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「……降ってきたな」
 意識が戻ると、雨模様を見る担任が教壇に立ち、これからホームルームを始めようとしているときだった。
 僕は即座にスマホを取り出し、日時を確認する。
 ──七月三日午後三時二十三分
 間違いない。「昨日」に戻ってる。
「……マジで? 今日雨降るの……?」「予報だと一日中晴れだったのに……」「サイアク……」
 録音したものをそのまま流したかのように、聞いたことのある恨み節が教室内に流れ始める。
「うそ、今日私傘持ってきてないよ?」
 そして、隣に座る幼馴染のこの声も。
「いや、普通持ってきてないよ……梅雨明けましたってテレビで言った次の週の晴れの日に傘持ってくる奴なんていないだろう……」
 とりあえず、同じ台詞を繰り返しておく。
 でも、どこかで変化させないと。
 また梓は交通事故に遭ってしまう。
 僕はカバンの中を睨みつけながら、次の一手を考える。
 やはり、中には水色の折り畳み傘があった。
 ……どうする、どうすれば……。
「はぁ……どうやって帰ろうかな……」
 そんなため息が彼女のほうから聞こえてくる。
 ここに、傘はある……。僕がこの傘で梓と一緒に帰ったから、駅で告白された……。
 ってことは。
 ……これしか、ない。
 僕はひとつの決意を固め、残りの教科書やノートをカバンにしまい込んだ。
「じゃあ、ホームルームはここまで、雨降り出しているから気をつけて帰れよー」
「きりーつ。さよならー」
「「さよならー」」
 挨拶が済むと同時に僕は椅子を机の上にあげ、教室を飛び出した。
「あっ、凌佑机下げてないよっ」
 真面目な委員長からそんな窘める声が飛んでくるが、お構いなしに玄関へ向かった。
 はやく、はやく……!
 一目散に廊下を駆け抜け、玄関に出る。そして外靴に履き替え、僕は梓の下駄箱に水色の折り畳み傘を置いた。
「……これで、いいんだ」
 そう呟き、僕は雨が降りしきるなか、傘なしで外へと走り出した。
 
 学校は坂の上に建っているから、行きは激坂を上り、帰りは下ることになる。あまりいいことはない。特に、こういう雨の日に走って帰る場合には。
 足を前に運ぶ度に速くなっていくスピードは、僕の心の焦りを表しているようで。
 焦る気持ちと、意図しない加速と、雨に濡れた道とが相まって、僕は思い切り転んでしまった。
 多分、足がスピードについていけなくなったんだと思う。
 気がついたら、視界が大きく揺れて体が傾いていた。その後に脇腹に鈍い痛みを感じ、少し坂を転げ落ちた。
「……痛ぇ……」
 でも、立ち止まるわけにはいかない。梓と同じ電車に乗ったらいけないんだ。そのためには、早く駅に着かないと。
 ……じゃないと、梓を助けられない。
 僕は体をすぐに起こし、再び足を前に動かし始めた。
 もう目の前に、坂を下りきった先にある妙正寺川が見えていた。
走ると五分で着く中井駅に、びしょ濡れになりながら到着した。
 改札を抜け、下りのホームに着く。
「間もなく、一番ホームに、本川越行の、電車が、八両編成で、参ります。黄色い線の内側で、お待ちください」
 息を切らしながら、心の中で安堵のため息をつく。
 ま、間に合った……。
 これで梓より一本早い電車に乗って帰ることができる。
 ……そうすれば、駅で告白されることはない。
「……さむい」
 その代わり、僕の体は水浸しになったけど。
 車内に雨を垂れ流すことになるけど、二区間しか乗らないので許してください。
 頭から水をぴちゃぴちゃ垂らしながら、僕は電車に乗り込んだ。
 ドアがゆっくりと閉まり、中井駅を出発していった。

 電車の床をある程度水に濡らして、僕は沼袋駅で降りた。一向に弱まらない雨のなか、また僕は走って家へと向かい始める。
 今度は坂道もないので、転んだりすることなく、無事に家にたどり着いた。
「……なんとか、これで……」
 玄関で腰を落とし、息を切らしながらそう呟く。
 これで……大丈夫なはず。これで……梓は事故に遭わないはず。
「……これで、いいんだ」
 座り込んだまま、僕は視線を、水を吸った靴に向ける。
「これでっ……いいんだっ」
 梓の想いを踏みにじって、僕は梓を助けることを選んだ。その申し訳なさと、ついさっき間近で見た動かない梓の姿とが重なって、身が引き裂かれそうな思いになる。
「だって……こうしないと、こうしないと駄目なんだから……!」
 歪んで見える靴と、潤みを帯び始めた声が、今の僕の気持ちを示している。
 ふいに、「昨日」聞いた彼女の声が心の中でフラッシュバックする。

 ──ねえ、凌佑……好き、です

「っ……」
 なかったことにした彼女の想いは、何回僕の記憶に残っているんだ。何度だ。何回なかったことにした。
「……これで十四回目だよ……!」
 僕の記憶には、十四回分の「なかったことにした梓の告白」が残っている。全部、しっかりと焼きつけている。
「ぁぁぁぁ……!」
 それが、苦しくて、苦しくて。叫び出したいほど、怖くて。
 少し温かい水が、僕の手に零れ落ちた。
 さっきまでの雨とは、また違うものだった。
 そして、僕がゆっくりと瞳を閉じて、何も考えないようにし始めた頃。
 玄関のドアが、開いた。
「凌佑、傘返しに……」
 そこには、ちゃんと雨に濡れずに帰って来た幼馴染の姿があった。
 よかった……ちゃんと、傘使ってくれた……。
「って、どうしたの凌佑! てっきり傘ふたつ持ってるのかって思って……びしょびしょじゃない!」
 僕が身体中から水を滴らせているのを見て、梓は家の中に入ろうとした。でも。
「……やめて」
 僕の脇を抜けようとする彼女を、手で制した。視線は、下に向いたまま。
「な、なんで。早く着替えて体拭かないと風邪引いちゃうよ!」
 構わず靴を脱ごうとする梓。きっと、脱衣所に行ってタオルを持って来ようとしてくれたんだろう。
「……やめてって! いいよ!」
 思わず、声が荒くなってしまった。
 普段大きな声を出すことがないからか、梓はびっくりして靴を脱ぐ手を止めた。
「……ごめん、大きな声出して」
 小さく、謝った。
「……ごめん、今は優しくしないで……少し、ひとりにさせてくれないかな……?」
 変わらない梓の姿をもう一度見ることができて、嬉しかったんだ。ホッとしたんだ。
 でも、今、梓といると、梓に優しくされると、僕がおかしくなる気がしたんだ。
 だから、そう言った。
「で、でも……」
「お願いだから……頼む……」
 なおも食い下がろうとする彼女に、俯いたままお願いする。
「……落ち着いたら、連絡するから……そしたら、家泊まりに来ていいから……お願い、今は……ひとりにさせて……」
「……わかったよ……で、でも。ちゃんと着替えて体拭くんだよ? お風呂も入ってね?」
「わかってるって……」
 ようやく諦めてくれたか、梓は折り畳み傘を僕の隣にそっと置いて、ドアに手をかけた。
「傘、置いておくね。……落ち着いたら、連絡してね……じゃあ、またね。凌佑……」
 でも、どこか不安そうな声をさせつつ、梓はそう言い残し、僕の家を後にした。
 ドアがバタンと閉まる。その瞬間。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 家の中いっぱいに、僕の行き場のない叫びが、こだました。