母親が小さく悲鳴を上げるのを、幸彦は無感情に一瞥して言葉を続ける。
「珠城さんにはわざと言わなかったけど……怒ってる?」
「まさか」
 柔らかい表情の珠城に軽く肩を竦めると幸彦は言葉を続けた。
「二十三年前に湖で溺死して死体が上がらなかった少年がその沢村信吾だよ」
「お前、どうして……」
「驚くほどのことでもないよ。温海だって知ってたしね」
「温海も……?」
 野村夫妻は気まずそうに目を合わせ、重たく沈黙した。
「効果覿面だね」
 不意に、幸彦は笑い出すと言った。
「夫婦してそんな顔してさ」
「幸彦、お前、何を言っているんだ?」
「あなたたちの前で、沢村信吾の名前を出してみたかったんだよ」
「何だと?」
 憤怒の形相の父親に臆することなく幸彦は続ける。
「だから、あえて珠城さんをうちに連れて来た。あなたたちは……」
「幸彦くん、そのくらいで」
 柔らかく珠城が幸彦の勢いを止めた。
「急いではいけません。もう少しゆっくりとお話しましょう」
 幸彦は反論しようと口を開きかけたが、珠城の深い色の瞳を見るとたちまち毒気を抜かれて黙り込んでしまった。
 珠城は改めて野村に向き直ると静かに言った。
「沢村信吾さんからの手紙、あなたもご覧になりますか?」
「手紙、か」
 僅かに嫌悪をその顔に浮かべたが、野村は頷いていた。


 ☆
 前略

 僕はその昔、S町の中心にある大きな湖で大切なものを失くしてしまいました。
 みつけたい。
 でも、それが叶わずにいるのです。
 珠城さん、どうか、僕の代わりにみつけてください。

 この手紙をあなたに読んで貰えることを望みながらペンを置きます。

                                             草々


 野村信行は暗い溜息をつくと、珠城から渡された手紙をテーブルの上に置いた。
「……本当にこの手紙はあなたの元に届けられたのか」
「はい。ですが、僕は自分の店の住所を公にはしておりませんので、正確に申しますと手紙は配達されたのではなく、店の前に落ちていたのです」
「落ちていた?」
 唖然として野村は珠城の顔を見た。
「なんだそれは。やはりいたずらだろう」
「いたずらかどうかは判りませんが、確かに、手紙というのは珍しいですね。大抵の方は僕の店を直接尋ねられますから」
「いや、私が聞きたいのは」
「ところで」
 珠城はやんわりと野村の言葉を遮った。
「あなたは沢村信吾さんとどのようなご関係なのでしょうか」
「それか」
 答えたくないという表情のまま、野村は小さな声で言った。
「信吾は高校時代の友人だよ」
「奥さまも?」
 丁度、トレイにコーヒーカップを載せて応接室に入ってきた妻を、野村は緩慢な動作で振り返った。
「ああ、そうだ。香織も信吾の友人の一人だ。……それがどうだと言うんだ」
「いえ」
 珠城は目を伏せる。
 香織は無表情のままカップを二人の前に置くと、何も言わず、逃げるように出て行った。その間、一度も珠城の顔を見なかった。
「それでは佐々木章さんも沢村信吾さんをご存知ですよね。あなたと奥さま、そして佐々木さんは高校時代、とても仲が良かったと幸彦くんから伺っています」
「幸彦がそんなことを?」
 野村は嫌悪感を露わに顔をしかめた。
「佐々木が幸彦に何か吹き込んでいるんじゃないだろうな。あいつは一人娘を亡くしているから、円満なうちをやっかんでいるんだ……」
「吹き込む? 佐々木さんと幸彦くんはよくお会いになっているのですか? あなた方は不仲と聞いていますが」
「ふん。いろいろと余計なことを知っているようだな。
 幸彦は温海……佐々木の娘のことだが、あの子と幼馴染みだから、線香の一本もあげに行っているのだろう。幸彦にとって年上で優しい温海は憧れ存在だった。亡くなった今もその気持ちは変わらず、実際よりも温海のことを美化しているのだろう」
「美化?」
「温海という子は、繊細で物静かな娘でな、空が青いと言って涙ぐむような感受性の強い子供だった。外見も華奢で色白で、整った顔立ちをしていたから、幸彦のような思春期の少年には温海を神々しく感じていたのではと思っただけだ」
「なるほど。息子さんのことをよく見ていらっしゃるのですね」
