ディパーテッド~最強魔術師は毒親育ち~

 ちょうどその頃、マゼンタは村に到着していた。
 急いで山奥での出来事を伝えようと(あせ)っていたマゼンタだったが、遠巻きに見て村の人々の様子がおかしいことに気づいた。灰色の髪の男が村人やマゼンタの家族と談笑(だんしょう)をしていたのだ。よそ者を嫌う土地で、あんなにも歓迎されている人間がいるのは奇妙なことだった。
 マゼンタは、自分がいない間にこの村の人間と仲良くなった誰かなのだろうかと思った。何よりそれ以上に、シアンがあれだけ山で暴れていたというのに、なぜ彼らはこんなに落ち着いていられるのだろうか。

 マゼンタに気づいたマゼンタの姉が言う。
「あらマゼンタ、ちょうど良かった。お客様よ?」
 マゼンタの姉は頬を赤らめていた。

──お姉ちゃんがあんな顔するなんて……?

「……客? あたしに?」

 灰色の髪の男はマゼンタを見ると、目を輝かせて近づいてきた。とても朗らかな笑顔をする男だった。悪意がなさ過ぎてむしろ邪悪に見えるような、屈託(くったく)のない笑顔だった。

「おねえさんがマゼンタ? 自分、アッシュ言います」
「……アッシュ?」
 アッシュは手を差し出した。
「よろしゅう頼んます」

 マゼンタも手を差し出す。アッシュはマゼンタの手を握ると、強引に自分に引き寄せた。

「あ」

 マゼンタとアッシュの顔が近づく。端整(たんせい)なアッシュの顔に、一瞬でマゼンタは心を奪われた。

「あ、あの……。」
「可愛らしゅうおますなぁ……。」

 心を奪われたとはいえ、まったくの面識のない男だった。マゼンタは家族に「この人は誰?」と訊ねようと、アッシュ()しに家族を見る。なぜか、マゼンタの家族たちは不自然な笑顔を浮かべていた。父親に至っては、少し痙攣(けいれん)しているようだった。

 アッシュがマゼンタの耳元に唇を近づけて(ささや)く。
「シアンくんは……どこでっか?」
「!?」

 光を失いかけていた瞳に力が戻り、マゼンタは手をふりほどきアッシュから体を離した。

「……あんた何者?」

 アッシュが興味深そうにマゼンタを見る。その瞳の奥は、相変わらず夜空の一番星のように輝いていた。

「へぇ、軽いねぇちゃんかと思うたら、意外と芯の強い人なんやねぇ」
「ねぇ、お姉ちゃん、この人だれ!?」

 しかし、そう問いかけるも彼女の家族は変わらず笑顔のままだった。笑顔によって体を拘束(こうそく)されているようだった。

「……あんた、あたしの家族に何したの?」

 アッシュは顔を左手で覆って笑う。少しづつ、朗らかな笑顔に闇が浮かび始めた。

「けったいなこと言いはりますなぁ、俺は皆さんと仲ようしたいだけでっせ?」
「仲良くですってっ?」
「……どうしたんじゃ?」

 そこへ、シアンをおぶったバン爺が戻ってきた。

「……おや?」

 アッシュに視線をやるバン爺。マゼンタは来ないようにバン爺に声をかけようとするが、アッシュが耳元で「黙りなはれ」と囁くと、マゼンタはしゃっくりをしたように言葉を飲み込んだ。

「……何じゃ、その人は? お前さんの知り合いかね?」
 アッシュは両手を広げバン爺に近づいていく。
「ええ、そうですぅ。この村の人たちと仲良ぉさせてもらってるアッシュいいますねん」
「……アッシュ」

 バン爺はマゼンタを見る。マゼンタは無表情でその場から動かない。その後ろの彼女の家族は、不自然な笑顔でこちらを見ていた。

「おじいちゃんとも、是非(ぜひ)ともお近づきになりたいですねぇ」

 アッシュは手を差し出した。
 バン爺は首を傾げると、おぶっていたシアンを地面に丁寧(ていねい)に寝かし握手に応じようと手を差し出した。袖からのぞく、バン爺の手首にある白い腕輪を見てアッシュがほくそ笑む。
 交わされる握手。バン爺の危険を察したマゼンタは、なんとか動こうとするが体が言うことをきかない。
 しばらくバン爺とアッシュは握手をしたまま動かなかった。笑顔は固まり、筋肉は硬直している。
 不自然なまでに長い握手、先に口を開いたのはアッシュだった。

「……なかなか、老獪(ろうかい)なオドを持ってはりますねぇ、おじいちゃん」

 バン爺が眼光(がんこう)鋭く笑う。

「お前さん、魔術師じゃな」
「……ええ、同業者ですぅ」

 笑い合うふたり。しかし、アッシュの額からは汗が流れていた。

「……どうしたね? 計算違いでも起きたかね?」

 相変わらずバン爺は笑顔だったが、アッシュの顔からは笑顔が消えた。

「……あんたぁ」

 バン爺はマゼンタやその家族、そして村人たちを見る。
「お前さんの目的は何となく察したよ。じゃが、ここじゃとちぃと面倒じゃ。場所を変えんか?」
 汗の流れるアッシュの顔に笑顔が戻る。
「おやおや、休憩の申し出でっか、おじいちゃん? 俺はここでもかまいませんがねぇ?」

「調子乗んなやクソガキ」

 小さい老人のつぶやき、しかし突然のバン爺の剣幕(けんまく)にアッシュは小さく身を引いた。

「ここでお前さんの内臓を四方に散らす訳にはいかんじゃろが」

 アッシュはバン爺から手を離した。手がしびれているらしく、握手をしていた手をもう片方の手でさすっていた。

「面白い事言いなはりますねぇ……。」
 劣勢(れっせい)を認められず、アッシュは何とか笑顔をつくる。
「……ついて来い」

 そう言うと、バン爺は森の方へと向かった。アッシュもその後に続いていく。

「バン爺!」
 アッシュの謎の拘束から解かれたマゼンタが叫んだ。
「安心せぇ、ちぃとこのあんちゃんと話すだけじゃて」
 バン爺は振り向いて言った。
「すぐに戻りますわぁ。そん時はじっくり可愛がってやるさかい、待っとってやぁ」
 アッシュも振り向いて手を振った。

 バン爺とアッシュは森に入っていった。
 森に入り、辛うじて月明りの指すけもの道を歩くふたり。しばらくしてからアッシュが口を開いた。

「……驚きましたわぁ。7級聞きましたから、てっきり楽なお仕事やと思うたんですけどねぇ」
 夜道の先を行くバン爺が、背中を向けたままで言う。
「……お前さん、オールドブラッドかね?」

 アッシュの足音のリズムがほんの少し崩れた。

「……さいです。よぉ分かりましたねぇ」
 バン爺が小さな笑い声をあげた。
「さっき村の人たちに使うたのは、テンプテーションじゃろう? あの術式は修練(しゅうれん)で覚えられる代物(しろもの)じゃないからのう。生まれついての才能……いや、血の特性が必要なはずじゃ」
「……流石、7級といえど王都の魔術師ですねぇ、よぉお勉強してはりますわ」
「それだけが取り柄じゃったからのう……。」
 バン爺がふり向きアッシュを見る。
「お前さん、見た所、独学(どくがく)のようじゃの?」
 アッシュが笑う。
「俺、嫌ですねん。自分よりアホな奴に教え()うのが」
 バン爺はからからと笑った。
「若いのう」
「……ところで、何でおじいちゃん裸足ですの?」

 バン爺は照れくさそうに笑った。

「急いで出てきて、靴を履くのを忘れとったんじゃ」
「あわてんぼうのおじいちゃんやなぁ」

 森を抜けると、ふたりは開けた草原に出た。空からの満月の明りで、その草原の周囲は十分に見わたせた。

「……ここなら良いじゃろ……むぐぅ!?」

 バン爺が振り向くや(いな)や、アッシュはバン爺の顔面を左手でわしづかみにした。
「えらい恥ぃかかせてくれはりましたなぁ、おじいちゃん」
「む……むぅ……。」

 大きい目を()いてアッシュがバン爺に顔を近づける。

「あんさんが悪いんやでぇ、大人(おとな)しゅう術にかかってくれたら、こないなことせんですんだのに……。」

 アッシュはバン爺の胸に右手をあてた。その右手が青白く発光する。

「……プレゼントでっせ」

 アッシュはバン爺の体内に直接オドを叩き込んだ。

「かはぁっ」

 アッシュはバン爺を投げ捨てるように解放した。胸元をおさえ、バン爺がよろめく。

「う……く……。」
「じいさんらしく、心臓麻痺てあの子らには言うときますわ」

 バン爺はアッシュを見る。アッシュは目を輝かせて笑った。

()ぜぃや」

 アッシュが右手を握りしめた。

「ぐぅお!」

 バン爺が草むらに(ひざまず)いた。

「悪く思わんといてや。俺も仕事ですきに」
「し、仕事……?」
「ええ、アイリスのおっさんからのじきじきのね……。」

 バン爺はうつぶせに倒れる。左手で何とか体を起こしている状態だった。

「な、なぜ……アイリス伯は、ここが……。」

 アッシュはバン爺を見下し得意げに笑うと、懐からクリスタルを取り出した。

「……それは?」
「アイリス伯が精製(せいせい)したクリスタルですわ。これを使えば、シアンくんの体調をコントロールしたり、強い術を使うた場合には反応して居場所が分かるようになっとるんですわ」
「……もしかして、さっきのあの子の暴走も……お前さんが?」
冥土(めいど)の土産にしては頼みが多すぎますねぇ。ええでしょ、教えたりますわ。俺、敬老精神めっちゃありますねん」

