「悪いお酒です。おやめください」
 珠城の声に、男は椅子にだらしなく座ったまま、頭をのけぞらして笑った。そして、珠城から無理に借りた果物ナイフをわざと掲げてみせる。
「おいおい、あんたは酒を飲ませるのが仕事だろ。それをおやめくださいとは何だ。問題ないから見てな」
「ですが」
 珠城はカウンターの奥から、ちらりと壁際に立つ一人の若い女性を見た。
 派手な身なりと化粧でその身を飾っているがよく見ればまだあどけない顔をしている。未成年だろう。彼女も男同様にかなり酒が入っているらしく、高いヒールの靴を履いた足が時折ふらつく。その彼女が頭の上に掲げ持つのは大きな白いカサブランカの花だ。強い芳香を放つそれは、薄暗い店内をほの白く照らしていた。
「……お付き合いされているお方ではないのですか?」
「はあ?」
 一瞬の間の後、男はたまらないという様子で笑い出した。
「よしてくれよ」
 そして、少し声を落とすと言った。
「俺とあの女が釣り合うわけないだろ。ほら、特別にやるよ、俺の名刺」
 男が投げてよこした名刺を珠城は丁寧な手つきで拾い上げた。
竹園満生(たけぞの みつお)さま。……竹園財閥の」
「御曹司さ。今は本社の常務という肩書だが、次期社長だよ。つい最近、社長である親父が倒れてね、これで二度目だ。まだ意識はあるが、ありゃ時間の問題だな。
 次期社長を巡って、ちょっとばかり社内は荒れてるが、まあ、俺が跡を継ぐのは確実さ。その俺があんな女と付き合っているわけないだろ」
「そうですか。そのような豪華な花束を差し上げるお相手ですから、大切な女性なのかと思いました」
「これか」
 竹園はくすくす笑いながら、カウンターの上に無造作に置かれたカサブランカの花束を持ち上げた。
「ま、確かに安物じゃないけどな。こんな花束ひとつで一夜のお遊びの相手が釣れるなら安いもんだろ」
「安い、ですか」
「ああ、何だよ。文句でもあるのか。あんな女、暇つぶしにはちょうどいいおもちゃだよ」
「……今はそうかもしれませんが、いつか高くつくかもしれませんよ」
「お、言うねえ。あんた、高潔そうな顔をしている割には、いろんな修羅場を経験済みってとこかい?」
「そうかもしれません」
「面白いね、あんた」
 真顔で応じる珠城に、花束を投げ出して竹園は大笑いした。
「気に入ったよ。俺が社長になった暁にはこの店、時々使ってやるよ」
「ありがとうございます」
「ねえ!」
 不意に甲高い声が二人の会話に割り込んできた。壁際に立っている若い女性だ。待ちくたびれたらしく、靴のかかとを床で打ち鳴らした。
「男二人で何の話ししてんのよ。つまんないよー」
「ああ、悪かったよ。このマスターが危ないからやめろとかうるさいことを言うもんだからさ」
「えー、なにそれ。危なくないんでしょ? 的はこんなに大きいんだし、あんた、ダーツの名人って言ってたよね?」
「ダーツじゃなくてアーチェリーだよ」
 そう言って、竹園は意味ありげに珠城にウィンクしてみせると、改めて彼女に向き直った。
「どちらにしても同じことだ。百発百中。まかせろよ。それとも怖いか?」
「ちょっとは怖いけどお……約束は守ってくれるんでしょ? あたしが的になったらダイヤモンドのネックレス、買ってくれるんだよね?」
「ああ、ダイヤでもなんでも買ってやるよ」
 竹園は果物ナイフを顔の前で揺らした。
「お前がおとなしくそこに立って、的のカサブランカをちゃんと頭の上に乗せていられたらな。ほら、揺れてるよ。そんなんじゃ手元が狂ってお前の顔にナイフが刺さるぞ」
「えー、やめてよお。顔じゃなくて花に刺してよお」
「判ってるって。ほら、ちゃんと立てよ。壁に背中をつけろよ」
 竹園は座ったまま、身体だけを彼女の方に向け、ナイフを持ち直した。
「行くぞ」
「お客さま、おやめください」
「おいおい、まだ言うのか、マスター。興冷めだ」
