翌日。梓はお昼前に僕の家にやって来ては、お昼ご飯と晩ご飯の買い物に僕を誘い出した。買い物に出る前にも、ストラップに僕らの手を合わせてタイムリープできないかを試したけども、上手くはいかず。お互いに緊張が残ったまま、近所のスーパーまでの道を歩いていた。
 時間を巻き戻せる、ということはわかっているにしても、近い未来、自分が死ぬ思いをしますと告げられて何も思わないわけもなく、終始梓は常に周りをキョロキョロと気にしつつ歩いていた。
 ……多分、こうなるとやり直すのは僕になる。僕が十年前まで戻って、足枷を外さないといけない。
 僕が……僕がなんとかしないと……なんとか……なんとかしないと。
 隣に梓が歩いているのを忘れそうになるくらい、僕の頭のなかはそのことでいっぱいになっていた。
 おかげで、スーパーに入ってご飯のメニューを何にするのか、という梓の相談にも生返事をしてしまい、ただでさえ緊張気味の梓を少しだけ怒らせてしまった。「適当なこと言わないでよ、もう」って。
 ……とは言うけど、梓が危険な目に遭うのを甘んじて受け入れないといけないのも心苦しい。本当なら、そんなことになる前にタイムリープしてどうにかしたい。
 ……どうにか、どうにか……。
 一階の食品売り場から、二階の飲料や生活必需品などを取り扱うフロアにエスカレーターで移動しているときだった。
 梓とタイムリープのことで思考回路が埋まりきっていたから、だろうか。
 僕は、自分の数メートル先で発生していることに気づくのが数瞬遅れた。
「凌佑っ! 上っ!」
 現状を僕が理解したのは、僕のすぐ下で買い物かごを抱えている梓の一声でだった。
「──えっ」
 ボーっとしていた意識を醒まし、梓の叫んだ上へと視界を向けると、
「……は?」
 そんなのアリかよ、と思いたくなる光景があった。というのも。
 エスカレーターの出口付近から、先に乗っていた人が引いていた大きなスーツケースが、僕のほうに目掛けて落下し始めていたから。
 状況を把握したのが遅れたせいで、スピードを持って重力に従っているそれは、もう僕の目の前にまでその影を近づけていて。
 手段選ばなさすぎだよ、神様。
 僕がようやく両足を踏ん張って両手で頭を守ろうとしたときには、もう時すでに遅し。
「んぐっっ!」
 落下したスーツケースは、それなりのスピードで僕の体にもろに直撃。鈍い痛みが広がった。
「凌佑!」
 僕にできることと言えば、せいぜい真後ろに立っていた梓を巻き込まずに転げ落ちるくらいで。
 何回かエスカレーターの段差に頭を打ちつけたあたりで、ぼんやりと意識が遠のいていくのを自覚した。
 上から、エスカレーターを逆走し駆け寄ってくる足音が微かに聞こえる。
「凌佑? 凌佑っ!」
 体の落下がようやく止まったかと思えば、そんな僕の名前を必死に呼ぶ声が耳に入る。それも、少しずつ遠いものになっているけど。
 ……これが、終わるって感覚なのかな……。で、でも。これで……。
「……やり、直せるんだよね……?」

 ***

 ……記憶が、すり替わっていく感覚だった。ひとつひとつ、幼いときの思い出が新しいものに更新されていくような。
 例えば、僕と梓が家の近所の公園で遊ぶとき、最初の記憶ではしばしば梓のおでこにボールを当ててしまったりしていたものが、梓の運動音痴が改善されたのか、前の世界の記憶を引き継いでいるからか知らないけど、なかったことになっていて、最初からクローバー探しをしている光景になったり。
 小学校に入学すると、逆上がりができなくて梓が夕方まで練習するのに付き合ってあげていた記憶が、何故かすんなりできていて、代わりに梓の家で遊んだ思い出になっていたり。
 中学生のとき、先生に頼まれた大量の資料を運んでいるとき階段で足を踏み外して一週間くらいねんざで歩けなくなったのが、梓も手伝ってくれることになって、怪我をする未来が変わっていたり。
 そして、何より。
 母が亡くなってから迎える最初の初詣で、梓に物凄く怒ったことがあったはずなのに、それがなくなっていて。
 些細なことから、大事なイベントまで、一個ずつ、記憶が新しいものと古いものとが混在したと思えば、いや、やっぱり新しいもののほうが正しい、と感じるようになっていって。
 いつしか、何度も何度も過去をやり直していた高校一年生から二年生のときの記憶さえも、平々凡々な高校生活のものにすり替わっていって。何の変哲もない、ただただ仲の良い友達とどこかに遊びに行ったり、たまにどうでもいいことで言い争いとかしたり。
 いつの間にか、君から受けた二十回分の告白すら、本当に僕が受けたものなのかどうか、あやふやになっていって。
 あれだけ、忘れたくない、忘れられないって決めていた記憶すらも、君がやり直していく世界のなかでは、守り切れるはずもなく。

