「ねえ、章くん、一緒に来てくれない?」
 唐突に香織が言った。佐々木はぽかんと彼女を見返す。
「……何?」
「一緒に来て欲しいからここに来たの。本当はもっと早く来たかったのだけど、その前に寄らなきゃいけないところがあったから遅くなってしまったわ」
「寄らなきゃいけないところって……」
 嫌な予感がして佐々木は聞き返す言葉に力が入った。
「それって、もしかして」
「ええ、病院よ」
 さらりと香織は言った。
「面会時間ぎりぎりだったけど、信吾くんのお母さんに会って来たわ。あの人と話をしているとすごく疲れてしまって、ここでちょっと休んでいたの」
「信吾のお母さんに会って、何の話しをしたんだ?」
「一緒に来てくれれば判るわよ」
 にこりと香織は笑った。その笑顔が不気味に思えて佐々木は思わず一歩後ずさる。それに呼応するように香織は立ち上がると、まっすぐに湖の方を指差した。
「信吾くんに会いに行きましょう」
「え? 会いにって……何を言っているんだ……」
「だって、うちの人じゃだめなんですもの。俺の言う通りにしていろって言うばかりで、私の言うことをきいてくれない。昔は何でも言うことをきいてくれたのに……でも、章くんは違うわよね? 章くんは昔も今も私の言うこと、きいてくれるでしょ」
「ちょっと待ってくれ」
 佐々木は慌てて言った。
「何のことか判らないが、何かあるなら野村に言ってくれ。お前のために何でもするのは野村だろう」
「そうね」
 声のトーンを落として香織は答えた。
「だけど、信吾くんのことに関してはだめなの。言うことをきいてくれないわ……。だから、章くん、お願い」
「いや、だから、それは」
「お願い」
 不意に香織が佐々木の腕を掴んだ。ひやりとした冷たさにぎくりとする。
「一緒に来て。ね、章くん」
「やめてくれ」
 佐々木は彼女の腕を振り払った。
「お前、何を言っているんだ? とにかく、もう遅い時間だ、家に帰れ。送って行くから」
「嫌よ!」
「おい」
「今日、来たのよ!」
 佐々木を睨みつけて香織は言った。
「珠城って人が家に来たのよ。幸彦が連れて来て……それでその人は手紙を」
「信吾の手紙か」
「そうよ。どうして知っているの?」
「その人はうちに泊まっているんだ。その手紙のことは聞いたよ。中身は見なかったが。
 ……そうか、彼は今、野村の家にいるんだな。だけど、どうして幸彦が彼を連れて来たんだ?」
「それは判らないけど……とにかく、私、怖くて。信吾くんのこと、いろいろ野村に聞いてたわ」
「いろいろって、何をだ?」
「私たちの高校時代のことを野村は話していたようだったけど……私は耐えられなくて家をひとりで出てきたの」
「幸彦の傍にいてやらないとだめだろ」
「判ってる。だから、幸彦の傍にいてやるためにも、することがあるのよ」
「することって」
「私、信吾くんが今にも現れそうな気がするのよ。そして……温海ちゃんのように、自分が死んだ歳になった幸彦を湖に連れて行ってしまうんじゃないかって……」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。温海の死は信吾とは関係ない。湖の幽霊だのと、下らない。信吾は死んだんだぞ、死んだ人間に何ができると言うんだ?」
 言いながらも、佐々木は自分の声が震えるのを止められなかった。
 ……何だ、どうしてこんなに不安なんだ?
「確かに、死んでしまった信吾くんには何もできないでしょうよ」
 佐々木の気持ちに切り込むように香織が言った。
「でも、信吾くんのお母さんは生きている。年寄りだけど、復讐はできるわ」
「……復讐?」
「温海ちゃんが自殺した理由は判らないままでしょう」
「それが、何だというんだ」
「暗示をかけられたのよ。自殺するように信吾くんのお母さんに仕向けられたのよ」
「おい、まだそんなことを」
「本当に違うと言い切れる?」
 まっすぐにみつめられて、佐々木は次の言葉が出なかった。どこかで自分も疑っていたことだ。しかし、どうしても信じたくなくて必死で打ち消していた。大事な一人娘の温海が、自分の過去のせいで死んだなどと思いたくはなかったのだ。
「確かめに行きましょうよ」
 香織がもう一度、佐々木の腕を掴んで引いた。
「真実を見に行きましょう」
「真実、だと?」
「ええ。そうでなきゃ、私たちは誰も前には進めないわ」
 佐々木は、怖々、香織の顔を見返す。
「お前……何を企んでいるんだ?」
「家族を守ることよ」
 きっぱりと彼女は即答した。
「夫を、子供を、この生活を、私は守ってみせる。そのためなら何だってするわ。他の誰かを傷つけたってかまうものですか」
 香織の勢いに押されて、佐々木はただ、彼女の顔をみつめることしか出来なかった。


 水の音、土の匂い、風の感触。
 それだけしかない空間。
 手を差し出せば、歪んだ月から降り注ぐ柔らかな光を受け取れた。

 僕は誰だっけ?
