「ま、いいわ」
女の溜め息混じりの返事に、男はほっと胸を撫で下ろした。
「ふわぁ」
スマートフォンのアラームで目覚めた青年は、上半身を起こしあくびをする。のそりとベッドから降りるとドアを開けて廊下に出た。
「あ、おはようさん」
「おう、おはよう」
隣の部屋からもうひとりの青年が顔を出す。ふたりは順番に洗面所を使い、部屋に戻って身支度を整えたら揃って外に出た。並んで時々会話をしながらぶらぶらと通りを進む。
やがて路地に入り角をいくつか曲がったところのどん突きに辿り着く。
そこは小さな神社だった。ふたりは朱色の鳥居の前でお辞儀をし、静かに境内に入ると手水舎で手を清め、お社の鈴を鳴らし賽銭を入れて二礼二拍手一礼。
ふたりの願いが聞き届けられるかどうかは、まさに神のみぞ知る、である。それでもふたりは満足げな顔を上げて神社を後にした。
女が出した条件は心苦しいものだがそれも止む無しだ。だがこれできっと大丈夫なはずだ。そう思いたい。
「どうかよろしく頼むぞ」
願いを込めて男は呟いた。
◆
「ありがとうございましたぁー」
高輪謙太は笑顔でお客さまを送り出した。すると入れ替わりに、新たなお客さまが来店する。
「いらっしゃいませぇ〜」
「らっしゃあせー」
謙太と、そして成田知朗は元気にお客さまを出迎える。
「大盛り煮卵入り一人前ね」
「は〜い、お待ちくださいねぇ〜」
謙太が鉢に風味豊かな味噌だれを入れ、すっきりとした魚介と鶏がらのダブルスープを注いだら、泡立て器で味噌だれを溶かす。
知朗がそこにしっかりと水切りをした、ぷりっと茹だった麺を入れて菜箸で綺麗に均し、謙太が鶏チャーシューとめんまと生の根切りもやし、小口切りの青ねぎとなると、最後に縦半分に切った煮卵をこんもりと形良く盛り付けたら完成である。
「味噌ラーメン大盛り煮卵入り、お待ちどうさんでぇす」
「ありがとう。今日も美味しそうだね」
「ありがとうございます〜。熱いうちにお召し上がりくださいねぇ」
でっぷりとしたお客さまの嬉しそうな表情に、謙太はにっこりと白い歯を見せた。
ここは「味噌麺屋」と言う、なんの捻りも無い名の味噌ラーメン屋だ。謙太と知朗ふたりで経営している。
オフィス街でひっそりと営業を始めたが、立地も良かったのか、近隣の企業にお勤めの会社員の人々が、ランチに入れ替わり立ち替わり訪れる様になった。
夜は夜で夕飯や、飲んだ後の締めで来てくれるお客さまが。お陰さまで客入りは上々だ。
ふたりで回すために、カウンタだけのささやかな店舗である。テーブル席を設けられるような規模だと、接客にアルバイトなどを雇わないとならなくなり、それはふたりにとってリスクだった。
充分なアルバイト代が支払えるかどうかは、店をオープンさせてみないと判らない。それに広い店舗を借りるとなると賃料もそれなりだ。
もちろん繁盛させるつもりでオープンさせた味噌麺屋だが、もしもの時にはできる限り傷跡が少なくなる様にと、ふたりでよく考えたのだった。ありがたいことにそんな心配は杞憂だったのだが。
まだ若い謙太と知朗は、独学でラーメンの勉強をした。
いろいろなラーメン店の看板メニューを食べ歩き、謙太が特に好きな味噌ラーメンの専門店にすることにした。
すると今度は味噌蔵を訪ね歩いて好みの味噌を見付け出し、それに合わせる調味料を厳選し、その味わいを大いに活かすために、スープは魚介と鶏がらベースでシンプルに取ることにした。
麺はスープに合うものを業者から仕入れている。これもスープを手に様々な工場を渡り歩いた。味噌ラーメンなので行き着いたのは中太のちぢれ麺だ。
ベースの具はオーソドックスなものに決めた。こういうのは奇をてらったところで、食べてもらう人には受け入れにくいだけだ。仕入れも難しくなる様なことはしないに限る。
その代わり鶏チャーシューは店内で丁寧に作っているし、めんまの味付けも店内でしている。根切りもやしと青ねぎは新鮮なものを毎日仕入れている。
