薄暗く、太陽はもうどこにも見えない。月極駐車場の壁に寄りかかったハイルは、にこりと笑った。雷閃がその忌々しい笑顔を睨みつけると、ハイルは不満そうにため息をついた。
「なんでそんな顔するわけ? 僕は今、君に笑いかけたのにさ。君は僕に笑顔を返すべきだったよね? それが礼儀ってもんじゃないの? 人間ならそれくらいきちんとやんなきゃだめだよ」
「礼儀は、そうするに値する人間にだけ向けるものだからな」
「あっそ。失礼な奴だな、僕は君が嫌いだよ」
 ハイルはつまらなさそうに足元の石を蹴った。かつん、と車のタイヤに当たる音がした。
「何の用だ」
 雷閃はいつでも助けが呼べるよう、大声を出すつもりでハイルに向き合う。ハイルは先日とは打って変わって、機嫌が悪そうな目つきで雷閃を見ている。
「用っていうかさー。愚痴? なんか最近、楽しくないんだよね。君が来てからだよ。君のせいで永海ちゃんが希望を持っちゃったの。つまんないよねー。僕さ、人間博物館に勤めてたころ、人間の観察をしてたの。そのときと同じ感じ? 何度人間を絶望に陥れても、救済者が現れたら希望を持っちゃうんだよね。僕が見たいのはそういうのじゃないんだよ。僕が見たいのは、何度も何度も絶望させて、救いを提示して乗ってきたら嘘だって言って痛めつけて、救いはないとわからせて、そんで救済者を与えて、どうせ救われないって思った人間が救済の手を跳ねのけたときに僕が『残念でした~! これは本当の救済でした! でも拒絶しちゃったね~』って言ったときの顔なの。なのにさ、なんであいつらは何度でも救われようとするんだろうね。やだやだ、気持ち悪いなぁ。僕に歯向かってるみたいで、嫌だよ」
 相変わらず、ハイルが喋れば喋るほど雷閃は不快になる。雷閃は心底、この魔人を軽蔑する。
「歯向かってるみたい、じゃなくて、実際に歯向かってんだろ」
「はぁ? なんで? 僕の方が絶対的に強いんだから、弱者は屈しないといけないじゃん? ほんっと人間って気持ち悪いよね。力の関係を理解しないんだからさ」
「別に人間に限った話じゃないだろ。ネズミだって人間に歯向かって噛みつくんだ。おまえは浅はかなんだよ」
「……僕を挑発してもいいの? 君は僕よりも絶対的に弱いよね?」
「どうだろうな。おまえの能力は自分の年齢を操れるだけなんだろ。だったらたいした強者でもないんじゃないのか? それにおまえは人間を殺したいわけじゃないんだろ。自分に屈する弱者が欲しいだけなら、挑発はおまえに屈しないって意志を見せつけられる有効な手段だと思うけどな」
 雷閃の言葉にハイルは口を歪めた。やっぱりそうだ。この魔人は自分を大きく見せたがっている。だからぺらぺらと喋ることで威圧して、自分が大きな存在であるかのように錯覚させようとする。
 ハイルは魔人と言っても、雷閃が想像する、ファンタジーの世界で地面を割ったり炎を吐いたりするような、超越的な力を持っているわけではないのだろう。例え強力な能力を持っていたとして、その力を隠しているのだとしたら、ハイルは頭の回らない魔人だということだ。ハイルを前にして恐怖しない雷閃を屈服させたいなら、力を見せつけることがいちばん手っ取り早い。それをしないということは、できないということにほかならない。
「おまえは何が目的なんだよ。安良田先輩を脅して、どうしたいんだよ」
 雷閃の問いに、ハイルは赤い目をぎらつかせた。初めて見た時は畏怖したおぞましさも、今は幼稚に感じる。
「僕は楽しみたいだけだよ。永海ちゃんがかわいいから、かわいがりたいの。それだけなのになんで君は邪魔すんの? 君は僕よりも劣った生物なんだから僕に従わなきゃいけないよね? なのに歯向かうとかさ、おかしいよ。そうだ、僕は抗議をしにきたんだ。僕の楽しみを奪わないでよ! 僕は永海ちゃんが好きなんだ! 僕の愛を邪魔するな!」
