京の鬼神と甘い契約〜天涯孤独のかりそめ花嫁~

 十月初めの京都は、まだ夏の残り香が漂っている。

 私――栗原(くりはら)(あかね)がパジャマ姿で部屋の窓を開けると、慣れ親しんだ匂いを風が運んできた。

 秋の気配もだんだん濃くなってきた、祇園の匂い。和菓子や、舞妓さんのおしろい、伝統様式を取り入れた木造家屋。それに混じる、コンビニの灯りや車のエンジン音。古いものと新しいものが調和した、古都ならではの匂いだ。

 薄紫色に沈んだ、見慣れた木造の町並み。あのお土産物屋さんも、あのカフェも、まだ眠っている。

 早朝に二階から見下ろす、息をひそめたこの町が、私は好きだった。

 パジャマを脱ぎ、身支度をする。長袖だと暑い日もあるけれど、今日はちょうどいいみたい。落ち着いたピンク色の、上下が分かれている簡易着物に着替え、白いエプロンをつける。肩で切りそろえた栗色の髪はたんねんにブラシでとかして、顔に落ちてこないよう耳のところでピンで留め、全身を鏡でチェックする。

 十九歳にしてはやや幼い容姿だが、毎日着ているだけあって大人っぽい着物もなじんでいる。よし、と満足したあと、私は茶の間に続く襖を開けた。
「おじいちゃん、おはよう」
「ああ、おはようさん」

 祖父の(はじめ)は、ちゃぶ台の前に座って緑茶を飲みながら、新聞を読んでいた。

 細くて小柄ながら、もうすぐ七十歳とは思えないほどぴんと伸びた背筋。頭のてっぺんが寂しくなってきた白髪は、さっぱりと短く整えられている。

 身につけているのは紺色の作務衣。家ではほとんどこの格好で、営んでいる和菓子店では白い板前服だから、祖父はワードローブが極端に少ない。

「茜。何回も言うようやけど、朝からわざわざ着物に着替えて家事をするのは大変やないんか?」

 茶の間とつながっている小さな台所に立つ私の後ろ姿に、祖父が声をかける。

「えー?」

 私は鮭の切り身を焼いて、お味噌汁の具にする豆腐とネギを切りながら生返事をする。炊きたてご飯と、お味噌汁と焼き魚。祖父の大好きな和食の朝ごはんだ。

「だってパジャマを脱いで普通のお洋服を着て、またお仕事の前に着物に着替えたら、二回も着替えることになっちゃうでしょ。だったら着物のまま家事をしたほうがいいじゃない。エプロンは取り替えているし、問題ないかなって」
「問題はないが。なんなら、パジャマのままでもわしはかまわんよ」
「それはなんだかだらしない感じがしちゃって嫌なの」
 初めてこの祇園――おじいちゃんの店に足を踏み入れたとき。

『この素敵な古都に恥じないような、〝しゃん〟とした人間になろう、ちゃんとおじいちゃんの言うことをきいていい子でいよう』

 そう子供心ながらに決心した。そうしたら、町が私を受け入れてくれるような気がしたのだ。その気持ちは今も変わっていない。

 小学三年生のとき両親を事故で一度に失った私は、父親の仕事の都合で住んでいた茨城から、父の故郷であり祖父が住んでいる京都に引っ越した。

 数回しか会ったことのない私を祖父が引き取って育ててくれたのだ。京都の人は冷たい、と教えられていたけれど、祖父も周りの人もみんな優しくしてくれた。

 それから十年がたち、今はもうすっかりここが私の〝故郷〟になっている。
 祖父の店を継ぎたくて、中学生からずっと店番のお手伝いをしてきたし、この春に高校を卒業してからは和菓子作りも少しずつ教えてもらっている。

「できたよ、おじいちゃん。ちゃぶ台の上、片づけてね」
「おお、今日もうまそうだ」

 家事は、祖父の役に立ちたくて自主的に覚えた。祖母と早くに死別した祖父もひととおりの家事はできるが、もう歳だし無理をしてほしくない。そんなこんなで、高校生になったころには家事の一切を私が取り仕切っていた。
 放課後はお店の売り子をして、終わったら夕飯を作る。正直大変だったけれど、大好きな祖父と長く一緒にいられて、祖父に楽をさせてあげられることがうれしかった。

 しんどくなったときに思い出すのはいつも、授業参観でお母さんたちに交じって教室の後ろに並ぶ祖父の照れた顔や、運動会の親子二人三脚で一緒に走ってくれた、汗だくの祖父の姿だ。

 お店を継いで和菓子職人になるのを強制されたことはないけれど、いつの間にか自然と祖父のあとを継ぎたいと思うようになっていた。

 いつだったかは覚えていない。もしかしたら、この家に来たときからそう思っていたのかもしれない。そう感じるくらい祖父の作る和菓子は素朴で優しくて、心をホッと温めてくれるものだったから。

