開店準備のため、珠城は『乱反射』のドアを押し開くと外に出た。
 ふと、違和感を覚えて足元を見下ろすと、そこには白い封筒がひとつ。彼はためらうことなくそれを拾い上げた。
「手紙、ですね」
 裏返すとそこには細い文字で差出人の住所と名前が書かれていた。差出人の名は、沢村信吾(さわむら しんご)そう読めた。
 珠城は手紙に向かっていつものように優しく言う。 
「いらっしゃいませ、お客さま。何を差し上げましょうか……」


 新しいものと古いものとの混在。
 野村幸彦(のむら ゆきひこ)はそう心でつぶやくと、自分の暮らす町の様子を遠くからぼんやりとみつめた。山を切り開き、数年前から少しづつ開発が進んでいる新興住宅地。そして、それと少し離れた一画には昔から続く古い家々の姿がある。見慣れたはずの、その両極端な風景が今の幸彦には妙に新鮮に映った。
 古い家が並ぶ中、最も大きく目を引くのが幸彦の自宅だ。野村家と言えばこのあたりの土地を多く所有する昔からの名士なのである。裕福で何不自由なく暮らしているはずの幸彦だったが、しかし心はいつも満たされることがなかった。
「あ、野村だ」
 すぐ近くで聞き覚えのある声がした。目だけそちらに向けてみると、そこには同じクラスの女の子三人組が少し離れた所から笑いをこらえるような複雑な表情で幸彦を見ていた。
「わ、こっち見た。夏休みの初日に、あんなところで一人で何してるわけ? 身投げ思案中とか?」
「湖の幽霊に憑りつかれているんじゃない?」
「し! 声、大きいよ。聞こえるでしょ」
「別にいいじゃん。あんな奴。あたし、野村ってなんか嫌いなんだよね。暗くない?」
「っていうか、キモイよね」
「天気がいいから湖を見に来たのに、嫌な奴に会っちゃったねー」
「でも、湖はきれいじゃん」
「湖はねー」
 少女たちは一斉に笑い声を上げてその場を去って行った。
 幸彦は無表情に彼女たちの後ろ姿を見送った後、すぐに視線を目の前の湖に戻した。
 大きな湖である。深い色をした水が幸彦のすぐ足元で風にあおられ、ひたひたと揺れていた。
 深いな。
 幸彦は目を凝らして水面を覗いてみるが、湖の底はあまりに遠くて何も見えない。
 昔は泳げたというこの湖は、今は遊泳禁止で一時期は勝手に湖の中に入れないようにとぐるりと柵が巡らせてあったのだが、美観を損なうと苦情が殺到し結局、それは撤去された。
 陸地から一歩、進んでみればたちまち幸彦の体はこの湖に呑みこまれ、世界から消えてしまことだろう。
 幸彦は小さく息をついた。
 湖と住宅地。
 その間に所在無げに立ち尽くす自分が、今更ながらちっぽけな存在だとつくづく思う。
 こんなんじゃ、どこにもいけない。
 息苦しさを覚えた幸彦は、思わず助けを求めるように手を前に差し出した。湖に向けられたその手は、ただ虚しく(くう)を掴む。

『まるで水を抱くようだねえ……』

 頭に浮かんだ言葉。
 これって誰の言葉だったけ?