「お酒をたくさん召し上がられたのです。お手が震えておられます」
「店の壁を傷つけたら弁償してやるから心配すんな」
「いえ、そういうことではなく」
「大丈夫だよ。冗談だ」
 にっと笑うと竹園は珠城に顔を寄せ小声で言った。
「本当に投げやしないって。投げる真似をしてあの家出娘をからかうだけだ。見てろ、きゃあきゃあ大騒ぎするぞ」
「ねー、まだ?」
「おう。やるぞ」
 珠城は目を伏せて、もう何も言わなかった。
 竹園は満足そうに笑い、改めてナイフを構える。そして一呼吸の後、ナイフを女めがけて……投げつけた。
「え?」
 と声を上げたのは竹園本人だった。
 彼は目の前で起こったことをみつめ、呆然とする。
「何で……俺は投げる真似をしただけだそ? 何でこんなことに」
 震える声で竹園は言うと、のろのろと立ち上がった。そして彼女の方に歩み寄る。
「おい、大丈夫か?」
「あ、あたし……何?」
 彼女の足元に白い花が落ちた。その上にぽたぽたと真紅の飛沫がはじける。彼女の右目には深々とナイフが突き刺さっていたのだ。
「い、いやああ!」
 ついに事態を飲み込めた彼女はその場にうずくまり悲鳴を上げた。
「誰か助けて! 殺される!」
「お、おい、よせよ。お前、何言ってんだよ。落ち着け。すぐに救急車呼んでやるから」
 竹園がなだめようと彼女の身体に触れる。それに敏感に反応して一層、彼女は抗い、騒ぎ立てた。
「やめて! 来ないで! 誰か助けて! 警察呼んで!」
「頼むから騒ぐな。……どこに行くんだ、おい!」
 完全にパニックに陥った彼女は尚も悲鳴を上げながら、竹園を押しのけ、這うようにして店の入り口へと向かった。
「待てって!」
 竹園は背中から羽交い絞めにすると、悲鳴を上げ続ける彼女の口を手で押さえた。そのまま身体を引きずって店の奥に連れ戻す。恐怖と痛みで暴れる彼女を押さえつけ、ついにはその細い首に指をからませた。
「黙れ黙れ黙れ!」
 彼女が竹園の力に抵抗できたのはほんのわずかな間だけだった。ついに声を上げなくなった彼女の身体は、力なく床に転がる。
「おい、大丈夫か? おい?」
 反応はない。
 空虚なその表情は、彼女が既に息絶えたことを物語っていた。竹園はようやく彼女から離れるとその場に力尽きたように座り込む。
「……こ、こいつ、騒ぐなっていうのに……なあ、あんたも見てただろ。これは事故だ。俺は悪くない。な? そうだろ? 俺は本気でナイフを投げるつもりはなかったんだ。冗談だったんだよ。それなのに、気が付いたらナイフは俺の手を離れてて……何でこんなことに」
 必死にすがるような目で彼はカウンターの奥の珠城を見上げた。
「な? 証言してくれるよな? 事故だって言ってくれるよな?」
「はい。証言することは構いません」
 珠城は透明な目で竹園をみつめかえした。
「ナイフが彼女の右目に刺さったのは双方、承知の上での行為の結果ですから、事故と認められる可能性はあります。ですが、今、あなたが、騒ぐ彼女の首を絞め死亡せしめたのは自分の利益を守るために行った、確かに殺意のあった行為です。事故ではありません。……と、証言すればよろしいですか?」
「やめてくれ!」
 竹園はあわてて立ち上げるとカウンター越しに身を乗り出した。
「なあ、冷たいこと言わないで助けてくれよ。悪いようにはしない。必ず、礼はする。なあ、助けてくれ。なんとかしてくれよ」
「なんとか、ですか」
「ああ、いくらでも欲しいだけ金を払うよ。この店、もっと大きくしたいだろ? な?」
「……そうですね」
 口元だけで笑うと珠城は言った。
「判りました。なんとかして差し上げましょう」
「ほ、本当か?」
 竹園は深く安堵の息をついた。
「助かるよ……」
「お行きなさい」
「え?」
「今すぐ、この店を出た方が御身のため。お行きなさい」
「あ、判った。……でも、これから俺はどうすればいいんだ?」
「何も」
