琴と里穂子が戻ってきたのは二十分後だった。その二十分でふたりは随分仲良くなったらしく、和やかな雰囲気で音楽室に戻って来た。
 魔人との接触を告げられた永海は雷閃に「あとで」と言った。雷閃はうなずいて、永海が渡してきたメッセージアプリのIDが書かれたメモを受け取った。それから琴と里穂子が戻って来るまで永海は沈黙を貫いた。何かを考えているようだったので、雷閃も話しかけなかった。
 永海は入部届を提出してきたふたりに「おかえり」と言って笑いかけた。作り笑いは下手なはずなのに、今日は上手に笑っている。雷閃はその笑顔が気に入らなかったが、彼女の境遇を考えると責めることもできない。あのおぞましい魔人に、永海は脅されている。
 あの魔人は今もどこかから自分たちを観察しているのだろうか。人間の力を超越した存在への恐怖が雷閃のなかに生まれる。
「星田先生、いた?」
 永海が琴に尋ねる。琴は「いませんでした」と苦笑した。
「せっかく部員も増えてきたしさ、たまにはちゃんと部活動してみる?」
 そう言う永海は心から楽しそうな表情をしている。雷閃はそんな永海が哀れに思えて、変に拗ねるのをやめた。永海はひとり、恐怖と対峙して戦っているのだ。少しくらい、優しくしたい。永海は笑っている方がかわいい。それが同情の域を超えていることに、雷閃は少しずつ気づき始めている。
「あの、こんだけ琴先輩への愛を語っといてアレなんですけど、あたし、合唱はぜんぜん経験ないんです……」
 里穂子が申し訳なさそうにそっと右手を上げた。中学はバレー部だったと言っていたから、パート分けや音の取り方も知らないのだろう。しかしそれは雷閃も同じだった。
「あ、俺も経験ないんですよね。すいません、楽譜はなんとなく読めるんですけど」
 雷閃が言うと里穂子は両手で顔を覆った。
「あたしは楽譜も読めません……!」
 初心者ふたりを前に、先輩たちは顔を見合わせた。そして旧知の仲らしい笑い方で微笑み合った。
「大丈夫だよ、私たちが一から教えてあげるからね」
「えぇ、だから安心して先輩を頼ってくださいね」
 永海は先ほど、中学では帰宅部だったと言った。それなのに指導側に回れるのは、去年一年間で学んだからなのだろうか。謎が多いひとだ。
里穂子は先輩たちの優しい言葉を聞いて顔から手を下ろし、ぴしりと背筋を伸ばした。
「先輩! よろしくお願いします!」
「俺も、ご指導お願いします」
 里穂子にならって雷閃も軽く頭を下げる。このまま楽しく部活ができたらいいのに。コンクールに出るわけではないから必死に練習することもない。お遊び程度の活動で、ときどきサボってラーメンを食べに行ったりして。
 このままなら幸福なのに。
 雷閃はそう思った。だが幸福を維持させるためには努力をしなければならない。永海をおびやかす存在を排除し、彼女をハイルの呪縛から解放しなければならない。
 深く関わる理由はない。自分も脅されたから一定の距離を保ちましょう、と言えば永海は怒りもせず了承するだろう。その様子がはっきりと想像できるから、雷閃の苛立ちは増すばかりだ。
 別に、これはただ、自分が幸福であるために手助けをするだけのことだ。雷閃はそう自分に言い聞かせて仲間たちの会話に加わる。
 どこにいても、どんな風に生きていても、幸福を壊すのは他人だ。だが他人がいなければ雷閃は幸福になれない。