 アッシュは倒れているバン爺をのぞき込むようにして言う。

「そのとおりですよ、おじいちゃん。まぁ、ある程度近くにおらんと出来へんことなんですけどね。……おじいちゃん、あの子はねぇ、お父ちゃんに首輪をつけられとるようなもんなんですわぁ」
「……なるほど。ならば、あの子に術式を使わせなければ、居場所はばれんということじゃな?」
「そないなこと今さら気にしてどないするんすか? もう居場所は分かっとりますよ?」
「これから逃げて居場所をくらますからじゃよ」

 バン爺はすくっと立ち上がった。

「……な!?」

 驚いて尻もちをつくアッシュ、すぐに立ち上がろうとするが足に草が絡まって立ち上がることができない。

「お前さん、ずいぶんと口が軽いのう」
 バン爺はアッシュを見下す。
「な、なんでや!」
 バン爺は胸元をさする。
「ちぃと強いオドじゃったがな、単純じゃから流させてもらったんじゃ」
「……流した?」

 バン爺は足元を指さす。

「お前さんの足元にな」

 アッシュは改めて足元を見る。まるで、人為的に結ばれたかのように、しっかりと足首が草で拘束されていた。

「こ、これがあんたの……術式!?」
些細(ささい)なもんじゃがな。……さてと」

 バン爺は(かが)むと、地面に手を当て術式を使い始めた。

「安心せぇ、さっきはワシもつい物騒(ぶっそう)なことを口走ったが、お前さんを殺しはせんよ。お前さんにはしばらくの間、ここから動けんようになってもらう。ワシらが逃げ切れるまでな」

 アッシュの周りの雑草がさらに成長を始めた。バン爺は、よりしっかりとアッシュを拘束するつもりらしい。

「あと、そのクリスタルも渡してもら──」
「な、なめんなジジイ!」

 アッシュは強引に力技で草を引きちぎり立ち上がり、転がりながらバン爺から距離を取ると怒声(どせい)を上げた。アッシュの薄いベージュのローブが逆巻(さかま)き灰色の髪がなびく。

「ほっほ、たいしたオドじゃ。さすがオールドブラッドじゃのう」

 アッシュから発せられる突風で、自身の髪をなびかせながらバン爺は笑った。

「死にさらせ!」

 右手をバン爺に突き出すアッシュ、手から青白い閃光が放たれた。
 バン爺に直撃する閃光、バン爺の体が激しく光った。

「今度は加減なしや、体ごと爆発せえ!」

 バン爺は体をくねらせる。すると、バン爺の体から光が消えた。

「な!?」
「返すぞい」

 バン爺が右の人差し指と中指をくいっと持ち上げると、アッシュの足元が爆発した。アッシュは衝撃で空高く舞い上がる。

「うわぁあああああ!」

 バン爺は手を叩きながら上空にいるアッシュを見上げる。

「お~、飛んだ飛んだ~。お前さん、とんでもないもんをジジイにぶつけようとしたんじゃなぁ」 

 落下すると受け身を取って素早く立ち上がるアッシュ、バン爺と改めて対峙(たいじ)する。広い草原の真ん中、ふたりを月明りが照らしていた。

「……おじいちゃん、ホンマに7級でっか?」
 バン爺は首を傾ける。
「いつワシがそうじゃと言うた?」
 アッシュは目を大きく開くと、額を左手で抱えてくっくっくと笑いだした。
「そうでしたねぇ……そういえば、なぁんも確認は取ってませんでしたわぁ」

 アッシュは薄布のストールをはぎ取り上着を脱いだ。

「……ほな、俺は出し惜しみはせぇへんから」

 アッシュは両手を合わせた。祈りではなかった。両手には力がみなぎり、肩の筋肉と胸の筋肉が膨張(ぼうちょう)して盛り上がる。

「おじいちゃんも、出し惜しみはやめてんかぁ!」

 アッシュの体が閃光に包まれ突風が吹き荒れた。
 光と風が収まると、筋肉の鎧に包まれたアッシュの体は金属のような光沢(こうたく)を帯び、さらに身長も頭一つ伸びていた。

「ほぉ、これはこれは……。」
 バン爺は規模(きぼ)は違うがシアンと同じ術式だなと思った。

「どやっ? おじいちゃんの枯れ木みたいな体と、このムキムキマッチョの俺の体、オドなんぞ関係あらしまへん! ボッコボコにしたるさかい!」

 バン爺は腰に回していた右手を前に出し、くいくいっと手招きをした。

「かまわんよ。どんなおデブちゃんでも、体内のオドは変わらんのじゃから」

 アッシュが弾丸のように飛び出す。

「これが!」

 一瞬で間合いが詰まっていた。アッシュはバン爺に殴りかかる。

「デブの体でっか! がぶぅ!?」

 拳がバン爺に届く寸前、アッシュはつまずいて顔面から地面に倒れていた。勢いがありすぎて、顔の半分が地面に()まってしまうほどに。
 そんなアッシュを呆れたようにバン爺は見下す。

「……どっちでもええわい」
「あ、あ、あれ……?」

 アッシュが顔を上げ足元を見る。またもや足に草が絡んでいた。

「少しは学習せんかい」

 バン爺を睨むアッシュ、叫び声をあげると両の手の力だけで飛び上がり、空中で体を1回転させてバン爺の前に立った。

「うおおおおおお!」

 アッシュは左右のパンチをくり出す。しかしバン爺には当たらなかった。バン爺が避けているのではない。足元の雑草がうごめくせいで微妙にすべり、体勢を崩し、拳がことごとく(くう)を切っていた。
 仮に当たったとしても、当たる瞬間にバン爺の体がゆらめき、ぺちりと気の抜けた音を出すばかりで手ごたえがない。

「な……なんでや……。」

 アッシュは呆然とする。バン爺は拳の当たった場所を手でなでて、そしてふぅっと虚空(こくう)を見た。

「……なかなか強烈なパンチじゃの。けっこう痛いわい」

 そう言うものの、まったく痛がっているように見えなかった。
 打撃が当たらないのならばと、アッシュはバン爺の胸ぐらをつかんだ。

「それやったら、(じか)にオドを叩き込んだるわ!」

 バン爺とアッシュを光が包み、ふたりの衣類が音を立てて逆巻く。

「はあああっ!」

 そして光は柱となって天に昇った。

「消えてなくならんかい!」

 アッシュの最大出力のオドの放出、普通の人間相手ならば消しくずになっているほどの攻撃だった。
 しかしバン爺はいたって平静だった。アッシュのオドはバン爺を通して地面に流され、ふたりの周りの雑草は腰ほどまでに成長し、季節外れの花が咲き乱れ始めた。
 色とりどりの花畑の真ん中で呆然とするアッシュ。「もう終わりか?」とばかりにほほ笑むバン爺。

「あ、あ……。」
「もったいないのう。せっかくテンプテーションを持っとるのに、こんな無駄な術式に力を(つい)やしおって。どの攻撃も単純で、お前さんの孫の代まで読めそうじゃ」
「やかましぃ!」
「ほ?」
「さっきのお返しや!」

 アッシュは上空にバン爺をほうり投げた。そして両手をかざすと、バン爺に向けてありったけのオドを放った。

「空の上やで! さっきにみたいに、逸らせるもんなら逸らしてみぃや!」

 破壊の光線がバン爺に直撃する、そう思われた瞬間、バン爺の落下スピードが突然上がり、バン爺は地面に急降下した。アッシュの閃光はバン爺に当たることなく空に消えていった。

