「失礼しまーす。一年三組準備終わったんで帰りまーす」
僕は帰り際、職員室に寄り鍵を返しに来た。
「おう。お疲れさん。気をつけて帰れよー」
当直の先生に鍵を渡し、僕は家路につく。
坂道を下る帰り道、隣に少し空いたスペースは、少し寂しい気持ちにさせた。
学校の最寄り駅、各駅停車をひとり待つ。
ほとんど人のいない下りのホームに、空虚に響く警報音。カラスの鳴き声さえ聞こえない。
……何も、起きないなら、それでいい。梓に何も起きないなら、それが一番なんだ。
僕はそう思って、振った。
のに。
「……この気持ちはなんだよ……」
ぽっかりと穴が開いたかのように感じるこの切なさは何だ。
……僕が自分で選んだ答えだろ。
僕にこんな思いをする権利なんて……。
急行電車が通過していく。一瞬の風が、僕の髪も、心も揺らしてしまう。
少し考えれば当たり前かもしれない。その日から夏休みの間、梓が僕の家でご飯を作りに来ることはなかった。それどころか、会うことすらなかった。
九月の頭、始業式。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光に当てられ、僕は目覚めた。スマホで時間を確認すると……。
「ってやばっ! 遅刻だろこれ!」
慌てて起き上がり学校に行く準備をする。
いつもは梓が起こしてくれていたから、遅刻することはなかったけど、今日は間に合わないかもな……。とりあえず、早く着替えないと。
起きて十分で家を出た僕は、朝ご飯も食べる間もなく沼袋駅へと駆け出した。
沼袋駅から学校の最寄り中井駅までは五分くらいで着く。近いと言えば近い。
でも、起きた時間が本当に遅かった。
中井駅に着いたのが八時二十二分。
どんなに頑張ったって駅から学校までは五分から十分はかかる。しかも行きは上り坂の通学路。
「いや、まあ走るけどさ」
南口を出て待ち受ける坂道を全力疾走。幸い、今日は始業式だけだから荷物は軽い。
あと、こういうときに例の時間遡行を使えばいいんじゃないかって思ったときもあったけど、どうやらそれはできないみたいだ。
多分、相当な思いがないと、時間は遡れない。こんな遅刻のひとつやふたつ回避したいくらいの軽いことではできないみたいだ。現に、一応今もスマホを握りしめてはいるけど、戻れない。
にしても……きっついな……この坂道!
そんなことを考えつつ、学校に着いたのは八時二十八分。生徒玄関前に立っていた生活指導の先生に少し怒られ、僕は教室に入って行った。
教室に入る頃には朝のホームルームは既に終わっていて、これから始業式で体育館に移動するってときだった。
「お、珍しいな、凌佑が遅刻って」
息を整えつつカバンを机に置くと、これから廊下に並ぼうとしている佑太にそう話しかけられる。
「寝坊しちまってさ」
「ふーん? 何? 高野と喧嘩中で起こしてもらえなかった?」
そうおどけつつ言う佑太に、ふと言うべき言葉を見失う。
「もう、体育館行くから、整列だってさ」
「あ、ああ」
僕も廊下に出る佑太について行き、クラスの列に合流した。
「おっす保谷、なんだ幼馴染と喧嘩したか?」
「な、珍しいよなぁ。びっくりしたよ、高野がひとりで教室入って来たとき。どよめいたぜ教室」
列に入ると、前後のクラスメイトに声を掛けられる。
「まあ……あれだな、僕もそろそろ自立しないといけないかもな」
その声に対し、僕は苦し紛れに笑いつつそう言うことしかできなかった。
相変わらず長い校長の話もようやく終わり、この暑い中ひとりの犠牲者を出すことなく始業式は終わった。今日はあと一時間ホームルームをやったら終わりだ。
教室に戻り、とりあえず休み時間になる。
「……よ、元気か? 凌佑」
「佑太……僕はお前と違って色々考えないといけないことがあるんだよ。それより宿題終わったのか?」
「……ああ。ばっちりだぜ」
「その間は何だその間は」
「それより。……本当のところは何があったんだよ。……高野と」
これまでのおちゃらけた態度から一変。澄んだ声を僕に刺しこんだ。
「何がって……何も」