なるとは実は無くても良いかと思ったのだが、トッピングが四品というのは日本人的に縁起が良くない。それに白地にピンクの渦を巻いたなるとを入れたら、彩りがぐっと良くなった。それもまた料理に大事なことだ。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
スープまで飲み干したお客さまが立ち上がり、財布からじゃらりとラーメン代ちょうどの小銭を出す。
「ありがとうございました〜。またお越しくださぁい」
謙太はお代を両手で受け取り、出て行くお客さまを見送った。
そうして謙太と知朗は笑顔を絶やさず忙しなく動き回った。
ランチタイムのラストオーダーは13時半。お客さまが帰られ店内が無人になったら、夕方まで休憩である。とはいえ夜の分の仕込みがあるので、そうゆっくりもしていられないのだが。
「今日も忙しかったな。ありがてぇなぁ」
「ほんまやねぇ。ほらトモ、とっととご飯食べてまおう。一息入れたら夜の仕込みやで〜」
「おうよ」
少し遅めの昼ご飯は知朗が作る親子丼か炒飯である。今日は親子丼だ。
ご飯は唯一のサイドメニューのため、いつでも炊いてあるので、それにスープと鶏チャーシューの切れ端、卵と青ねぎで作った具を乗せる。味付けは味噌だったり醤油だったりと毎日変えている。
「いただきまぁす」
「いただきます」
謙太と知朗はカウンタに並んで手を合わせ、ラーメン鉢に作った親子丼をれんげで掻っ込んだ。今日はシンプルに塩味である。知朗は好みでラー油を垂らした。
数分後にはすっかりと空になった鉢を前に、満ち足りたお腹をさする。
「はぁいトモ、コーヒー」
「お、サンキュー」
マグカップにインスタントコーヒーを入れ、謙太は買い置きしているフィナンシェにかぶり付く。
甘党な謙太は、コーヒーにも砂糖とミルクをたっぷりと入れた。ブラックコーヒーの知朗は辛党ほどでは無いが、さほど甘いものが得意では無い。
「さ、夜の仕込みだ。ここ踏ん張ったら明日は休みだぜ」
今日は土曜日。味噌麺屋の定休日は日曜日である。ビジネス街で店舗を構えていたら珍しく無い設定だ。
「うん。また時間も遅くなるしねぇ。頑張ろうねぇ〜」
そして深夜営業はラーメン屋の常である。謙太と知朗は立ち上がると、まずは使い終わった食器を片付け始めた。
深夜までの営業もつつがなく終え、店じまいをする謙太と知朗。明日が定休日なこともあり、朝方まで開いている居酒屋で軽く夕飯を摂る予定だ。
厨房を水で流してブラシで掃除し、カウンタも丁寧に拭いて床をほうきで掃いていく。その後にはモップ掛けである。
「俺、まぐろの刺身食いてぇ」
「売り切れて無かったらええねぇ」
深夜なので刺身などの鮮魚は品切れていることもある。そんな話をしながらせっせと手を動かした。
火の元をふたりで何度も確認してしっかりと施錠をし、人通りのとんと途絶えたビジネス街へと繰り出す。少し歩いたところに漏れ出る灯りは、目当ての居酒屋が元気に営業している証しだ。
中に入ると客はまばらで、ふたりは空いている席に適当に掛けて、お酒やいくつかの料理を頼んだ。まぐろの刺身にも無事ありつけた。
腹八分目のほろ酔いで、ふたりは居酒屋を後にし帰途へ着く。
ふたりが暮らしているのは味噌麺屋の上、店が入っているビルの2階である。小さなキッチンと小振りな洋室がふたつあるだけの手狭な物件だ。
1階のテナント部分で商売をする人が自由に使える様にと、ビルの持ち主の計らいで作られた空間。ふたりはそこで生活していた。
謙太も知朗もほとんどの持ち物を実家に置いたまま、必要最低限のものだけを持ち込んでいる。なのでそれぞれの部屋は殺風景なものだった。
ベッドと机、後は趣味のものが少々ある程度。それでも生活には困らなかった。
ふたりはビルからむき出しになっている、かすかに錆の浮いた外階段を使って2階に上がり部屋へと入る。ゆっくり座る間も無く寝支度を整えて。
「じゃあおやすみぃ。僕は明日はお寝坊の予定やで〜」
「俺もそうするかな。アラーム無しで寝るとするか。おやすみ。あ、神社に参拝は行かなきゃな」
ふたりは定休日のたびに、近くの小さな神社に商売繁盛と健康を祈りに行っているのである。
「そうやねぇ。おやすみぃ〜」