「……意外か?」
「いいえ、そんなことはありません」
「だめな親と思っているのだろう」
「まさか」
「いいんだ」
 不意に笑うと野村は言った。どこか諦めたような自虐的な笑みだった。
「その様子では息子からいろいろと聞いたのだろうが、私は正直言うと、幸彦のことはよく判からない。判りたいと思ってはいるんだが……。
 あいつは中学の頃から病院でのボランティアなんかに入れ込むようになって、学校が休みの日は病院で老人の世話をしているか、図書館に籠っているかのどちらかで、家にずっといることはほとんどない。そうすることで私たちと顔を合わせないようにしているんだ」
 野村は重い溜息をつきつつ続ける。
「今日も誕生日だというのに、わざと外を出歩いて帰ったと思ったら、あなたという知らない人を連れ込んできた。妻は幸彦のために、ケーキやご馳走を作って帰りを待っていたんだ。それが……沢村信吾だと? とんだ誕生日だ」
「……すみませんでした。お誕生日というのは伺っていたのですが……僕の思慮が足りませんでした」
「いや、あなたがここに来ていようがいまいが、結局、幸彦の態度は変わらんよ。あいつは私たちを嫌っている」
「……それは違うと思いますが」
「違うものか。つい一週間前もあいつは家出までしたんだ」
「家出、ですか?」
「ああ、学校から無断欠席の連絡を受けて、慌ててあちらこちらを捜したがみつからない。子供とはいえ、もう高校生だ。分別のつかない歳ではないからとあまり騒ぎ立てたりせず、少し様子を見ようということになった。
 そうして一日が過ぎた頃、ひょっこり戻ってきたんだ。何でもなかったような顔でな。どこへ行っていたといくら聞いても答えない。私は佐々木のことを疑っているんだが、結局、真相は判からずじまいだ」
「佐々木さん? 彼が幸彦くんをどうかしたと思っているのですか?」
「誘拐とまでは思っていない。だが、あいつの家は旅館だからな、人ひとりを一日ぐらい隠そうと思えばできないことではないだろう」
「確かにそうですが、そんなことをしても佐々木さんに得は無いと思いますが」
「あいつの魂胆は判かっている。私たち夫婦を困らせたいんだよ。嫌がらせをしたいんだ。きっと幸彦と共謀して、つまらん家出騒ぎを起こしたに決まっている」
「そのようなことをする方には見えませんでした」
「佐々木を知っているのか?」
「僕は今、佐々木さんの旅館に泊まっているのです」
「……そうか」
 野村はしばし黙り込んだ。
「……あなたは珠城さん、といったな」
「はい。珠城と申します」
「失礼だが、私はあなたの素性を知りたい。あなたはいろいろと私たちのことを調べているようだが、正直、気分は良くない。
 あなたがこの町にやってきた理由はこの手紙にあるのは判った。だが、言い換えればそれだけのことだ。いたずらかもしれないこんな手紙ひとつで平穏な生活を乱されてはこちらはかなわない。あなたが何の権限があって私たちの生活に介入して来るのか理解に苦しむ」
「……すみません」
「根本的な質問をする。あなたは何者だ?」
「そうですね」
 少し考えてから、珠城は言った。
「僕はハートヒーラーと呼ばれています」
「何だって?」
 野村は露骨に相手を卑下する表情になった。
「ハート……なんだ?」
「ハートヒーラー。聞きなれない言葉だと思います。戸惑われるのも無理もありません」
「それは何かの職業なのか?」
「はい、そうのようなものですね」
 柔らかく珠城は笑った。
「ハートヒーラーというのはそもそも造語です。『ハート』は心、『ヒーラー』は癒す人、あるいは心霊治療師などの意味を持ちます。名づけてくださったのは『謎工房(なぞこうぼう)』という雑誌の記者の方です」
「謎工房……?」
「その記者の方は、僕に多大な興味を持っていらして……ユニークな方なのです」
「あなたはその記者の取材を受けている、ということか?」
「はい。いくつかの制約を設けさせていただきましたが、僕も彼が気に入りましたので僕にまつわる物語をその雑誌に掲載することを彼のみに許可しています。
 もし、気が向きましたら『謎工房』という雑誌をお読みください。少しは僕を取り巻く世界がお判かりになると思いますよ」
