☆
 大田雅人(おおた まさと)は懐かしさに目を細め、祭りで賑わう境内を遠くから眺めた。
 高校を卒業して、この町を出て行ったのは八年前。それきり一度も戻っていない。その八年間の空白が、この町の様子を少しばかり変えていた。
 駐車場だった土地にモダンな外観の一戸建てが並んでいたり、買い物するなら商店街だったはずのこの町に、大手のスーパーやコンビニエンスストアが当然のように出来ていた。その事実に雅人は少なからず驚いたが、しかし、考えてみればそれはどこにでも起こりうる当たり前の変化なのだ。区画整備により町並みが変わる。古い店が潰れて新しいお洒落な店が建つ。……そんな珍しくもない変化に、雅人はどうしても戸惑ってしまうのだった。
 雅人は生まれ育ったこの町が好きだった。
 ここは、古くから住む人たちが多く、近所付き合いという過去の遺物となりつつある習慣が未だに続くような町だ。おばさんやおじさんたちは、近所の子供は自分の子供と同じだと当たり前に思っているらしく、他人の子供も遠慮なく怒ったり、説教したり、心配したり、また褒めてくれたりしたものだった。
 家の間を伸びる細い路地を子供頃、走り回って遊んでいるとうるさいと近所のおじさんに怒られ、竦みあがったことを雅人は懐かしく思い起こした。
 駅前にある商店街も子供の頃の雅人のいい遊び場所だった。顔なじみの店員にお菓子を貰ったり、商店街の裏通りをこっそりと仲間たちと冒険したりした。

 あの裏通りの空気は今も変わらないだろうか。

 大人たちにみつかると死ぬほど怒られたあの裏通りの冒険。今、思い出しても雅人の胸は高鳴った。
 明るく庶民的な表通りの商店街とは真逆な、あの独特な空気が漂う裏通り。子供の目にも怪しいと判る店が並んでいた。
「なあ、なあ、知っているか? ここって伝説があるんだぜ」
 ドキドキしながら夕暮れの裏通りを歩いている時、仲間のひとりがそう言った。あの時は確か、裏通りに現れる女の幽霊を捜しに行ったのだったか。暗がりの角を曲がろうとしたタイミングで言い出したものだから、ひどく緊張したのを覚えている。
「ここには不思議な店があるんだよ。その店がこの裏通りのどこにあるのか判らないんだけど、もし、探し当てて、その店のマスターにお願いすれば、死んだ人に会えるんだって。うちのお母さんの知り合いの親戚の人が、死んだおじいさんに会えたんだって……」
 ばっかじゃねえ。
 あの時、実はちょっと怖かった。だから強がって俺はそう言って笑い飛ばしたんだった。
 でも、もし、それが本当なら。
 雅人は切ない気持ちで目の前の神社の鳥居を見上げた。
 この神社の夏祭りは昔と変わらない。
 雅人はふと、自分が高校生だったあの頃に戻った気がして、微かな恐怖を感じた。
 この恐怖。
 俺は、まだふっきれていないんだ。
 雅人が逃げるようにこの町を出て、八年という長い時間、一度も戻って来なかった理由。あの日の、夏祭りでの出来事がまだ胸にこびり付いているのだ。
 母親に「一度くらいは戻って来なさい」と電話で散々せっつかれ、仕方なく今年は夏季休暇を利用して帰省したのだが、雅人は家で家族と過ごすのがなんとなく落ち着かず、夕食後、散歩してくると言ってひとりで夜の町に出てきた。
 ここに来るつもりじゃなかったんだけどな。
 雅人は苦笑する。目的などなく、ただでたらめに歩いていたらいつの間にか鳥居の前に出てしまったのだ。図らずしも、あの日と同じ夏祭りの夜。懐かしいという郷愁の想いが雅人の胸を抜けていくと、代わりにやってきたのは、やはりあの日の出来事に対する恐怖と呵責だった。
 雅人はそのまま、鳥居の前で動けなくなってしまった。中に一歩でも足を踏み入れたら、そこに高校生のままの野間千秋(のま ちあき)が笑顔で待っているような気がして恐ろしかったのだ。
 雅人は思わず、後ずさる。
 やっぱり、帰って来なければ良かった。