「んなわけあるか。高野、今日誰とも話してねーんだぞ。石神井でさえ、話せてない」
「……告白された」
何事もなかったように、僕はその事実を告げる。
佑太もさほど驚かない。
「で?」
「……で、僕が振った」
でも、この答えに関しては別だった。
「はぁ?」
教室に、佑太の声が響き渡る。クラスメイトも、何事かとこっちのほうを向いて来る。
「声でかいよ」
「いやっ……そりゃでかくなるわっ。振ったって……お前、高野のこと好きじゃなかったのかよっ」
ああ、好きだよ。今も好きだよ。
「…………」
「無視してんじゃねーよ……」
冷たく、蔑むような視線で僕を見る佑太。見れば、右手に拳を作って震えさせている。
「……わかんないよ。僕が好きかどうかなんて」
また、僕の口から嘘が並べられる。
わかっている。本当は知っている。
皆の前では真面目な姿を見せて。なんだってしっかりとこなしていて。勉強も、学校行事も。運動は微妙だったりするけど、そこもまた可愛くて。
でも、僕の前だけでは、無邪気な笑顔を見せてくれる梓のことが、僕は好きだって僕はわかっている。
「……わかんないまま、付き合えないよ」
小さく、僕はそう吐いた。
「……そっか、わかった……」
右手に拳を作り震えさせていた佑太は、ゆっくりとその手を開き、僕の胸をポンと叩いた。
「じゃな、また、帰り」
そして、彼は自分の席へと戻っていった。
いつの間にか、集めていたクラスの視線はもう散らばっていた。
それから、梓は一切僕と関わりを持とうとしなかった。仮に話すことがあっても事務的な連絡に留まり、以前のような砕けた会話はしなくなった。
僕、梓、佑太、羽季で食べていたお昼も、梓がドロップアウトする形になった。
それにはさすがの佑太と羽季も動かないわけにはいかなかったようで、ある日、僕の首根っこ捕まえてお昼になり教室を出ようとする梓を捕まえた。
「ねえ、梓最近どうしたの? ずっとひとりでお昼食べているみたいだけど」
「それに、凌佑とも全然話してないし……」
因みに、佑太は僕が梓を振ったことを誰にも言わないでいた。そういうところはデリカシーがある奴だから、そのうちいい人が見つかるんじゃないかとも思っているんだけど、今は関係ないので割愛する。
「……べ、別に……何もないよ」
「そんな、今まで普通に一緒にお昼食べてきた友達が急にひとりになって何もないって信じると思う?」
廊下で梓を囲む僕等三人。いや、少なからず僕に梓を止める意思はなかったからふたり、か。
「……何も、ないよ」
梓が目を伏せつつ答えたのを見て、佑太が動いた。
「……凌佑に振られたのが原因?」
「え?」
佑太のそのカミングアウトに、僕等を取り巻く空気が一変した。
「ちょっ、保谷……どういうこと? 振ったって……梓のこと、振ったの?」
羽季の標的が、梓から僕へと切り替わる。まあ、そうだよね。
「……そうだよ」
「そうだよって……なんで、なんでなの?」
「なんでって……わからないよ」
僕はまた、梓を傷つける嘘を重ねた。
「だって……あんなに仲良かったのにっ……どうしてっ」
「羽季……もうやめて」
「梓はいいのっ?」
「いいの……。私が振られたんだから。……だから、もう私に凌佑の隣にいる権利はないから、もういいの」
俯きながら言葉を紡ぐ梓の表情は、萎れた花のように辛そうで。
でも、そんなこと思うなんて僕はしちゃいけないはずだから。
辛そうって……そうさせたのは僕なのに。僕が辛くさせているのに。
「……だから、もういいんだ」
それだけ言い、梓はふたりの円から抜け出していった。残された羽季も、
「……保谷、最低」
と呟き、佑太も僕に背中を向けつつ、
「……もう少し、何かあったんじゃないかって思ってたよ、俺は」
そう言い残し、僕を置いていった。
その日以来、佑太と羽季が僕に話しかけることはなくなった。まあ。この状況からして被害者は梓で加害者は僕だからね。梓に同情するのもわかる。
だからか、ふたりは梓となんとか仲を維持しようとしていたけど、結局梓も梓でひとりになることを選んだ。