 さらに和菓子を作る祖父の後ろ姿はかっこよくて、それを毎日見ていた私が和菓子職人を目指すのは必然だったように思える。

「そういえば茜は、好きな人とかおるんかあ?」

 ふたりで黙々と朝食をとっていると、祖父が突然柄じゃない話題を切り出した。いつも食事のときは静かに食べるのに、珍しい。

「どうしたの、急に。今までそんなこと、聞いてきたことなかったのに」
「いや……。例えばうちの弟子たちの中で気になるやつはおらへんのかな、と思うてな」
「うちの弟子って言ったって……」

 和菓子職人の見習いとして働いているお弟子さんたちが、うちの店には三人いる。

 一番弟子の小倉さんは、実家が滋賀県で和菓子店を経営している。祖父同士が知り合いなので、うちに修行に来ているのだ。

 そして、専門学校を卒業したあとうちで働くことになった安西さんと佐藤さん。全員、二十代後半くらいだったと思う。
「みんな、私が小学生のときからうちで働いているし……。そんなふうに考えたことはないかな」

 そう答えて、お味噌汁に口をつける。

「そおか?」

 祖父は少しがっかりしたようだった。

「茜。けどな、もしおじいちゃんが死んだらな、小倉くんたちと協力して仲よく店をやっていくんやで」

 唐突な言葉に、焼き魚をほぐす手が止まる。

「なんでそんなこと言うの……? おじいちゃん、どこか悪いの?」

 たずねながら、手元が震える。

「どこも悪いことあらへん。ただな、もうわしも歳やし、茜より早く死んでしまうのは確実やから、心配でしようがあらへんねん」

 祖父は私より先に死んでしまう。それは私が祖父に引き取られたときからずっと目の前に横たわっている不安で、見ないようにしていた問題でもあった。

 絶対に起こることなのに、遠くて違う世界のように思える。そんな日が来ると想像するだけで、呼吸さえもぎこちなくなるくらい怖い。

「それは、そうだけど。でも」
「弟子のだれかと結婚しろとか、強制するつもりはないんや。ただそうなったときは小倉くんたちを頼ってほしいってことを、覚えておいてほしいだけや」

 そんな遺言みたいなこと、言わないでほしい。

 でも、ここで私が深刻な顔をしたら、この不安が現実のものになってしまう気がして、私は無理やり笑顔を作った。

「……わかった。そのときはみんなでがんばるね。でも、もっと長生きしてくれなきゃ嫌だよ」
「もっとも。そう簡単に茜を置いて逝ったりせえへん」
「本当だよ?」

 まだ成人式の晴れ着姿だって見せていないし、恋人すらいないけど、いつかは花嫁姿だって見せたい。祖父と腕を組んでバージンロードを歩けたら、どんなに幸せだろう。

「おじいちゃんが変なこと言うから、びっくりしてごはんが喉を通らなくなっちゃったよ」
「すまんすまん。ごはん時(どき)にする話じゃあらへんかったかな」
「そうだよ、もう」

 私は笑いながら祖父の肩を叩く。
 食事が終わって洗い物をしながら、祖父の言葉を考える。

 恋愛については奥手で学生時代も好きな人はいなかったし、お弟子さんたちをそういう目で見たこともない。小学生のころはよく遊んでくれたし、私にとってはお兄ちゃん代わりという感覚だったから。

 祖父がこんなことを口にするようになったのも、私が十九歳になったからなのかな、と思う。祖父と祖母は二十歳で結婚したらしいから、まったく恋人ができない私が心配になったのかもしれない。

 今まで和菓子のことに夢中で恋愛に意識を向けてこなかった。それでいいと開き直っていたけれど、祖父が心配するならこれからは考えたほうがいいのだろうか……。といっても、急に好きな人ができるわけじゃないけれど。

 ひととおりの家事を終え、二階の住居から一階の店舗に下りてゆく。厨房に続く扉を開ける前に着物の乱れを直した。

「おはようございます、小倉さん。今日もよろしくお願いします」

 厨房に入ると、背の高いがっしりとした姿が見えた。坊主頭で強面の男性は小倉さんだ。白い板前服と板前帽には、『和菓子くりはら』の刺繍が入っている。

「お嬢さん。おはようございます」

 口角を上げただけの笑顔も、低くて抑揚のない声も、この人の生真面目な性格を表している。頭が硬くて融通がきかないところはあるけれど、みんなのリーダーで頼りになる人物なのだ。

「おはようさん」

 続いて、ぽっちゃり体型で温和な安西さん、一休さんのような見た目に眼鏡をかけている佐藤さんも声をかけてくれた。

 先に店に下りていた祖父は、すでに仕込みを始めている。

 現在、午前七時。十時のオープンまで、あと三時間だ。小倉さんたちは器用に手を動かして、大福や鹿ノ子を作っている。