 少年は無垢な心でそう思った。
 どうしてここにいるんだろう?

 目を凝らしても何も見えない。
 ここから出られないのかな、そう思った途端に、絶望が身体の中を這いまわった。
 
 助けて!
 ここから出して!

 悲鳴を上げそうになった時、背後で何かの気配を感じた。
 はっとして振り返ると、そこにいたのは白い服を着た初老の女性だった。
 短い髪はすっかり白くなり、顔には深くしわが刻まれていたものの、それは自分の知っている懐かしい顔だった。
「……母さん?」
 ぼんやりとそう呼ぶと、彼女は優しく微笑んで迎え入れるように両腕を広げた。
「ああ、信吾。こんなところにいたんだね。ずっとずっと捜していたんだよ。ずっとずっと待っていたんだよ。さあ、こっちへおいで。よく顔を見せて……」
「やっぱり、母さんだ」
 すっと目の前が明るくなった気がした。
 彼はゆっくりとした動作で自分の手を伸ばすと、それをまじまじとみつめた。
「母さん……僕はここにいる。やっとみつけたよ……」


 ☆
 佐々木は恐ろしさのあまり、持っていた大きなスコップを取り落とし、よろけて尻餅をついた。そして、傍らで冷静にこの様子を見ている香織にもつれる舌で必死に言った。
「こ、これはどういうことだ。お、お前の言う通りここを掘ったら……は、白骨が出てきたぞ。これは一体……」
「誰か、なんて言わないでよ」
 白けた様子で香織は言った。
「そんなの、信吾くんに決まっているじゃない」
「……嘘だろ。まさか、お前が殺して埋めたのか……?」
「違うわよ」
 溜息交じりに彼女は言う。
「殺してない。埋めたのは野村だけどね」
「……は? お前、何、言っているんだ?」
 佐々木は混乱しながらも、何とか立ち上がり、月明かりの中に浮かび上がる香織の冷たい横顔を見た。
「お、俺はお前の言う通りにスコップを持ってここに来た」
 と、周囲を見渡す。
 彼らが今いるのは、湖岸にある林の中だった。大きな木の根元を香織に言われるままに佐々木は掘り返した。そして、そこから現れたのは、子供のものと思われる白骨だったのだ。
「お前は、俺に、信吾を、あいつの骨を……掘り起こさせたのか?」
「そういうことになるわね」
「どういうことだよ!」
「……確かめたかったの。信吾くんが本当は生きていて、私たちを脅しているという可能性もあったから。私、埋めるところは見ていないのよ。だから不安だった。でも、違ったわね。ちゃんと死んでた」
「お前……」
 ぐっと息を呑んで、佐々木は言った。
「……確認するぞ。出てきたこの骨は、信吾なんだな」
「そうよ」
 香織は面倒だと言わんばかりに応じた。
「そうだって言ってるでしょ。くどいわね」
「どうしてこんなことになったんだ……?」
「今更、他人事のように言わないでくれる? あなただってあの時、一緒にいたでしょ。共犯じゃないの」
「共犯ってなんだよ、俺は何も」
「何もしてないって言える? 本当に?」
 たたみこまれて佐々木は口ごもる。
 言葉がみつからず、おろおろしていると香織が苛立って声を上げた。
「章くんも野村と一緒になって泳げない信吾くんを湖の深みに連れて行って、引っ張り回して面白がっていたじゃないの。それで何もしてないなんて言えるの?」
 佐々木は足が震えるのを止められなかった。
 確かにあの日、沢村信吾が湖で行方不明になった時、自分もそこにいた。そして、おとなしい信吾を湖に落として慌てて怖がる様子を見て笑っていた。
「だ、だけど」
 佐々木は必死に抗うように言った。
「それを俺たちにやらせたのはお前じゃないか。退屈だから、何かしろって。信吾が泳げないことを知っていて、湖の深いところに行って泳げと言っただろ」
