学祭も、体育祭も、二年の修学旅行も、どんなときも、梓はひとりだった。遠目に見ていてもそれはわかった。
 それでも、僕は仕方ないと思っていた。
 事実、梓は何も遭っていない。告白を振る、というのは一番効果的な対処法なんだとさえ気づいていた。
 なのに、心のどこかで、違う、こうじゃないと叫ぶ僕がいる。こうじゃないんだと必死に訴える僕がいた。
 学祭でひとり校内を歩く梓を見て、浮かない顔をして体育祭の準備をする梓を見て、修学旅行で常にひとりで京都の寺を見ていた梓を見て。
 僕が望んだのはこれなのかと尋ねる僕がいた。
 三年になり大学受験も控えるようになると、ますますお互いの孤独は深まっていった。梓の第一志望校がどこか知ることもないままいたずらに時は流れていった。センター試験も、滑り止めの私立も、国立の二次試験も、僕の目にあの長い黒髪に隠された穏やかな瞳を見つけることはなかった。
 春、卒業式。
 ……あっという間に高校生活が終わったなと思いつつひとりで歩く高校までの道のり。
 まるで、どのヒロインともフラグを立てることなく終わったノベルゲームのバッドエンドみたいな日だ、とも思った。
 まあ、僕の場合は、ひとりしかいないメインヒロインのフラグを、嘘で塗り固めたナイフで思いきり切り落とした、という表現が適切だろうか。
 中井駅を出て、川沿いを歩く通学路。桜のつぼみが来るべき開花に備え、その支度を整えている。
 僕は、不意にスマホに付けた砂時計のストラップを見つめる。
 ……結局、あれ以来時間遡行はできなかったな……。
 できないならできないでそれが普通のことだから、いいんだけど。
 何度か走って上ったあの激坂も、これが最後の上りになるかと思うと、少し感慨深くもなる。
 すれ違うランドセルを背負った小学生達。無邪気にはしゃぎながら坂を下りていく彼等も、今日が卒業式だったりするのだろうか。
 ……あんな時期もあったな、と。
 坂を上った先にある校舎に入り、自分の教室に入る。もう既に多くのクラスメイトが教室で最後のクラスメイトとのひとときを過ごしている。
 僕に話しかけてくる人も、同じ教室の隅に座っている梓に話しかける人はいない。
 八時二十五分のチャイムが鳴ると同時に、スーツをきっちりと決めた担任が「おーし席に着け―」と言いつつ教室に入ってきた。
「今日は卒業式だなー緊張しすぎて変なタイミングで立ったり座ったりするなよ?」
 その冗談に、教室の空気が弛緩する。
 皆が綻んだ表情をするのに、梓はやはり俯いたまま。
 ふと、僕の胃が痛む。
 え? ……な、なんで……。
 なんでこのタイミングで、胃が……。
 違う。僕は、これでいいって……。
「九時になったら、体育館に入場する準備するからな。それまでは、好きに話してな」
 担任はそれだけ言い、また教室を後にした。

 卒業式はつつがなく行われ、涙ながらに終わった。
 最後のホームルームで担任から卒業証書が渡される。
「……じゃあ、次だな。高野梓」
 保護者も教室内に入って行われるホームルーム。梓の両親も来ている。
「……はい」
 梓は後ろの席からゆっくりと立ち上がり、俯きながら教壇へ。
「おめでとう」
 担任からそう言われ、証書を受け取る。そのまま彼女は自席へと戻っていった。
「──保谷凌佑」
 少しして、僕の名前が呼ばれる。
「はい」
 僕は席を立ち、担任のもとへ向かう。
「……おめでとう」
 妙に少しできた間から、証書を渡され、受け取る。
 席に戻ろうと振り返ると、僕はひとつの目と目が合っていることに気が付いた。
 ……梓?
 僕は少し困惑しつつ、自席へと戻る。
 すると、スマホが小さく震え出した。
 ……なんだ?
たかのあずさ:ホームルーム終わったら、時間下さい
たかのあずさ:話したいことがあるんだ
 視線を横に座っている梓に向ける。やはり、合う目と目。
凌佑:いいけど
たかのあずさ:そしたら、五階の図書室前で。そこなら人も来ないし
凌佑:わかった
 少し、風向きがおかしい……?