そうしてふたりはそれぞれの部屋に入り、健やかな眠りについた。
女の溜め息混じりの返事に、男はほっと胸を撫で下ろした。
「ふわぁ」
スマートフォンのアラームで目覚めた青年は、上半身を起こしあくびをする。のそりとベッドから降りるとドアを開けて廊下に出た。
「あ、おはようさん」
「おう、おはよう」
隣の部屋からもうひとりの青年が顔を出す。ふたりは順番に洗面所を使い、部屋に戻って身支度を整えたら揃って外に出た。並んで時々会話をしながらぶらぶらと通りを進む。
やがて路地に入り角をいくつか曲がったところのどん突きに辿り着く。
そこは小さな神社だった。ふたりは朱色の鳥居の前でお辞儀をし、静かに境内に入ると手水舎で手を清め、お社の鈴を鳴らし賽銭を入れて二礼二拍手一礼。
ふたりの願いが聞き届けられるかどうかは、まさに神のみぞ知る、である。それでもふたりは満足げな顔を上げて神社を後にした。
女が出した条件は心苦しいものだがそれも止む無しだ。だがこれできっと大丈夫なはずだ。そう思いたい。
「どうかよろしく頼むぞ」
願いを込めて男は呟いた。
◆
「ありがとうございましたぁー」
高輪謙太は笑顔でお客さまを送り出した。すると入れ替わりに、新たなお客さまが来店する。
「いらっしゃいませぇ〜」
「らっしゃあせー」
謙太と、そして成田知朗は元気にお客さまを出迎える。
「大盛り煮卵入り一人前ね」
「は〜い、お待ちくださいねぇ〜」
謙太が鉢に風味豊かな味噌だれを入れ、すっきりとした魚介と鶏がらのダブルスープを注いだら、泡立て器で味噌だれを溶かす。
知朗がそこにしっかりと水切りをした、ぷりっと茹だった麺を入れて菜箸で綺麗に均し、謙太が鶏チャーシューとめんまと生の根切りもやし、小口切りの青ねぎとなると、最後に縦半分に切った煮卵をこんもりと形良く盛り付けたら完成である。
「味噌ラーメン大盛り煮卵入り、お待ちどうさんでぇす」
「ありがとう。今日も美味しそうだね」
「ありがとうございます〜。熱いうちにお召し上がりくださいねぇ」
でっぷりとしたお客さまの嬉しそうな表情に、謙太はにっこりと白い歯を見せた。
ここは「味噌麺屋」と言う、なんの捻りも無い名の味噌ラーメン屋だ。謙太と知朗ふたりで経営している。
オフィス街でひっそりと営業を始めたが、立地も良かったのか、近隣の企業にお勤めの会社員の人々が、ランチに入れ替わり立ち替わり訪れる様になった。
夜は夜で夕飯や、飲んだ後の締めで来てくれるお客さまが。お陰さまで客入りは上々だ。
ふたりで回すために、カウンタだけのささやかな店舗である。テーブル席を設けられるような規模だと、接客にアルバイトなどを雇わないとならなくなり、それはふたりにとってリスクだった。
充分なアルバイト代が支払えるかどうかは、店をオープンさせてみないと判らない。それに広い店舗を借りるとなると賃料もそれなりだ。
もちろん繁盛させるつもりでオープンさせた味噌麺屋だが、もしもの時にはできる限り傷跡が少なくなる様にと、ふたりでよく考えたのだった。ありがたいことにそんな心配は杞憂だったのだが。
まだ若い謙太と知朗は、独学でラーメンの勉強をした。
いろいろなラーメン店の看板メニューを食べ歩き、謙太が特に好きな味噌ラーメンの専門店にすることにした。
すると今度は味噌蔵を訪ね歩いて好みの味噌を見付け出し、それに合わせる調味料を厳選し、その味わいを大いに活かすために、スープは魚介と鶏がらベースでシンプルに取ることにした。
麺はスープに合うものを業者から仕入れている。これもスープを手に様々な工場を渡り歩いた。味噌ラーメンなので行き着いたのは中太のちぢれ麺だ。
ベースの具はオーソドックスなものに決めた。こういうのは奇をてらったところで、食べてもらう人には受け入れにくいだけだ。仕入れも難しくなる様なことはしないに限る。
その代わり鶏チャーシューは店内で丁寧に作っているし、めんまの味付けも店内でしている。根切りもやしと青ねぎは新鮮なものを毎日仕入れている。