僕と梓は、お互いにひとりになってしまった。
僕は帰り際、職員室に寄り鍵を返しに来た。
「おう。お疲れさん。気をつけて帰れよー」
当直の先生に鍵を渡し、僕は家路につく。
坂道を下る帰り道、隣に少し空いたスペースは、少し寂しい気持ちにさせた。
学校の最寄り駅、各駅停車をひとり待つ。
ほとんど人のいない下りのホームに、空虚に響く警報音。カラスの鳴き声さえ聞こえない。
……何も、起きないなら、それでいい。梓に何も起きないなら、それが一番なんだ。
僕はそう思って、振った。
のに。
「……この気持ちはなんだよ……」
ぽっかりと穴が開いたかのように感じるこの切なさは何だ。
……僕が自分で選んだ答えだろ。
僕にこんな思いをする権利なんて……。
急行電車が通過していく。一瞬の風が、僕の髪も、心も揺らしてしまう。
少し考えれば当たり前かもしれない。その日から夏休みの間、梓が僕の家でご飯を作りに来ることはなかった。それどころか、会うことすらなかった。
九月の頭、始業式。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光に当てられ、僕は目覚めた。スマホで時間を確認すると……。
「ってやばっ! 遅刻だろこれ!」
慌てて起き上がり学校に行く準備をする。
いつもは梓が起こしてくれていたから、遅刻することはなかったけど、今日は間に合わないかもな……。とりあえず、早く着替えないと。
起きて十分で家を出た僕は、朝ご飯も食べる間もなく沼袋駅へと駆け出した。
沼袋駅から学校の最寄り中井駅までは五分くらいで着く。近いと言えば近い。
でも、起きた時間が本当に遅かった。
中井駅に着いたのが八時二十二分。
どんなに頑張ったって駅から学校までは五分から十分はかかる。しかも行きは上り坂の通学路。
「いや、まあ走るけどさ」
南口を出て待ち受ける坂道を全力疾走。幸い、今日は始業式だけだから荷物は軽い。
あと、こういうときに例の時間遡行を使えばいいんじゃないかって思ったときもあったけど、どうやらそれはできないみたいだ。
多分、相当な思いがないと、時間は遡れない。こんな遅刻のひとつやふたつ回避したいくらいの軽いことではできないみたいだ。現に、一応今もスマホを握りしめてはいるけど、戻れない。
にしても……きっついな……この坂道!
そんなことを考えつつ、学校に着いたのは八時二十八分。生徒玄関前に立っていた生活指導の先生に少し怒られ、僕は教室に入って行った。
教室に入る頃には朝のホームルームは既に終わっていて、これから始業式で体育館に移動するってときだった。
「お、珍しいな、凌佑が遅刻って」
息を整えつつカバンを机に置くと、これから廊下に並ぼうとしている佑太にそう話しかけられる。
「寝坊しちまってさ」
「ふーん? 何? 高野と喧嘩中で起こしてもらえなかった?」
そうおどけつつ言う佑太に、ふと言うべき言葉を見失う。
「もう、体育館行くから、整列だってさ」
「あ、ああ」
僕も廊下に出る佑太について行き、クラスの列に合流した。
「おっす保谷、なんだ幼馴染と喧嘩したか?」
「な、珍しいよなぁ。びっくりしたよ、高野がひとりで教室入って来たとき。どよめいたぜ教室」
列に入ると、前後のクラスメイトに声を掛けられる。
「まあ……あれだな、僕もそろそろ自立しないといけないかもな」
その声に対し、僕は苦し紛れに笑いつつそう言うことしかできなかった。
相変わらず長い校長の話もようやく終わり、この暑い中ひとりの犠牲者を出すことなく始業式は終わった。今日はあと一時間ホームルームをやったら終わりだ。
教室に戻り、とりあえず休み時間になる。
「……よ、元気か? 凌佑」
「佑太……僕はお前と違って色々考えないといけないことがあるんだよ。それより宿題終わったのか?」
「……ああ。ばっちりだぜ」
「その間は何だその間は」
「それより。……本当のところは何があったんだよ。……高野と」
これまでのおちゃらけた態度から一変。澄んだ声を僕に刺しこんだ。
「何がって……何も」