「……へ?」

 バン爺が右腕を回す。
「出し惜しみは抜き、お前さんさっきそう言うたな」

 言い終わると、何の予備動作もなくバン爺がアッシュの目の前に飛んできた。

「!?」

 滑空(かっくう)しながらのバン爺のパンチがアッシュの顔面をとらえた。異常なまでに(かたい)い拳、アッシュは後方に吹っ飛び、ゴロゴロと地面を転がった。

「あ、あ……。」
 アッシュの鼻からおびただしい血が流れていた。

 アッシュは顔を上げてバン爺を見る。バン爺の右の拳が石化していた。

「な、なんや、それ……。」
 拳をくるくると回しながらバン爺は言う。
「どうじゃ? 別に体をデカくせんでも、術式を器用に使えばこういうこともできる。……そして」

 バン爺は左の人差し指と中指をくいっと曲げてアッシュに手招きする。するとアッシュの体が引っ張られ、猛スピードでバン爺のもとへ飛んでいった。

「あ、あ!」

 飛んできたアッシュの顔面をバン爺の右の(ひじ)打ちが迎え撃った。今度は右腕全てが石化していた。アッシュはバン爺とすれ違いながら、きりもみ上に飛んでいく。

「ほ、寸前で防いだようじゃな」

 直撃したら終わっていた石化した肘での攻撃、それをアッシュは両腕で防いでいた。しかし、そのダメージは大きく、アッシュは両腕をだらりと下げていた。

 アッシュはバン爺を睨みながら言う。
「な、なんなんや、おじいちゃん。あんた、何でそないな数の術式をつこうてはるんや? おかしいやろ、オールドブラッドでもあらしまへんのに」
 小さなため息をついてバン爺は言う。
「あほう、分からんのか?」
「何がやっ?」
「ワシが使うとる術式は、ひとつだけじゃぞ」

 だらりと下げた腕に加えて、アッシュの口もだらりと下がった。

「んな、アホな。だって、さっきから……。」
「お前さんのオドを逸らしたんは、オドの基礎をしっかりやっとるからじゃ。じゃが、術式に関しては嘘をついておらんよ。とはいえ、手品師は種を明かさん」

 ゆっくりとバン爺はアッシュのもとへと向かう。

「う、ぐ……。」

 正体の分からない術式に怯え、アッシュは後ろに下がろうとする。しかし、足が動かなかった。恐怖で足が動かないのかと思ったが、よく見ると足が地面に埋まっていた。足を上げようとしても異常なまでに体が重かった。

「……残念じゃな。良き師に巡り会えておったなら、オールドブラッドの上に強力なオドを持っとるお前さんじゃ、ワシなど足元にも及ばんかったろうに」

 バン爺はさらにアッシュに近づいていく。

「く、来るな……来るなぁ!!」

 アッシュは腕を振り回してバン爺を退けようとする。

「基礎からやり直せい!」

 バン爺はアッシュの胸元を掌で打った。アッシュは後方に吹き飛び、草原を越えて森の木に衝突した。ずるりと倒れるアッシュ。

「あ……が……。……あ?」

 アッシュは自分のぶつかった木を見る。アッシュのぶつかった木がざわざわと動き始めていた。

「な、なんや……?」
「ワシらがここを発つまで、ここで大人しくしてもらうぞ」

 硬いはずの樹木が、粘土のように柔らかく動き、そしてアッシュを飲み込んでいく。

「う、う、うわああああああああ!」

 アッシュは樹木に飲み込まれ、(かろ)うじて顔を出した状態で拘束された。流動的に動いていた樹木だったが、やはり硬いままでアッシュはまったく動くことができない。

「思った以上に、お前さん力が強いみたいじゃからな。ワシのオドが完全に回復するまでそこに閉じ込めておくぞ」
 「後、これも」と言ってバン爺はアッシュの懐に手を伸ばし、クリスタルを奪い取った。

「ちょ、待ってぇや。それはひとつしかあらしまへんのや。奪われたらアイリス伯に何て言われることか……。」
「……やっぱり、お前さんおしゃべりじゃのう。それを言わんかったら、ワシはアイリス伯の追跡をまだ心配しとったんじゃが」
「……あ」

 そうしてバン爺は踵を返して村の方へ歩いていった。

「ちょ、ちょっと待ってぇや! こんなところにこないなカッコで置いてきぼりでっか!?」
「明日の昼には術は解けとる。そのあいだの虫刺されくらい我慢せんか、男じゃろうが」
 勝負が決した後、来た道をたどって村に帰っていたバン爺だったが、途中で足を止め、うずくまって胸を抑えた。
「……効いたぁ」
 バン爺はけもの道の真ん中でぺたりと座り込み、息を整えながら目を細めて月を見上げる。
「……誰じゃね」
 何者かの気配をさっしていたバン爺が訊ねる。けもの道の端の草木が揺れ、そこからマゼンタとシアンが出てきた。

「……ついてきとったんか」
 マゼンタは肩をすくめる。
「ついてきたって言うか、あんだけすごい音がしてるんだもん。そりゃ見に来るよ」

 バン爺は「あちゃ~」と頭を抱えた。当初の計画では、もっと穏便(おんびん)に片づけるつもりだった。

「ああ、あのあんちゃん、思ったよりも手練(てだ)れじゃったからのう。ちぃと苦戦したわい」
「……大丈夫なの?」
「あのあんちゃんの身の上かね? 死にゃあせんよ。追ってくるかどうかなら、あの拘束が解けるまでには、目的地には着けるじゃろう」
「そうじゃなくって、バン爺がだよ」
「ワシかい? ほっほ、あんな若造に後れを取るほど老いぼれてはおらん」

 マゼンタはバン爺の前に行くと、背を向けて座り込んだ。

「ほ?」
「乗りなよ、おぶってくから」
「大丈夫じゃ、少し休めばすぐに歩けるわい」
「シアンくん、バン爺のお尻の方持ち上げて」

 マゼンタがバン爺の腕を自分の肩に回し、シアンがバン爺の後ろに回って老体を抱えるようにして押し上げた。マゼンタは「よいしょ」と立ち上がった。

「助かるわい」
「助けてもらったのはこっちだよ。ありがとう、村の皆を解放してくれて」
「ならば、言いっこなしという事にしておこうか」
「そうだね。あ、それと、あんまり股間を押し付けないでね」
「どうせえっちゅうんじゃ……。」

 ふたりは鼻で笑った。

 バン爺がふり返る。
「……シアン、もう体はええんか?」
「……うん」
「ダメならダメと言うとけ、だぁれも困りゃせんからの」
「……うん、大丈夫」
「そうか。……ところで、何かを気にしとるような顔をしとるの?」
「……ねぇバン爺さん」
「なんじゃ?」
「バン爺さんは、本当は7級じゃないんだよね?」

 バン爺は前を向いた。

「……。」
「ぼくも等級試験を受けたからわかるよ。バン爺さんのあのオドの使い方って、3級くらいの人のレベルだよ」

 マゼンタがバン爺をおぶりながら振り返った。しかし、バン爺はシアンをふり返ることはなかったし、マゼンタにも目を合わせなかった。

「……ああ、そのとおりじゃ」
「やっぱり。本当は何級なの?」

 バン爺は振り向いた。
「……ワシゃ等級なんぞ持っとらん」

 キョトンとするシアン、バン爺はそんなシアンを見て自嘲気味(じちょうぎみ)に笑った。

「さ、早く帰っていったん休息をとるとしよう。日が昇る前に出発したい」


 怪我の功名(こうみょう)か、村の人たちはシアンを連れ去る算段(さんだん)だったアッシュの術式によって記憶を書きかえられ、シアンが起こした騒ぎは、突然の嵐と山崩れによるものだと思い込んでいた。
 仮眠を取った後、バン爺の言ったように、空が白んできた頃に3人は村を出発する準備を始めた。その最中、マゼンタの姉が納屋に現れてマゼンタを呼び出した。
 マゼンタは外に出る。外では山の向こうが光を放ち始め、マゼンタの姉は逆光で表情が分かりにくくなっていた。

「……どうしたの、お姉ちゃん?」
「ねぇマゼンタ、あなたここに残らない?」
「……。」
「お父さんはあんなだけど、本当はあなたにここにいてほしいと思うの。どこかあなたを気にかけてる(ふし)もあるし、何より……わたしも……。」
「……お姉ちゃん」
「ここにはあなたの居場所があるのよ? 待ってる家族が、故郷があるの」
「……ありがとう、お姉ちゃん」
「マゼンタ」
「でもね、あたし行くよ。ここじゃない場所がどこかにあるかもしれないし、そこで家族を作ることだってできるかもしれない。お姉ちゃんたちが嫌いとかじゃないの。お姉ちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいけれど、あたし、道の途中で歩くのをやめちゃったら、たぶん一生たどり着けたかもしれない何処(どこ)かを想像しちゃうと思うんだ。結婚しても子供を産んでもお婆ちゃんになっても、その何処かを考えちゃうと思う」
「……そう」
「ごめんね、わがままな妹で」
「……ううん、いいの。でもね、わたし思うの。多分あなたは我がままなんかじゃないのよ。人に流されないだけ」
「そうかな?」

 マゼンタの姉は苦笑いをして、マゼンタの両の頬を手で包んだ。

「普通、これだけぶたれたら少しは大人しくしようって思うわよ」
「ああ、あれって大人しくしてほしかったんだ?」
「え?」
「てっきり、お父さんが自分の感情ぶちまけてるだけかと思った」
「……まぁ、そういう(とら)え方もあるわね」

 マゼンタの姉がほほ笑む。マゼンタのうしろには準備を終えたバン爺とシアンがいた。マゼンタの姉は、自分たちが()み嫌うよそ者を甲斐甲斐(かいがい)しく世話をする妹の姿を思い出していた。