なるとは実は無くても良いかと思ったのだが、トッピングが四品というのは日本人的に縁起が良くない。それに白地にピンクの渦を巻いたなるとを入れたら、彩りがぐっと良くなった。それもまた料理に大事なことだ。
「ごちそうさま。美味しかったよ」
スープまで飲み干したお客さまが立ち上がり、財布からじゃらりとラーメン代ちょうどの小銭を出す。
「ありがとうございました〜。またお越しくださぁい」
謙太はお代を両手で受け取り、出て行くお客さまを見送った。
そうして謙太と知朗は笑顔を絶やさず忙しなく動き回った。
ランチタイムのラストオーダーは13時半。お客さまが帰られ店内が無人になったら、夕方まで休憩である。とはいえ夜の分の仕込みがあるので、そうゆっくりもしていられないのだが。
「今日も忙しかったな。ありがてぇなぁ」
「ほんまやねぇ。ほらトモ、とっととご飯食べてまおう。一息入れたら夜の仕込みやで〜」
「おうよ」
少し遅めの昼ご飯は知朗が作る親子丼か炒飯である。今日は親子丼だ。
ご飯は唯一のサイドメニューのため、いつでも炊いてあるので、それにスープと鶏チャーシューの切れ端、卵と青ねぎで作った具を乗せる。味付けは味噌だったり醤油だったりと毎日変えている。
「いただきまぁす」
「いただきます」
謙太と知朗はカウンタに並んで手を合わせ、ラーメン鉢に作った親子丼をれんげで掻っ込んだ。今日はシンプルに塩味である。知朗は好みでラー油を垂らした。
数分後にはすっかりと空になった鉢を前に、満ち足りたお腹をさする。
「はぁいトモ、コーヒー」
「お、サンキュー」
マグカップにインスタントコーヒーを入れ、謙太は買い置きしているフィナンシェにかぶり付く。
甘党な謙太は、コーヒーにも砂糖とミルクをたっぷりと入れた。ブラックコーヒーの知朗は辛党ほどでは無いが、さほど甘いものが得意では無い。
「さ、夜の仕込みだ。ここ踏ん張ったら明日は休みだぜ」
今日は土曜日。味噌麺屋の定休日は日曜日である。ビジネス街で店舗を構えていたら珍しく無い設定だ。
「うん。また時間も遅くなるしねぇ。頑張ろうねぇ〜」
そして深夜営業はラーメン屋の常である。謙太と知朗は立ち上がると、まずは使い終わった食器を片付け始めた。
深夜までの営業もつつがなく終え、店じまいをする謙太と知朗。明日が定休日なこともあり、朝方まで開いている居酒屋で軽く夕飯を摂る予定だ。
厨房を水で流してブラシで掃除し、カウンタも丁寧に拭いて床をほうきで掃いていく。その後にはモップ掛けである。
「俺、まぐろの刺身食いてぇ」
「売り切れて無かったらええねぇ」
深夜なので刺身などの鮮魚は品切れていることもある。そんな話をしながらせっせと手を動かした。
火の元をふたりで何度も確認してしっかりと施錠をし、人通りのとんと途絶えたビジネス街へと繰り出す。少し歩いたところに漏れ出る灯りは、目当ての居酒屋が元気に営業している証しだ。
中に入ると客はまばらで、ふたりは空いている席に適当に掛けて、お酒やいくつかの料理を頼んだ。まぐろの刺身にも無事ありつけた。
腹八分目のほろ酔いで、ふたりは居酒屋を後にし帰途へ着く。
ふたりが暮らしているのは味噌麺屋の上、店が入っているビルの2階である。小さなキッチンと小振りな洋室がふたつあるだけの手狭な物件だ。
1階のテナント部分で商売をする人が自由に使える様にと、ビルの持ち主の計らいで作られた空間。ふたりはそこで生活していた。
謙太も知朗もほとんどの持ち物を実家に置いたまま、必要最低限のものだけを持ち込んでいる。なのでそれぞれの部屋は殺風景なものだった。
ベッドと机、後は趣味のものが少々ある程度。それでも生活には困らなかった。
ふたりはビルからむき出しになっている、かすかに錆の浮いた外階段を使って2階に上がり部屋へと入る。ゆっくり座る間も無く寝支度を整えて。
「じゃあおやすみぃ。僕は明日はお寝坊の予定やで〜」
「俺もそうするかな。アラーム無しで寝るとするか。おやすみ。あ、神社に参拝は行かなきゃな」
ふたりは定休日のたびに、近くの小さな神社に商売繁盛と健康を祈りに行っているのである。
「そうやねぇ。おやすみぃ〜」
そうしてふたりはそれぞれの部屋に入り、健やかな眠りについた。