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 佑太達とプールに行ったその後。僕と梓は今年の夏も夏コミに行くことにした。去年の夏前によくわからない力を持つストラップを買ってから、三回連続の参戦、となる。
 前日から徹夜だとか、始発に乗ってとかそういうガチなことはせず、のんびり九時に待ち合わせて行く。
 一応、前回のプールのときの反省を生かし、薄い半袖のシャツに、これまた薄い素材のワイシャツを合わせた。うん。前よりは快適。
 カバンにタオル二枚と水筒にスポーツドリンクを仕込んで、九時五分前に僕は家を出た。
 家の前には、もう既に梓が待っていた。
「中で待っていればよかったのに」
 鍵を閉めつつ、僕は声を掛ける。すると、僕に気づいた梓が少し笑いながら、
「へへ、このほうが待ち合わせっぽいかなーって。それに、凌佑なら五分前くらいには出てくるって思ったから」
「そ、そっか……」
 なんて言うから、僕は少し反応に困ってしまった。
 っていうか……あれか? コミケに行くからなの? 若干オタクを殺す格好をしていませんか……梓。
 まず、麦わら帽子被っている時点で狙ってますよね? ……いや、でも梓なら無意識でやりそう……。それに、少し緩いカットソーを合わせて、それはまた涼しそうであると同時に、一瞬ドキッとする。
 これ、僕刺されないよね? 大丈夫だよね? ただでさえふたりで行くだけで視線が怖いのに、ドンピシャで来てませんか……。
「とりあえず、行こっか」
「うん」
 梓を隣に、僕は駅へ向かう。すれ違う人たちが、梓を二度見しているのをよく感じた。ああ、やっぱりこうなる。
 駅に着き、新宿に向かう電車に乗り込む。終点の西武新宿まで乗って、そこで乗り換える。
 五分くらい新宿の街を歩いて埼京線に乗り換え。やはりコミケに向かう人はこの時間でも多く、それらしい荷物を持った人達が列をなしていた。
「間もなく、一番線に、りんかい線直通、新木場行が、参ります。危ないですから、黄色い線の内側で、お待ちください」
 アナウンスが鳴り、少しすると、緑色のラインカラーが走る電車が駅に到着した。まだ新宿ということもあり、乗車率は「まだガラガラ」だ。
 あいにく、座ることができなかったので、座席前のつり革に並んでつかまる。
 渋谷、恵比寿と停車していき、そして大崎。埼京線とりんかい線の境界駅であるここである程度の人が乗り込んでくる。
 肩と肩とが触れ合う距離に人がいるくらいには乗車率が上がる。
「やっぱり混んで来たね……」
 僕の胸元にすぽっと収まるような格好で梓は呟く。向かい合わせになっていて、息遣いが強く感じられた。
「でも……多分次で一気に人が乗るはずだから……」
 僕の言葉通り、次の大井町駅でたくさんの人が電車に入った。それは、いつも通学で乗る電車以上の混み具合。座席前のつり革をつかんでいたから、もろに影響は受けなかったけど、ただでさえ狭い人と人との距離が詰まる分、僕と梓はより密着してしまった。
 っていうか、距離ゼロ。
「ご、ごめん……ちょっとだけ我慢して……」
 意識を下から上に移すため、上ずりそうな声で梓に言う。
「う、うん……凌佑なら……別に……」
 とりあえず、落ち着こう。冬コミも去年の夏コミもこんな状況になった。何も初めてのことじゃない。
 しかし……いい香りがする……。シャンプーなのかそれ以外なのか僕にはわからないけど、どことなくフローラルないい香りが僕の嗅覚をくすぐる。
 電車は順調に目的地に近づいていき、あと一駅、というところまで来た。すると。
 僕の右手が柔らかいなにかに包まれた。
「ど……どうかした……?」
 その感触に心臓を跳ねさせた僕は、右手のほうを見る。
「降りるとき、はぐれるの嫌だから……繋いだほうがいいかな……って」
「そ、そう……? 別にいいけど……」
 僕の胸のドキドキと反比例するように電車はスピードを落としていき、目的の駅に着いた。この電車に乗っている九割九分の人がこの駅で降りる。ホームは人で溢れかえり、階段に向かうのも一苦労。
 梓の手を離さないまま、僕はおしくらまんじゅう状態のホームを進んでいった、のだけれど。
「……あっ、やばっ」
 ズボンのポケットに突っ込んでいたスマホに取りつけていた、砂時計のストラップが、僕の視界の端で落下するのが見え、思わず僕は声をあげた。
「凌佑、どうかしたの?」
 そんな僕の様子に気づいた梓が、顔を覗きこませて尋ねる。
「……あ、いやっ……。去年買ったストラップ、はずみで外れちゃって……」
 そうこう話している間にも、人波に押されて落としたストラップから徐々に遠ざかってしまう。
 それに、すぐに反対方向からも電車がやって来て、押し出されるように続々と乗客が降りてくるので、とてもじゃないけど引き返して回収できるような状況でもない。
「そ、そういうこともあるよ。拾うの厳しそうだし、また別なの買おう?」
 梓の判断はとても合理的だし、正しい。けど。
「……でっ、でもっ」
「無理だよ凌佑っ、怪我しちゃう。諦めよう?」
「…………う、うん」
 吐き出した言葉と裏腹に、僕は、あのストラップを失っていいのだろうか、という恐怖に襲われていた。
 恐らく、僕が何度もタイムリープできているのは、あのストラップのおかげ。それ以外に心当たりはない。だとするなら、今の僕にとっての「保険」は落としたストラップだ。それを失くした今、もし梓に告白をされてしまったら。
 受けるにしろ、振るにしろ、もう、僕は梓と一緒にいられなくなってしまうのではないか?
 ゾク、と背筋が凍るような感覚が、僕に走った。まるで、後ろにいる人全員が、梓のことを襲おうとしているのではないか、そんな、不気味な感覚が。