「冗談よ。本気にするなんて思わなかったわ。それに、信吾くんをいじめろなんて、私、言ってないから。あんたたちが勝手にやったことでしょう」
「嘘つけ。お前も溺れる信吾を見て笑っていただろ!」
「うるさいわね」
「……信吾が溺れて、失神した時、俺は信吾を湖岸に引き上げて、すぐに助けを呼びに行った。だけど、戻ってきたら信吾の姿が無くなっていた。
 お前たちは助けに来た人たちに、信吾が湖に入ったまま上がって来ないと言った。それで湖の捜索が始まったけど……そんなはずはないんだ。俺は確かに信吾を湖岸に引き上げたんだからな。……ずっと、怖くて聞けなかった。……俺がいない間に、お前と野村は信吾に何をしたんだ」
「馬鹿」
 吐き捨てるように香織は言った。
「何、妄想してんのよ。私たちがあなたのいない間に信吾くんを殺したとでも言いたいの?」
「ち、違うのか」
「そんなことするわけないでしょ。一度、溺れて失神している信吾くんを私たち三人で必死に助けたのよ? なのにどうしてわざわざまた湖に落として殺すのよ。殺したいなら最初から助けたりしないで溺れているのを見殺しにするわよ」
「そ、それはそうだが。じゃあ、どういうことだ?」
「……簡単な話よ。あなたが助けを呼んでくる間に、信吾くんが死んでしまったのよ」
「え……」
「最初、引き上げた時、あの子、ぜいぜい息をしていたでしょう。それがだんだん弱まって……野村が人工呼吸をしてみたけどだめだった。呼吸も無くなって、心臓の鼓動も聞こえなかったわ。顔は血の気が失せて、青ざめていった。……子供でも判ったわ。信吾くんは死んだって。もう助からないって思ったの」
「そ、それで……」
 佐々木は、恐る恐る、自分の掘った穴を見た。
「ここに死体を埋めたのか?」
「ええ」
 臆することもなく、香織は言った。
「あなたが帰ってくるまでに二人でこの林に信吾くんを運んで隠したのよ。夜になって戻ってきて野村が一人でここに埋めたわ。私もその時、ここにいたけど、埋めるところはさすがに怖くて見てないのよ」
「なんだってそんな恐ろしいことを……」
「何言っているのよ。馬鹿な質問しないでちょうだい」
「馬鹿なって……」
「そんなの、私も野村も人殺しになりたくなかったからに決まっているじゃないの。私は学校で優秀な生徒だった。野村もこの町の名士の子供よ。お互いに守るべきもの……利害が一致したってわけよ。だから……信吾くんには隠れて貰ったの」
「お前、自分が何したか判っているのか? これは事故だろ。隠す必要なんか」
「いじめが原因で信吾くんが死んだなんてことがばれたらどうなると思う? 事故だと言えばそうだけど、死のきっかけは私たちにあるのよ。
 ……信吾くんの体には、あなたたちが小突いたり、引っ張り回した時に出来た痣やひっかき傷がたくさんあった。あれを見たら誰だって、ただの事故だとは思わないわ。……あなただって判るでしょう? もしこのことがばれていたら、あなたの旅館だってとっくに潰れていたわよ」
「それはそうかもしれないが……でも、すぐに信吾を病院に運んでいれば助かったかもしれないじゃないか」
「いい子ぶらないでよ!」
 香織が不意に激昂して叫んだ。
「あなただって私たちと同じよ」
「どういう意味だ?」
「湖岸に引き上げたはずの信吾くんがいなくなっていたことはすぐに気が付いたわよね? それをどうして黙っていたのよ?」
 佐々木はぐっと息を呑んだ。返す言葉が見つからず黙っていると、ほら、見たことかと香織は笑った。
「あなただって、自分を守りたくて黙っていたんでしょう? いじめで信吾くんを死なせたのはあなたも同じよ。自分にも責任があることが判っているから、温海ちゃんの自殺を自分のせいにしたくなくて、私たちが悪いんだと決めつけることで現実逃避していたんじゃないの?
