「わ、私……凌佑のこと……ずっと前から、好きで……」
 僕は何度、そう頬を桜色に染めて言う幼馴染の姿を目に焼き付けただろうか。
 何回、後ろで手をモジモジさせながら恥ずかしそうに気持ちを伝える彼女をいじらしく感じただろうか。
「だから、その……幼馴染じゃなくって……恋人になって下さいっ」
 どこまでも真面目で、まっすぐな君は、何度そうやって僕に頭を下げながら告白してきただろうか。
 何度、僕は左右に長く流れた綺麗な髪を見つめ、震えそうな声を必死に押さえつけて、「君のその想いを踏みにじってきた」のだろう。

「……うん。付き合おう」

 もしこの世界に神様なんてものがいるのならば、切に願う。
 ……お願いします、どうかこの言葉を、叶えさせてください、と。


 **

 その日は、気持ちの良い青空が広がる夏の日だった。最寄り駅から高校へと歩く間、ずっとセミの鳴き声が響くような、そんな一日。つい最近切り替わった夏服も、肌にまとわりついて気持ち悪い。照り付ける太陽の光も、それを反射するアスファルトも、道行く僕等を殺しにかかっている。
「それにしても、最近暑くなったね、凌佑」
 そんななか、顔色ひとつ変えずにそう言うのが、僕の幼稚園からの幼馴染、高野梓だ。
「まあ、そうだね、梅雨明けすぐにこんな天気なんて、これから先が思いやられるけど」
「ね、まだ七月の頭なのに」
 梓とは物心ついたときからの知り合いだ。同じ幼稚園に通い、同じ小学校に通い、同じ中学校に通い、同じ高校に通っている。家が隣同士で、よく一緒に遊んだり、親ぐるみでどこか出かけたりもした。遊園地や温泉、プールに様々な観光地。数を挙げればきりがない。
「でもこれから夏かぁ」
「そうだね」
 隣を歩く梓がそんなことを呟く。
「昔はよく一緒にプールとか海行ったよね?」
「……昔はな」
 最寄り駅から繋がる環状通りを抜けて、学校の正門へと続く坂道に出る。
「中学上がってからは行ってないもんね」
 少しずつ大きくなっていく校舎を目に、彼女はそう感慨深げに続けた。
「……また、一緒に行きたいなぁ……」
 …………。
 一瞬、僕と梓の間に静寂が流れ込んだ。周りの「暑いー」「死ぬー」といったこの気温に対する悲鳴が耳に入ってくる。
「いや、泳げないだろ、梓」
 そんな沈黙を僕は破った。
「へへ、そうだったね」
 無邪気に笑って見せる、その表情に思わず胸が弾む。
「そうだったねって……」
「じゃあ、凌佑に教えてもらえばいっか」
「……あまり他人にそういうこと言うなよ」
「誰にも言わないよ、凌佑だから言ったの」
「っ……」
 そこまで話したところで僕等は正門をくぐり、校舎内に入った。一緒に登下校するのはいつものことで。時折追い抜いていくクラスメイトに「今日も仲良く一緒だなっ、保谷」って言われたり、「今日のお弁当は何だろうな保谷」ってからかわれたりするのもいつものことだ。ちなみに、保谷は僕の名字。
 お互い同じクラスなので、教室までも一緒に歩く。まあ、僕と梓が幼馴染っていうのは既に知られていることだから、朝一緒に登校するくらいではもはや何も騒がれない。
 どういう因果か家どころか席まで隣同士なので、下手すると寝ているとき以外、常に一緒にいる、なんてこともある。
「はい、凌佑、今日のお弁当」
 席につくと、隣からそっと弁当箱が差し出される。
「……ありがとう」
 僕はその弁当を受け取り、カバンの中にそっとしまう。
 僕の家に母親はいない。僕が幼稚園のときに死んだ。父親は単身赴任で福岡に住んでいる。だから今僕は家でひとり暮らしをしているのだけれど、弁当や朝食夕食は梓が作ってくれている。
「あ、そうそう」
 弁当を僕に渡した後、梓は何か思い出したかのようにそう切り出した。
 パチリと光る黒色の瞳を僕に向け、彼女は続ける。
「今日、親が出張でいないから、泊まりに行くね」
「は……? あ、ああ、わかった」
 これが普通と言わんばかりのスムーズさで、梓は僕の家に泊まると言い出した。
「あれ、もしかして駄目だった?」
 彼女は首を少し横に傾け、長く伸びた髪を揺らす。
「いや、大丈夫、うん、いいよ」
「……それとも、部屋にエッチな本置きっぱなしにしてるの?」
「っ、そ、そういうことじゃなくてっ」
 流れるように恥ずかしいことを言い出すからこっちの反応が慌てちゃったよ……。
 確かに、小学生くらいまではよく梓が僕の家に泊まりに来ることはあった。逆ももちろんあった。
 で、でももう高校生だぞ……。
 別に、梓の貞操観念がゆるゆるってわけではない。クラス委員を務めるくらいには真面目だし、スカートだって校則をギリギリ守るくらいに短くしている。勉強もしっかりこなしている。
 まあ、これで貞操がゆるかったらそういうキャラとしてそれはそれでギャップでありだったと思うけど、残念ながら梓に男の話があったことはない。それは僕が一番良く知っている。
 つまるところ、梓は僕を信用して泊まりに来ると言っているわけで。
 