「あぁ、そう。じゃあ全力で邪魔するわ。おまえが安良田先輩を不幸にさせようとするなら、俺は全部邪魔するし、これからは安良田先輩にもおまえに従わないよう言い聞かせる。なぁ、安良田先輩は自分を不幸にさせるおまえと、それを妨げようとする俺と、どっちの言うことを聞くと思うか?」
「うるさいなぁ! 人間はそうやって理論で僕を攻撃する! そういうのは嫌だ! 僕は僕を楽しませるために永海ちゃんに不幸でいて欲しいだけなんだ、だから僕は永海ちゃんの家族を人質にしたんだ!」
 ハイルは激昂し、口調を荒げた。だからこそ雷閃は冷静でいなければならなかった。
「……人質ってなんだよ。そんなひどいことをしたのか」
 雷閃が言うと、ハイルは口角を上げた。そして愉快そうに語る。
「そうだよ、僕は永海ちゃんに、とってもひどいことをしたんだ。僕はね、小学生の永海ちゃんの前で猫を殺した。ひとりで歩いてた永海ちゃんがすっごくかわいかったから、僕はこの子をいじめなきゃってね、ビビッときたんだよ。で、猫を殺したあと、永海ちゃんに『君の家族がこの猫みたいになって欲しくないなら、君は彼らのぶんまで不幸でいなくちゃいけない』ってね、僕はそう言ったんだ。それを信じた幼い永海ちゃんはあの日からずっと不幸な少女なんだ!」
 雷閃は気が遠くなるのを堪えた。呼吸のリズムが狂う。心の痛みと、目の前の魔人に対する怒りでおかしくなりそうだった。幼い永海の前で行われた動物の虐殺は、彼女の心に深い傷を負わせただろう。それをひとりで抱え、家族への殺害予告を恐れて、今までずっと言いつけを守ってきた。ハイルが本当に家族を殺せる力を持った魔人なのかどうかは、当時の永海には到底予想できなかっただろう。そして今も、あの日の恐怖にとらわれている。
 もしかすると、もっと早くに誰かが永海の過去とハイルの人格を知ることがあったなら、そんなに恐れるほどの魔人ではないと指摘できていたかもしれない。だが永海は目の前で猫を殺されたショックと最悪の事態への恐れから、今に至るまで少しも抗うことができなかったのだろう。
「ずっと不幸な少女、ねぇ。おまえは本当にそう思ってんのか?」
 暴発しそうな感情を抑えながら言うと、ハイルは不愉快そうに首をかしげた。
「安良田先輩はおまえが思ってるほど不幸じゃない。家族に愛されて、幼馴染に守られて、仲間との時間を心から楽しめて。本当に不幸な人間が、あんな顔で笑うわけないだろ。おまえは不幸を勘違いしてる。転ぶとか、怪我するとか、欲しいものを手に入れられないとか、そんな一時的な苦しみだけで『不幸』だなんて言えるか? だったら俺も不幸だろ。中学一年の挫折を引きずって今でも努力ができない俺は最高に不幸なんじゃねぇのかよ。いや、そんなわけねぇよな。俺は不幸じゃない。不幸は継続しない。おまえの呪縛はもう終わりだ」
 心臓が痛む。それが怒りのせいなのか、永海の過去を知った痛みのせいなのか、雷閃にはわからなかった。
「……えらそうにするなよ、人間のくせに! あぁ、不愉快だ! 僕、もう怒った。怒っちゃった。後悔させてやる」
 ハイルは不気味に笑った。そしてアンティックゴールドのスーツの裾を翻し、雷閃の前から去って行った。
 完全にハイルが見えなくなったところで雷閃は大きく息をついた。手が震えている。言い過ぎただろうか。もし永海に危害をくわえるようなことがあれば雷閃のせいだ。
 だがハイルはこれまで一度も、永海に直接手を出してはいないようだった。雷閃にはわからないが、何か制約のようなものがあるように思えた。
 あと少しで、永海が幸福を望めるようにしてやれるかもしれない。
 叩きのめされても希望が見えれば手を伸ばしてしまうことには、人間である雷閃も不思議に思う。