「わ、私……凌佑のこと……ずっと前から、好きで……」
「凌佑のバカ!」
「……好き、です」
「凌佑の幼馴染でいられて、私、幸せだった」
「ずっと前から凌佑のこと、好きで……ご、ごめんね、急にこんなこと……」
「私は、凌佑のこと、異性として好き、だから……っ」

 なくなっていく。全部、砂浜に描いた文字が、波にさらわれていくように、溶けていく。辛うじて残った砂の破片は、吹きつける風に舞い上がって、キラキラと光を放つ。
 押し寄せては返っていく波が、何か、僕に残すとするのなら、それは、きっと──

 〇 *

 まさか、こうなるなんて思わなかった。
 緊急停止したエスカレーターの入口、凌佑がそこに倒れたのを見たとき、私は頭の片隅に追いやっていたはずの記憶がフラッシュバックした。
 あのときと同じ、凌佑が、死にそうになっている。
 正直、死ぬのは私で、やり直すのは凌佑のほうだと決めつけていたから、予想していなかった動転が襲い掛かる。
 一度見たことがあるとはいえ、好きな人が、こんなふうになっているのは辛いものがある。こんな、危険な目に遭わないと時間を巻き戻せないのが、辛すぎる。
 できるなら、もっと、もっと穏やかに、過去をやり直したいだなんて、都合がいいのかな……。
 そんな思考に至ったとき、ふと、私は砂時計のストラップを握りしめながら、あることを改めて思い出す。
 ……でも、凌佑は、これを私の知らないところで、十九回……いや、昨日もタイムリープしたって言っていたから、二十回繰り返したことになる。
 それはつまり、私が死ぬところを二十回見てきたってことで。
 私には一切、死んだときの記憶が残っていない。凌佑が、やり直してくれたから。でも、凌佑のなかには確実に、二十回分の私が死ぬ記憶が残っている。
 忘れられるなら、忘れたい。けど、たった一度の彼の死すら、忘れられない私が、もし、二十回も同じ場面に立ち会ったら?
 ……想像するだけで、悪寒が全身に走る。
 いや、きっとそれは凌佑も同じだ。凌佑だって、怖くないはずがない。……怖いうえで、凌佑は何度も何度も、幾度となくタイムリープをし続けてきたんだ。
 今度は、私が、私が助ける番。
 なんで、二十回目の私が、死ぬ間際に「あの言葉」について触れたのかわからない。もしかしたら、走馬灯か神様のお告げでも降ってきて、それを必死の思いで凌佑に伝えたのかもしれない。
 なんだっていい。もう、私は縋るしかないんだから。
 ……お願い、もう、こんな悲しいだけのループ、終わりにさせてください。

 私は、凌佑がクラスから浮いてしまう未来を変えたくて、タイムリープし続けた。
 凌佑は、私が死んでしまう未来を変えたくて、タイムリープし続けた。
 ……お互いがお互いのことを想って、繰り返していたリープは、いつの間にか、お互いのことを苦しめていたみたいで。
 それに、私も、凌佑も、自分ひとりだけが救われることは、望んでいないみたいで。
 私にとっては、凌佑の幸せが私の幸せで。
 凌佑にとっては、私の幸せが凌佑の幸せで。
 笑っちゃうくらい、私たちは、自分のことを考えていない。
 ……それが、この繰り返しを生んでいるとするなら、今、この瞬間だけは、我儘にだってなる。
 私のために、私が思い描く欲しい未来のために。
 私を、幸せにさせてください。

 すると、少しずつ意識がぼんやりと薄らいでいく感覚がする。
 ……戻ってる、戻ってる。願わくば、これが、最後のやり直しであって欲しい。

 そう思いながら、私は意識を流れに任せて、時間が巻き戻るのを待った。