「……謎工房。そうか、雑誌の名前か」
「もしかして、ご存知ですか?」
「いや、どこかで見かけたような気がしただけだ」
 何か嫌なものを振り払うようにひとつ大きく首を振ると野村は改めて珠城を見た。
「今、あなたはハートヒーラーとは癒す人とか、心霊治療師とか言ったな」
「はい。そのようなものです」
「はっきりしない仕事だな。失礼だが、いかがわしく思う」
 野村はソファーから腰を上げると、珠城を険しい顔で見下ろした。
「そんな者が息子に近寄り、家に上がり込んでくるとは……不愉快だ」
「ご理解しにくいのは判ります」
 今にも家から叩きだそうと身構える野村を、のんびりと見返して珠城は言う。
「ですが、僕は真摯な気持ちでここにいます。その気持ちは疑わないで欲しいのです」
「真摯? 死人の手紙をでっちあげることがか? その内、お祓いをするとか言いだして金を要求するんだろう」
「お祓いはしません。何も要求しません」
 珠城は少し、困った顔になると言葉を続けた。
「もう少しだけ、信じていただくことはできませんか? 幸彦くんの為にも」
「幸彦の……」
 しばらく逡巡した後、野村はおずおずとソファーに座りなおした。
「確かに、あなたは悪い人ではなさそうに見える。胡散臭くはあるがな」
「……すみません」
「認めるんだな」
「よく言われるので」
 呆れた表情で野村は珠城をみつめ、次に瞬間には思わず吹き出していた。
「まったく、変な人だ。それで、そのハートヒーラーがここに来て何をしようというんだ? お祓いはしないんだな?」
「しません。祓うというのは、穢れや悪いものをそこから追い出し清める、という意味です。
 僕は何ものも追い出したりしません。それはここにある闇から、また別の闇に追いやることに他ならないからです。彼らが望むのは『祓い』ではなく『救い』のはず。光のある方に僕は導き、解き放ちたいのです」
「何を……解き放つというのだ」
「想い、あるいは祈りです」
「想い? 祈り?」
 苦しそうに、野村はその言葉を口にした。
「つまり、あなたは……信吾の想いやら祈りやらを解き放つ、と?」
「それを沢村信吾さんが望むなら」
「……この手紙が何を意味するのかは判らないが、しかしはっきりと言えるのは、沢村信吾は死んだということだ。死んでしまった人間の想いだとか祈りだとかと言われても……」
「人の想いや祈りは、生きていても死んでいても変わることはないと、僕は思います」
 弾かれるように野村は顔を上げた。それに優しく微笑みかけて珠城は言う。
「なんてことを言うとやはり、胡散臭く感じますか?」
「……いや」
 野村はそう低く呟くと、それきり考え込んでしまった。
 そして、次に口を開いた時には、さっきまで猜疑心に満ちていた野村の顔つきが変わっていた。どこかすがるような目で珠城を見る。
「……実はな、信吾があの湖で行方不明になった時、同級生が一緒にいた。調べればすぐに判ることだから言ってしまうが……その同級生というのが私と、妻の香織。そして佐々木だったんだ」
「そうですか」
 落ち着いたまま応じる珠城の様子に野村は溜息をついた。
「察しはついていた、という感じだな。……もう昔の話だ。私たちはあの事故でみんな傷ついた。それが何だって今頃……」
「それは」
 珠城が何か言いかけた時、突然部屋のドアが開いた。そこには青い顔をした幸彦が立っていた。
「一緒にいて……お父さんたちが一緒にいて、それであの時、何があったの?」
「幸彦……!」
 ソファーから立ち上がった野村が叫んだ。
「そこで何をしている! 自分の部屋にいろと言ったはずだ!」
「嫌だ」
 きっぱりと言うと、幸彦は弱々しい足取りで珠城に近づいた。珠城も立ち上がると、今にも倒れてしまいそうな彼に腕を差出しその身体を支える。
「幸彦くん、大丈夫ですか。お父さまの言う通り、部屋に戻って休んだ方が」
「だめだよ」
 幸彦は必死に首を横に振る。
「僕は、だって……僕は……!」
「幸彦くん、君は温海さんのように死にたいの? それとも、死にたくないの? 今日、僕と湖で初めて会った時……君は死のうとしていたね?」
 一瞬、場が凍りついた。
