、あいつは今、安良田先輩から興味を失いつつあります。安良田先輩がハイルの命令を聞かずに楽しい学校生活を送っているからです」
窓の外で曇り空が強い風に吹かれて流れていく。夏らしい水色の空が垣間見え、梅雨の終わりを示唆している。
「永海は……中学のころ、本当はわたしと同じ合唱部に入りたかったんです」
琴の声が渇いている。言えない想いを抱えているのは永海だけではない。
「でも永海は『合唱部でみんなと歌っていたら幸せになってしまうから』と言って帰宅部を選びました。わたしが部活に行くのを、永海は笑って見送ってくれました。わたしも帰宅部でいいと言ったのに、『琴ちゃんが合唱部に入らないなら絶交する』って聞かなくて。この高校はちょうど合唱部がほとんど活動していませんでしたから、合唱をしたいのにできないという不幸な状況を作り出せると思ったのでしょう。でも、わたしも……最近の永海はよく笑うようになったと感じていました。永海はもう、不幸が追い付かないくらい幸福なはずなんです」
「……そうでしょうね。だったらもう、こんな不幸のヒロインごっこは終わりです。五月女先輩だって、安良田先輩には笑っていて欲しいでしょう」
「でも、何をどうすれば……」
そのとき、階段の下から話し声が聞こえた。上から覗くと永海と里穂子が一緒に階段を上がってくるところだった。
「あ、琴ちゃんと朝来くんだ!」
ふたりに気づいた永海と里穂子が階段を駆け上がってきた。
「あのね、今日は星田先生がいないの。明日から部活はお休みになるし、さっき里穂子ちゃんとも話してたんだけどね、今から何か食べに行かない?」
「ちなみにあたしも永海先輩も、結構お腹すいてまーす」
いつの間にか仲良くなったらしい永海と里穂子に、琴は微笑みかけた。その笑顔には決意が見えたから、雷閃はなんとなく、もう大丈夫だと思えた。