「じゃあ……元気でな。俺より先に死ぬなよ? 教え子の葬式になんて出たくないからな俺は。それが、一番の先生からのお願いです。じゃあ、解散!」
 その一言で、ホームルームは終わった。他のクラスの友達に会いに行く人もいれば、教室に残って友達と話す人もいる。
 そして、僕と梓のように、学校の隅でこれから話をしようとする人もいる。

 下のほうからは生徒たちの喧騒が聞こえてくる五階図書室前。人はいなく、廊下に歩く音が響くくらい、何も音はしない。
「お待たせ……ごめんね、待たせちゃって」
 僕がひとりか図書室のドアに背中を預けて待っていると、梓が待ち合わせの場所にやって来た。彼女は、僕の隣に立って、カバンを足元に置く。
「いや、僕も今来たばっかだったから」
「……こうして話すの、一年生の夏以来かな?」
「そう、だね」
 改めて口にされると、僕と梓が離れていた時間の長さを思い知らされる。
「凌佑は、大学、どこに行くの……?」
「……学芸大学か、八王子の私立」
「……そうだよね、東京、だよね……」
 僕の答えを聞いて、梓は少し残念そうな顔をする。
「梓は?」
「私? 私は……」
 彼女は少し間を置いて、ゆっくりと答えた。
「……京都の公立大学、行くことにしたんだ」
「……え?」
 き、京都……?
「ごめんね、言えなくて」
 僕は、今隣にいる梓がどこか遠い場所にいるような、そんな気がした。
 手を伸ばしても、届かないような。
「もし落ちても私立も関西の大学は受かっているから……沼袋の家は、出て行くことになる」
「…………」
 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことかと思った。
 ……なんで。なんで。なんで。
 僕はこんなにショックを受けている。
 これで良かったんじゃないのか? これは僕が望んだ結末だったんじゃないか?
「……ごめんね、私のせいで、凌佑に迷惑かけて」
「いや、それは」
「……私が凌佑の気持ち考えずに自分勝手に告白したせいで、羽季や練馬君と仲悪くさせちゃって」
 いや、折っていたのは梓のフラグだけでなく、僕の心もだったかもしれない。
 梓に突き刺していたナイフは、諸刃となって僕の右手も傷つけていた。
 その傷を見て見ぬふりを、三年間し続けた僕は、今。
 泣きそうになっていた。
「あのときの言葉は本心だよ? ……振られたのに、幼馴染の立場を利用し続けるなんて私にはできない。凌佑だって、気を遣うに決まっている。それなら、関わりを止めてしまえばって、思った」
 駄目だ。僕は泣いたら、泣いたら駄目なんだ。
「……凌佑、自己犠牲が過ぎるよ。なんで悪者演じちゃうかなあ……。おかげで、羽季も練馬君も、凌佑じゃなくて私を選んだんだよ? ひとりになるのは、私だけで十分だったのに」
 ……泣いたらっ、駄目なのに……。
「私が原因なのに、私だけ友達を残していい思いはできない。凌佑がひとりを選んだなら、私もひとりでいないといけない。……それが、きっと私への罰……になるかなって」
 気づけば、嗚咽が漏れていた。
「でもね、凌佑。……やっぱり、私凌佑が好き。距離を置いたってそれは変わらなかったんだ。どうしたって、好きなままだった。凌佑が別の女の子と付き合ってくれたら、諦めもついたかもしれないけど、それもないから諦めきれなくて……でも、一度振られた分際で、都合よすぎるよね? ……このまま沼袋の家にいても、きっと私はずっと凌佑のこと想っちゃうから、家を出ることにした。……そうすれば、きっと凌佑も、私っていう重荷を背負わないで済むから」
 僕が望んだのは、こんな、こんな──
 涙目になりながら梓が僕に謝る未来じゃない。
「……じゃあね、凌佑。……凌佑の幼馴染でいられて、私、幸せだった」
 ふと、一雫の輝きが、舞い落ちた。幻覚だと、こんなのは嘘だと思いたかった。
「……まっ」
 差し出した手はすり抜けて、彼女は僕の手の届かないところへ旅立とうとしていた。
「……ぁぁ……違う……違う……違う」
 もう、視界に彼女の姿は映らなかった。
 ひとり、ドアに背を預けながら崩れる僕。
 彼女が望んだのは、こんな未来だったのか?
 僕が彼女に届けたかった春は、これだったのか?
 泣きながら、謝る未来が?
 ……違う。僕が、梓に届けたかった未来は、そんなものじゃない。
 梓が迎えたかった未来も、これじゃなかったはず。
 本望なら、泣きながら謝ったりしない。
 僕は、スマホのストラップを握りしめる。
 ──お願いします、戻してください。もう、嘘はつきません。嘘で、彼女の気持ちを踏みにじったりしないから。
 こんな悲しい未来、見たくない──