朝のホームルームが始まる前に私は教室に戻った。すると、教室が結構ざわついていた。
「どうかした?」
 私は、近くにいた羽季に事情を聞いてみる。
「いや……なんか保谷が二股かけてたってさっきから横手が……」
 横手さんは、さっき凌佑に色々問い詰めていた人。で、所沢さんと仲がいい。
「そういえば、保谷まだ来てないけど、どうかした……?」
 困り顔で尋ねる羽季。やはり、友達のマイナスの話を聞かされていい気分にはなっていないんだろうな……。
「来てはいるよ。……さっき横手さんにどこかに連れられていたけど」
「な、なあ……凌佑の二股ってのは、横手の根も葉もないネガキャンでいいんだよな?」
 顔を見合わせて話す私と羽季に、心配そうに眉をひそめた練馬君もやって来た。
「なんでも、所沢と……高野だってあいつは言ってるけど」
「……凌佑は幼馴染だよ。恋人じゃない」
「だ、だよな……凌佑がそんなことする奴じゃないってわかってはいるけど……」
 そう言い、練馬君は教室を見渡す素振りをする。
「これは、凌佑にとってあまりいいとは言えない状況だと思うけど……」
 練馬君がそう言うと同時に、少し疲れた表情をした凌佑が教室に戻ってきた。
 クラスメイトの視線が、冷たく凌佑に向けられる。
 私の幼馴染は、それを見てひとつため息をつき、何も言わずに自分の席についた。
「……このままだと、凌佑、浮いちゃうぞ」
 最後に練馬君が言ったその一言は、残念だけど実現してしまった。

 それから春休みを迎えるまで、一年生の間ずっと、凌佑はクラスから遠巻きに触れられるような扱いになってしまった。私や羽季、練馬君は変わらず関わり続けたけど、横手さんの話を信じた人は凌佑のことを露骨に嫌がるようになった。……それなりに影響力のある人だから、信じる人は信じてしまうんだ。
 三月の終業式。桜の花びらが舞う季節のことだった。
 放課後、私は例のごとく凌佑と一緒に帰っていた。
 冬前よりも、会話は少ない帰り道。坂を下りきり、川沿いを歩き始めた。
「……梓。ごめん、もう、やめよう」
 ひらりと舞い散る桜の花びらを見つめつつ、凌佑がそう呟いた。水面にはピンク色の花弁が浮かんでいる。
「なにを……?」
「もう、こうやって関わるの、やめよう。梓に迷惑がかかる」
「……いや、だよ」
「知ってるだろ、僕が周りになんて言われているか。僕に関わり続けたら、梓まで悪く言われる。それは嫌なんだ」
 ……また、そうやって。
 凌佑は、私のことをかばおうとする。
「いいよ、私は別に」
「僕がよくないんだ」
 足を止め、私のほうを向きながらはっきりと彼は私に告げた。
「……僕が、よくないんだ」
「いやだ」
 勝手に漏れる言葉。でも本音だ。
「お願いだから」
「いや」
「頼むよ」
「絶対にいやだ。凌佑と離れるなんて、いや」
 何度か、そのようなやり取りをして。
 凌佑は半分涙目になりながら、プルプルと震えた手を私の胸の前にやった。
 え……? 
 私はいきなりのそれに驚いて、少し身構えてしまう。
 彼は、そのまま震えた右手を、そっと下に動かし、私のお腹に触れた。
「……こういうこと、平気でやってるって思われているんだよ、梓は。僕と」
 制服越しに伝わる、冷たい彼の体温。
 ……きっと、手が震えていたのは、凌佑の優しさだ。
「僕が二股をかけたと思ってる奴らは、そんな僕と関わり続ける梓も、同じように色々緩い女だと思って見ているんだよ……僕は、それが嫌だ。いやなんだ」
 彼は左手で私の肩をつかみながら、頭を下げた。
「……お願いします。……だから、僕に優しくしないで……」
 そっと、お腹のあたりから彼の体温が抜ける。右手を離したんだ。
 ……そうだとしても、私は嫌だった。だって、まだ凌佑に貰った優しさを返しきれてないから。
「だとしても、嫌だ……!」
 彼は、私のその返事を聞いてゆっくりと膝から崩れ落ちた。
「……じゃあ、ごめん。……これから梓を傷つけること言うから……」
 彼は、視線を地面に向けたまま、こう言ったんだ。
「……僕はまだ、幼稚園のときに言われた『あの言葉』を、許したわけじゃないから」
 あの言葉、と言われ私は思いださないはずがない。
 今でも後悔している、あの言葉。
 凌佑のお母さんが、家のなかで起こしてしまった不注意で亡くなったばかりの頃。私は凌佑に「私が死んじゃったお母さんのぶんまで、凌佑のことしあわせにできるね」って、幼かった私は言ってしまったんだ。初詣の、おみくじの結果を見てのことだった。
 当時、お母さんを失って不安定だった凌佑はその言葉に酷く怒って、しばらくの間、口も利いてくれなくなったのもよく覚えている。私に悪気なんてなかった。でも、言っていいことと悪いことがあるなら、私のあの言葉は悪いことで。
 結局、先に怒った凌佑がお父さんに連れられて私に謝りにきたことで、この件は収まった、ことになった。
「……僕の気持ちなんて、梓には絶対わかるはずない。……幼馴染だって、わかるはずない。僕の前でだけ子供っぽくなったり無邪気な笑顔向けるのも嫌いだし、無駄に面倒見がいいところとか逆に鬱陶しいし、ゴミくらいは自分でまとめるしむしろやって欲しくないし、全然僕の好みじゃないしそういうところも全部……全部っ……嫌いなんだよっ……」
 私は見逃さなかった。桜の木を揺らした風が、彼の目から一滴の光を零したところを。
 彼が、私のために、自分を悪者にして、自分だけが恨まれるようにして、私と縁を切ろうとしていることを。
 そのために、彼が、言いたくもない嘘を必死に誤魔化しながら言っているのを。
「だから……もう、やめよう……お願いだから。もう、これ以上何もいらないから……もう、やめよう……梓」
 気づけば、彼の膝元に涙の跡が浮いていた。
 ……私は、凌佑にここまでやらせるほど苦しめたんだろうか。
 ここまでさせるほど、気づかない間に彼を苦しめたんだろうか。
 私が、もっとはっきりと早いうちから、凌佑に「好き」って伝えていれば、こうならなかったんだろうか。
 ……君を苦しめない未来を、君が笑って春を迎えられる未来を、私はうまいことすれば作れたんだろうか。
 もし、そうなら。そうだとするなら。
 私はやり直して、君と一緒に春を迎えられるように努力する。
 ポケットにしまってあるスマホを握りしめて、私は祈った。
 ──どうか、どうか彼が笑える未来を、描かさせてください。