できあがったカレーを食べ終わると、僕は食器洗い、梓はお風呂掃除に入る。いつもなら一緒に食器を洗うところまでやって、梓は自分の家に帰るのだけど、今日は僕の家に泊まるからそうもいかない。別にくつろいでいいよと僕は言ったけど、泊めてもらう身でそういうわけにもいかないと梓はお風呂掃除をやると言い僕のそばから離れていった。
「……はぁ……僕の身がもたないよ……」
 右手に握るスポンジから浮かぶ、泡を見つめつつ僕はポツリ呟く。
 だって、梓と話している時間が、楽しくて。
 だからこそ、苦しくなって仕方ない。
 泡まみれの左手で食器を掴み、僕はしばらく動きを止め、考えにふける。
「……いつまで、こんなこと、繰り返してれば……」
「何を?」
 いつの間にか、僕の後ろにひょこりと梓が顔をのぞかせていた。
「え? あ、い、いや……なんでもないよ……」
 僕は、最後の一枚を洗い、食器かごに置く。
「……さ、終わったことだし……お風呂沸くまで何かしたいことある?」
 あっぶね……梓に聞かれるところだった……。
「でも、凌佑の家のお風呂、すぐ沸いちゃうよね? 十分かそこらで」
「ま、まあ……」
「じゃあ、テレビ見てよ?」
 そうして、さっきまで一緒にカレーを食べたリビングで、テレビを見始めた。適当にチャンネルを回し続けていると、九時からのテレビドラマに引っかかった。
「あ、このドラマがいい、私毎週見ているんだ」
「そう? じゃあ、そうしようっか」
 梓がそう言うので、僕はチャンネル回しを止め、画面に映る男女を見始める。
「……ラブストーリー?」
「うん、そうだよ。少女漫画原作の。アニメは凌佑も見たことあるんじゃない? 私が見ようって言ったのだから」
「え? ……あー見たことあるわ。実写ドラマ化したのね……なんも追ってなかった」
「そういえば、凌佑今期どれくらい見てるの?」
 僕と梓は、軽度のオタクだ。軽度、だと信じている。
 別に二次元命ってほどアニメを見ているわけではなく、かといってアニメを迫害するほど三次元に偏っているわけでもない。まあ、どっちも見るよーってタイプ。コミケは毎回行っているけど。
「えっと……今期は……バドはねと、はたらいている細胞、ぐらんどぶるーかな……」
「……どれも私も見ている……やっぱ趣味似ているね」
「長年一緒にいれば感性も似てくるよ」
「そんなものなんだね」
「あ、そういえば、梓、今日はどこで寝る? 父さんの部屋?」
 ふと、気になったから、僕はそう尋ねた。
「え? ……うーん、凌佑の部屋?」
 その答えに、僕は思わず押し黙ってしまった。テレビからは、主演俳優の熱演が聞こえてくる。
「えーっと……僕はリビングで寝ればいいんだね、オッケー理解した」
「え?」
「え?」
 お、おい……まさか……。
「な、なあ……梓。まさか、同じ部屋で寝ようって言ってないよな?」
「……わ、私そのつもりで……」
「もうひとつ確認するね、僕と梓はもう恋人だもんな?」
「う、うん……」
「……梓、その提案がどういう意味かわかって言ってんのか?」
 すると、テレビから、イケメンの主演俳優が恋人役の女優と激しく絡み合うシーンがってぇ? ……アニメにこんなシーンあったか? あれか? これが噂に聞く改悪って奴なのか?
 ま、まあ都合がいい。だって梓わかってなさそうだから。
「梓が今言ったのは、つまりこういうことしてもいいよってサインなの。っていうか男はそう捉えるものなの、僕もそう捉えるの」
 そう言いつつ僕はテレビの画面を指さした。梓は視線を僕からテレビに移すと、みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていった。
「……梓が思っている以上に男は単純だから、気をつけてください。……それは僕も同じなんで、僕だから大丈夫とか思わないで。……まあ、できるだけ自制はするけど」
「ごごごめんなさい……べ、別にそういうつもりで言ったわけじゃ……」
「ん、ならよし。お風呂沸いたみたいだから、先に僕入っちゃうね。ドラマ見るでしょ?」
「う、うん……」
「オッケ―」
 僕はリビングから自分の部屋に戻り、着替えを持って脱衣所に向かっていった。
 ……ぷしゅーって聞こえそうなくらい顔真っ赤だったな……梓……。

