模擬試験が近い。雷閃は大学進学を第一希望として提出したため、この試験を甘く見られない。しかし高校一年の模擬試験は試験範囲が最も狭い時期だ。まずは力試しと考えて、重くとらえすぎないようにしたい。
 二年生は補習を受ける生徒も多いらしい。永海は第二音楽室で
「私も補習受けるから、明日からは部活お休みね」
 と言った。実質永海が部長のようなものであるから雷閃も従う。今日も明日以降も琴は塾らしい。
「大学行くんですか?」
 帰り際に尋ねると永海はうなずいた。
「一応、行きたいなって思ってる。いろんなことを勉強できるのは楽しいから」
 施錠する永海はにこやかだ。まさかこの子も、わざと大学試験に落ちるために受験をするようなことはしないだろう。金もかかるし、多くのひとの期待を裏切る結果になる。永海は他人を自分の不幸に巻き込むような子ではないと雷閃は考えている。
「一年生は補習ないの?」
「希望者は数学と英語の補習を受けられるらしいです。俺は希望してないんで、明日はまっすぐ帰ります」
 壮介は最近、放課後は毎日美術部に行っている。いろんな話ができて楽しいと話していた。あの友人は学校生活を最大限に楽しんでいる。
 次の日も壮介は部活に向かった。ここの学校の部活は熱心ではないが、みんなけっこう楽しんで活動をしているようだ。物足りなさを感じる生徒もいるだろうけれど、雷閃にはこれくらいがちょうどいい。
 雷閃はひとり、学校を出た。六月の十六時台はずいぶん明るい。この時期は十九時くらいまで明るくて、夏を感じる。
 自転車に乗って校門を出ると、雷閃は前方に見知らぬ男を発見した。止まれと言うように手を振っている。長い金髪を後ろでひとくくりにした、背が高い青年だ。見覚えはないし、教師でもない。アンティックゴールドのスーツを着た、異国風の男。
 雷閃が速度を緩めると金スーツの男は親しげに笑いかけてきた。
「やぁ、朝来雷閃くんだよね?」
 こんなに学校に近い場所でも不審者は出るのか。すぐに学校に戻って報告した方がいい。
「待って、待ってよ。質問をしただけじゃないか。僕がおかしな人間に思えたのかい? それは全く最初から最後まで間違っているよ! 僕は君に質問をしただけ。どうして答えてくれないのかとても不思議だよ!」
 若い風貌の男はぺらぺらと喋って雷閃の自転車を止めた。怖い。雷閃は身の危険を感じて周りを見渡す。しかし誰もいない。部活のない生徒は雷閃よりも早く帰ったし、そうでない生徒はまだ学校から出てこない。
「……何の用ですか」
 無視を続けて逆切れさせてしまうのも良くない。雷閃は警戒心をむき出しにして対応する。
「いやいや、どうして君は初対面の僕に対してそんなに失礼な視線を向けるのかなぁ⁉ おかしいのは君の方じゃないのかい。だって僕はまだ君に名前の確認をしただけじゃないか。警戒なんてする必要はないよ!」
 男は尻尾のような金髪を振り乱してそう言う。危ない奴だ、と雷閃は判断する。安全な人間は初対面の未成年にいきなり声をかけてくることはない。
「いいかい、君の見解は全く、本当に、一から十まで、ひとつの真実もなく間違っているんだよ。だって僕はおかしな人間なんかじゃない。見てごらんよ、僕のどこが『おかしな人間』なのか、説明してごらんよ! 僕はおかしくもなければ、人間でもないんだ!」
 そう主張した男の顔が、だんだんと老いていく。まるでCGで作られた映画を観ているみたいに、二十代の男が六十代の男に変身した。身長も小さくなり、体つきも老人のそれだった。
「……な、え?」
 目の前で青年が老人になった。顔の仮面を剥がすわけでもなく、映像を早送りしたように男は数秒で四十年以上の時間をスキップした。
「どう? 人間にはできないでしょ?」
 声もしわがれていて、重みと渋さを持っている。まっすぐだった腰を曲げ、しわくちゃの顔で雷閃に微笑む。
「でも人間のおじいちゃんの喋り方ってよくわかんねーんだよねー。こういう感じじゃないんでしょ? 僕はさ、人間の博物館で働いてたから人間の生態には詳しいつもりなんだけど、実際に人間の振りをするのは難しいなぁ」
 彼の言う通り、高齢者にしては軽い口調だ。そのアンバランスさが不気味で、非常事態を感じた雷閃は今すぐ逃げなければと自転車のペダルに足を乗せた。しかし、男はその足を蹴り飛ばした。
「いってぇ!」
「だめだよ、何逃げようとしてんのぉ? 僕の話を聞く前に逃げるなんて頭おかしいの?」
「……あんたは人間じゃない、のか」
「そうそう! 僕は魔人だよ! 魔人のハイル! 正確に言うと僕は魔人の中でも、高等貴族生命体に分類されるよ!」
「魔人……? 貴族生命体……?」
 何も理解できない。ただこいつは危ない存在だ。雷閃が思案しているあいだに、ハイルと名乗った男は老人から若者に変身していた。全く別の顔ではない。彼が年を取ればあの姿になるだろうし、あの老人の若いころは今の姿だっただろうと推測できる顔つきだ。
「あのね、朝来雷閃くん。僕は安良田永海ちゃんのことで話があって来たんだよ」
 ハイルは永海の名前をゆっくりと発音した。よく見ると、ハイルは真っ赤な瞳をしている。炎のような、あるいは血液のような。ハイルは周りに誰もひとがいないことを確認して、声を落とす。
「永海ちゃんの秘密に勘付いてきちゃった雷閃くんに、特別ヒントをあげまーす」