 後悔した雅人はもうここに一刻もいたくなかった。家に戻ろうと体を回転させた、その時、後ろから歩いて来た人物とまともにぶつかった。雅人は大きくよろめいたが、相手は大柄の男でびくともせずそこに立っている。
「あ、すみません。大丈夫ですか」
 と、柔和な声で相手の男が言った。雅人も謝ろうと顔を上げて、そしてそこで止まってしまった。
「……え? 雅人、か?」
 大柄の男の方が、先に声を上げた。雅人は頷きながら言った。
「豊、だよな? 西山豊(にしやま ゆたか)だよな?」
「おお! そうだ、大田雅人! 久しぶりだな、元気だったか」
「お前、でかくなったなあ、なんだよ、この腕」
 雅人は挨拶を省略すると、豊のTシャツから出ている太もものような二の腕を手の平で叩いた。
「何かスポーツでもやってんのか?」
「ラクビーだよ。今更、驚くなよ。俺はずっと、でかかっただろうが」
「たっぱだけだろ」
 雅人は自分より、余裕で頭ひとつ分は背の高い豊を見上げた。雅人の記憶にある豊は背ばかり高く、ひょろりと痩せた少年だった。しかし虚弱そうに見えるその風貌とは裏腹に、豊の運動神経は良く、その体には十分な耐性があった。昔からスポーツが好きな少年だったが、ラクビーとは初耳だ。
「それにしても、ラクビーって……。高校の時はサッカーやってなかったか?」
「うん。ラグビーは先輩に誘われて、大学に入ってから始めたんだ。それからハマちゃってなあ。大学時代はラクビーに明け暮れた四年間だったよ。……今は俺たちが卒業した高校で教師やっててな、そこのラクビー部の顧問もしている」
「ああ、教師をしているってのは誰かから聞いたな」
 雅人はいかついくせに、優しい目をした豊の顔をまじまじとみつめた。
 雅人は高校を卒業すると、すぐに就職を決めて逃げるようにこの町を出て行ったが、この高校時代の友人は、地元の大学に進学した。そしてその大学を卒業した後は、地元の高校の教師になったと噂で聞いていた。明るい顔色をした豊を、雅人は密かにうらやましく思った。
「……そっか。俺たちの卒業した高校で、か」
 雅人の心は複雑な思いで揺れた。
「行こうぜ」
 不意に、豊が明るい声を上げた。何のことかと雅人がいぶかると豊は鳥居の向こうを顎でしゃくる。
「祭りに来たんだろ? 行こうぜ。俺は自分の学校の生徒が馬鹿してないか、見回りも兼ねているんだよ。相変わらずだぞ、高校生は。夏休みだと羽目外すからなあ」
 からりと笑って、豊は先に立って歩いていく。その大きな背中を雅人は恨めしげにみつめた。
 こいつ、あの日のことを、野間千秋のことを忘れたのか……。
「おーい、どうしたよ?」
 豊は不思議そうに、付いて来ない雅人を振り返った。その誠実な声に抗えなくて、雅人は仕方なく歩き出す。
「久しぶりだな。お前とこうして歩くなんてな」
「うん」
 雅人が隣の来るのを待って歩き出した豊は本当に嬉しそうだ。懐かしそうに遠い目をして言葉を続ける。
「夏祭りもよく一緒に行ったよな。そうそう、お前、金魚すくい上手くて、俺は一匹もすくえないのに、あれは悔しかったよ……」
 豊は金魚すくいの屋台を見つけると、集まっている子供たちの頭の上から水槽を覗き込んだ。小さな赤い金魚がゆらゆらと水の中を泳いでいる。それを子供たちが歓声を上げながらホイを使って追いかけていた。
「雅人、やってみるか」
「いいよ」
 雅人は苦笑して言う。そんな気持ちには到底なれない。豊はあからさまに残念そうな顔をして、尚も泳ぎ回る金魚を見下ろしている。
 こいつ、変わらないなあ。
 ぎすぎすしていた雅人の心に柔らかいものが満ちてきた。思わず微笑んで豊をみつめていると、突然、雅人の背後から女の子達の嬌声が響いた。
「きゃー、豊ちゃん先生じゃん」
「あ、本当だ。豊ちゃん先生も金魚すくいするのー? 似合わねー」
 雅人が驚いて振り返るのと、豊が声を上げるのとほぼ同時だった。
「こら。何が豊ちゃんだ。そう呼ぶなって言っただろう」
「えー、だから、先生って最後に付けてるじゃん」
「ばーか。どこの世界に、先生に『豊ちゃん先生』なんてまどろっこしい呼び方をする生徒がいるんだよ」