「もしかしたら、あなたなら自分が帰る場所じゃない、誰かが帰る場所を作れるかも。わたしたちの先祖がそうしたようにね」

 姉はマゼンタを抱きしめた。

「いってらっしゃい……。」

 マゼンタも姉に腕を回した。

「……うん」

 マゼンタがふり返ると、手をふってバン爺とシアンの方へ駆けて行った。
 遠くから、そんな娘の姿をマゼンタの父が見ていた。
 大地全体を日の光が照らすようになり、一行(いっこう)がマゼンタの村からかなり距離を取った頃、マゼンタが誰に訊ねるでもない様子で言った。

「……追手はあれだけかな」
「何とも言えん。……じゃが、ワシらがどこに向かっとるか知られん限り、追いかけようもなかろう」
「でも、あのアッシュって奴はあたしらの居場所が分かってたじゃん?」
 マゼンタはシアンの顔を見て、「ねー」と言った。
「もしかしたら、相手の居場所が分かる魔術とかじゃ? そういうのってあるの?」
「あるには、あるがのう」
「じゃあ、あいつ、その魔術を使ったとか」
「それはないじゃろ。あのあんちゃんが使ってた術式は、テンプテーションと肉体強化じゃ。まぁ、持ち前の気質と楽な修行に頼った結果じゃろうて。例えオールドブラッドでも、そんなに複数の術式を使えるわけじゃあない」
「そのさ、オールドブラッドってなんなの?」
「おや、もう知らん世代が出て来とるわけか。……シアンは等級試験で勉強しとるじゃろうから知っとるの?」
 シアンがうなずく。
「ほ、じゃあ復習といこうか」

 マゼンタがシアンを見た。シアンは小さく咳払(せきばら)いをして話し始める。

「……え~と、もともと魔術はオールドブラッドが発明したものなんだよ。魔術を使って、彼らは大きな帝国を作ったらしいんだ。ずっと昔の事だけどね。でも、彼らの支配はそう長くは続かなかった。植民地から抵抗が始まって、次第に帝国は植民地の言い分を受け入れるようになったんだ。植民地の文化、宗教を受け入れて、植民地の方でも積極的に帝国の文化を受け入れたんだけど、そうしていくうちに元々はオールドブラッドしか使えなかった魔術の中で、特別な民族じゃなくても使える術式が開発されるようになって、どんどん彼らは社会的な優位を失っていったんだ。彼らしか使えない術式もあったんだけど、それでもやがて帝国はオールドブラッドだけのものではなくなって、自然と国々が独立して今の国の形になったって……。」
「素晴らしい。満点じゃ」
「それじゃあ帝国を失った今、彼らはどうしてるの? 滅んじゃったの?」と、マゼンタは訊ねた。
「帝国が滅びた理由のひとつに、彼ら自身が他の民族と同化したというのがあっての。文化もさることながら、多くの血と交わり、そして民族としての特性を失って行ったのじゃ」
「……じゃあ、あのアッシュって奴は、奇跡的なオールドブラッドの生き残りってわけ?」
「今は“オールドブラッド”とは、部族や人種ではなく、(まれ)に生まれてくる彼らの特性が強い人間のことを指して言うんじゃよ」
「ぼくのお母さんもオールドブラッドだったんだ」
「ほぉ、そうか? ならば、お前さんの突出(とっしゅつ)した力は、母君ゆずりといったところじゃろうか?」
「……でも、ぼくはオールドブラッドじゃないって父さんが言っていたよ」
「言うたじゃろう、特性の強弱じゃと。1かゼロかじゃありゃせんよ」
「……じゃあ、バン爺的には追手が来る可能性は低いってこと?」と、マゼンタは言った。
「ワシはそう思う。どうやってワシらの居場所を知ったかは分からん。じゃが、あのあんちゃんの拘束が解けたとしても、ワシらをすぐには追ってこんじゃろ。ワシにあんだけこっぴどくやられた後じゃ。仲間を呼ぶにしても時間がかかろうて。近くに仲間がいるのなら、はなっから一緒に来とるよ」
「ふ~ん」

 バン爺はシアンをそれとなく見る。どうやら、本人はアッシュの語っていた、アイリス伯が自分を追跡できる理由を知らないようだ。父親に見えない首輪をされているという事実、それをそのまま伝えて良いものか、老人は苦慮(くりょ)していた。
 そして、3人がダリア伯の領地に入るまで、本当に追手はやってこなかった。もちろん、各々がその理由を違う形で考えていた。
 さらに領地を進み、ダリア伯の屋敷の前に着いた頃には夕方になっていた。

 1日歩き続けたシアンを気づかってマゼンタが言う。
「……あんまり休まなかったけど、昨日と違って、今日はずいぶん体調が良かったね? 何だったんだろ?」
「うん、たまにああなるんだ」
「……たまに?」
「前触れもなくああなったと思ったら、急に何もなかったみたいに平気になるんだよ」

 その意味を知るバン爺は、懐のクリスタルを握りしめていた。

 「あっ」と思い出したように言うと、シアンはふたりに深々と頭を下げた。
「昨日は、ご迷惑かけて申し訳ありませんでした」
「だから、あやまらなくていいんだって」
「でも……。」
「お前さんが言わんかったら、ワシらだって忘れとったぞ」
「そうだよ」
「……すみません」
「またあやまる」
「シアンや、人はただ生きとるだけで、それだけで誰かに迷惑をかけるもんなんじゃ。しかし、迷惑をかけとっても、たいして当人は気にしとらんもんじゃよ。もし、いちいち腹を立てとる奴がおったら、そいつが単に、自分が人に迷惑をかけとることを忘れとるだけじゃて」
「そうだよ、あたし何て普段から迷惑かけすぎてるから、人に迷惑かけられても何とも思わないんだから」
 そう言って、マゼンタが胸を張った。
「お前さんはちったぁ気にせんかい」
「……それよりバン爺、立派なお屋敷に着いたけど、これからどうすんの?」
「……本当に気にせんのじゃな。まぁええわい、お前さんたちはここで待っとれ」
「ここで?」

 バン爺はふたりを(とど)めると、ひとりで屋敷の前に行った。残されたマゼンタとシアンは顔を見合わせる。
 門の前まで行ったバン爺は、やはり番兵(ばんぺい)に止められていた。しかし、バン爺が何かを番兵に伝えると、番兵のひとりが屋敷に入っていき、しばらくして執事が現れバン爺に頭を下げた。
 その光景を見ていたマゼンタが「え?」と声を上げる。
 バン爺は何かを執事に説明すると、マゼンタたちに向かって手招きを始めた。

「……行こうか?」
 マゼンタたちがバン爺の下へ行くと、執事はマゼンタたちにも「お連れ様ですね」と頭を下げた。禿げ上がった頭の光る60代半ばの男だった。うりざね顔で、口には白髪交じりのちょび髭があった。

「どうぞこちらへ」

 そうして、3人は屋敷の中に通された。
 3人が執事の案内で屋敷の石畳の廊下を歩いていると、中年の男が遠くから早歩きでこちらに向かってきた。薄くなった髪を坊主頭に刈り込み、太く真っ黒い眉毛の下の目は、加齢のたるみで涙袋が大きくなっていたが、それでも眼光の鋭さは遠くからでも見てとれる、(いか)めしそうな男だった。真っ黒な詰襟(つめえり)姿は、男が高貴(こうき)な身分であることをうかがわせる。
 その男が近づいてくると、執事は廊下の(すみ)に移動し小さく頭を下げた。
 軍人のような厳しいその男も、バン爺の前に到着すると執事と同じように恐縮した顔になった。

「ローゼス(きょう)ではありませんか」
 男の声も、顔に似合わず聞き心地の良い声をしていた。
「……久しぶりじゃな、ダリア伯」と、バン爺は少しぎこちない様子で笑顔を作った。
「まったく、お人が悪いっ。事前に知らせていただければ、ご足労いただかなくとも使いの者をお迎えに上がらせましたのにっ」
「なに、急な用事じゃったからな……。」
「ささ、こちらへどうぞ。恥ずかしながら、まともなおもてなしはできませんが……。」
「どうか気を使わんでくれ、突然お邪魔したんじゃから」
「何をおっしゃいます。あなたの事です、きっと何か事情があったのでしょう」
 ダリア伯は執事に言う。
「おい、この方たちのお部屋を用意しろ。そして今すぐ夕食の準備もな。私に恥をかかせるなよっ」
「はっ、ただいま」

 執事は「こちらへどうぞ」と、3人を来客の部屋に案内した。部屋は十分広かったが、ベッドはふたつしかなかった。

「ローゼス卿のお部屋はまた別に用意します。お食事の用意ができるまでこちらでお待ちください」

 執事はうやうやしくお辞儀をすると部屋から出ていった。
 マゼンタはベッドに腰を掛けると、足を組み腕を組んで、窓辺にたたずむバン爺を睨んだ。

「……ローゼス卿」
 そう言うマゼンタに、バン爺は左肩を小さく上げ首を傾けた。
「ロ・オ・ゼ・ス・きょ・う」
「何じゃい、くどいのう」
「……シアンくん、“卿”って何?」