 きっと、温海ちゃんはあなたに疑惑を抱いていたのよ。あなたが信吾を殺したんじゃないかって。だから、悩んだ末に自殺を」
「やめろ!」
 佐々木はまるで悲鳴を上げるように叫んでいた。
「温海のことは言うな!」
「ほら、やっぱり、自分でも判っていたんじゃない。だから、そんなにあなたは怯えている」
「……ああ、そうだよ。あの子は優しい子だったからきっと耐えられなかったんだ……」
「嘆く前に考えなさいよ」
「……何だって?」
「どうして、温海ちゃんがその疑惑を抱いたのかということよ。誰かが余計なことを吹き込んだって思わないの? それはうちの幸彦にしてもそうよ」
「沢村さんのことを疑っているんだな」
「それしか考えられないでしょう? 思春期で感じやすい子供たちに、湖の幽霊がうちの息子かもしれないのって、病気の身寄りのないおばあさんが切実に話したら……子供たちは信じるんじゃない? その上で、私たちに対する疑惑を吹き込んで、『十六歳の誕生日に湖で死ぬ』ということを少しづつ刷り込んで、暗示にかけていく。……できないことはないと思うわ」
「そんなことをする意味が判らない」
「復讐よ」
 きっぱりと香織は言った。
「覚えているでしょう。信吾くんがいなくなった時、信吾くんのお母さんは捜索が打ち切られた後も、湖をしつこくうろついて、私たちにも同じことを何回も聞きに来ていた。あの時から、あの人は私たちを疑っていたのよ。きっと、恨んでいたんだわ」
「だとしても、どうして今なんだ? 二十三年も経ってから」
「待っていたのよ」
「え? 待つって何をだ?」
「私たちが結婚して、子供を産んで、その子が信吾くんと同じ歳になるのをよ」
「どういうことだ?」
「親として、一番辛いことって何? 子供を失うことじゃなくて? 信吾くんのお母さんは、直接、私たちを殺しても意味が無いと思ったのよ。
 自分の味わった苦しみを私たちにも味あわすためにじっと待ち続けていた。そして、私たちの子供が十六の歳になった今、復讐を実行したんだわ。私たちから子供を奪うために」
「……だが、あの人は最近、痴呆も出て来たって話だ。そんな人がこんな凝った復讐なんて出来るものか?」
「私は幸彦のことが気になって、病院に行って沢村さんの容態を聞いたのよ。あの人は確かにおかしい言動をする。痴呆の症状も出てきたって。幸彦のことを『信吾』って呼んだりもするらしいわ」
「それも痴呆の症状のひとつだろう。そのことは俺も聞いたことがある。信吾と同じ年頃の子供を見ると信吾と呼ぶって」
「だけど、いつもは支離滅裂なことを言うのに、幸彦を信吾と呼んで、話をするその時だけは急に正気に戻って、正常な話し方をするそうよ。それはどう思う?」
「どうって……」
「痴呆の振りをしている可能性もあるわ。だったら、私たちに復讐もできる」
「そんなこと……」
「信じられないなら、本人に直接聞きなさいよ。呼んであるから」
「は?」
 佐々木は唖然として香織の顔を見た後、恐る恐る背後を振り返った。そこには白い人影があった。いつからそうしていたのか、じっと佇んでこちらの様子を伺っているようだ。
「誰だ?」
「また馬鹿なことを言うのね。信吾くんのお母さんに決まっているじゃないの。ここに来たことが、彼女が正気だって証拠にならないかしら?」
 佐々木は思わず、顔をしかめた。
「お前、沢村さんを呼び出したのか?」
「この人が私たちを怖がらせたやり方と同じことをしただけよ。信吾くんの名前を使って手紙を書いたの。それを渡しただけよ」
「手紙だって?」
「ええ。『お母さん、僕は湖の近くにある林の中にいます。ひとりで会いに来てください』ってね」
「お前、そんなことして」
 佐々木は背後の白い人影と掘った穴を見比べながら言った。
「この状況を見られたら、いくら相手が老人でもごまかせないぞ。なんだって、こんなことをするんだ」
「すべて終わらせたいだけよ。せっかく穴を掘ったんだから活用しない手はないわ」
「香織?」
「捜していた息子に会わせてあげるだけよ……」
 香織はそう言うと、さっきまで佐々木が使っていたスコップを指差した。
「それを使えば」
「な、何を言っているんだ? それで信吾のお母さんを殴れとでも言うのか? お前は悪魔か!」
「私は今の生活や子供を守るためなら悪魔にでもなるわ! こんな人に……昔の亡霊なんかに負けやしない!」
 香織はスコップを掴むと優しい声で、白い人影に向かって言った。
「沢村さん、信吾くんのお母さん、ですよね? こちらに来てください。ここにあなたの息子さんがいますよ」
「おい、香織!」
「黙って! あなたも温海ちゃんの仇を討てばいいじゃないの」
「温海の?」
「そうよ。あの人のせいで温海ちゃんは死んだのよ」
 温海の仇……?