 くらりと体が傾いだ。不意に平衡感覚が無くなり、目の前の青い空と湖がひっくり返ったような気がした。
 あ、このままだと湖に落ちてしまう……。
 どこか他人事で幸彦がそう思った時、彼の腕を背後から掴んだ者がいた。
「危ないですよ」
 その声はあくまでも穏やかだった。
 大切なものを扱うように、幸彦の体を優しく両腕で包むとそっと地面の上に座らせる。
「ご気分でも悪いのですか?」
「……え? いいえ」
 ぼんやりとそう言うと、やはりぼんやりと幸彦は顔を上げた。そこには一人の青年が心配そうに幸彦の顔をみつめている。
 知らない人だ。
 幸彦はわずかに首を傾げて、失礼なほどにじっくりと青年の顔を見た。
 その見知らぬ青年は優しい顔をしていた。黒い瞳は澄んでいて邪気はひとつも感じられない。
 きれいな人だな。何だか、不思議な感じがする……。
「あ、あの……ありがとう。あなたがいなかったら湖に落ちていた……」
「お役に立てて光栄です」
 そして涼やかに微笑む。
「立てますか?」
「あ、はい。……平気、一人で立てます」
 手を貸そうとする青年の手を固辞して、幸彦はそろりと立ち上がった。
「……あの、あなたは誰? 見かけない人だけど?」
「これは失礼しました」
 明らかに年下の幸彦に対して、彼は丁寧に頭を下げ、自己紹介を始めた。
「僕は珠城(たまき)と申します。とある街で『乱反射』という名のバーを営む者です」
「珠城、さん?」
 ぐっと息を呑み込んでから、改めて幸彦は言った。 
「こんな町に何しに来たの?」
「そうですね……。人を捜しています」
「人? 誰? ここはちっぽけな町だから、僕の知っている人かもしれない」
「それは助かります。沢村信吾さん、という方なのですが、ご存知でしょうか」

 沢村信吾。

 胸の奥がうずいた。けれど、それを顔に出さないようにして幸彦は冷静に応じた。
「……どうしてあなたは沢村信吾に会いたいの?」
「手紙が来たのです。僕のところに。その住所をたよりにここまで来たのですが……」
「それで?」
「住所の場所にはどなたもおられず」
「そう。その手紙にはどんなことが書かれていたの?」
「失くしたものがあるとかで、それを探してほしいと」
「失くしたものって……何を?」
「さあ、それは僕にも判らないのです」
「どういうこと? 手紙に書かれていなかったの?」
「ええ、詳しいことは何も。それでご本人にお会いするのが一番いいかと思ったのですが、君は知りませんか? 沢村信吾さんの居場所。ぜひ、お会いしたいのですが」
「あなた、変わっているね。どこの誰とも知れない人から手紙を貰ったからってこんなところまでやってくるなんて」
 幸彦は呆れたようにそう言うと小さく笑った。そして、はっとする。
「……あ、お香の匂いだ」
「はい?」
「あなたからするよ」
「そうですか」
 言われて珠城は苦笑する。
「残り香ですね。さっきまでご仏前にいましたので。だけど、そういう君からも匂いがしますよ」
「へえ、何の匂い?」
「清潔な匂いです。アルコール……消毒液でしょうか」
「消毒液か。ふうん」
 幸彦は不意に微笑むと言った。
「僕はさっきまで病院にいたから。匂いが移ったのかな」
「病院。どこかお悪いのですか?」
 幸彦は先ほど見ていた町並みを指差した。
「あれが僕の暮らす町。あの町はこうしてみるとちっぽけだけど、それなりに福祉はちゃんとしているんだよ。だから、住むには不自由しないんだ。病院や介護施設、保育所も充実してる。僕はね、学校が休みの時を利用して病院に入院しているお年寄りのお世話をするボランティアをしているんだ」
「それは良いことですね」
「そうかな」
 幸彦は少し意地悪な気分になって言った。
「だって、これは偽善だもの」
「偽善?」
「こういうことをしていると、受験の時、有利なんだよ。自分の利益のためにやっていることって、偽善でしょ?」
「そうですが……」
「何?」
「君からはそのような打算は感じられません」
「……何だよ、それ」
 たちまち、幸彦は目を背け、ふてくされたような顔になる。
「うちの親は金持ちなんだよ。それで、病院や学校に多額の寄付をしている。福祉が充実している理由のひとつだよ。それって自分の仕事に有利になるように金をばらまいているだけなんだよ。いいことしている振りで、実際は自分の利益しか頭にない。親が偽善なら、子供も偽善じゃないとね」
「手厳しい意見ですね」