 野村が何か言おうとしたが、それを制するように幸彦が言葉を継いだ。
「だって、しかたないじゃない。どうしても思ってしまうんだ。僕も温海みたいに十六の誕生日に、湖で沢村信吾に捕まって殺されてしまうんじゃないかって……。
 誕生日が近づいてくるにつれて死も一緒に近づいてくるようで、すごく怖くて怖くて……そんなこと考えなきゃいいことなんだけど、あの湖がいつも気になって、頭から離れない。僕ももうじき、あの湖の底に行かなきゃいけないんだってどうしても思ってしまう……。
 だけど、怖いと思う反面、死に惹かれてる自分もいるんだ。いっそのこと、死んでしまえば楽になるかなって。……自分の気持ちが判らない。こんなの下らない妄想だって自分でも思うよ。でも自分の中から、どうしても追い出せない。沢村信吾を、温海を……どうしても」
「だから、僕に手紙を書いたのですか」
「え……」
 毒気を抜かれたように、幸彦は珠城をみつめた。
「一体、どうなっているんだ……」
 野村が呆然と呟いて、珠城と幸彦の顔を見比べた。


 ☆
 佐々木章(ささき あきら)は夕食の支度をあらかた済ますと時計を見た。
 八時を回っている。
 それほど遅い時刻ではないが、まだ帰ってこない珠城のことが佐々木はなんとなく気になっていた。
 それにしても変わった青年だな、あの人は。
 今日の明け方、玄関先を清めていると、まだ暗い道をゆっくりとした足取りでこちらにやってくる人影があった。誰だろうと目を凝らしていると、その人は愛想よくこちらに微笑みかけてきた。
「おはようございます」
 さわやかに挨拶をされ、佐々木も丁寧に返した。
「おはようございます。……お見かけしない方ですね。どちらに行かれますか?」
「こちらに」
 目の前に来た青年は、優しい声で答えた。佐々木は驚いて聞き返す。
「え? ここに、ですか?」
「はい。泊めてください」
「はあ、それは勿論。ここは旅館ですから。……あなたはどこから来られましたか? 突然、闇から不意に現れたように見えましたが……」
「闇から? まさか」
 微かに困った顔をした青年に、佐々木は慌てて言った。
「あ、これは、失礼なことを申しまして」
「いいえ」
 くすりと青年は笑った。
 その笑みがどこか不吉に感じて、佐々木は思わず青年の顔から目を逸らした。
「僕は」
 と、佐々木の様子に気付いていないのか、青年は穏やかに話を続ける。
「珠城と申します。ここには人を捜しにきました」
「……人を捜しに、ですか? ……ああ、そうですか。まあ、中にどうぞ。たいしたおもてなしはできないのですが……それで構わないなら」
「はい。お願いします」
 珠城は笑顔で頷いた。
 こうして珠城と名乗った見知らぬ青年を自身の旅館に泊めることとなった佐々木だが、明るい照明の下で見る彼は、こちらが拍子抜けするくらい優しい面差しをしたごく普通の青年で、暗がりの中で感じたあの不吉なものはきれいに消えてなくなっていた。
 あれは何だったんだろう。
 佐々木は不思議に思いながら、珠城を客室に案内した。
「この部屋の感じはいかがですか? どの部屋も似たようなもので……若い人はこんな古ぼけた旅館は嫌なのではありませんか?」
「いいえ。僕はこのような部屋の方が落ち着きます」
「そうですか。そう言っていただけると嬉しいです」
 佐々木は微笑んで、きちんと正座をしている珠城の前にお茶を出した。
「それではこの旅館の雰囲気を存分に楽しんでいってくださいね……とはいえ、ご覧の通り、この旅館にはもう私ひとりしかいません。気が利かず、ご不自由をお掛けするかもしれませんが」
「おひとりで切り盛りされているのですか」
「ええ、今は」
 佐々木は寂しげに笑うと言った。
「妻も娘も亡くしました。昨今では経営も苦しくなり、旅館を閉めることを考えて従業員にも辞めてもらったのです」
「閉めてしまうのですか。残念です。いい感じの旅館ですから」
「ありがとうございます。今まで何とかやってきたのですが、そろそろ限界のようで。宿泊客もあなたひとりですしね。あなたが最後のお客さまになりそうです」
「そうですか。もう決めたことなのですね?」
「はい。仕方ありません。もうこの町は私の知っている町ではなくなってきています。娘を二年前に亡くした時に決断すべきでした」
