雨はぐずり続ける赤ん坊のように毎日降る。小雨から土砂降りまでバリエーションを用意して梅雨は大地を濡らす。
 月曜日。週明けはみんな眠そうだ。壮介は「雨と汗に強いナントカ」で眉をきりっとさせてきたらしい。これなら眠そうでも注意されない! と豪語していたが、二時間目に居眠りをして叱られていた。
 放課後にならなければいいと、心のどこかで願っていた。最悪、合唱部を退部しなければならなくなるから。楽しくやれていたのな、と残念に思う。
 教室を出て廊下の角を曲がると、ひとりの女子生徒が壁に寄りかかって立っていた。その女子は雷閃を見つけると「あ」と言って指をさした。
「朝来って合唱部だよね?」
 この女子生徒は確か四組の中本里穂子だ。チョコレートブラウンの短い髪を後ろで小さく結っている。雷閃との交流はなく、顔と名前を知っているくらいだった。
「……中本、だっけ? うん、合唱部だけど」
「あの、さ……頼みが、あるんだけど……」
 里穂子はもじもじと照れくさそうにうつむいた。雷閃の記憶では、里穂子は快活な少女だったはずだ。関わりこそないが、全校集会なんかで友達とけらけら笑っているのを見かけた覚えがある。
「頼み……?」
「か、簡単な頼みだからさ……お願い、聞いてくれない?」
「内容聞いてからでいい?」
「あ……うん……。えっと……あたしを合唱部に入部させてくれない、かな」
 意外だ、と思った。すでに里穂子は運動部に入っているものだと思っていた。姿勢もスタイルもいいし、バスケ部なんかでエースをやっていそうなイメージ。これは偏見。
「あぁ、なんだ。いいよ、第二音楽室が活動場所だから一緒に行くか? 先輩も今週からは来てるはずだし」
 雷閃が了承すると、里穂子は少しだけ頬を染めた。休み時間に廊下を走り回って生活指導の教師に首根っこをつかまれていた里穂子にも、しおらしさがあるとは。雷閃は失礼な驚きを隠しながら音楽室に向かってふたりで歩き出す。
「中本って合唱部に興味あったんだな」
 雷閃が言うと、里穂子は大きくうなずいた。
「あたし、歌好きなんだよね。カラオケもめっちゃ好き」
「カラオケで歌うような曲は合唱部ではあんまり歌わないけど」
「知ってるよ、それくらい。歌なら何でも好きなの。ライブとかフェスとかに行くのも大好き」
 まさか新たに入部希望者が現れるとは。永海に告げなければならない話は琴がいる場所ではできないから、どうせ音楽室に行ってもすぐには話せない。いつまでに、という期限もないからいつでもいいが、隠している時間が長ければ長いほど永海はショックを受けるだろう。あの魔人の言う通り。
 第一音楽室では元気な管楽器の音が響いている。雷閃は吹奏楽の楽器に詳しくないが、木管楽器ではないだろうと予想する。
「合唱部は第二音楽室だから、こっちな」
 雷閃の案内に従い里穂子は後に続いてきた。第二音楽室には永海と琴がいた。
「あ、朝来くん! 試験お疲れ様~! これで期末試験までは気楽に……あれぇ?」
 大きく手を振る永海が首を傾げた。里穂子は雷閃の隣から一歩前に踏み出した。
「一年四組、中本里穂子です! 入部希望です!」
 やっぱり里穂子は運動部の方が向いているんじゃないか。雷閃は苦笑して里穂子を先輩たちの前に導いた。
「中本さんというのですね。 いらっしゃい、入部してくれるならとても嬉しく思います」
 琴が柔和な微笑みでそう言うと、里穂子はがたん! と机を押しのけて琴の座る椅子の前に正座した。
「あああぁあの! あたし五月女先輩のファンなんです!」
「……え?」
 突如、すごい勢いで里穂子は語りだす。
「あたし、五月女先輩と同じ中学でした! そのときはバレー部だったんすけど、あたしが一年生のとき、合唱部が卒業式で歌ってたのを聴いたんです! あれ! あたし在校生なのに泣いちゃって! そのっ……! 五月女先輩はあたしのこと知らないと思いますけどっ、あたし感動して! ステージの五月女先輩の歌声がっ! すっごくきれいで! 一瞬で好きになったんすよ! だからあたしも歌の練習したりして……バレーも楽しいから合唱部に移動はできなかったけど……なんかの行事とかで五月女先輩が歌ってるところを見るのが! ほんっとに大好きで‼」