「真実だよ」
「そうでしょうか。ところで、君の名前を聞いてもいいですか」
「あ、そうか。名乗っていなかったね。僕は幸彦。野村幸彦」
「野村幸彦くん、ですね」
「そう、悪名高い野村家の一人息子だよ。……あれ、知っているって顔だね、珠城さん」
「はい。悪名かどうかは存じませんが、野村さんのお名前は伺いました。僕はこの湖のほとりにある旅館に泊まっています。そこの方から」
「佐々木っていう旅館でしょ。それじゃあ、絶対、うちのこと良く言うわけないよ。佐々木さんちは僕の家のせいで追い詰められているから」
「と、言いますと?」
「あれ、聞いてない? この辺は、湖周辺の風景が綺麗だし、昔は落ち着いた静かな町だったから、一部の裕福な人たちに隠れ家的な感じで人気があって、宿泊客も結構来ていたんだ。
 だけど、開発の進むこの町を嫌って常連客は次第に来なくなっちゃった。それで数軒あった旅館はみんな廃業して、昔からの旅館はもう佐々木さんとこ一軒になってしまったんだ。代わりにきれいなペンションなんかが建ち始めているけどね。
 新しいお客は古い旅館より、きれいなペンションを選ぶから、佐々木さんの旅館はお客が来なくて大変だよ。その開発を行っているのがうちの親なんだ。というわけだから、うちのことを佐々木さんが良く言うわけないんだよ」
「そうですか」
「しかも、うちの両親と佐々木さんは高校時代からの友達なんだ。それを思うと裏切られた感はすごいんじゃないかな」
「今は仲が悪い、と?」
「そういうこと。佐々木さん、うちのことを土地成金だとか、先祖の貯金を食いつぶしているだけだとか、まあ、言いたいこと言ってるよ。半分、当たっているけどね」
「土地成金、ですか」
「この辺りの土地の多くは先祖代々、うちの土地だから。そのおかげで野村家はこの町では名士ってことになっている。
 だけど、それはご先祖の仁徳だったり、手腕だったりするわけで、僕の父親がすごいってわけじゃない。うちは両親とも間違っても名士なんて呼ばれる人種じゃないよ。ご先祖さまのおかげで大きな顔をしているわけだから、確かに土地成金かもね」
「親友なのでしょう?」
「昔はね。お金や権利が介入すると友情なんてあっけなく壊れるものなんだね。特にここ、二年ほどはひどいよ。会っても挨拶ひとつしないから」
「……土地の開発が進み、そのせいで旅館の経営が苦しくなった、それだけで佐々木さんはかつての親友を嫌っているのでしょうか」
「あれ、疑っている?」
「佐々木さんは僕の目から見ると、穏やかなお人柄です。君の言葉を聞いていると君のお父さまといがみ合っているようですが、そんな感じはしなかったので」
「そう。そうだね。佐々木さんは本来、温厚な人だから」
 幸彦は少し考えるように目を伏せると静かに言った。
「前に佐々木さんが言ってた。僕の父親はこの土地の古くて良い所を憎んでいるように潰していくって。
 佐々木さんは何度も父に話をしに来たよ。無理な開発はやめてくれって。でも父はそれを無視した。そうして、開発は進んでいった。この町は古いものと新しいものが混在するでたらめな町になってしまったんだ。まだ開発は進んでいるから、この湖の景観だっていずれは損なわれると思うよ。もっとひどくなっていく。ほら、あの林」
 と、幸彦は自分たちが立っている場所から正面の湖岸を指差す。
「きれいな林ですね」
 珠城は心から言った。
 緑の木々には、日が当たりきらきらと輝いている。風にあおられ、葉がゆるくざわめく。幹の下には優しい木陰があり、見ているだけで涼やかな気持ちになれた。
「あの林も近々、伐られて潰されてしまうんだ。駐車場にするとか、どこかの金持ちの別荘が建つとか、噂は色々だけどね。うちの父親はそんなことを繰り返して、この町を壊していくんだ」
「……残念なことですね」
 複雑な思いで珠城は呟いた。
「壊れていく町も、かつての親友同士が対立するのも、とても残念です。お辛いことでしょう」
「それだけのことをしたんだよ。ああ、でも、あなたの謎がひとつ解けたよ」
「はい? 謎、ですか?」
 唐突な幸彦の言葉に、珠城は驚いて彼の顔をみつめた。
「何の話でしょう?」
「お香。あなたからするお香の匂い。佐々木さんのところに泊まっているならそれは、温海(あつみ)の匂いだ」
 どこか冷めた言い方だった。珠城はあえて何も言わず、幸彦の顔を見返した。幸彦は淡々と言葉を続ける。