 翌日。
「凌佑、朝だよ。もう起きないと時間危ないよ」
 そんな声で、僕はいつもより高い天井を視界に捉える。少し目線を後ろにやると、もう制服に着替え、その上からエプロンを着けた梓が立っていた。
「……悪い、今何時?」
 僕はのそのそとリビングに敷いた布団から起き上がる。
「七時だよ」
「ん、サンキュ……顔洗ってくるから少し待ってて」
 テーブルには、梓が用意してくれた朝ご飯が並んでいた。
 ……ほんと、助かるわ……。
 洗面所で顔を洗い、意識をはっきりとさせる。制服に着替え、リビングに戻った。
「よし、じゃあ食べよ」
 椅子に座って待っていた梓は、僕の姿を認めるとそう言う。
 僕も梓と向かい合うところに座り、
「いただきます」
 朝ご飯を食べ始めた。
「雨、やっぱり降ってるね」
「傘持ってきてる? 僕の家に」
「うん、来るときに一緒に持ってきた」
「なら大丈夫だね」
 梓の家の朝はご飯派だ。梓がこうやって家にご飯を作りにくるようになってからは、朝もご飯になった。作ってくれるだけでも十分ありがたいので、文句を言う気はさらさらない。父親と住んでいるときはパンを咥えるだけだったから、むしろちゃんと食べてる感じがしていいしね。
「あのさ……付き合い始めたこと、皆には……?」
 僕が味噌汁をすすっていると、目の前からそんな言葉が飛んできた。
「んー言ってもいいんじゃない? だって、なんか普段と変わり無い生活してるし、そんな不都合はないと思うよ」
「そ、そう思う?」
「うん、まあ佑太と羽季には言ってもいいかもしれないね」
「わ、わかった、じゃあそうしよう。……で、でも……普段と変わり、ないか……」
 梓は一旦僕の言葉に同意を示してから、また何か引っかかるような雰囲気を出した。
「あ、あのさっ、次の休みの日、デートしようよ」
「え? デート?」
「う、うん。せっかく付き合い始めたのに、このままだと何も変わらないし、どこか行かない?」
「……ま、まあ……それもそうだね」
「やった。じゃあ、行きたい場所、考えといてね、凌佑」
「り、了解……」
 デートの約束を取り付けて、少し上機嫌になったのか、梓は柔らかな笑みを浮かべつつ食べ終わった自分の食器をシンクに持っていった。
 僕は、茶碗に少し残ったご飯を見つめつつ、行き場のない気持ちをもてあそばせていた。

 一緒に家を出て、沼袋駅に向かう。今日は相合傘にはならず、しっかり自分の体を雨から守ることはできている。
「ね、ねえ……凌佑、手、繋ごうよ」
 僕の隣を歩く彼女は、そう言いつつ左手を僕のほうに差し出してきた。
「そ、そのほうが少しは恋人らしくない……?」
「……そうだね」
 僕は差し出された左手を右手で掴む。傘は左手に持ち替えた。
 手のひらから感じる梓の温もりは、とてもあたたかくて。
 女の子の手って柔らかいんだなと、改めて感じた。
 駅近くの横断歩道で、信号を待つ。まだ時間に余裕はあるから、別に信号をやきもきしながら待つ必要はない。
 信号が、赤から青に切り替わった。
 それを見て、梓が横断歩道を渡り始めようとした、そのとき。
 一種の悪い予感が僕の頭の中を走った。一瞬だけ離した梓の左手を僕は必死に探す。けど、僕の手は虚しくも空を切るだけ。
 そして、予感が当たってしまったことに、僕は息を呑んだ。
 右手から乗用車の急ブレーキ音とクラクションが聞こえてきたから。
「梓っ、戻って! はやく!」
 五メートル前を歩く君は、僕の叫び声に反応して顔をこちらに向ける。
 ちっ、違うそういうことじゃねーよ!
 持っていた傘を放り投げ、僕は梓のもとへ駆け寄ろうとする。
 梓も、異変に気が付いたのか、慌てて身を僕のほうへ戻そうと、した、けど。

 次の瞬間。

 僕の目の前を、ほんとに目の前を車が通過した。
 鈍い衝突音を、一緒にあげながら。
「っ──」
 僕は反射で車が通過していったほうを見る。
 交差点の隅には、横たわる女の子がひとり。
 コンクリートに浮かぶ、赤色。
 さっきまで、一緒に歩いて、会話して、手も繋いで。
 笑っていた女の子が、そこに倒れていた。
「──梓ぁぁぁ!」
 僕は倒れた彼女のもとに駆け寄る。周りを歩いていた人たち、信号待ちをしていた車の運転手たちも様子を見に来た。
「梓、おい、梓、しっかりしろよ、僕だよ、凌佑だよ!」
 必死に声を届けようとするけど、反応は一切ない。
 その反応のなさを見たひとりの男性だろうか、
「はい、救急です、高校生の女の子が車にはねられて、はい、呼びかけにも反応がない状態です──」
 
 どうして。
 どうしてこうなるんだ。
 何度やっても、何度繰り返しても。

 どうして、僕は梓を守ることができない。
 どうして、僕と梓が付き合うと、必ず梓がこういう目に遭うんだ。
 ──どうして。
「っ……どうしてなんだよ! どうして!」

 ──だから僕は、君のその想いを踏みにじることを選ぶ。

 ポケットに入れてあるスマホを手に取り、ストラップで付けている砂時計を僕は握りしめる。
 ……お願いします、戻ってください、なかったことにさせてください。どうか、梓を助けさせてください。
 僕がそう願ったとき。
 意識が白い光に吸い込まれていった。