 佐々木は呆然として、心の中でその言葉を繰り返した。
 温海。
 お前は何を思って自分の命を絶ったんだ?
「沢村さん、聞こえてますか? 信吾くんが呼んでいますよ……」
 香織が優しい声で呼びかけるのが随分遠くで聞こえる。
 佐々木がのろのろと顔を上げた時には、その白い人影はこちらに向かって近づいてきていた。
「……信吾?」
 弱々しい声で人影は言った。
「こんなところにいたの? ずっと捜していたのよ……」
 両手を広げこちらに近づいてくる姿は、佐々木には死んだ娘と重なった。悲しそうにこちらをみつめるその瞳の色は、確かに亡き娘のものだったのだ。

 温海、悲しんでいるんだな、俺の罪を……。

「俺は……あなたの息子さんを見殺しにした……! 許してください! 許してくれ、温海!」
「馬鹿! 何、言ってんのよ!」
 突然、その場に崩れてしまった佐々木を罵倒すると、香織はスコップを構えたまま、自ら信吾の母親に近づいて行った。
「亡霊! 消えて!」
 彼女の頭にスコップを振り下ろそうとしたその時、寸前でそれは動かなくなった。驚いて振り向いた香織の目に映ったのはこの状況でも穏やかな顔をした珠城だった。
「いけません」
 やはり穏やかに言うと、珠城はスコップを彼女から取り上げ、それを遠くに放り投げた。
「先ずは話をしましょう」
「あ、あなたは……」
 呆然とする香織に優しく微笑みかけて珠城は言う。
「お年寄りは大切にするものですよ」
「どうして……?」
「間に合って良かったです。沢村さんにとっても、あなたにとっても」
「間に合った? 何言っているのよ。このままだと幸彦が……この人に殺されてしまうわ……!」
「幸彦くんなら大丈夫です」
 珠城はそう言うと湖の方を指差した。
「彼ならそこにいますよ」
「え?」
 香織が目を凝らすと、そこには確かに野村に守られるようにして佇む幸彦の姿があった。彼が悲しげにこちらを見ているのが柔らかな月明かりの下、香織にも判った。
「幸彦!」
 言うや、彼女は息子に向かって駆け出していた。そして、すがるように幸彦に抱きつく。
「無事ね」
「無事だよ……」
 低い声で幸彦は答える。
「判ったよ、すべて」
「え?」
「父さんが話してくれたから」
「……そう」
 さして驚かずに香織は頷いた。
「知ってしまったのね」
「香織、すまない」
 野村が小さな声で妻に詫びた。
「お前のことも、幸彦のこと苦しめていた。……あの日……信吾が死んだあの日、彼の死を隠したのは自分の立場を考えたからだ。すぐに警察に届けるべきだったんだ。本当のことを話すべきだった。私は自分の事だけを考えて……信吾や信吾の家族にひどいことを……申し訳ない」
「あなたはすべてを消してしまいたかったのですね」
 静かに珠城が言った。
「だから、この町を新しく変えていこうとしたのですね。古いものを壊し、その上に新しいものを築く。そうして、なにもかも消してしまおうとした。……この林も潰してしまうおつもりでしたね」
「そういうことか」
 佐々木が呻くように言った。
「お前がやっきになってこの町を変えていったのは、信吾のことをすべて消してしまうためだったんだな」
「ああ。お前の旅館には迷惑だったろうが、開発をやめるわけにはいかなかった。信吾の埋まっているこの林も駐車場にでもしてしまおうと思っていた」
「そんなにしてまで信吾を、あいつの痕跡を消したかったのか」
「香織が心配だったんだ」
 野村は暗い目をして呟いた。
「香織は口癖のように言うんだ。あの時と変わらないこの町の風景を壊してくれと。この町を出て行くことができないなら、あの日のことが嘘だったと思えるほどにこの町を変えて欲しいと」
「……それでその通りにしたのか」
「家族を守りたかった。それだけだったんだ」
「馬鹿だな」
 虚ろに笑うと佐々木は言った。
「現実に起こったことを変えられるわけないだろう。見た目をいくら変えたところで事実は変わらない……。そうだろう? 温海のこともな。あの子は死んでしまった。……それは変えられない事実だ」