 バン爺とシアンはずっこけた。

「……やっぱり、おかしいと思ってました」とシアンは言った。
「シアンくん?」

 バン爺はふたりから目をそらし、窓の外から見える星空を眺めていた。

「最初に見せていただいた術式もそうだし、叔父さんを退(しりぞ)けた時もそうです。あの強力な術式。何より、“卿”の敬称(けいしょう)があなたにはついてる。……バン爺さん、ローゼス卿は上位の等級をお持ちの魔術師なんですよね?」

 バン爺は外から視線を戻したが、ふたりに合わせることはなかった。

「……嘘はついとらんかったぞ。かつては持っとっただけでな」
「……“かつて”?」
「後にも先にもおらんじゃろうな、自分から1級を捨てた魔術師は」
「……それって誰さ?」
「話の流れからしたらバン爺さんしかいないよ……。」
「マジで!? なんで!? てか1級!? マジですごくない!? てか何で!? てか捨てた!?」
語彙(ごい)が馬鹿になっとるな」
「あのダリア伯が、あなたに恐縮する理由もうなずけます。1級魔術師、それは王の隣で国政に(たずさ)わっていたという事ですから……。」
「妙にかしこまった口調はやめんかい。今はただのジジイじゃ。等級は更新せずに無効になっとる」
「どうして1級をやめちゃったのさ? それに、その白い腕輪は?」

 バン爺は右手の腕輪を見た。

「これは息子の形見じゃよ」
「……へぇ。じゃ、何で等級を捨てたの?」
「あれやこれやと疲れてしもうてな。まぁ、ええじゃろ。ジジイの昔話何ぞ」
「なに言ってんのさ、みんなこの旅でお互いの事を知るようになったんだから、バン爺だけ身の上を隠すなんて、そりゃないよ」
「だてにジジイじゃない。長い上に退屈じゃぞ」
「墓に入る前に全部吐き出しちゃいなよ」
「とどめを刺す時みたいに言うな」
「ぼくからもお願いします」
「シアン……。」
「ぼくと父が目指そうとしてる場所が、いったいどういうところなのか知っておきたいんです」
 バン爺が咳をしたように乾いた笑いを上げる。
「参考になりゃせんぞ、それでも聞くかね?」
 シアンはうなずいた。
 バン爺は木製の丸椅子に座ると静かに語り出した。
「……ええじゃろ。……ワシはただ本当に運が良かったんじゃよ。何十年も前に戦争があったのは知っとろう。激しい大戦でな。その時にめぼしい魔術師が命を落としてしもうて、ワシがバリバリの現役じゃった頃には、上の世代がほとんどおらんかった。しかし制度上は、定められた数の等級魔術師を置く必要があった。そこで、そこそこの研究で成果をだして数人の弟子の育成をしておったワシが2級に任命されての。ワシからすればそれだけでも身に余る評価じゃったんじゃが、それから数年すると、今度は国政に関わる1級魔術師をどうしても決めんといかんようになった。当時の現任者がたて続けに寿命でくたばったんじゃよ。で、わずかな上級魔術師とアカデミーの会員が集まって審査会が開かれてのう。もちろん、2級のワシも出席したよ。数日間会議は続いたが、ワシの世代は不作の世代と言われるくらい、ワシを含めてめぼしい人間はいなくての、なかなか結論が出らんかった。そんな時、きっかけは忘れたが、誰かがふとワシを推挙(すいきょ)したんじゃ。ワシにはそんな野心は全くなかったんじゃが、それが逆に評価になったようでの。不思議なことに、皆がワシならばよいだろうと次々に同意し始めたんじゃ。無難という理由でな。結局、ワシも断る理由もないもんで、そのままなし崩し的に1級になってしまったんじゃ。まあつまり、“(はき)()めに鶴”“棚からぼた(もち)”が重なっての1級じゃよ。……どうじゃ、参考にならんじゃろう?」

 話し終えたバン爺は自嘲気味(じちょうぎみ)に笑った。

「どうして1級をやめたんですか?」
「器じゃったからな。実際は二流ていどのワシが、この国の最高の魔術師と称えられるのも申し訳なくってのう」
「……父さんは、1級魔術師は本当の実力があるものが成るものだ、と昔から言ってました。そうじゃないと、国が乱れてしまうと」
「アイリス伯ならばそう言うじゃろうな」
「父さんを……知ってるんですか?」
「まぁのう。野心に溢れた男じゃったよ。お前さんの親父さんが等級魔術師だった頃にはもうワシも1級じゃったから、あまり関わりはなかったかな。たぶんあの男からすれば、ワシみたく運と談合で1級になったモンは気に食わんかったろうな。……シアンや、お前さんは今の話を聞いても、まだ1級を目指そうと思うかね」
「……それは」
「お前さんにとって、そんなにも価値のある事かい?」
「1級魔術師は……父さんの目標なんです。そのためにぼくは物心ついた頃か父さんから指導を受けて……。もし、ぼくが1級を目指さないなんて言い出したら、父さんの努力が……。」
「前にも言ったかもしれんがのう、これはお前さんの人生なんじゃぞ? そのためにおまえさんの人生をないがしろにするのかね?」
「……でも、ぼくが成功すれば……父さんも喜んでくれるし」
「シアンくんって、意外とお父さんのことが好きなんだね」とマゼンタが言った。
「好きっていうか……。やっぱり喜んでほしいっていうか……。その、父さんはそんなに悪い人じゃないんだ。お酒を飲むのも、ぼくが上手く魔術を使えなかったりする時だけだから……。」
「手をあげるのも?」

 バン爺は口の過ぎるマゼンタを(たしな)めるように見た。マゼンタは何が問題あるのかという顔をする。

「それは……。」
「シアンや、どれだけ才気があろうと、お前さんはまだ子供じゃ。自分の気持ちには正直に向かい合いなさい。子供の内にしっかり子供をやっとかんと、大人にはなれんぞ」
「……はい」

 マゼンタは、さっきの会話の中で気になっていた事をふと思い出した。

「そういえば、さっきシアンくん変なこと言ってなかった?」
「変なこと?」
「あのアッシュって奴の事、叔父さんとか……。」
「アッシュはぼくの本当の母さんの弟なんだ」

 ふたりは驚愕(きょうがく)して口が開きっぱなしになった。

「……早く言いなよ」
「あ、ごめんなさい……言う機会がなくて……。」
「まぁ、そうじゃが……のう……。」

 そうこう話しているところへ執事が入ってきた。

「ローゼス卿、お食事の準備が出来ました」
「おお、そうか。……では行くとしようかの」
──

 アイリス伯直轄領

 城ではアイリス伯が、広間で酒を飲みながら部屋の壁に大きく飾られた絵画を眺めていた。シアンがいなくなってからというもの、彼の飲酒量は増えるばかりだった。

「アイリス様、アッシュ殿が戻られました」

 背を向けているアイリス伯は何も答えなかったが、執事は長年の経験から主人が聞いていることを察してアッシュを部屋に通した。
 部屋に入ったアッシュは促されてもいないのに、部屋の隅の椅子を音を立てて引きずり、それにどかっと足を組んで座った。

「……なぜひとりで戻ってきた? よくも手ぶらで帰ってこれたものだな」
 重苦しい声でアイリス伯は言った。
「……聞いとった話しとちゃうやないですか」

 しかし、そんなアイリス伯の声色(こわいろ)にアッシュも気圧(けお)された様子はなかった。

「……なんだと?」

 アイリス伯はようやくふり返った。

「おっちゃん、シアンくんを連れて帰るだけのお仕事言いはりましたよね? そないやのに、あのおじいちゃんは何でっか? めちゃ強力な魔術師がお供におるやないですか」
「……魔術師が?」
「坊やだけなら、俺のテンプテーションで何とかなりますわ。いくらおっちゃんの秘蔵っ子ちゅうても、子供なんやから抵抗する方法は身につけとりませんでしょうから。けど、俺の術式がまるで通用せん、バケモノじみた爺さんまでおるっちゅうのはどういうことでっか?」
「シアンだけじゃなかったのか?」
「ありゃどう考えても上位の等級持っとりますよ。子供やけど強力なオド持っとる魔術師と、じいさんやけど術式の使い方がめちゃうまい魔術師、ふたりを相手にさすんは俺でも無理ですわ」
「……いったい何者なんだ、その老人は?」
「こっちが教えてほしいくらいですわ。バン爺言われとりましたけどねぇ」
「バン爺……。」
「土の術式使うてはりましたけど、それだけやないやろなぁ。空飛んだり俺の体を引き寄せたり。何がひとつしか術式は使うてへんや。嘘バレバレやん」
「……その魔術師は、具体的にどんな術式を?」
「まぁ……俺のテンプテーション効かんかったんは、オドで打ち消したからやろうけど──」