「娘さんはご病気で?」
「いえ、自殺でした。……まだ高校生だったんですよ、しかも十六歳の誕生日に湖で死んだのです。あの湖は娘の好きな場所だった……。
 死ななくてはならないほど、何を悩んでいたのか。何かに影響を受けたのか。情けないことに私には何も判らないのです。……ここには悲しいことしかありません。それでも生まれ育った場所ですから離れることに抵抗もあって……」
「……ラベンダーの香りがしますね」
「ああ」
 佐々木は柔らかく微笑むと言った。
「お香です。娘の好きな香りで仏前に供えているのです。一日中、焚いていますから、旅館中に匂いがこもってしまったようです。お気に触りましたか?」
「いいえ。とても良い香りです。後ほど、ご仏前に手を合せてもよろしいでしょうか」
「それはありがとうございます。温海《あつみ》……ああ、娘の名前です。温海もきっと喜ぶと思います」
「温海さんはどのような方でしたか?」
「親の私が言うのもなんですが、名前の通り、温厚な性格の優しい娘で……それが、よりによって十六歳の誕生日にどうして自殺なんか」
「お誕生日に……」
「あ、すみません。お疲れのところ、長話しをしてしまいまして」
「お待ちください」
 腰を上げかける佐々木を制して珠城は言った。
「聞きたいことがあるのです。もう少し、よろしいですか」
「え。はい、何でしょうか?」
 珠城はにこりと笑った後、少し身を乗り出し、佐々木に囁くように言った。
「あなたは沢村信吾さんをご存知でしょうか」
 まるでそれが忌まわしい名前ででもあるかのように、佐々木は、はっと息を呑むとその場にへたり込んだ。
「……それは……幽霊の名前だ。湖に巣食う幽霊の」
「幽霊、ですか」
「あ、あなたは何故、その名を口にするのですか?」
 佐々木は痩せた体を震わせると言った。
「まさか、既に娘が湖で自殺したことを知っていて、面白がってそんなことを言うのではないでしょうね……」
「面白がってなどおりません」
 静かだが、強い口調で珠城を言うと、じっと佐々木をみつめた。その視線の深さにひるんだ佐々木は思わず口ごもる。
「あなたは一体、何者なんです? ここには人を捜しに来たと言っていたが、あなたは探偵か?」
「いいえ、そうではありません。僕はただ、その沢村信吾さんから手紙をいただき、そしてこの町に彼に会いに来たのです」
「ちょっと待ってください。あなたが捜しているというのは沢村信吾、なのですか?」
「はい。お会いしたいのですが」
「会う? そんなこと出来ませんよ。信吾はとうに死んでいるのですから。死人にどうやって会うというのです? だいたい手紙とは何です? そんなものいたずらに決まっているじゃないですか」
「僕は本当に沢村信吾さんから手紙をいただいたのです。これをご覧ください」
 珠城が差し出した手紙を、佐々木は気味悪そうにながめ、結局それを手に取ろうとはしなかった。
「……そうか、判ったぞ」
 しばらくの後、佐々木が絞り出すように言った。
「あなたは騙されているんだ」
「はい?」
「あなたを見ているとどうやら嘘を言っているのではないらしい。なら、騙されていると思うよりない」
「誰に僕は騙されていると言うのですか?」
「信吾の母親にですよ」
 声を落として佐々木は言った。
「知っていますか? 信吾の母親はこの町にいるのです」
「この手紙にある住所にも行きましたが、今はどなたも住んでいませんでした」
「病院に入院しているのです。心臓が悪いとのことですが、最近は高齢により痴呆の症状も出て来ているようです。でも、手紙くらいは書けるでしょう。
 ……彼女は二十三年前に唯一の肉親だった息子の信吾を亡くして、それを未だに受け入れることができずにいるのです。だから、信吾のふりをして手紙を書いてあなたに信吾を捜させようとしているんでしょう。まだ生きていると信じているんだ。不毛な話です」
「信吾さんの死を受け入れていない……」
「ええ。遺体が上がっていませんから、信じられないんでしょう。私も子供を亡くしていますから、その気持ちは判ります。……珠城さん、残念だが無駄足ですよ。あなたがどのような仕事をされている方かは詮索しませんが、その手紙は偽手紙です。母親に騙されているんですよ」