「佐々木……」
「……僕と温海は父さんが始めた町の開発に不自然さを感じたんだよ」
 幸彦が不意に言った。彼は母親から離れると、湖の方にゆっくりと歩きながら話し始めた。
「やっぱりそういうことだったんだね。父さんのしていることはどこか強引で、無理しているように見えた。何に焦っているんだろうってそう思っていたよ。
 それから寄付の件も。父さんは病院に多額の寄付をしているよね。どうして寄付なんて始めたんだろう。だって、じいちゃんはそんなことしてなかった。それで調べてみたんだ。そうしたら、おかしなことに気が付いた。父さんは寄付しているだけじゃなく、ある身寄りのないお年寄りの入院費も負担していた。沢村さんというひとりのおばあさんに対してだけ。
 変だよね。身内でもない人の入院費を全額負担しているなんて。それでもしかしたら、病院への寄付はその不自然さを隠すためのカモフラージュなんじゃないかと思ったんだ。
 沢村さんは昔、息子さんを湖で亡くしている過去があって、しかも例の湖の幽霊がその息子さんだというのも判った。
 ひとりであれこれ考えているとすごく怖くなって、温海に相談したんだ。温海も僕同様におかしいと思うところがあったみたいで、調べてみようということになったんだ。すぐにふたりで図書館に行って当時の新聞を閲覧した。それで……沢村さんの息子さんが湖で溺れたっていう事故に温海の父さんと僕の両親が関わっていることを知ったんだよ」
「それで、病院でのボランティアを始めたのか?」
「そう。沢村さんから直接、話を聞きたかったから。
 だけど、沢村さんは痴呆が始まっているみたいで、話をするのは大変だった。支離滅裂なことを言い出すんだよ。でも、不思議と昔のことはよく覚えていて、息子さんのこと……信吾さんのこととなると正気に戻ったみたいに普通に話すんだ。いなくなった息子のことを思うと心が虚しくなる。それはまるで水を抱くようだって」
「水を抱く?」
「うん。愛しくて愛しくて抱きしめたい。だけど、抱きしめる体がここにはなくて……差し出したこの腕は、指先は、ただ虚しく水を掻くだけ。こんな悲しいことはないって」
 ああ、と足元で香織が崩れた。慌てて野村が彼女を支える。
「大丈夫か」
「私、怖くて……幸彦を失いたくなくて……」
「判っている」
 お互いをいたわるように抱き合う両親を一瞥して、幸彦は言葉を続けた。
「そんな話を聞いているうちに、温海と僕は自分の親を疑い始めたんだ。
 沢村信吾さんは本当に事故死なのか? どうして遺体はみつからなかったのか? もしかしたら殺されて、この湖とは違う場所に遺棄されているんじゃないのか……いろんな可能性を話し合って、考えているうちに、段々、温海の様子がおかしくなってきたんだ。
 もうじき、十六歳になる、信吾さんと同じ歳になるんだって、何かに操られているようにそんなことばかり言い始めて……気を付けてはいたんだけど、彼女が自分の誕生日に湖に飛び込んで自殺したって聞いた時は、目の前が真っ暗になったよ。止められなかったという後悔と、そして次は僕の番だろうかという恐怖で頭がおかしくなりそうだった。どうしていいのか判らなくなって」
 幸彦はその時のことを思い出して、震えるように息をついた。
「その時、いつか図書館で暇つぶしに読んだ『謎工房』という雑誌のことを思い出したんだ。その雑誌に珠城さんという不思議な人の話が載っていた。それを読んだ時はたいして気にならなかったのに、今になって鮮明にその記事を思い出すんだ。
 僕は図書館に行って、その雑誌のバックナンバーを何冊か借りて来て、珠城さんの記事を必死になって読んだ。
 彼に会いたいと思った。でも、そこには珠城さんの店の住所は公開されていない。でも僕は本気で珠城さんに会いたかった。だから、きっと会える。……その記事にはこう書かれていたから。彼に会って相談するに足りる悩み事を持っている人なら、住所など知らなくても必ず、彼の元にたどり着けると。だから、こっそりと家を出て、珠城さんの店を探しに行ったんだ」