 珠城は首を横に振った。
「何もなさらなくて結構です」
「そう、なのか。あ、でも謝礼はちゃんとするから。だから、あんたもこの女のこと頼むよ。……俺は、本当にこの女のこと何も知らないんだ。今夜、街で初めて会った女で花束買ってやったらほいほいついてきて……つまらないから家を出てきたとか、誰も自分の話を聞いてくれないとか甘えたことを言ってたから、どこかの家出娘だよ。どうせ、ろくでもない女だ、気にすることはないさ。……あ、じゃあ、俺は帰るから」
「お客さま」
 帰るべく、ドアノブに手を掛けた竹園を不意に呼び止めると、珠城はゆっくりとカウンターの外に出てきた。そして床に落ちている真紅に汚れた一輪のカサブランカをそっと拾い上げる。
「たかが花一輪ですが、この花にも命があります」
「……あ?」
「いつかあなたもお判りになるでしょう。どうぞお気をつけてお帰りください」
 微笑む珠城に何か不吉なものを感じて、竹園は逃げるように店を出た。
 竹園満生はマンションの自分の部屋に戻ると、電気も付けずにそのままベッドにもぐりこんだ。
 彼の身体は心底冷え切っていた。しっかりと毛布をその身体に巻きつけてみても、相変わらず震えは止まらず、寒気は去ってはくれない。どこからか得体の知れない冷たいものが染み込んできて、容赦なく彼の心と身体を苛むのだった。


 どのくらい時間が過ぎただろうか、眠れずに何度目かの苦しい寝返りを打ったその時、突然それは聞こえてきた。
「……けて、助けて……ひどいことしないで……」
 声。それはか細い、今にも消え入りそうな女の声だ。竹園はぎょっとして身体を起こした。
「だ、誰だ?」
 暗闇の目を凝らすと、闇が少し揺らめいて何かがゆっくりと現れた。
「お前……」
 竹園は呻いた。恐怖で体中から汗が噴き出してくるのが判る。どうしてこの女がここにいるんだ。こいつは確かにあの時、俺が……殺した。この手で確かに。
 現れた女は少し笑ったようだった。茶色の長い髪も白いミニスカートも、かかとの高いバランスの悪い靴もすべてあの時のまま。そして、右目に深く突き刺さったあのナイフも。
「く、来るな!」
 ゆっくりと近づいてくる女に竹園は叫んだ。
 何よりこの女の顔が怖かった。ただひたすらに憎しみだけでこちらをみつめ続けるこの顔! この顔は、この憎しみは、竹園のよく知っているものだった。彼は女の顔を直視できず、目を逸らした。
「……ねえ、どうしてこんなひどいことするの。あたしがあんたに何したっていうの……」
「う、うるさい! やめろ! お前だって面白がっていたじゃないか! だたの、ただのゲームだろうが! 今更、恨み言を言ってんじゃねえよ!」
 女はふと歩みを止めた。不思議な言葉を聞いたように小さく首を傾げる。
「ゲーム?」
 か細いその手をゆっくりと竹園に向かって差し出す。
「あんたはゲームであたしを殺したの?」
 突然、彼女の右目からずるずると赤いものが流れ出した。粘性のあるその赤い液は床に落ちると生あるもののように竹園に向かって伸びていく。
 彼は悲鳴を上げていた。そしてそのままなりふり構わず、部屋を飛び出した。しかし、どんなに走っても、あの女を振り切れない。どこまでもどこまでも執拗についてきて、竹園のすぐ後ろで呪わしい声を上げ続けていた。
「やめろ! やめてくれ! 俺が悪いんじゃない! 俺のせいじゃない!」
 ついに竹園は疲れ切って冷たい地面に倒れこんだ。もう足が震えて走れない。彼は背後からひしひしと迫ってくる冷たい女の存在に気が狂わんばかりだった。
「……もう、動けない」
 女の息が首筋を這い、冷たい手が肩を捉えた。
 もうだめだと観念した次の瞬間、竹園はいきなり腕を掴まれ、どこか暗い場所に引きずり込まれた。床に放り出されるとすぐに背後でドアの閉まる音がする。