「何なんだよ、あんた……!」
「あのかわいくてかわいそうな永海ちゃんは、僕のせいで不幸な少女になってしまいました! 拍手! だから君は彼女の不幸を邪魔しないでくれるかな?」
「……は?」
 永海の不幸を望む行動を、誰もが気づいているわけではない。あの子の親しい友達であれば疑いを持つこともあるだろうが、このハイルという自称魔人が永海の友達であるはずがない。
「このあいだ、永海ちゃんは君を置いてひとりで音楽室を出て行ったよね? あのとき校門で待ち合わせしてたのが僕! 待ち合わせっていうか、呼び出したんだけどねっ! で、君の話を聞かせてもらったよ。僕は永海ちゃんをずっと監視してるから君の存在は知ってたんだけどね。あのとき永海ちゃんが僕に何て言ったか教えてあげるね。『朝来くんには手を出さないで』だって~! かわいいよね~! ほんっとかわいくて抱きしめたくなっちゃったけど、人間界ではそういうの禁止されてるんだよね? 大人の男が未成年の女の子に抱き着いたら犯罪なんだよね? 僕は人間じゃないからどうでもいい倫理観だと思うけど、郷に入っては郷に従えって言葉は好きだから従ってあげたよ!」
 まるで自慢話のようにハイルはぺらぺらと喋り続ける。雷閃はどうして周りに誰もひとがいないのかと、誰でもない誰かを呪った。
「魔人だとか……すぐには信じられんが、あんたが人間じゃないのはよくわかった。あんたがあの子にひどいことをしてんのも何となく伝わってきた。それで、俺には何の用があるんだよ」
「うーん、君にっていうわけではないよ。ほら、永海ちゃんに『朝来くんには手を出さないで』って言われたばっかりだからさ。こうやって君に接触してるのは要するに手を出してるってことになるじゃん? そうすると永海ちゃんはお願いを聞いてもらえなくてかわいそうじゃん? あ~! かわいい! せっかくできた大事な後輩も守れない永海ちゃんはかわいくてかわいそうだよねぇ! 永海ちゃんが僕の家に来てくれたら絶対に最高の愛情を注いであげられるのになぁ!」
 恍惚の表情で永海への愛を語るハイルを、おぞましいと思った。人間では不可能な変身よりも、他人に対する良心が全く感じられない発言によって、こいつは人間ではないと信じられた。
「でさ、君は今日、僕と出会ってしまったことを永海ちゃんに話す? もし君から話してくれるなら僕は黙っておくよ。でももし君が内緒にするっていうなら、僕から話す。どっちにする? どっちでも永海ちゃんは真っ青になって泣いちゃうんだろうな~! かわいいねぇ。あ、そういえば琴ちゃんは元気かな? 最近会ってないからなぁ~。でも僕、琴ちゃんよりも永海ちゃんの方が好みだからさ。僕って一途な男だから永海ちゃんで手一杯なんだよね」
 くるくるとよく回る舌だ。侮蔑の意思を込めて雷閃はハイルを睨む。
「……俺から話す。おまえは二度と安良田先輩に近づくな」
「え~! 君がそんなこと言う権利ある? ないよね、じゃあだめ、無効でーす! それと警察みたいな大人に頼るのは無駄だからやめといた方がいいよ。僕は普段、人間界にはいないからね。世界中、海も空も探したってどこにもいないんだからね。あ、警察が世界中を捜索するようになれば僕が人間界に来づらくなるんじゃないかって考えた? はいそれも無駄でーす! 僕って自由自在に自分の年齢を変えられるじゃん? 生まれたばかりの赤ちゃんにだってなれるし、死にかけのおじいちゃんにだってなれるわけ。人間はどうしたってこんな非現実的な存在を公的に認めることはしないからさ、君や永海ちゃんがどれだけ『あいつは魔人です』って言っても聞き入れてもらえないのよ。ま、僕が大人たちの前でさっきの高速成長を見せれば信じるのかもしれないけど? そんなことするつもりはないからさ? 君たちはなーんにも抵抗できずに僕に翻弄されるしかないってわけ」
 後ろの方で誰かの話し声がした。ハイルも聞こえたらしく、一瞬そちらに視線をやった。
「だから、えーっと、なんだっけ。そうだ、君から永海ちゃんに今日のことを話してくれるんだったね。あっ、でも急がなくていいよ? 君たちって今、模擬試験対策やってるんでしょ? 永海ちゃんも補習受けてるんだよね。だから模試が終わってからで構わないからね、僕は待てる男だからさ! それに君が永海ちゃんに今日のことを隠してる期間が長ければ長いほど、永海ちゃんの『どうして言ってくれなかったの』って気持ちが大きくなるからね。僕としては永海ちゃんが苦しんでくれればなんでもいいんだけどさ。いや~、君が合唱部に入ってくれてよかったよ! いつか君に裏切られる永海ちゃんはきっとかわいいんだろうな~! おっと、そろそろ行かないと知らない人間に見られちゃう。じゃ、雷閃くん。元気でね~!」
 一方的にまくし立てたハイルはアンティックゴールドのスーツを翻して路地に消えて行った。話し声の正体は同じ学校の生徒だった。雷閃も怪しまれないために自転車のペダルを漕ぐ。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。あのハイルという魔人がいったい、永海に何をしたのか。模擬試験は週末に行われる。来週まで永海と会う機会はない。
 夏場の自転車通学はけっこうしんどくて嫌になる。