 アッシュはアイリス伯にバン爺との戦いの様子を説明した。放ったオドをことごとく逸らされ、あまつさえそれを利用して反撃された事、体の一部の石化や空中戦を仕掛けられた事などを。
 アッシュが話している間、アイリス伯は何かを考えながらテーブルを眺め、|顎に手を当てていた。

「……無茶苦茶や。あんなんがひとつでできるかっちゅうねん」
「……いや、おそらく使用したのはひとつ、大地の術式だろうな」
「……んなアホな?」
「土や木に働きかけて、成長を促したり意のままに操るのが基本的な術式だが、あの術式は応用すれば土の成分を変えて鉱物を作ることも可能だ」
「せやけど、空を飛び回るのは何ですの? あんなん、風の術式がないと無理ですやん」
「……磁石だ」
「……へ?」
「大地の磁力を操れば、磁石のようにモノを浮かせたりすることができる。高度な術式だがな……。」
 アッシュが口をあんぐりと開ける。
「そないな術式……聞いたことあらしまへん」
「理論としては確立している。だが、あくまで理論上だ。お前の様な在野(ざいや)の魔術師は知りもせんだろう。……それを実践(じっせん)で使用するとなると、その術式を開発した──」

 アイリス伯は目を見開いて立ち上がった。椅子が音を立てて倒れる。

「何ですの急に……。」
「……バン爺。もしかして、70くらいの茶の民の男か?」
「あ、ああ……せやで」
 アッシュが思わず、組んだ腕と足を()いて身じろぎをする。
「……バーガンディ・ローゼスっ」
「……誰ですの、それ?」

 アイリス伯は片手で顔を覆い笑い始めた。

「すべての元凶だ! この国を腐らせた権力欲の化身! 伏魔殿(ふくまでん)魑魅魍魎(ちみもうりょう)! そうか奴が(から)んでいたという事か! 道理でおかしいと思った! く、くくく、そうか、そういうカラクリか! すべてが(つな)がったぞ!」
「な、何がですの?」
「すべては仕組まれていたという事だ! シアンの脱走も、何もかもな! おのれ、あの老害め! 私を王都から追い出しただけでは飽き足らず、あれからもずっと監視していたのか! 自分の家族を破滅させても、なおも私を追おうというのだからな! よほど私の事が気に入らんと見える!」
「何や因縁(いんねん)のあるお方なんですか、おっちゃんとあのおじいちゃんは?」

 アイリス伯は室内を歩き回る。

「かつて王都で使えていた頃、私の昇級をことごとく邪魔した男だ。あげく、私を王都から追い出すよう画策(かくさく)したなっ」
「何でそんなことしなさったんで?」
「私が気に入らなかったのだ。蒼の民という私の出自(しゅつじ)と私の革新的な研究が、自分の1級の座を危うくすると踏んだのだろう」
「へ、へぇ……。」

 アッシュは何気なくアイリス伯の口から出た「1級という」言葉にたじろいだ。

「なるほど、奴がついているのなら、お前の手には余るかもしれん……。」
 アッシュが気に入らなさそうに口を歪めた。
「……なめんといてくださいよ。策くらいはありますわ」
「……なんだと?」
 アッシュは得意げに言う。
「俺の術式、ただ人を操るだけやないですから。ちぃとあの()の頭ん中(のぞ)かせてもろうとりますわ。
 ダリア伯の屋敷ではささやかな宴が始められていた。
 貴族の食事に招かれているということで、マゼンタはマナーが分からず苦労していたが、シアンはテーブルマナーをしっかりと身につけていた。
 そんなシアンを見ながら、ダリア伯は「感心な少年ですなぁ」と頬をゆるませる。シアンの美しい容姿に完ぺきなマナーが併せられると、大人は見てるだけで機嫌が良くなるようだった。
 しかし、そんなシアンをバン爺をダリア伯と同じようには見ていなかった。そのシアンの落ち着きぶりに不自然さを感じていた。

 ダリア伯はナプキンで口をぬぐって言った。
「……それで、これからローゼス卿はどちらまで向かうご予定なので?」
「うむ……そのことなんじゃが……。今回お前さんの所に足を運んだのは、ちぃとばかし頼みごとがあったからなんじゃ」
「……はて、何でしょうか?」
「実は……王室に口添えを頼みたくての」
 ダリア伯はテーブルの上のナプキンをたたみなおした。
「……どういった事をでしょうか?」

 バン爺はシアンを見る。それを合図に、食卓の視線が一斉にシアンに集まった。

「この子の後見人(こうけんにん)を王室の者に頼みたいんじゃ」
「……あえておうかがいしませんでしたが、この子とローゼス卿とはどういったご関係で?」
「……この子、シアンはアイリス伯の子息じゃ」

 バン爺がその名を口にしたとたん、部屋の雰囲気が一変した。後ろにいた執事の顔にも驚きの表情があった。

「……なんと、あのアイリス伯ですか?」
「そう“あの”アイリス伯じゃ」
「しかし……いったい、なぜローゼス卿とアイリス伯の子息が……?」
「ありていに言うと、まったくの偶然じゃ。たまたまこの子と知り合う機会があっての。言ってしまえば何の縁もゆかりもない。じゃが、この子は有望な魔術師での。このまま父親の下におったら将来をつぶされかねん。父親以外身寄りがおらんようじゃが、王室で後見人をたててしまえばこの子を守れると思うての」
「なぜ……その……赤の他人ともいえるような子にそこまで?」
「ワシの責務(せきむ)じゃろうて」
「責務ですと?」
「かつて、1級魔術師の職務を投げ出した……な。ワシはこの国の魔術師の未来に責任があったはずじゃった。それを自分の都合でやめてしもうたからのう」
「……。」
「なにより、ワシは父親としての仕事も投げ出してしもうた」
「……あれは、ローゼス卿のせいではありません」
「どうじゃろうな」

 バン爺は鼻で笑った。そんなバン爺を、マゼンタは白パンをかじりながら見ていた。

 ダリア伯は気まずそうに杯のぶどう酒を飲むと、口をぬぐって態度を改めた。
「ローゼス卿、そうお考えであるならば、1級魔術師に復帰なさってはいかがか? 王都には貴方の復帰を待ち望んでいるアカデミー会員も多いのです」
「もう、ワシの等級は失効になっとるよ」
「そこは特例で何とかしてみせます。私や他の、ローゼス卿の支持者が手を回せば……。」
「権威で黙らせるか。若い魔術師の中には不満を持つ者が出てくるだろうな。……アイリス伯のように」
「そ、それは……。」

 バン爺は両手を差し出した。老人らしい、細くしわが入った手だった。

「ジジイのこのちっぽけな手で何とか出来るのは、子供ひとりの人生がやっとじゃよ。それでも手に余るわい」
 ダリア伯は目を落とす。
「……分かりました。王室への書簡(しょかん)を用意させます」
「助かるよ、ダリア伯」
「その書簡を、今は退任されたといえ、ローゼス卿が直々に王室へ持っていけば、よほどのことがない限り、要望が通らないという事はありますまい」
「だと良いがの。……ああそれとダリア伯」
「なんでしょう?」
「ちょいと……後で話せんか?」
「……よろしいですが──」

 ダリア伯はどんな話をするのか問おうとしたが、バン爺の表情を見て、それは言及すべきではないと直感的に思った。しかし、テーブルにはもうひとり直観に優れた者がいた。


 食事が終わり3人は部屋に戻った。各々割り当てられた部屋に向かおうとしていたが、先ほどの会話で気にかかることがあったマゼンタはバン爺に訊ねる。

「ねぇバン爺」
「何じゃ?」
 バン爺は荷物を整理していた。
「バン爺が1級を放棄(ほうき)したのは聞いてたけど、父親の仕事も投げ出したってのはどういう意味?」
「……そんなこと、言うとったけな?」
「……とぼけてる?」
「いやいや、歳じゃからのう。あんまり会話の細かいところは覚えられんよ」
「……じゃあ、あたしの事を自分の情婦(じょうふ)だって言ったことも?」
「そりゃ言っとらん」
「覚えてんじゃん」
 バン爺の荷物を整理する手が止まった。
「……あまり詮索(せんさく)はせんといてくれ。ただ、王宮の仕事にかまけて、家庭をないがしろにしただけじゃよ。よくある話じゃ」
「ふぅん」
 その後、3人はダリア伯の用意した寝室へ移動した。
 しばらくしてシアンが寝ついたあと、用を足すためにマゼンタは部屋を抜け出した。しかし、トイレの場所を侍女(じじょ)に聞いていたものの、広い屋敷なうえに部屋からの道順ではなかったため、マゼンタは屋敷の中で迷ってしまった。ようやくトイレを見つけたと思ったら、次は戻り方が分からなくなっていた。
 ふと、通り過ぎようとした部屋の前でマゼンタは足を止めた。中からバン爺とダリア伯の会話が聞こえてきていた。