 混乱したまま辺りを見回すと、すぐ傍の暗闇の中にふわりと浮かぶ柔らかな光のかたまりに気が付いた。竹園はその光に必死に目を凝らす。
「あ、あれは……」
 しばらくみつめて、ようやく彼にもその光の正体が判った。
 花だ。
 あの若い女に買い与えたカサブランカの白い花束。それが今は花瓶に活けられてカウンターの上にある。
 竹園は呆然とした。何も考えられず、ただそこに座り込んでいるしか彼にはできなかった。
「……お早いお帰りですね」
 不意に光から声がした。竹園は、はっとして身を乗り出す。
「あんたは……マスターか」
「お帰りなさいませ」
 花明りの中、ぼんやりと白い顔が浮かび上がった。珠城は静かに微笑むと言った。
「何をそんなに怯えておいでですか? お客さま」
 言われて竹園は、ばつが悪そうに辺りを見回した。
「……ここはあんたの店だな。どうやってここまで戻って来たのか……俺にも判らない。俺は……あの女に追われて夢中で逃げて……おい、あの女はどうしたんだ」
 竹園は弾かれたように立ち上がると、気味悪そうにかつて女が倒れていた床を見た。そこにはもう何もなかったのだ。女の死体どころか、血の痕も、そして血に汚れた白い花すら。
「あの女は死んだんだよな? 死んでいたよな? あんた、あの女どうしたんだ? どこに隠した?」
「お言いつけの通り、処分いたしました」
「処分って」
 竹園はすがるような目で珠城を見た。
「何をしたんだ?」
「捨てました」
「ど、どこに?」
「それは言わぬが花」
「……本当にあいつは死んだんだよな?」
「はい。お疑いですか?」
「俺は、あの女に追いかけられてここまで来たんだぞ」
「死んだはずの女性が追いかけてきたのなら、それは幽霊ですね」
「な、何を言って……」
「信じられませんか? 幽霊の存在」
「あ、当たり前だ!」
 竹園は吐き捨てるように言った。
「ガキじゃあるまいし、幽霊なんか信じるかよ。そんなものいるわけないだろう! 人間は死んだらそれで終わりだ!」
「残り香、というものがあります」
「あ? 何言ってんだ?」
「花一輪」
 珠城は花瓶に活けられたカサブランカの花に視線を向けた。
「散って姿が無くなってしまったとしても、そこには香りが残ります。それは人も同じこと。身体が消えても想いは残る。あの若い女性にも、きっと何かの想いがおありになったことでしょう」
「は? 想いだって? あんな安っぽい女に何があるっていうんだ?」
「誰かに愛され、愛していたかもしれません。何かやりたいことや夢があったかもしれません。それは無残な形で断ち切られてしまいました」
「……何が言いたいんだよ?」
「残した想いがあるのなら、早々に成仏は出来ないでしょうということです」
「気味の悪いことを言うな。俺は幽霊なんか信じてないからな」
「……幽霊を信じる、信じない。これはそんな次元の問題ではありません。何かが存在したのなら、必ずそこには何かが残るのです。それがあなたには恐ろしい姿をした幽霊なのでしょう」
「……あんた、何かやばい宗教にでも入ってんのか?」
 強張った顔で無理に笑うと、竹園はのろのろとカウンターの椅子に腰を下ろした。
「だいたい、あの女に関して言えばあんただって共犯なんだぜ」
「はい、おっしゃる通り。ですが、あなたの怯え方が尋常ではありませんでしたので……」
「……どういう意味だよ?」
「あなたはどうして破滅したがっているのですか?」
「な、何のことだ」
 珠城は含み笑いをした。それが竹園の神経に触る。
「おい! その笑いは何だ! お前が俺の何を知っているって言うんだ!」
 竹園は花瓶から花を引き抜くと怒りにまかせて叩きつけた。
 花はカウンターの上に、床にと無残に散らばる。そしてそのままの勢いで珠城の胸ぐらを掴みあげた。が、しかし、勢いがいいのはそこまでだった。至近距離で珠城の瞳を見たせいだ。何かが頭の中でぱちんとはじける音がして、竹園は息を呑み、そのまま動けなくなってしまった。