 熱く語る里穂子を、琴はぽかんと口を開けて見つめている。永海も大きな瞳を瞬きさせて見守っている。
「あぁ~すいません! いきなりこんなこと言ったらドン引きですよね! でも五月女先輩と同じ高校に入学してたって知ったら我慢できなくなってぇ! 絶対あの歌で感動したことを伝えたいと思った、んです、けど……うぅ……気持ち悪かったですよね……」
 途端に勢いをなくした里穂子に琴は慌てて否定する。そっと両肩をつかんで、うなだれた里穂子の顔を上げさせる。
「いいえ、とっても嬉しいです。ありがとうございます。こんな私でも中本さんの心に響く歌が歌えたのだとわかって嬉しくて……ただ、わたしも少し戸惑ってしまって……」
 琴は困り顔で、それでも照れたように笑う。以前、永海が琴の設置した恋人の条件ハードルが異様に高い話をしていたとき、雷閃は琴を高飛車な女なのかと思った。どうやらそれは違うらしい。
 もしかしたら琴が告白を断るのも「あなたではわたしに釣り合わない」ではなく「わたしではあなたに釣り合わない」という自己肯定感の低さによるものなのかもしれない。
「わぁ~! よかったね、琴ちゃん! ファンができるなんてすごい!」
 表情をきらきらさせた永海が、興奮を抑える里穂子を引っ張って近くの席に座らせた。
「すいません~! 取り乱しちゃいました! でも別に五月女先輩狙いで合唱部に入りたいっていうわけじゃないんすよ⁉ 歌うのが好きで、そんでそのうえ五月女先輩と一緒に歌えたら最高だな~! って思って! それで入部したいんです!」
「わかっていますよ。でも、残念なのですが……うちは部員が少なくて。三年生の先輩方は部活に来ませんし、学校行事で歌うステージも用意されません。もし思っていた活動と違うようであれば……」
「嫌です! あたしは絶対合唱部に入るんです! んで、卒業式の日に『合唱部でよかったぜ~!』って屋上で叫ぶんです!」
「あぁ、いえ、駄目と言っているのではないのですよ。ただ集まっても遊んでいるだけのような部活ですから……」
「ぜんぜんオッケーです! あたし、楽しければなんでもいいんで!」
 里穂子は永海とはまた違った意味で、子犬みたいだ。食べて、遊んで、寝る。そんな子犬。
「あれ、でも……」
 雷閃がふと疑問を口にする。
「安良田先輩も五月女先輩と同じ中学ですよね? 安良田先輩は合唱部じゃなかったんですか?」
 すると里穂子が「え⁉」という顔をする。
「わぁあ、すいません! えっと……安良田先輩? もいらっしゃったんですか⁉」
 里穂子が青ざめた顔で言うと、永海はぶんぶんと首を横に振る。
「ううん! 私はいなかったよ! だから大丈夫、私のことは知らなくて当然だからね! 大丈夫だよ!」
 永海のフォローに里穂子はほっと肩を下ろす。
「それじゃ、入部届、出さないと」
 雷閃が言うと永海は「そうだ」と表情を輝かせた。そして立ち上がろうとするのを、雷閃が制した。
「五月女先輩が一緒に行ってあげたらいいんじゃないですか?」
 そう言うと里穂子は「えっ」と高い声を上げた。慌てる様子を微笑ましい目で見つめる琴が里穂子の肩に手を置く。
「行きましょうか」
「はわっ……!」
 憧れの先輩とふたりで職員室に行くことになった里穂子は軽くパニック状態のまま音楽室を出て行った。今日、星田先生が職員室にいるかどうかはわからないが、入部届は机の上に置いておけばいいらしい。
 残された雷閃と永海は向かい合って座る。
「やっぱり琴ちゃんはすごいなぁ」
「安良田先輩って中学は合唱部じゃなかったんですね」
 模試の開始と共にエアコンの使用が許可された。冷たい風が締め切った教室を冷やしていく。年々、使用開始の日が早くなっていると担任の柳先生が言っていた。
「うん、帰宅部だったんだ。だからこうやって後輩ができるのも、初めて」
 はにかむ永海に雷閃も笑いかける。そして、一瞬のためらいのあと、口を開いた。
「……先週、魔人のハイルに会いました」
 わずかな間をおいて、永海の笑顔が少しずつ消えていった。エアコンの機械音と吹奏楽部の合奏が妙な静けさを生み出す。琴と里穂子はまだ帰ってこないだろう。永海はかわいそうなほどに絶望をあらわにしている。雷閃は反応を待っている。
 暑さも寒さもわからなくなるような沈黙だった。