「……なんと、それは本当ですか?」
「あくまで、今のところはワシの見立(みたて)にしか過ぎんがのう……。」
「ローゼス卿がそう言われるならば、信用するには十分でしょう。……しかしあの男め、等級をはく奪されただけでもまだ温情ある処置だったというのに……。なんという奴だ」
「……ワシはあの子を王都に連れて行くのは、魔導医に見てもらおうとも思っとるからでな。あの子の体が心配じゃ」
「……ローゼス卿、私がすべて手配します。引退なされた貴方がそこまでなさる必要は……。」
「……老い先短いジジイの最後の未練(みれん)じゃ、ワシにやらせてくれんかの」
「ローゼス卿……その、ご子息は自ら命を絶ったとは……。」
「気休めはよさんか。そうとしか、思えんじゃろう……。」


 マゼンタはまわりまわって、宴が開かれていた広間に戻っていた。そこでは、執事が飲み残しの酒と食べ残りの料理で、役得(やくとく)とばかりに独り飲みをしていた。

「……独りで飲んでてつまんなくない?」

 突然のマゼンタの登場と、主人に内緒の息抜きを見られた執事は狼狽(ろうばい)する。丸メガネがズレ落ち、肘があたりテーブルの上の空の杯が倒れてしまった。

「あ、貴方様は……。なぜこちらに? お、お休みになられてのでは?」
「慌てなくていいよ、チクったりしないから」

 マゼンタは執事の横にどかっと座った。そして杯を執事の前に出した。

「あたしも飲み足りないの。注いでよ」

 堂々と隣に座る若い女性にたじろぎながら、執事は酒を注いだ。マゼンタはその酒を一気飲みする。
 主人の大切な客人、さらにその若い女性が豪快(ごうかい)に酒を飲む(さま)に、執事は恐縮しながらも呆気にとられる。

「ささ、おじさまも飲みなよ」

 マゼンタは執事の杯になみなみと酒を注いだ。

「あ、ありがとうございます……。」

 すでにかなり飲んでいた執事だったが、マゼンタの勢いにおされ、杯を大きく傾けて酒を飲む。

「へぇ、良い飲みっぷりだねぇ。やっぱり男は性格が飲みっぷりに出るよね」

 脚を組み、頬杖(ほおづえ)をついてマゼンタは(いろ)めかしい目で執事を見る。

「は、はは、恐縮でございます……。」

 さらにマゼンタは顔を執事に近づける。執事は息をのんで身じろぎをする。

「おじさまって、けっこうあたしの好みなんだよねぇ」
「へ?」
「あたしが食事中もずっとおじさまのこと見てたの、気づいてた?」
「そう……でございますか?」
「なぁんだ、けっこういけずなんだなぁ」

 マゼンタは執事の膝に指を()わせた。執事の体がぴくりと反応する。

「ご、ご冗談を、こんな年寄りを……。」
「え? 知らなかった? あたし、バン爺のこれなんだよ?」
 マゼンタは小指をたてて見せた。執事は思わず目を丸くして「へぇ」と間抜けた声を上げる。
「でもさぁ、やっぱりお爺ちゃんだから、あんまり相手してくんないんだよねぇ」
「ま、まぁ、そもそもローゼス卿は、昔から身持ちの硬いお方でしたから……。」
「へぇ、おじさまもバン爺の事知ってるんだ?」
「それはもう、あの方は1級の魔術師でしたし……お、お?」

 マゼンタは再度、執事の杯になみなみと酒を注いだ。

「ねぇ、あの人の事、もうちょっと詳しく聞かせてくれない?」
「詳しくと……申しますと?」
「あの人ってさぁ、自分の昔のこと話したがらないのよぉ。1級の時どんな活躍してたとかぁ、家族の事とかぁ。なんだか曖昧(あいまい)な答えばっかりなの」
「あ、まぁ……。」

 執事がそそくさと顔をそらす。

「好きな男の事って、知りたくなるものでしょ?」

 マゼンタは執事の逸らした顔をのぞき込む。

「なっ」
「今は……おじさまの事を知りたいかも……。」
「ははは……。」
「さ、飲んで」

 執事はマゼンタに促されて執事は杯を傾けた。飲み干した執事の焦点が合わなくなり始めていた。頭髪の後退した頭は真っ赤になっている。
 マゼンタは横目でそんな執事を見ながら自分も杯を傾ける。そして大きくため息をついてうつむいた。急なマゼンタの消沈(しょうちん)ぶりに執事が困惑する。

「……どうなされました?」
「あの人ね……きっと昔の家族の事を気にかけてるから、あたしの相手をしてくれないんだと思う。……きっと息子さんの事よね」

 マゼンタが顔を上げ執事を見ると、執事は慌てて目をそらした。マゼンタは手ごたえを感じる。

「ねぇ、あの人の息子さんって、どうして亡くなったの?」
「あ、いや……それは……。」

 マゼンタは執事の手を取った。

「お願い、誰にも言わないから。好きな人が、どういう人生を送ってきたのか知りたいだけなの」
「は、はあ……。」

 マゼンタは執事の手を強く握る。目が少しうるんでいた。酔いの回った執事の頭は、こんなマゼンタの願いを無下(むげ)にした方が気の毒であろうという結論に至った。

「……誰にも言わないと約束していただけますかな?」
「もちろん」

 そう言ったものの、執事はのどに声が引っ掛かっているように、何度も語り出しそうにしてはためらい、マゼンタから目をそらしたりしてようやく話し出した。

「……あくまで聞いた話ですし、その話も噂話の域を出ないのですが……その、世間で言われているのは、ローゼス卿のご子息は自ら命を絶ってしまった……“らしい”という事でございます」
「……自殺? どうして?」

 そこまで大きな声でないにもかかわらず、慌てて執事はマゼンタの声のトーンを抑えるように両手をふった。

「あくまで噂です。……ご存じのように、ローゼス卿は1級魔術師でございました。しかし、ご子息はあまり才能がなかったと申しますか、まぁお父上が類まれな方だったということだったということなのですが、幾度(いくど)も等級試験を受けて、30近くにしてようやく受かったのが7級だったと……。」

 マゼンタはバン爺の腕にある、白い腕輪を思い出していた。

「1級のお父上をお持ちだというのに、自身が7級で限界だという事実がよほどショックであられたのでしょう、等級を受けてしばらくして……ローゼス卿のご子息は川に身を投げられてしまったのです……。」
「本当に? だって、事故で川に落ちたのかもしれないよ?」
「川辺に、脱ぎ捨てられたご子息の上着と靴が残されておりました。それに……。」
「それに?」
「川に身を投げる前に、自室にあった魔導書の(たぐい)に火をつけて燃やしていたという……。」
「……そりゃあ」
 身辺整理(しんぺんせいり)だな、とマゼンタは言いかけた。
「……それ以来、ローゼス卿は王室(づと)めを休むようになりまして……。とうとう最後には1級魔術師としての職をお辞めになられたのです……。」
「……そう、なんだ」
「人格者として名高いローゼス卿のことです、きっとご子息に厳しい言葉をかけたわけではないのでしょう。しかし、やはり偉大な親を持つと、子は苦労するものなのでございましょうな……。世間の目というものもございますし……。」

 酩酊(めいてい)していた雰囲気は今ではしらふになっていた。マゼンタは残った杯の酒を飲み干した。執事の杯にまた注ごうとしたが、執事は「結構です」と、杯の上に手を当てた。

「……ありがとう」

 マゼンタは立ち上がり部屋を後にする。

「くれぐれもこの話はご内密に……。」

 マゼンタはふり返った。
 
「大丈夫、すごく酔ってるから明日の朝には忘れるよ。……あなたもでしょ?」
 翌朝、3人はダリア伯の屋敷を出発した。
 ダリア伯は馬車やお供の提供を申し出たが、目立つと追手に足取りをつかまれる可能性があるため、バン爺は馬を2頭だけダリア伯に用意するよう頼んだ。
 王都へ向かう3人の旅路、空には彼らを遮るものがないかのように、晴れ晴れとした蒼穹(そうきゅう)が広がっていた。秋口の風はまだ夏の余韻(よいん)を残して、寒さはまだはるか遠くにあるようだった。
 バン爺とシアンが同じ馬に乗り、その先に後ろにひとりで馬に乗るマゼンタがいた。

「……ねぇバン爺、ここから王都まではどれくらいかかるの?」
「ええ馬を借りたからのう。それにこれからはこの広い街道沿(ぞい)いにいくわけじゃから、なんの問題も起らんかったら、おそらく……3日じゃろうかなぁ」

 バン爺の言うように、王都へと続く街道は広く整備されていた。馬も疲れることなく旅を続けられるだろう。

「3日かぁ……。」
「まぁ、子供とジジイの旅じゃから、何事もないと楽観するわけにはいかんが」
「……ジジイって、そんなに歳でもないでしょ」

 バン爺はマゼンタをふり返った。

「どうしたの?」
「何じゃい、急に気を使うような物言いしおって」
「……そう? あたしはいつだって人に優しいよ?」
 マゼンタはバン爺の後ろにいるシアンに「ねー」と言った。