「お客さま」
 珠城は穏やかに呼びかけた。
「あなたは優しい人です。そして人並みにずるくて弱い。『破滅したい』そう思う気持ちに嘘はなくても、実際に破滅しそうになると助かりたくて必死にもがき、僕のような者にまですがろうとする。人とは悲しいものですね」
「何の話だよ……」
 竹園は喘ぐように言った。そして、その透明な瞳を恐る恐る覗き込む。
「……あんたには見えるのか? 俺のすべてが……見えるとでも言うのか?」
「何も見えはいたしません」
 言ったきり珠城は黙り込み、その代わりに微笑んだ。それを機に竹園は珠城から手を離すと、ゆっくりと身を引き、椅子に座りなおした。
「……あんたは怖い人だな。あんたの瞳の色は透明すぎてまるで底がないようだ。底なしの見えない向こう側に人は恐怖するんだぜ」
「恐怖」
 低く珠城は呟くと、竹園をまっすぐに見た。
「あなたは何に怯えておいでですか」
「怯えてなんか……」
 問いかけそのものを否定しようとした竹園だったが、不意に冷たいまなざしを思い出した。憎悪のこもったあの恐いまなざしを。
 あれは誰の目だっただろうか?
 竹園はそのまま両手で頭を抱え込んだ。心の奥にこびりついて落とせない、どうしようもない汚れのような記憶が彼の中でうずき始めた。
「……忘れたつもりだった。すっかり捨て去ったつもりだったのに、だけど、それはどうしてもここにあるんだ。あの言葉もあのまなざしも、ずっとここにある。
 ……俺は今まで何ものにも迷わないように生きてきた。冷たい心で生きると決めた。あいつらが俺を必要としないなら必要とさせてやる。親父だろうが、お袋だろうが、利用できるものは何でも躊躇なく利用してやるって決めたんだ……」
「あなたはそうして傷つきながら生きてこられた」
「傷ついてなんかいない!」
 吠えるようにそう言った後、竹園は疲れたように肩を落とし弱々しい声で話し始めた。
「……俺の親父は今でこそ年老いておとなしくなったが、若い頃はお袋や幼い俺をないがしろにする最低な男だった。
 よくある話だが、外で何人もの愛人を作り、子供を産ませて平然としていた。誠実だけが取り柄のお袋を親父はいつの頃か、疎ましく思うようになったらしい。
 まあ、気持ちは判らなくもないよ。親父は婿養子でお袋こそが竹園財閥の直系だったんだからな。親父はお袋の父である前社長に頭が上がらなかった。それを気遣うお袋に逆にうんざりしていたんだろう。前社長が亡くなり会社を継ぐと、途端に親父はお袋や俺が待つ自宅に寄り付かなくなった。
 たまに帰ってくると親父は言うんだ。『お前たちと一緒にいると息が詰まる。よく似たお前ら二人の顔を見ていると寒気がする』と。
 確かに、俺はお袋似で親父にあまり似なかった。親父は自分によく似た愛人の子供たちを可愛がった。
 あんなに物静かだったお袋が、次第にヒスを起こすようになっていったのはその頃からだ。
 彼女は俺に言った。お前が父親に似ない醜い子だから、あの人は家に帰ってこないのだ、お前のせいだ、と。その言葉を俺に投げつける時の、あのお袋のまなざし。きんと冷たい針のような目が本当に恐ろしかった。
 幼かった俺はその言葉を信じた。
 俺は愛されない醜い子なのだと本気で思った。そして愛されている愛人の子供たちに嫉妬し、恨みながら成長したんだ。……だから、親父が五年前に初めて倒れた時、お袋をそそのかし、弱っている親父に情で訴え、丸め込み、俺を次期社長として正式に指名させた。そしてうるさい愛人や面倒なその子供たちを金で黙らせ、蹴散らしてやった。それでも言うことをきかない奴は人を雇って脅しをかけた。どいつもこいつもびびって逃げ出したよ。
 気分良かったぜ。今まで俺をないがしろにしてきた連中を、今度は俺がないがしろにしてやったんだ。
 あんた、破滅って言ったよな。