「はーい」
「ここにいまーす」
「……お前らなあ」
 豊は苦笑して、傍らに唖然と立ち尽くしている雅人を見た。
「やかましくて悪いな、こいつらは一年生で俺の教え子なんだ。黄色の浴衣が浅岡真子(あさおか まこ)。紺色のが坂井深雪(さかい みゆき)だ」
「こんばんわー」
 二人して同時に声を上げ、意外に律儀に頭を下げる。
「豊ちゃん先生のお友達、ですか?」
 真子が探るように雅人を見ながらそう言うのを、苦笑した顔のまま豊が答えた。
「おう。高校時代の親友、大田雅人だ。お前らの先輩だぞ」
「へえ、そうなんだ」
「何かカッコイイ。この町に住んでいるんですか?」
「いや。今は仕事が休みだから帰省しているんだ」
「そうなんだー。よろしくお願いしまーす」
 少女たちはそう言うと何が面白いのか一斉に笑いさざめく。その騒がしさに困惑しながらも、雅人は作り笑いで頷いた。自分が高校生だったのは昔のことだが、高校生という生き物は、流行などに左右され外見などは変わっても、その内面は変わらないのかもしれない。
 今思えばくだらないことに熱中したり、何でも大げさに取り立てて仲間内で騒いだものだ。
 雅人が羨ましさに似た思いで、二人の少女を眺めていると豊が真顔で言った。
「で、お前たち、金魚すくいに来たのか? それだけだろうな? 何かまた企んではいないだろうな?」
 企む?
 その言葉が、目の前にいる陽気な少女たちには似合わない気がして、雅人は豊を思わず見た。
「企むってどういう意味だ」
「雅人、こいつらの外見に騙されてはいけないぞ。悪いことなど企みそうもないあどけない顔をしているが、ところがどっこい、この二人組み、とんでもない問題児なんだ」
「もう、豊ちゃん先生、ひっどーい」
 黄色地に色とりどりの蝶の舞う派手な浴衣の真子がやはり派手に袖を振って騒いだ。
「あたしたち、真面目な高校生だよ」
「そうそう」
 紺地に白百合の柄という清楚な浴衣の深雪も笑いながら真子の後押しをする。
「あたしたち、悪い事なんてしてないよねー」
「してないしてない」
「お前ら、どの口がそう言うんだ。停学になりかけたのを助けてやったのを忘れたか」
 そう言われた途端、二人は目を見合わせ、ぐっと口を閉じた。
「……停学って?」
 居心地悪そうに身じろぎする二人に気を遣いながらも雅人が尋ねると、豊が仕方なさそうに言った。
「ほら、お前も知っているだろう、悪名高い商店街の裏通り。こいつら、女子二人だけで夜の遅い時間、あんなやばい場所をうろついていたんだ。挙句、警察に補導されて……」
「だからあれは、遊んでいたんじゃなくて、学習の一環だったんだって何度も言っているじゃない……!」
 真子が声を上げるのを、豊はひと睨みで黙らせた。
「なーにが学習だ。都市伝説だの、妖怪だの、UFOだの、カッパだのと。それのどこが学習なんだよ」
「カッパって……」
 雅人は意味が判らず、顔を赤くして怒っている友人をぽかんと見上げた。
「おい、何の話だ? 俺がこの町を出ている間にここはカッパの名所にでもなったのか? カッパが出そうな川なんかあったけ」
「あるか、そんなもん」
 いらいらと豊が答えると、少女たちがくすくすと笑い出した。
「豊ちゃん先生がカッパなんて変なこと言うからだよ。大田さん、この町にカッパなんかいないし、あたしたちが裏通りに行ったのはもっと別な理由」
「別って何?」
「大田さんもこの町の出身なら知っているよね? 裏通りにある不思議な店の話」
「……え? 不思議な、店?」
真子が深雪に目配せすると、深雪は頷いて、持っていた和風生地の手提げかばんから一冊の雑誌を取り出した。
「これ、見てください。その付箋が貼ってるところ」
「……謎工房(なぞこうぼう)?」
 雅人が機械的にその雑誌のタイトルを声に出して読んだ。見たこともない雑誌だった。
「あたしたち、ミステリー部の部長と副部長なんです」
「はいっ。あたしが副部長。でもって、会計も兼ねてまーす」