「んなわけあるか。高野、今日誰とも話してねーんだぞ。石神井でさえ、話せてない」
「……告白された」
何事もなかったように、僕はその事実を告げる。
佑太もさほど驚かない。
「で?」
「……で、僕が振った」
でも、この答えに関しては別だった。
「はぁ?」
教室に、佑太の声が響き渡る。クラスメイトも、何事かとこっちのほうを向いて来る。
「声でかいよ」
「いやっ……そりゃでかくなるわっ。振ったって……お前、高野のこと好きじゃなかったのかよっ」
ああ、好きだよ。今も好きだよ。
「…………」
「無視してんじゃねーよ……」
冷たく、蔑むような視線で僕を見る佑太。見れば、右手に拳を作って震えさせている。
「……わかんないよ。僕が好きかどうかなんて」
また、僕の口から嘘が並べられる。
わかっている。本当は知っている。
皆の前では真面目な姿を見せて。なんだってしっかりとこなしていて。勉強も、学校行事も。運動は微妙だったりするけど、そこもまた可愛くて。
でも、僕の前だけでは、無邪気な笑顔を見せてくれる梓のことが、僕は好きだって僕はわかっている。
「……わかんないまま、付き合えないよ」
小さく、僕はそう吐いた。
「……そっか、わかった……」
右手に拳を作り震えさせていた佑太は、ゆっくりとその手を開き、僕の胸をポンと叩いた。
「じゃな、また、帰り」
そして、彼は自分の席へと戻っていった。
いつの間にか、集めていたクラスの視線はもう散らばっていた。
それから、梓は一切僕と関わりを持とうとしなかった。仮に話すことがあっても事務的な連絡に留まり、以前のような砕けた会話はしなくなった。
僕、梓、佑太、羽季で食べていたお昼も、梓がドロップアウトする形になった。
それにはさすがの佑太と羽季も動かないわけにはいかなかったようで、ある日、僕の首根っこ捕まえてお昼になり教室を出ようとする梓を捕まえた。
「ねえ、梓最近どうしたの? ずっとひとりでお昼食べているみたいだけど」
「それに、凌佑とも全然話してないし……」
因みに、佑太は僕が梓を振ったことを誰にも言わないでいた。そういうところはデリカシーがある奴だから、そのうちいい人が見つかるんじゃないかとも思っているんだけど、今は関係ないので割愛する。
「……べ、別に……何もないよ」
「そんな、今まで普通に一緒にお昼食べてきた友達が急にひとりになって何もないって信じると思う?」
廊下で梓を囲む僕等三人。いや、少なからず僕に梓を止める意思はなかったからふたり、か。
「……何も、ないよ」
梓が目を伏せつつ答えたのを見て、佑太が動いた。
「……凌佑に振られたのが原因?」
「え?」
佑太のそのカミングアウトに、僕等を取り巻く空気が一変した。
「ちょっ、保谷……どういうこと? 振ったって……梓のこと、振ったの?」
羽季の標的が、梓から僕へと切り替わる。まあ、そうだよね。
「……そうだよ」
「そうだよって……なんで、なんでなの?」
「なんでって……わからないよ」
僕はまた、梓を傷つける嘘を重ねた。
「だって……あんなに仲良かったのにっ……どうしてっ」
「羽季……もうやめて」
「梓はいいのっ?」
「いいの……。私が振られたんだから。……だから、もう私に凌佑の隣にいる権利はないから、もういいの」
俯きながら言葉を紡ぐ梓の表情は、萎れた花のように辛そうで。
でも、そんなこと思うなんて僕はしちゃいけないはずだから。
辛そうって……そうさせたのは僕なのに。僕が辛くさせているのに。
「……だから、もういいんだ」
それだけ言い、梓はふたりの円から抜け出していった。残された羽季も、
「……保谷、最低」
と呟き、佑太も僕に背中を向けつつ、
「……もう少し、何かあったんじゃないかって思ってたよ、俺は」
そう言い残し、僕を置いていった。
その日以来、佑太と羽季が僕に話しかけることはなくなった。まあ。この状況からして被害者は梓で加害者は僕だからね。梓に同情するのもわかる。
だからか、ふたりは梓となんとか仲を維持しようとしていたけど、結局梓も梓でひとりになることを選んだ。
僕と梓は、お互いにひとりになってしまった。