 ああ、そうだ。俺は破滅したがっているんだ。壊れたいんだよ。でも、ひとりで壊れてなんかやるもんか」
「道連れをお探しで?」
「かもな」
「ひとりで壊れる勇気もない、ということですね」
「……ああ、そうだ。そうだろうよ。自分に意気地がないことぐらい判っているさ」
「それで待っていたのですね。ご自分を破壊に導いてくれる何者かが現れることを。あなたの言うお母さまのまなざしに怯えながら、あなたは待っていたのですね」
 竹園は突然笑い出した。頭をのけぞらせ、何もかもを吹き飛ばすように豪快に笑った。
「いけないか? この世界にはいくらでも悪魔がいる。あの女みたいな馬鹿もいる。機会を俺は待っていただけだ」
「あなたが、あなた自身の破壊を望むのは勝手です。ですが、その破滅に他人を巻き込むのはいかがなものでしょう」
「あの女は自分から俺のゲームに参加したんだ。無理やり付き合わせたわけじゃない」
「あなたはゲームで人を殺すのですか」
 その台詞に竹園は、はっとする。つい数十分前に女から似た言葉を投げかけられていたことを思い出した。それと同時にあのまなざしも脳裏に鮮明によみがえる。すっと背筋に寒気が走った。
「や、やめろ」
「彼女はあなたの中にある破滅願望など知りもせず、軽い気持ちで誘いに乗った。それは確かに浅はかな選択ですが、だからといってそれが彼女を殺してよいという理由にはなりません。人の命や想いを奪ってよいという理由を、少なくとも僕は知りません」
「……あの女もあのまなざしで俺を見たんだ」
「そう。そして、あなたもまた、そのまなざしで人を見ています」
 ぎくりとして竹園は顔を上げた。珠城は構わず話しを続ける。
「まなざしは鏡です。憎しみのまなざしで人を見れば、こちらも同じまなざしで返されます。憎しみや恨みは連鎖します。どこかで誰かが気付いてその醜い連鎖を断ち切らなければなりません」
「……俺もあんなまなざしで人を見ていた?」
「違いますか?」
 問い返されて、竹園は口ごもった。
 両親の憎しみのまなざしや冷たい言葉にただ染められ続けた幼年期だった。
 人を傷つけたり、迷惑をかけてきたことすべてを当たり前に不幸な過去のせいにして、それで許されるとどこかで思っていた。親の威光をかさに着て、今までどれだけ人を痛めつけてきたのだろう。そんな時、きっと俺もあの忌み嫌ったはずのまなざしで人を見ていたに違いない。ひとかけらの優しさもない、憎しみだけがこもった目で。
 竹園は長い長い溜息をついた。
「……俺はどうしたらいい」
「許すことです」
「許す? 親父やお袋をか?」
「はい、そしてご自分のことも」
 珠城はゆっくりとその場を離れ、カウンターの奥へと戻った。
「何かお作りしましょう」
 意気消沈する竹園に珠城は静かに語りかけた。
「……あなたのおっしゃる通り、この世界にはたくさんの悪魔が存在します。次から次へと恐ろしいことが起こります。ですから、あなたのようにいつまでもひとつのことにこだわっていられるほど、この世界の流れはのんびりとはしていません。流れの途中に立ち尽くされていては、先を急いでいる他の方たちに迷惑ですよ」
「のんびり? 俺はのんびりしているのか?」
 自虐的に笑って竹園は言った。
「いい表現だな。でもな、今更何と言ったところでどうしようもない。事は起きてしまった。……あんたのことは伏せておく。誰にも今夜のことは話さない。あんたも忘れてくれ。だから、あの女の死体のありかを教えてくれないか」
「知ってどうなさるのですか?」
「警察に行くよ。破滅するにしても、けじめはつけたい」
「そうですか。そう決心されたのでしたら、あのまなざしはもう二度とあなたを追っては来ないでしょう」
「……そうだといいが」
 短く息をついた竹園に優しく微笑みかけて、珠城は水割りのグラスをそっと差し出した。琥珀色の液体をしばらくみつめてから竹園は言った。
「やめておこう。悪い酒だ」