「……彼女は二年前、この湖で死んでいる。湖の幽霊に殺されたんだよ」
「湖の幽霊?」
「そう。この湖、幽霊が出るって言われているんだよね。温海はその幽霊に殺されたって噂だよ」
「佐々木さんの娘さんが亡くなられたのは承知していますが、そんな噂があるとは知りませんでした」
「一人娘の弔いのために佐々木さんはいつも彼女の好きだった香りのお香を焚いているんだよ。あなたからしばらくその香りは消えないかもね」
「構いませんよ。良い香りです」
 にこりとして、珠城は言った。
「君と温海さんは仲がよろしかったのですか?」
「え?」
 唐突な問いに、幸彦は動揺して珠城を見た。
「……何故、そう思うの?」
「悲しそうだから」
「は?」
 思わず、眉間にしわを寄せて幸彦は言った。
「何の話? 誰が悲しいって?」
「君はこの湖の畔に立って、何を見ていたのでしょう? 君の顔は悲しそう……というより、ほとんど泣いているように見えました」
「泣いてなんかないよ」
 強く幸彦は否定した。
「向こうは二つ年上で、学年も違ったんだ。でも……」
「でも、好きだった?」
 途端に幸彦の顔が真っ赤に染まった。
「な、何を言って……!」
「すみません」
 珠城は素直に頭を下げた。
「仏壇にあった温海さんの写真を見ました。とても可愛らしいお嬢さんでした。性格も優しい方だったと。君くらいの年頃の少年なら、身近に彼女のような女の子がいれば惹かれてもおかしくないと思ったので」
 珠城の言葉に何か言い返そうとしたが、結局、幸彦は口を閉じた。迷うように視線を湖面に投げる。しばらくの後、彼は小さな声で言った。
「……温海は幼馴染みなんだ。幼い頃はいつも一緒に遊んでいた。彼女は年上だったけど、いつも公平で、お互いの名前を呼び捨てにしていたんだ。彼女はとても近くにいて、でも遠い存在だった。そしてとても優しくて……だから」
「だから?」
「幽霊に捕まって殺されたんだよ」
「幽霊に……」
「今、変な奴だって思ったでしょう」
 幸彦は自虐的に笑うと言った。
「そう思ってもいいよ。でも、この湖には本当に幽霊がいるんだよ。この町に住んでいる人はみんな、知っている。今は遊泳禁止になっているけど、昔は泳げたんだ。溺れて死んだ子がいて、その子がずっとここにいる……」
「幽霊が生きている人に悪さをすると?」
「温海を湖の底に引きずり込んだのはその幽霊だよ」
 ぶっきらぼうに幸彦は言った。
「その日は温海の十六歳の誕生日だった」
「それが関係あるのですか」
「……今日は僕の十六回目の誕生日なんだよ。僕も幽霊に連れて行かれるのかもしれないよ」
「そんなことにはなりませんよ」
「どうして? 判らないじゃない、どうなるかなんて」
「いいえ、判ります。ここは噂にあるほど怖い場所ではありませんよ」
「そうかな」
「違いますか?」
「だってさ、幽霊が出るってこと自体が怖いじゃない。そもそも、無念だったり未練があったりするから幽霊になるんでしょ? そんなのがうろついている場所だよ。怖いよ」
 珠城は優しく微笑むと言った。
「君はここに幽霊がいて、無念や未練を抱えていると思っているのですね」
「……二十三年前の話しだよ。
 夏休みにここで数人の子供たちが水遊びをしていた。その内、湖に入った一人の少年の姿が見えなくなった。他の子供たちもそれに気付いて捜したけれど、みつからない。警察も捜索したけど結果は同じ、みつけられなかった。みつかったのは湖岸に置かれていた少年の服と靴だけだった」
「ご遺体はみつからなかったと」
「そう。それから、湖で泳いでいるとその子の幽霊に足を引っ張られるとか、腐りかけた死体が目の前に現れたとか、まあ、そんな話は山ほどある。
 実際、人が溺れる事故が相次いでそれでここは遊泳禁止になった。それでも面白がってこっそり湖で泳ぐ連中もいるみたいだけど。簡単に湖には入れるからね」
「……温海さんの場合はどうだったのですか」
「どうって?」
「ご遺体です。彼女はみつかったのですか?」
「みつかったよ。彼女は湖面に浮かんでいたんだ。……きれいなままだったよ」
「そう、ですか。この湖の水質はその二十三年前と変わりませんか?」
「さあ、よく知らないけど、今より昔の方がきれいだったんじゃない? 今は開発が進んであっちこっち掘り返しているからね、影響もあるかもしれない」
「なるほど。そうですね」
 そう言ったきり考え込んでしまった珠城に、幸彦は不安になって言葉を継ぐ。