 と、妙なテンションで深雪が元気に手を上げた。雅人はとりあえず頷いてから、言われた通り付箋の付いているページを開いてみた。屋台から溢れる明かりと境内に張り巡らされたたくさんの提灯で雑誌の細かな文字もしっかりと読める。『ハートヒーラーの光と闇』という大きな見出しがいきなり目に入り、雅人は何故かぎくりとした。
「……ハートヒーラーって……何だろう?」
 雅人が言うと、深雪が傍らに寄り添ってきた。
「ハートヒーラーというのは造語よ。もともとそういう言葉は存在しないの。でも、ヒーラーって言葉はあるわ。治療師とか、癒す人とかいう意味なの。で、ハートは心じゃない? だからハートヒーラーというのは心霊治療師とか心の治療師とか、そういう意味になるみたい」
「心の……治療師」
 そうつぶやくなり、熱心に記事を読み始めた雅人に豊は慌てて言った。
「おいおい、本気にするなよ。そんな怪しげな三流雑誌の記事なんかアテにならないって。それにこいつら、ミステリー部なんてそれらしいことを言っているが、新任の先生にむりやり顧問になってもらって今年なんとか立ち上げた、部員は五人しかいない弱小部なんだぞ。しかもそのうち三人は名前だけ借りた幽霊部員だ。
 部活動というのもな、夜中にUFOを呼ぶとか言って校庭でおかしな格好をして踊って近所の住人に不審者がいると警察に通報されたり、さっき言った裏通りを真夜中に散策したりなんだからタチが悪いにこの上ない。そうそう、妖怪を探しに行くと言って家出したこともあったよな。とにかく、頭痛の種にしかならんのだ。こいつらの部活動とやらは」
「……なあ、豊。このハートヒーラーって人の伝説、俺たちがガキに頃にもあったよな?」
「……おい、人の話、聞いているか?」
 一通り記事を読んだ後、雅人は顔を上げて真直ぐに豊を見た。その真剣な様子に豊はどぎまぎする。
「な、なんだよ、そんな話……今更」
「お前とは高校からの付き合いだから、それ以前のことは知らないけど、でもこの辺で育ったガキのやる遊びっていったら似たようなもんだよな。お前もあの裏通り、冒険したことあるだろ」
「……うん。それは……そう、だな」
 豊は横で興味津々にこちらの話を聞いている少女たちに困ったように一瞥を投げてから、渋々頷く。
「ここいらは古い町で年寄りも多いから、そういう迷信話がたくさん受け継がれているんだよ。今じゃそういうのを都市伝説とか言うらしいが……。商店街の裏通りに忽然と現れるバーの話は一応、知ってはいるけど。珠城(たまき)とかいう人の話だろ、確か」
「それってここいらだけの話じゃないんだな。マイナー誌みたいだけど、ちゃんと雑誌に載るような都市伝説なんだ」
「だけどさ、この記事は本当にここの裏通りのことなのか? 場所の特定はないんだろ? ただの伝説ってことで」
「信じないのは仕方ないけど」
 深雪が上から目線で口を挟んできた。
「でも、珠城さんは有名なんだよ。まあ、一部でっていう言葉が頭に付くけどね。その雑誌だって確かにマイナー誌だけど、いい加減な雑誌じゃないよ。きちんと取材を重ねて正しいと確認できた記事しか載せないんだから。先生も読んでみれば判るんだけどなあ」
「そんな怪しげな雑誌、誰が……」
 憮然として深雪の言葉をはねつけようとした豊の言葉を雅人は遮ると深雪に言った。
「取材を重ねてってことは、この雑誌の記者はハートヒーラーに会ったということだよね。本当にその珠城とかいうハートヒーラーは存在するの?」
「記事に載っているでしょ」
 深雪がどこか誇らしげに言った。雅人はおとなしくもう一度、雑誌の目を落とす。
 その記事には写真は無かった。文字ばかりが並ぶ見た目は地味な記事だ。何でも写真を撮らないということが取材を受ける条件の一つであるらしい。その店の住所や場所が特定できる文章もない。それでもその記事を読み進めていくと、そこに書かれている『乱反射(らんはんしゃ)』なるバーがこの町の商店街の裏通りにある、例の店のことなのだと雅人は確信した。