「承知しました。ではこちらを」
 そう言って次に珠城が差し出したのは大輪のカサブランカの花一輪だった。一瞬、息を呑んだ竹園だったが、しかしすぐに大切そうにその花を受け取っていた。甘い香りが辺りに満ちて、柔らかな花弁の白が光をまとって辺りを照らした。
「あなたはそれをどうなさいますか?」
「ねえ!」
 答えようと竹園が口を開いたその時、甲高い声がそれを遮った。跳ね返るような若い女の声に、竹園は椅子から落ちそうになるくらいに驚いた。
「男二人で何の話してんの? 早くしてよ」
「お、お前、何で……!」
 竹園は呆然と声の主を見た。
 それは竹園が殺したはずのあの若い女だったのだ。彼女は以前と同じ様子で壁際に立ち、待ちくたびれ、ふてくされた顔で竹園と珠城の顔を交互に見ていた。
「何でって、ダーツの的になったら、ダイヤのネックレス買ってくれるって言ったじゃん。今更何言ってんの? ねえ、早くやろうよ。お店、閉まっちゃう」
「あ、ああ、そうか」
 やっとの思いで返事をすると、竹園は改めて珠城を見た。
「ど、どういうことだ。どうしてあの女は生きている? あんた、死体は処分したって言ったよな?」
「悪いお酒と申しました。悪酔いなされたのでしょう」
「それはどういう……」
「お客さまの身には何も起きてはいない、つまりはそういうことです」
「……あんた、一体、何者だよ? 俺に何をした? いや、何もしなかったのか? 何も起こっていなかったのか?」
 しばらく自問自答を続けた竹園は、ついの諦めたように笑った。
「そうか、すべては悪い酒のせいか」
 そして、彼は持っていたカサブランカを水割りのグラスに挿した。
「これでいい酒になる」
「はい」
「ねえ、その花、的にするんでしょ?」
 すぐ背後から声がして、女が花に手を伸ばそうとする。それを慌てて止めると、竹園は言った。
「もうそんなことはしなくていい。さあ、行こう。約束通り、ダイヤモンドでも何でも買ってやる」
「本当! うれしい!」
「だけど、その後、家に帰れよ。送ってやるから」
「ええ! 何それ! 嫌だよ!」
「じゃあ、ダイヤはいらないんだな」
「それは欲しいけど……」
「お前の話、聞いてやるよ。俺はたいした奴じゃないけど、お前の話ぐらいは聞ける。言いたいことがあるなら言えよ。全部、聞いてやるから」
「え? ……本当? あたしの話なんか誰も……」
「俺だってそうだった。だから、俺はお前の話を聞いてやるんだ」
「……ふうーん」
 値踏みするように女は彼を見ていたが、やがて笑顔になって頷いた。
「判った。とにかく、ダイヤのネックレス買ってよね。ついでにピアスもいい?」
「ちゃっかりしてんな。判ったよ」
「やったー」
 女は、はしゃいで先に立って店を出て行った。それに続こうとして竹園は足を止める。
「ああ、勘定、払わないとな」
「それはこのお花で充分です」
 珠城はそう言うと、グラスに挿したカサブランカを優雅な手つきで示した。
「店が華やぎます」
「……そうか」
 それから、少し考えてから竹園は言った。
「あんたが何者なのか、俺に何をしたのか、それは詮索しないことにするよ。聞いたところで答えてくれないだろう。だから、黙って出ていく。でも、一言だけ言わせてくれ」
「何でしょうか?」
「……ありがとう。あんたのおかげで目が覚めた」
 珠城は微笑んだ。それだけで何も言わない。竹園はそんな珠城をしばらくみつめた後、やがてゆっくりとドアを開け、外に出た。
 外は月夜だった。明るい夜に若い女は一層はしゃいで竹園にまつわりついてくる。
「よい夜を」
 背後からそんな声が聞こえたような気がしたが、竹園はあえて振り返らなかった。その声は月の溜息にも似て、振り返ったら最後、壊れてしまいそうだったから。
「行こう」
 女に声を掛けると、竹園は歩き始めた。明るい方に。


(夜に会う おわり)