「何? どうしてそんなこと聞くの?」
「いえ、まだよく判りません」
「判らないって、何のこと?」
「いろいろと」
 少し目を伏せると、珠城は言った。
「例えば、その少年のご遺体。どこに消えてしまったのかと。
 こうして湖を見る限り、比較的ここの水はきれいで、そう深くもなさそうです。もっと濁った水で、水深が深い湖なら、沈んでしまったら最後、藻などに絡まれてご遺体が浮かばないことはあるでしょう。しかし、この湖にそれは当てはまりません。では、少年のご遺体はどこへ行ってしまったのでしょう」
「どこへって……そんな言い方だと、まるで遺体が起き上がって自分でどこかに歩いて行ったみたいに聞こえるよ」
 冗談めかして言う幸彦に、珠城は少し笑って言葉を継いだ。
「そういう意味ではありません。遺体は歩いたりはしませんから。そもそも幽霊など、本当にここにいるのでしょうか」
「……幽霊の目撃談は多数だよ」
「君は信じているのですね」
「信じているとかいないとか、そういうレベルの話じゃなくて、僕が生まれた時から当たり前にある噂だよ。その中で僕は生活してきたんだから」
「なるほど」
「まあ、いいよ。幽霊の話なんて」
 鬱陶しいものを払いのけるようにひとつ頭を振ると彼は空を見上げた。そして、はっとする。
「もう日が傾いてきた。帰らなきゃ。最近は親がぴりぴりしてて、うるさいんだよね」
「長々と失礼しました。お話が出来て光栄でした。それでは」
「ちょっと待ってよ」
 立ち去ろうとする珠城を幸彦は慌てて引き留めた。
「アテはあるの?」
「アテ、ですか?」
「だから、その手紙の人を捜しだすアテだよ」
「……そうですね。どうしましょうか」
「ただのいたずらかもって思わないの? その手紙、沢村信吾さんが書いたとは限らないじゃない」
「それはそうですが、いたずらとは思えません。この手紙を書いた人物は本当に何かを失い、それを取り戻したいと願っています」
「ふうん。じゃあ、書いた人を捜さなきゃだね」
「そのつもりですが……」
「ならうちに来なよ」
「……と言いますと?」
「言ったでしょ。うちは古くからのここの名士だって。ここで何か聞きたいことがあるなら、うちの親に聞けばいいよ。大抵の事は判ると思う」
「そうですか。それなら……お言葉に甘えさせていただきます」
 幸彦は満足そうに頷くと、先に立って歩き出した。珠城は黙ってその背中に従った。


 ☆
「気にしなくていいから」
 幸彦はそう言うと、自分の部屋にある小型冷蔵庫からペットボトルを二本取り出し、一本を珠城に差し出した。
「あの人、いつもあんな感じだから」
「突然、知らない男が訪ねてきたのですから無理もありません」
 珠城はペットボトルを受け取りながら、申し訳なさそうに言った。
「驚かせてしまったようで……優しいお母さまなのでしょうね」
「優しい? ものは言いようだね」
 鼻で笑って幸彦は言った。
「あの人は口だけだから。偉そうなことを言っても自分では何もしない。いつも誰かに依存して面倒なことは人任せにして生きている。父さんがいないと何も出来ないんだよ。今だって会社まで走って仕事中の父さんを捕まえに行っているよ」
「お勤め先にですか?」
「うん。父さんは不動産の会社を経営していてね、ここから歩いて五分ほどの所にあるんだ。一応社長だから、融通が利くから気にしなくていいよ」
「はあ。しかし……」
 困惑する珠城に幸彦は呑気に笑うだけだ。
 珠城が幸彦に連れられて彼の自宅である野村家を訪問すると、対応に出てきた母親は、珠城が沢村信吾を捜していると知るや、気の毒になるくらい動揺した。挨拶もろくにせず、慌てて外に出て行ってしまったのだ。
「手間が省けていいんじゃない? どうせ父さんから話を聞くことになるんだし」
「何だか強引で気が引けます」
「怪しげな手紙ひとつでここまで来た人が随分、気の弱いことを言うんだね?」
「手厳しいですね」
 そう言うと珠城は微笑んだ。その笑みの優しさに戸惑った幸彦は、ごまかすようにわざと冷たく言った。
「突っ立ってないで座れば。父さんが帰ってくるまでもう少し時間がかかるよ」
 幸彦は自分のベッドに座り込み、珠城には机の椅子を指差した。
 彼が言われた通りそこに座るのを見るとペットボトルの蓋を取り、一口、飲む。ふっと小さく息を吐くと、窓の外に目をやった。遠く民家の隙間から湖の一部が見えるのだ。
 まだ幼い。