 薄暗い裏通りは、入ってみると入り組んだ迷路のように複雑だ。いや、実際は単純な道なのかもしれない。迷路だと感じてしまうのは、あの裏通りの空気がそう思わせてしまうのだろう。
 雅人は小さく息を吐いてから、豊に言った。
「お前、この記事、読んでないんだな」
「……うん。興味ないからな」
「そうか。俺は、この人に会えるもんなら会いたいと思うよ」
「おい、雅人。お前、こいつらにのせられて裏通りにその店を探しに行くとか言うつもりじゃないだろうな」
 呆れ顔の豊に、雅人は薄く微笑んだ。
「しないよ。というか、出来ないだろう。ほら、ここに書いてある。この『乱反射』という店に行って珠城さんというハートヒーラーに会いたいなら、彼に会えるだけの真摯な理由がないとだめだって。ちょっと会ってみたいという興味だけではその店には行き着けないんだと」
「ああ、なかなかその店をみつけることが出来ないというのは聞いたことがあるけど……」
 豊も思わず、雅人の手元を覗き込む。しばらく無言でその記事を目で追った後、豊は低い声で読み上げた。
「ハートヒーラー・珠城氏は、生死に関係なく人の心を救う癒しの人、心の治療師。そして、彼の元を訪れたければ、それこそ生死に関わるような真摯な理由が無ければ会うことは適わない。興味本位で『乱反射』を探してみても、永遠に見つけることが出来ず、迷路に迷うように同じ場所をいつまでもぐるぐると回り続けることになるだけ、か。なるほどね。いかにもこいつらの」
 と、ちらりと深雪たちに一瞥を投げる。
「好きそうな話だな。でもな、雅人。それで、このハートヒーラーは何をしてくれるんだ? 確かにその記事には珠城という人に会って救って貰ったという人の体験談も載っているようだが、なんだか曖昧だよな?
 死んでしまった恋人に言えなかった言葉を伝えて貰ったとか、死んだ家族が帰ってきて一晩だけ一緒に過ごせたとか、それって、本当に人の心を救えているのか? 余計悲しくならないか? 死んだ人間は戻っては来ないんだぞ。大体、ここに載っているのは本当のことなのか? 珠城という人の素性は勿論、その体験談を語っている人たちも匿名でどこの誰なのか判らない。おまけに写真もない。いかにも嘘くさいじゃないか」
「そうだな」
 柔らかくそう言うと、雅人は雑誌を閉じて深雪に返した。
「俺には会う理由もないしな」
 会う理由、か。
 自分で言った後で、寒々しい気持ちになる。会う理由がないんじゃなくて、会う資格がないんじゃないのか。ふと溜息を付くと、豊が明るい調子で背中を叩いた。
「おいおい、そんな顔すんなって。祭りの夜だぞ」
「ねー、豊ちゃん先生」
 慌てたように真子が高い声で言う。
「金魚すくいやらないの?」
「え? ああ、そうか。お前らこそ、やらんのか」
「やるよ。でも下手なんだよねー。すぐ穴開いちゃうの」
「そうか。おい、雅人、乙女たちのために、腕を見せてやれよ。お前、十匹くらい余裕ですくってただろ」
「うわ。すごい」
「ああ、でもさ、あたしたち、一匹いればいいから」
 真子が言いかけるのを深雪が肘で突付いて止めた。はっと真子も慌てて口を閉じるが、その様子を豊は見逃してはいなかった。少女たちに向き直ると教師の顔と声で言う。
「お前ら、やっぱり何か企んでいるだろう」
「た、企んでなんかいないってば」
「いないいない」
「正直に言え。でないと、このまま、自宅に強制送還だぞ」
「えーっ」
「困るよ、先生に家まで来られたら夏休みの間、外出禁止になっちゃうかも」
「日頃の行いが悪いからな」
 きっぱり言われて、少女二人は押し黙る。しばらく、もじもじしていたが、結局、仕方なさそうに深雪が口を開いた。
「……本当に悪いことじゃないのよ。あのね、豊ちゃん先生は霊泉って知ってる?」
「レイセン?」
「幽霊の霊に泉と書いて、霊泉よ。この神社にあるんだけど……」
「霊泉って……」
 豊は雅人の顔を思わず見た。雅人も同じように豊に顔を見上げる。まさか、いきなり霊泉という言葉が出てくるとは思わなかった。呆然とする大人たちの様子をどう受け取ったのか、少女たちはちらりと目くばせしあうといきなり駆け出した。
