その夜、夕飯のあと。雷閃はスマホでメッセージアプリを起動した。永海にもらったIDを入力して検索すると永海の名前はすぐに見つかった。何を送るか一瞬迷ったが、シンプルに「朝来です」と一言だけ送信した。
 十分経って、返信があった。
『安良田です。ハイルのことでお話があります。電話できますか』
 簡潔に書かれた文章は、どこか新鮮だった。永海は文章になるとこんな口調なのか。雷閃は「できます」と返事をして額を揉んだ。
 電話はすぐにかかってきた。メッセージアプリの無料通話だから時間は気にしなくていい。
「はい、朝来です」
「あ、えっと、安良田です。夜遅くにごめんね」
 電話越しに聞こえる永海の声は、学校で聞くよりも親身に思えた。自分の部屋で永海の声を聞いていることが不思議だ。そして、そのことに妙な緊張と安心感を覚えていることにも。
「今、自分の部屋?」
「はい、親には聞こえてません」
「……ごめんね、警戒させて。大丈夫、朝来くんのご両親まで巻き込んだりはさせないから」
 痛々しい声だった。表情が見えなくても伝わってくる永海の悲愴感は雷閃の心を刺激する。あの子は他人だと思っても、どうしてもあの子の痛みに共感してしまう。
「いえ、大丈夫です。それより、俺が魔人に会ったときの話をしてもいいですか」
「……うん」
 雷閃は先週、魔人ハイルに言われたことを簡潔に話した。ぺらぺらと口数の多い魔人だったからすべてを記憶しているわけではないが、ハイルが魔界から来たということ、自らの年齢を自由自在に変えられるということ。そして永海を不幸にさせている元凶だということ。
 話し終えたとき、雷閃は手に汗をかいていた。エアコンを効かせているのに発熱したみたいな熱さを感じている。
 雷閃の話を聞いた永海は少しだけ沈黙し、それから椅子がきしむ音がした。
「そうだったんだ。本当にごめんね。私がちゃんとしてないから朝来くんに迷惑かけちゃったね」
「いや……その、迷惑だとは別に……」
「これ以上の迷惑はかけないから。だから、ね。私のお願い聞いてくれる?」
「……聞いてから決めます」
「私に無関心でいて」
 ぎしり、と椅子のきしむ音。永海の使っている椅子はどうやら古いものらしい。雷閃はベッドに寝転がって目を閉じた。
「それは無理です」
 雷閃の答えに永海は「どうして」と問う。雷閃は慎重に答える。
「同じ部活の先輩が、同じ場所にいて、不幸になろうとしてたら、嫌だと思うのは普通でしょう。安良田先輩だって、俺がわざと転んだり怪我したりしてたら『なんでそんなことするんだ』って怒るんじゃないですか」
「そう、だね。だったらその上でお願いするよ。私には事情があるから、優しさで見逃して欲しいの」
「だったらその事情を話してください。俺はまだ納得できません」
「ごめんね、それは話せない。話したら、朝来くんまでハイルにひどい目に遭わされちゃうから」
「……俺まで、ってことはすでに誰かがひどい目に遭ったってことですか」
「これ以上聞かないで。朝来くんは平和に、平穏に学校生活を送りたいんだよね。だったら私のことは気にしないで。自分の生活のことだけを考えてて」
 夢のなかのように感じた。永海の声も、この状況も。そういえば自分の部屋で女の子と電話をするなんて初めてだ。どうせならもっと、甘ったるい会話がしたかったなぁ。
 雷閃は寝返りをうってスマホを持ち直す。
「もし、なんですけど」
 カーテンを閉めた部屋は世界から閉ざされている。自分の視界の外では、本当は全ての生命体が動きを止めていると言われても否定できない。たぶん、そう考えていた方が気が楽だ。それでも雷閃は、今この瞬間も苦しんでいる永海を世界の外の話だとは思えなかった。
「俺が何か協力できるようなこととか、ないんですか。先輩の奇行を無視する以外で」
 お節介を焼きたいわけではない。ただ、雷閃の行いが永海の何かの救いになるとしたら、そうしたいと思った。永海が不幸であることは雷閃を苛立たせる。笑っているときの永海は雷閃を穏やかにさせる。だから、これは、自分のため。
 しかし永海は厳しい口調で雷閃の申し出を断った。
「ないよ、なんにも。朝来くんは優しいから私を助けてくれようとしてるんだろうけど、朝来くんにできることなんかなんにもない。不愉快にさせてしまうのは悪いと思ってるけど、あと一年間だけでいいから私を見逃して。私が引退するまででいいの」
 その拒絶は雷閃の胸を刺した。どんな小さなことでもよかった。永海が頼ってくれたなら雷閃は全力で応えるつもりだったのに。
「でも安良田先輩は、本当は不幸でいたくないんですよね。あいつに脅されて仕方なく自分から不幸になろうとしてるんですよね。だったらあいつをどうにかして……」
「無理なの!」
 悲痛な叫びに、雷閃は言葉を詰まらせた。何も知らないからこそ、言えることもあると思った。だが永海には必要とされていなかった。
「あんな怖い魔人なんだよ、どんな抵抗したって無理だよ。あいつは人間の命を尊いものだなんて思っていない。私たちがその辺の花をちぎって観察するみたいにして、あいつは人間を誘拐して魔界で観察してるの。あいつ、人間の博物館に勤めてたんだって言ってた。その博物館では人間の生態を展示してて、剥製もあるし、身体の一部だけの展示もあるんだって。生きた人間のコミュニティを観察できる場所もあるらしくて、集団での暮らし方とか、喧嘩とか、繁殖の仕方までリアルタイムで見れるんだよって、あいつは楽しそうに話してた。私たちが動物園に行って動物が寝てたら残念だと思うみたいにして、あいつらは博物館で人間が動いてなかったらつまらなく思うの。わかる? ハイルは私と朝来くんをそういう『人間』だと思ってるの。『永海』と『朝来くん』じゃなくて、ふたりとも同じ種類の『人間』としか思ってないの。そんな奴を相手に、どうして朝来くんが何かをどうにかしたり、できるの?」
 雷閃は完全に言葉を失ってしまった。博物館、と。ハイルは確かにそのようなことを言っていた気がする。しかしそんな人道を外れた、人間の尊厳を踏みにじるような場所だとは考えもしなかった。
 ハイルが永海に聞かせた残虐な話の全てが真実なのかはわからないが、あの魔人のおぞましい笑顔を思い出すと、真実味が増す。
 つまり、永海に関わることは、自分の生命を危険にさらすということだ。平和で平穏な生活を送るためには永海に関わるべきではない。彼女は危険な存在だ。
「……ごめんね、そういうことだから。もしまたハイルに会っても私と関わるのはやめたって言って。あんな女どうとでもなればいいって。ハイルは楽しみたくて朝来くんをからかってるだけだから、無視してくれればあいつも飽きると思うから。じゃあね、おやすみ」
 何も言えないまま通話が切られた。ひとりになった部屋はひどく寂しい。永海もそうなのだろうか。誰も頼れず、誰にも救われず、たったひとりで苦しみを与えられ続ける永海を、どうすれば幸福にできるのだろう。
 あと一年もすれば関りのなくなる先輩。その後の人生では二度と会うことのない他人。
 雷閃は、永海をそんな風には思えなかった。