 珠城は幸彦の横顔をそっとみつめた。
 線の細い、今にも壊れそうな少年。
 学校でも家庭の中でもその空気に馴染めず、自分を持て余している、そんなところだろうか。
「……本がお好きですか」
 珠城は机の上に積まれている雑誌や書籍、ぎっしり詰め込まれた本棚に視線を移して言った。
「え? あ、ああ、うん。そうだね、好きだよ。少なくとも、本を読んでいる時だけは自由でいられるから」
「図書館にもよく行かれるのですね」
「どうして判るの?」
「机の上にある雑誌や本には図書館の蔵書印が押してあります」
「よく見てるなあ。侮れないね」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
 幸彦はさも楽しそうにくすくす笑った。子供らしい、明るい笑い方だった。
「やっぱり珠城さんって、変わっているね」
「そうですか?」
「うん。……ねえ、珠城さんって……」
 幸彦の声は、激しくドアを叩く音に遮られた。
「幸彦、開けなさい!」
 抑えてはいるが、苛立ちのこもった男の声だ。たちまち幸彦の顔から笑みが消える。
「父さんだよ」
 冷淡に言うと、幸彦はゆっくり立ち上がりドアのロックを外した。途端に弾かれたようにドアが開く。険しい表情をした中年男性が一人、部屋の中に入ってくるや見知らぬ男、珠城に静かだが、強い口調で言った。
「あなたはどちらさまですか?」
 何か言おうと前に出る息子を脇に押しやると、野村は珠城に詰め寄った。
「どういうわけでうちの息子と一緒にいるのでしょう? 見かけない方だ。この辺りの人ではないようですね? 妻の話では支離滅裂でよく判らない。あなたからきちんと説明して貰いましょうか」
 言葉の端々に『このよそ者が』という侮蔑の感情がにじみ出ている。それに気が付かない振りで珠城は椅子から立ち上がると、丁寧に頭を下げた。
「珠城と申します。ここへは人捜しのために参りました」
「人捜し?」
「はい」
 穏やかな珠城の様子が、返って野村の神経を逆なでする。彼は苛立ちを隠すことなく言った。
「その人捜しをしている、よそから来た珠城さんが、どうしてうちのまだ高校生の息子と一緒にいるのかと聞いているんですよ。しかも家にまで上がり込んで。どういうことですか?」
「僕が連れて来たんだよ。珠城さんが押しかけてきたみたいに言わないでくれる?」
 冷たく幸彦が言った。
「珠城さんのこと、僕が手助けすることにしたんだ」
「何?」
 目を吊り上げて野村は息子を見た。
「お前、何を言っているんだ。まったく、次から次へと問題を起こして……」
「人捜しを手伝うだけだよ」
「誰を捜すと言うんだ?」
「沢村信吾、という方です」
 珠城が横から口を挟んだ。すると、その名を聞いた途端、野村の態度が変わった。見る見る顔から血の気が引き、体が小刻みに震え始め、力が抜けたように足がよろけて壁にぶつかった。
「……どうしたの、父さん?」
 父の異変に幸彦が驚いて声を上げる。野村は無言で息子を見返し、そしてゆっくりと背後を振り返った。そこにはやはり青い顔をして立ち尽くす幸彦の母親、香織の姿があった。
「何なんだよ……」
 幸彦は両親の顔を交互に見て言った。
「父さんも母さんも変だよ。……沢村信吾って人のこと知っているんだね?」
 野村は息子に視線を戻すと、弱々しい声で言った。
「それは……とうに死んだ人間の名前だ。どうして今更、捜すなどと。死んだ人間を捜せるわけがないだろう」
「でも、珠城さんの元にその人が書いた手紙が届いているんだ」
「何を言っている。そんなわけはない。だいたい捜して何をしようというんだ」
 野村は珠城に向き合うと言った。
「目的は何だ?」
「差出人である沢村信吾さんを捜して、手紙に書かれている探し物とは何かを伺おうかと思いまして。もし可能ならそれを取り戻して差し上げたいと、そう思っています。ただそれだけのことなのですが」
「……あんた、話を聞いていたか。沢村信吾は死んでいるんだ。そんな手紙、いたずらに決まっているだろ」
「本当に亡くなっているのでしょうか」
「……どういう意味だ」
「幸彦くん、君はどう思いますか?」
 不意に珠城に話を振られて、一瞬、幸彦は口ごもったが、すぐに卑屈な笑いを口元に浮かべると父親を見、そして珠城を見て言った。
「そうだね。沢村信吾は死んでいるよ。だって、あなたにさっき話した湖の幽霊ってその沢村信吾のことだもの」