「そうですか」
 冷静にそう応じると、珠城は改めて佐々木に向き合った。
「信吾さんはおいくつでお亡くなりになられたのでしょう?」
「……十六歳、です」
「もしかして、その亡くなられた日は」
 佐々木は諦めたように、溜息交じりに言った。
「その日は、信吾の十六歳の誕生日でした……」
 しばらくの沈黙の後、珠城は言った。
「娘さんも十六歳でお亡くなりになられたのですね。そして、沢村信吾さんと同様にその日は誕生日だった……」
「そうですが、それが何だと言うのですか? そんなもの、ただの偶然です」
「偶然ならそれでもいいのです。……後、もう少しだけ伺ってもよろしいですか?」
「……何ですか」
 憮然とする佐々木に、珠城は愛想よく言う。
「少しここの湖の事を聞きました。湖には幽霊の噂がありますね。その幽霊の正体は沢村信吾さんで、湖に入ると水の中に引き込まれてしまうとか。娘さんの自殺はそれに関係がありますか? あなたはどうお考えなのでしょう?」
「馬鹿馬鹿しい」
 ついに立ち上がって佐々木は言った。
「信吾が死んでからもう二十三年経つ。二十年以上も前のことを今更、何なんだ? もう、放っておいてくれ」
「では、娘さんの自殺とは関係ないと?」
「当然だ!」
 苦しげな表情でそう言い放つと、佐々木は部屋を出て行った。
 一人になった珠城は、ゆっくりと窓の外に目を向ける。そこからは青く霞む湖が見えた。
「さて、困ったな」
 珠城はそうつぶやくと、少しも困ったようには見えない穏やかな笑みをこぼした。


 厨房に立ち尽くしたまま、物思いにふけっていた佐々木は、ハッと顔を上げた。何か物音がしたと思ったのだ。
 こんな時間に……誰かいるのか?
 昨日、珠城と交わした会話を思い出し、背筋がぞくりと冷えた。
 まさか、信吾が……。
 だが、すぐに思い直す。
 音は玄関の方からした。きっと、珠城さんが帰ってきたのだ。
 佐々木はすぐに玄関に向かった。が、そこには誰もいない。外に出てみるが、夜の闇があるだけで人の気配は無かった。
 おかしいな。
 佐々木は庭の茂みをなんとなく覗き込んでみて、そのまま動けなくなってしまった。
「か、香織か?」
 おずおずと声を掛けると、茂みの中でうずくまっていた人影がゆっくりと顔を上げる。ぼうっとした表情の野村香織は、やはりぼうっとした声で言った。
「ねえ、章くん。温海ちゃんはどうして死んでしまったのかしら……」
「おい、何を言っているんだ? 大丈夫か? だいたいこんな時間に何をやっている? 野村は知っているのか?」
 香織は力なく、首を横に振る。
「……温海ちゃんは、十六の誕生日に死んでしまった。あの湖で。……うちの幸彦は……どうなるのかしら」
「何だって? お前、何を言っているんだ?」
 佐々木は不毛な会話に苛立って、声を荒げる。
「おかしなことを言うのはやめてくれ。一体、どうしたというんだ。だいたい、お前や野村に温海のことをとやかく言われたくないぞ。あの子を亡くした時……俺がどれほど悲しく、辛かったか、誰にも判りはしないんだからな……!」
「……今日ね、幸彦の誕生日なの。あの子、十六になったのよ」
「え」
 佐々木はぐっと息を呑んだ。
「そうか、今日は幸彦くんの誕生日だったな……」
「あの子、いくら注意しても、湖に行くことを止めないの。病院にも行くのよ、信吾くんのお母さんの所よ。知っているでしょう?」
「あ、ああ。ボランティアだって、うちの温海と。そうか、幸彦くんはまだ続けているんだな」
「そう、いくら私が言っても聞いてくれない……あの子、おかしいの。暗示をかけられて洗脳されているのかもしれない……」
「洗脳?」
「あなたも考えたことない? 温海ちゃんがどうして急に自殺したのか。しかも湖で、十六歳の誕生日に。信吾くんと同じようにどうして死んだのか……」
 佐々木は少し、考えてから口を開いた。
「今、幸彦くんはどうしているんだ? まさか、行方不明ってことはないだろうな」
「家にいるわ。自分の部屋に。野村に怒られて部屋でおとなしくしていろって」
「無事なんだな」
 ほっと佐々木は息をついた。