──え? 信用しているのか?

もういいや、考えるのはやめにしよう。
「うんいいよ、問題ないから」
「やった、ひとりは寂しいから、よかったぁ」
 …………。
 僕にしか見せない、子供っぽい笑みを浮かべつつ、梓はそう言った。
 結局、今日はふたりでひとつの屋根を共有することになりそうだ。

 昼休みになり、校内が色々な喧騒に包まれる。グラウンドからはボール遊びに興じる男子たちの声が、廊下では行き交う生徒たちの話し声が、教室の中でも、仲睦まじげに昼を食べる生徒の、会話があちらこちらでされていた。
 そういう僕も、隣に座る梓と一緒に食べていたわけだけど。それに加えて。
「いやぁ、本当高野の作る弁当は美味そうだよなぁ、な? 凌佑?」
「ね、毎日作ってくれているんでしょ? 保谷」
 目の前の席に座り何か微笑ましいものを見るような温かい目で僕と梓の友達が話しかけてきた。
「あーあ、俺も弁当作ってくれる幼馴染が欲しかったなあ」
「練馬にそんな女子現れたら速攻で裏があるって思うね」
「ひでぇな、おい」
「だって、ねぇ? 梓だってそう思うでしょ?」
 そういう感じに僕等とお昼を食べているのは、練馬佑太と石神井羽季。ふたりとも高校からの友達で、結構仲良くしている。休みの日にカラオケ行ったり、買い物行ったりするくらいの仲だ。
 僕の弁当を冷やかしたふたりは、コンビニ弁当と菓子パンをそれぞれ頬張っている。これもいつものことだ。
「……弁当食いたいなら自分で作ればいいんじゃ」
「馬鹿か凌佑。男が自分で作る弁当にどれだけの価値があると思ってんだ」
 たこさんウィンナーを口にしながらそうぼそっと言うと、佑太に窘められた。
「寂しいだけだろう? な?」
「でも、……料理男子ってモテるらしいじゃん。いいんじゃない?」
 僕が「モテる」という単語を言った途端、健全な男子高校生の練馬佑太は一瞬何かを考え始め、最後に残っていた唐揚げを放り込み続けた。
「……いや、毎朝早起きとかきついし、いいわ」
「そっか、それは残念」
「そんなんだから練馬はモテないんだよ、もっと甲斐性持たないとー」
「うっせーなー」
 そんなこんなで笑いが絶えない会話をするのが、僕等四人の日常だ。
 昼休みも半ばに差し掛かり、それぞれ昼を食べ終わった頃、思いついたかのように佑太が言い出した。
「なあ、今年の夏はさ、皆でプール行かないか?」
 すると、少しの間、僕等の間に沈黙が流れる。なかなか鳴きやまない蝉がようやくその声を止めた頃、羽季がようやく返事をする。
「あんたが言うと下心が見えるんだよね……」
「い、いや、そんなんじゃなくて、夏の思い出にさー」
 うろたえる佑太を見て、やはり下心があったなと僕は結論づけた。
 佑太……誘うならもう少し上手くやらないと……僕もその方法はわからないけど。
「まあ、練馬の下心は置いておいて、皆でプール行くっていうのは賛成だね。一年の夏休みは予定合わなくてどこか行けなかったし」
 羽季がそう賛同の言葉を言うと、落ち込んだ顔をしていた佑太は一気に生気が蘇ったかのように活き活きとしだし、身を乗り出して話し始めた。
「だよなだよな! やっぱ夏と言えばプールだろっ」
 ……のわりに言っていることは普通なんだけどな。
「な? 凌佑もプール行きたいだろ?」
 佑太は僕に同意を求める。キラキラした、今にも瞳から星が零れるんじゃないかってくらいキラキラした目を僕に向けてきた。
