体育の授業は今、バスケをしている。少し前まではテニスだった。女子と入れ替わりで体育館を使うことになり、蒸し暑さの充満した体育館で雷閃はスコアボードの得点をめくる。
 壮介は審判も得点係も回ってこなかったので雷閃の隣で試合中のクラスメイトを応援している。
「……なぁ、壮介」
 雷閃が話しかけると、壮介は首をかしげた。体育のある日のメイクは控えめらしい。雷閃に違いの区別はつかない。
「どした?」
「女の秘密ってさ、どういう種類があんの?」
「なにそれ? 女の秘密って何?」
「いや、あるだろ、そういうの。なんかほら、女子ってよく内緒話みたいなのしてんじゃん。おまえ、姉ちゃんいるから詳しいかと思ったんだが」
 わずかな恥じらいを感じつつ尋ねると、壮介は真面目に悩んでくれた。だからこいつはいいやつなんだ、と雷閃は安心する。
「まぁ、そうだなぁ。体重や体調みたいな健康の話は俺らに聞かれたくないだろうと思うよ。でも雷閃はそんなのが知りたいんじゃないよね。なにが知りたいの? 好きな子の話?」
「なんつーか……先輩の話なんだけどな。女の秘密ってわけでもないのかもしれん。わからん。本当はいっぱい飯食いたいのに小食の振りする女ってどういうことだと思う? かわいい女子を装いたい以外の理由で」
「女子高生にそれ以外の理由ある? 持病とか?」
「だったら曖昧にでも事情話してくれるだろ。知らずに危ないもん食わせたら駄目だし」
「だよね。あ、じゃああれかな。姉ちゃんが愚痴ってた。『かわいそうな私かわいい』ってやつ。食べたいのに食べられない、悲劇のヒロイン気取りってやつ?」
「うーん……近いかもな。でもあれはマジの悲劇かもしれん。その場合は関わらない方がいいと思うか?」
 バスケットボールの跳ねる音は重くて心臓に響く。ゴールが決まった。雷閃はスコアボードをめくった。
「詳細がわからないから何とも言えないけどさ。雷閃が被害を受ける可能性があるなら関わらない方がいいよ。俺らもそろそろ子供じゃなくなるわけだからさ。自分の判断で騙される被害ってのもあるわけ。同情や憐憫を誘って金を巻き上げる手口なんていくらでも存在するからね。危ないと思ったら関わらないのがいちばんだよ」
 壮介の忠告はまったくその通りだろう。でも雷閃が想定している問題。つまり永海と琴に関する問題にも当てはまるのかどうかは判断しかねる。あのふたりが雷閃を同情させて騙しているとは考え難い。あのふたりに嘘はない。だが隠していることがある。
 このままうわべだけで付き合うとしても、それは悪いことではない。勉強で忙しくなったと言って毎日音楽室に行くのをやめれば関係は浅くなる。
 悪いことじゃない。危険や面倒ごとは自分で回避しなくてはいけない。
 でも雷閃はその選択ができなかった。今日も同じ足取りで第二音楽室に向かう。今までと同じように、楽しい時間のなかに亀裂が入るような瞬間があっても無視して、受け流して、なかったことにする。
でも、雷閃はその選択もできなかった。
 六月の湿った空気は気分も滅入らせるのか。その日の放課後。音楽室で永海は楽譜で指を切って血を流した。雷閃はその手を握って怒りをにじませた。
「なんで、わざとそんなことするんですか」
 怯えた永海は言い訳すらしなかった。
「……ごめんね」
 頬を引きつらせて笑顔を作ろうとする。たかが紙の切り傷。しかしわざと傷を作る必要はないはずだ。
「謝る前に質問に答えてください。なんで、わざと不幸な目に遭おうとするんですか」
 雷閃のつかんだ手は震えている。この子は雷閃を騙すつもりもなければ、利用するつもりもないのだろう。ただ楽しく過ごしたいだけの、普通の女の子だ。だったらどうして。
「……朝来くん。永海を離してください」
 そばで沈黙していた琴は冷たい声でそう言った。雷閃は琴を睨む。
「絆創膏、持ってないんですか」
「持っていません。永海、傷を洗ってきなさい」
 雷閃が手を離すと永海はつかまれていた手首をぎゅっと握った。
「安良田先輩、保健室で消毒して絆創膏もらって来てください。そのままだと痛いですよね」
「ん、あのね、絆創膏はいらな……」
「早く行ってください。あんたのことを軽蔑したくないんです」
 雷閃が強く言うと永海は怯えた瞳を揺らした。そして謝罪の言葉を呟き、音楽室を出て行った。完全に永海の姿が見えなくなったところで琴に向き直る。
「なんで絆創膏持ってないんですか? 五月女先輩は安良田先輩のことを『ドジっ子だ』って言ってましたよね。安良田先輩のことが本当に心配で、長い付き合いなら、それくらい準備してるものなんじゃないんですか?」
 喧嘩腰で琴に告げると、琴もその挑発に乗ってきた。冷たい視線を武器に琴は言う。
「わたしたちにも事情がありますの。部外者のあなたが指図するなんて、傲慢で図々しいおひとですね」
「じゃあその事情を俺も受け入れないといけない理由を話してくださいよ。俺が納得できたらあの子の悲劇をそのまま放置してあげます」
「……わたしからお話できることなんてほとんどありません。でも、永海は不幸でいなくてはいけないんです。永海もそれを望んでいます」
 保健室はこの校舎の一階にある。絆創膏を貼ってくるだけならすぐ戻ってくるだろう。琴はちらちらと廊下を気にしながら永海の不幸の正当性を語る。
「永海には不幸でいなくてはいけない理由があるんです。それをわたしから明かすことはできませんが、永海は『不幸な存在』でありたいんです。だから朝来くんもどうか、ご理解いただけませんか」
「無理ですね。悲劇のヒロイン気取りのための手伝いなんてごめんです」
「違うんです、そうじゃないんです。永海は……家族を守るために、不幸を引き受けなければならないんです」
 どういうことですか、と口を開く前に足音が聞こえた。永海が戻って来た。ばつが悪そうに音楽室に入ってきた永海は紙で切った右手の人差し指を雷閃に見せた。
「絆創膏もらった」
 だから許して、とでも言いたげに永海は巻かれたばかりの絆創膏を見せる。雷閃は小さくため息をついて永海の髪をぐしゃりとやる。
「……これからは気を付けてくださいよ。俺だって他人が傷を作る場面なんて見たくないんで」
「うん、ほんとにごめんね」
 どうせ、永海が悪いと思っているのは雷閃を不愉快にさせたということに対してだけなんだろう。
 さすがに気まずくて、そのあと雷閃はふたりを置いて帰った。永海はずっと謝っていた。琴は無言だった。そんな永海に「謝らなくていい」と言えない自分にも、腹が立った。