 陽が傾く頃、バン爺は「先を急ぎたいが、無理も禁物(きいんもつ)じゃ」と、街道沿いにある村を地図で探し始めた。

「……もう休む場所を探すんだ?」
「素直に受け入れてくれるかどうかも分からん。基本、どこの村もよそ者には厳しいと考えた方が良いじゃろうからな」
「まぁそうだね」

 しかし運が良いことに、最初に訪れた村でバン爺たちは屋根を貸りることができた。その村は行商人がよく通るため、外部の人間が珍しくなかったのだ。村人に案内されたのは、住んでいた老夫婦が亡くなり、近々村で取り壊す予定のあった空き家だった。

「感じの良い村だね」
「ふぅむ」

 のどかな風景だった。種まきが終わった村では早めの冬の支度(したく)が始まり、男たちは建物の整備を、女たちは糸巻き車で糸を紡いでいた。村の中央では、家の手伝いを終えた子供たちがボール遊びをしていた。
 そんな村の子供たちを、夕日に照らされたシアンが遠くから眺めていた。元々、長い髪に真白い肌のシアンは見た目から他の子供たちとは違うが、今のシアンの姿はさらに、見えない壁で隔離(かくり)されているかのようだった。

「行ってきなよ」

 はっとしてシアンがふり返る。そこにはマゼンタがいた。

「……でも」

 村の子供たちをうらやましそうに見ていたシアンは遠慮がちに目をそらす。

「ダリアのお殿様からもらったのがあるから食料の調達しなくていいし、特に明日の朝までやることないからね。あたしもバン爺もぶっちゃけ暇だよ。仕事があるとしたら、村の人たちに良い顔するくらいぐらいでさ。シアンくんも暇だったら遊んでおいでよ」
「……ぼくは、いいよ」
「もしかして、どうやって入れてもらったら良いか分からないとか?」

 恥ずかしさと悲しさでうっすらと頬を赤らめてうつむくシアンは、夕日もさしている効果もあって実に絵になる姿だった。
 そんなシアンに一瞬ほうっと見とれてしまっていたが、いかんいかんとマゼンタは首をふって子供たちのもとへ颯爽(さっそう)と歩いていった。

「ねぇ、おねえさんも混ぜてよ」

 突然のよそ者に面を食らっていたが、遊びの人数は多ければ多いほど良いという子供ながらの原理が働き、リーダー格の子供の「いいよっ」という一言でマゼンタは遊びに加わった。
 初めて訪れる村の遊びとはいえ、ただ単に鬼が逃げる相手にボールをぶつけ、ぶつかったらその子供が次に鬼になるという単純な遊びだった。年長のマゼンタは本気になることなく、適度にボールにぶつかったり、軽く投げるなどして彼らに程度を合わせていた。
 頃合いを見て、マゼンタは遠くで見ているシアンの方へボールをわざと飛ばした。転がってきたボールをどうしたらいいか分からずに、シアンは足元のボールを見るばかりだった。

「おーいっ、ボールこっち持ってきて~」

 マゼンタは手をふってシアンを呼ぶ。シアンはボールを拾うが、困惑した顔でただマゼンタたちを見ていた。
 マゼンタは自分を遊びに入れるよう促したリーダー格の子供に目配せをする。その子供はシアンの方へ走って行ってボールを受け取った。言葉が通じない外国の子供でもあっても遊びに誘いそうなほどに人見知りの無い少年は、シアンの手を引いて仲間の輪に戻ってきた。
 シアンが輪に入ってくると、子供たちは一斉にシアンに質問を浴びせかけた。歳が近いものの、見た目が明らかに毛並みの違うこの少年は子供たちの好奇の的だった。男なのか女なのか分からない中性的で美しい風貌(ふうぼう)に、生まれながらに(ただよ)う気品、例え子供だとしてもシアンが普通ではないことは直感で分かった。
 シアンが質問攻めから解放されると、子供たちはボール遊びを再開した。どうやらシアンは遊ぶという行為そのものに慣れていないようで、ボールの投げ方もぎこちなく、投げれば避けられ投げられれば当たってしまっていた。
 しかし、そこはまたこの少年の独特の気質がなせるものなのだろう、男の子たちはまるで少女に物を教えるかのように優しくなり、女の子たちはまるで王子様に仕えるように丁寧になった。
 マゼンタはこっそりと子供たちの輪を抜けると、遠巻きからその微笑ましい光景を眺めていた。
 やがて日が完全に沈むと、子供たちは解散し自分たちの家へ帰っていった。シアンはまだ遊び足りないようだったが、一緒に遊ぶ子供がいなくなってしまってはどうしようもなく、マゼンタたちのいる空き家に戻っていった。
 夕食時、3人は寝床代わりにござ(・・)を敷き、そこに座って食事をしていた。ダリア伯からもらった、パンや干し肉、果物に加えて、ダリア伯はシアンに気を使ってブリオッシュなどのお菓子も用意していた。

「ずいぶん楽しんどったようじゃの」
 バン爺は数時間前のシアンの様子を思い出していた。

「……。」

 しかし、シアンは村の子供たちと遊んでいた時が嘘であるかのように、大人しい表情になっていた。

「あ、ほらシアンくん。ブリオッシュがあるよ、あたし、これ、すごい好きなんだよね」

 マゼンタはブリオッシュを手に取って一口かじると、「おいし~」と、感動のあまり目をうるませた。貴族の家で作られる菓子である。彼女がこれまで食べたブリオッシュに比べ、砂糖とバターの使用量が違っていた。甘い菓子に舌鼓(したつづみ)を打つマゼンタは、本来の年齢の18歳よりも子供っぽく見える。

「ほらほら、腐らせたらもったいないよ。シアンくんが食べないと全部食べちゃうから」
「ブリオッシュはそんなに早く腐らんよ。意地きたない真似はやめんかい」
「……ぼくはいいから、ぜんぶ食べてよ」
「え?」

 マゼンタはあくまでカマをかけただけだったので、さすがに全部食べて良いと言われると面を喰らった。

「おや、お前さん甘いものは嫌いかね?」
「あ、そうじゃないけど……。」
「じゃあ、遠慮はいらんよ。たぶん、ダリア伯はお前さんが食べると思うてこれを入れとるんじゃから」
「うん、でも……ぼくは……いいや。みんなで食べて」
「いや、あたしもこれ以上は太っちゃうから」

 ふたりの視線は自然とバン爺に向かった。

「……そんなもん食べたら翌朝まで胃もたれをおこすわい」
「そうだよシアンくん、バン爺は体の半分が腐り始めてるんだから」
「お前さん、また口が悪くなっとるぞ……。」
「サービス期間は終わったから」
「なんじゃい。……シアンや、必要のないところで遠慮などしても美徳になりゃせんぞ。もし、お前さんが遠慮することでアイリス伯の機嫌を取っていたのなら、それはアイリス伯だけの事じゃ。ワシのようなジジイは子供がのびのびと自分の感情を見せとる方が嬉しいもんじゃよ。昼間のお前さんのようにのう」
「まぁね、自分を押し殺してる子供を見てると不安な気持ちになるしね」
「自分の気持ちの出し方を子供の内に学んどらんとな、大人になってから自分の感情で自分を殺してしまうような人間になってしまうぞ」

 マゼンタはバン爺を見る。その言葉の意味の向こうに、マゼンタは川に身を投げたバン爺の息子の事を想像していた。

「……なんじゃい?」
「ううん、なんでもない……。じゃあシアンくん、あたしと半分こしようよ。それだったら良いでしょ?」

 シアンはうなずいた。
 マゼンタはブリオッシュを半分ちぎってシアンに渡した。シアンは手に取ったブリオッシュを最初はじっと見ていたが、やがておずおずとそれを口に入れ始める。

「……おいしい?」

 シアンは「うん」と返事をし、最初はゆっくりと食べていたが、やがてすぐに勢いよく平らげた。
 マゼンタはそのシアンの様子を見て微笑んで見ていた。そしてシアンと目が合うと、「はい」と自分が持っていた残りのブリオッシュを渡す。シアンは頬を赤らめてそれを受け取ると、ぱくぱくとそれも平らげた。

「シアンが美味そうに食べるから、ワシも食べたくなってきてしまったわい。まだブリオッシュはあるかね」
「おじいちゃん? ブリオッシュはさっき食べたでしょう?」
「バカにするでない、覚えとるわそれくらい」

 マゼンタは悲し気に小さく首をふった。

「……え? 本当かね?」
「……自信がなくなってきた?」

 マゼンタは手を叩いて笑った。

「ジジイ相手にその冗談はやめてくれ、最近心配になっとるんじゃ」
「ごめんって」
「だいたい、毎回その手の冗談を言いよるが、そもそも面白くもなんとも──」

 言いかけていたバン爺だったが、マゼンタの顔を見て喋るのをやめた。マゼンタの視線の方を見ると、そこには笑っているシアンの姿があった。

「……おお」
「シアンくん……。」

 3人が出会って、初めて見た少年の笑顔だった。その笑顔は、今までの少年の憂い顔よりも、はるかに人の心を打つものだった。