「べ、別に僕は……」
「あれ、保谷は梓の水着姿見たくないの?」
 佑太に返そうとした僕の言葉は、羽季に切られ、そう言われてしまった。
「ちょっ、な、何言ってるの羽季……!」
 急に話題の中心が自分に来たからか、梓は慌てて両手を横に振って否定しようとする。
「ね? 保谷は梓のエロい水着見たいよね?」
 半分ニヤニヤしながら羽季は僕に迫る。
 エロい水着、と具体的な言葉を言われ、僕は思わずそんな恰好をした梓の姿を想像してしまう。
 ──綺麗な肌色映える夏の陽射しのもと、長く伸ばした髪をしばって普段見えないわずかに主張のある胸と、スラリと伸びる白い足と。
 それをきっと無言で凝視してしまっている僕を想像した。
「……って、何考えさせるんだよ羽季っ、べっ、別に僕はそういうわけじゃ……!」
 一通り頭の中で梓の水着姿を妄想したのち、僕はハッと女子ふたりのほうに目線をやり言い訳をする。
 まずい、この間は明らかに想像してましたって間だ……。
 そう思った頃にはもう遅く、羽季は「うわぁ」って表情をしつつ僕のほうを温かい目で見ていた。
「そっかぁ、やっぱり保谷と言えども女の子のエロい姿を妄想するんだねー勉強になったよ」
「いっ、いや、だからっ」
「うーん、楽しみだなー、練馬が当日どんな女の子にナンパしかけて撃沈するか」
「俺、巻き込まれてね? しかもナンパしてフラれるの確定?」
「まあ、期末テスト終わったら詳しい話決めようよ、ね?」
「あ、ああ……そうだね」
 その後も、取り留めのないことを四人で話しているうちに昼休みは終わり、そして放課後になった。
 帰りのホームルームをするために教室に入って来た先生が窓の外を見やり、ポツリと言った。
「……降ってきたな」
 僕はそれに合わせて外を向き、これまで猛威を振るっていた太陽が黒い雲に隠され、雨が降り始めているのを確認した。
「……マジで? 今日雨降るの……?」「予報だと一日中晴れだったのに……」「サイアク……」
 教室内からため息とともにそんな恨み声があちらこちらからし始める。
「うそ、今日私傘持ってきてないよ?」
 隣に座る幼馴染からも、そんな声が聞こえてくる。
「いや、普通持ってきてないよ……梅雨明けましたってテレビで言った次の週の晴れの日に傘持ってくる奴なんていないだろう……」
 僕はカバンに教科書やノートの類いをしまいながらそう言う。
「はぁ……どうやって帰ろうかな……」
 先生が淡々とホームルームを進めつつ、僕は帰る支度を整える。最後に数学の教科書をしまうってときに、僕はカバンの中に水色の細長い物体が横たわっているのを発見した。
「…………」
 マジ?
「じゃあ、ホームルームはここまで、雨降り出しているから気をつけて帰れよー」
「きりーつ」
 席を立ちつつ、まじまじとその物体を見つめる。
「さよならー」
「「さよならー」」
 挨拶と同時に一斉に動き出すクラスメイト達。隣の真面目なクラス委員も例外ではなく、いそいそと椅子をあげて、机を下げている。
「……梓」
 机を下げて、カバンを持ってさあ帰ろう、とした彼女に僕は声を掛ける。
「……いたわ、こんな日に傘を持ってきている酔狂な奴」
 僕は、彼女に微笑みながら、さっきまで見ていた水色の折り畳み傘を目の前でヒラヒラと揺らめかせた。