帰りのホームルームが終わって、雷閃は教室のゴミ出しのために校舎を出た。じめじめと湿ってなまぬるい空気が鬱陶しい。だけど真夏のからりとした直射日光も苦手だ。雷閃は冬の方が好きだ。夏と違って、冬は普通に過ごしていれば命の危機にさらされることはない。熱中症は恐ろしい。
 ゴミ袋を収集場所に放り投げて、来た道を戻る。日陰を歩くために体育館の方に寄って校舎に向かっていると、誰かの切羽詰まった声が聞こえてきた。
「好きです! 付き合ってください!」
 男子の声だった。体育館と、何が入っているのかわからない謎の倉庫の隙間で告白が行われている。雷閃は邪魔しないようにそっと離れるつもりだったが、次に聞こえた声が足を止めさせた。
「ごめんなさい、無理です」
 五月女先輩だ、と雷閃はとっさに振り向いていた。この位置からは声しか聞こえないが、あの凛とした強さを持つ声は絶対に琴の声だった。
「あなたとはお付き合いできません。それでは」
「ま、待ってよ!」
 以前、永海は琴が男子からの好意を寄せられやすいというようなことを言っていた。本当だったのか。疑ってはいなかったが、やっぱりよく告白されているのか。
 琴の対応も慣れているどころか、うんざりしているようにも聞こえる。
「入学式で五月女さんを見た日からずっと好きだったんだ! 今年同じクラスになれて、五月女さんとも喋ったりできるようになって……!」
「申し訳ありませんが、あなたのお話を聞いている暇はありませんの。私は今から塾に行かなくてはなりませんから、ごめんなさいね」
 全く相手にされていない。そうだろう。彼女は「ジェットコースターに十回連続で乗っても酔わずにまっすぐ歩けるひと」という、常人では越えられないハードルを設置しているのだから。
「少しだけでいい、俺のことをもっと知ってくれればきっと……」
「いいえ。私は生涯、あなたを好きになることはありません。だって、私のような女を好きになる人間なんて、私は嫌いですもの」
 笑い声混じりに琴は言い放った。足音が去っていく。玉砕。かわいそうに。おそらく琴と同じクラスの二年生なのだろう。あの美貌と穏やかな声音に騙されたのか。
 しかし、少しだけ引っかかった。琴があんな自虐的な発言をするなんて。
「朝来くん」
「うわあぁ⁉」
 背後からのひんやりした声に飛び上がった。琴がくすくすと笑っている。
「こういうのを出歯亀と呼ぶんですよね?」
「す、すいません。ゴミ捨てにこっち来たら五月女先輩の声がしたもんで……」
「別に責めてなんていませんのよ。では、私は帰りますので」
 永海とは来週まで会えない。先に昨日の話を琴に相談したら、魔人ハイルは怒るだろうか。もし怒ったとしたら、自分も永海も琴もひどい目に遭わされたり、するのだろうか。
 ハイルは琴を知っていた。琴もハイルを知っている可能性は高い。だがハイルは「永海に話せ」と言ったのだ。余計な行動は控えた方がいいかもしれない。
「……朝来くん?」
 琴が心配そうに雷閃を覗き込んだ。鈍い光を持つ、黒い瞳。
「あ、いや。その……五月女先輩はこのあと塾ですよね」
「えぇ、そうですけれど……何か?」
「何かっつーか……今は、いいです」
「そうですか……?」
 今はまだいい。ここで全て話すには時間が足りない。なおも心配そうな琴に「勉強頑張ってください」と告げて雷閃は校舎に戻った。
 本当にハイルは魔人なのか。本当にハイルが永海をおびやかしているのか。自分はどうするべきなのか。
 昨日からずっと考えているが答えは出ない。たった十六歳の雷閃には荷が重すぎる。
 だが、永海はこの重荷をずっと背負っているのだろう。あの子が急に音楽室を出て行った日、オカルト的な話を信じるかとあの子は聞いてきた。それはつまり、ハイルの存在を示唆していたのだろう。
 どうして突然、こんな意味のわからない事態に巻き込まれたんだろう。
 この非現実的な日常から逃げ出すためには、合唱部を退部すればいい。それだけで永海と琴との縁を切れる。部員が増えて喜んでいた永海に対しての罪悪感はあれど、誰だって自分の身がいちばんかわいい。
 変な魔人に絡まれて危険を感じたので退部します。
 もし永海にそう言ったら、あの子はどんなに傷ついた顔をするだろう。かわいそうでかわいいだなんて、なんて残酷な愉悦を感じていたことだろう。自己嫌悪でいっぱいになる。
 同情と興味だけで、踏み込んでいいものだろうか。
 週明けまでの数日、まだ悩まなければならない。