「あ、こら!」
「こっちにあるの。来て」
「ちょっと、待てって。おい、走るな!」
 待つつもりなどかけらもないらしい少女たちは笑いさざめきながら、人でごった返す境内を器用に走り抜けていく。豊は困って雅人を見た。
「どうする?」
「どうって?」
「いや、俺はさ、教師だから、あいつら放っておけないから追いかけるんだけど、お前は……どうするかなと」
「ああ」
 雅人は豊の物言いたげな顔から目をそむけた。気を遣われているのも時には重荷になる。しばらく黙っていると豊が言った。
「霊泉は……野間のことがあるから、お前は」
「いいよ、行くよ」
 豊の言葉を遮ると、雅人は言った。
「俺も、久しぶりに霊泉を見てみたい」
「平気か?」
「うん。ほら、早く行こう。彼女たち、危険人物なんだろ?」
 微笑む雅人に豊もつられて笑ってみたものの、不安は拭いきれなかった。


 ☆
「ほら、ここ」
 雅人たちが追いつくと少女たちがニコニコしてそう言った。
 彼女たちが足を止めたのは、神社本殿のすぐ横にある鉄製の門の前だった。そこには石碑があり霊泉と刻まれている。あの時以来、ここには来ていない。木が生い茂り、あまり目立たない場所だ。
 この辺には屋台はひとつも出ていないため、ひとけも無くひっそりとしてる。明かりもここにはあまり届いていない。霊泉の横にある石灯籠の火が、霊泉が見える程度に柔らかく照らしていた。向こうから聞こえる夏祭りの賑わいがまるで別世界にように思える。
「門が開いてる」
 真子はそう言うと、身を乗出して奥を覗き込む。
 門の向こう側は小さな日本庭園という感じだった。背の低い木が周囲に植えられ、地面には白い玉砂利がひかれている。その中央に石に囲まれた小さな泉があった。その真中辺りから水が湧き出ているのがここからでも見える。中には十円玉や百円玉が投げ込まれているが、それでも霊泉は澄んだ水を湛えていた。
「お祭りだから、開けてんのかなあ。お正月の三が日とかも開いてるからねえ」
「あ、見て。お金が投げ込まれてる」
「池とか噴水とか見ると、コインを投げ込みたくなるのかあ、日本人って」
 深雪は明るく笑った。
「面白いよねー、そういう習慣って。調べてみようかなあ」
「で、何なんだ?」
 少女たちのお喋りを遮るように豊が言った。
「霊泉で何をするつもりなんだ?」
「たいしたことじゃないんだって。悪いことじゃないもん。ちょっとした実験」
「その実験が怖いんだ」
「もー。信用ないんだなあ」
「いいから、説明しろって」
「金魚伝説って奴。それを実践しようと思ったの」
「……金魚、伝説」
 豊は誰かに頭を殴られたような衝撃を覚えた。そうかもしれない、という予感はあったが、しかし、はっきりと言われてしまうとさすがにショックだった。
 思わず隣に立っている雅人の顔を見る。
「豊ちゃん先生は知らない? この霊泉にね、夏祭りの夜に一匹、金魚を放すの。で、心からお祈りをするの。そうするとね、死んだ人と話しができるんだって」
 豊や雅人の様子に気が付かず、深雪がさらりと言った。
「この霊泉の力を借りるの。死んだ人の魂がその金魚に乗り移るんだって。金魚の命を一時的に借りるんだって」
「でね、やり方としては、その死んだ人の事を一心に思うの。で、その人の名前を呼ぶんだって。そしたら霊泉から返事が返ってくるの。その返事にまた答えたら、その人が霊泉から出てくるらしいよ」
「え? 霊泉から? 水の中から出てくるの?」
「うん、多分そういうことだと思う。ね、なかなか、気味悪いでしょ」
 少女たちは代わる代わる二人で説明した後、嬉しそうに顔を見合わせて笑いだす。そんな二人にうんざりしながら豊が言った。
「何で嬉しそうなんだ? そんな気味の悪いこと、年頃の女の子のすることじゃないだろ」
「年頃の女の子が普通、何をするのかあたしたち、判らないもの。ねー」
「判らない判らない」
「まったく」
 豊は少女たちの無邪気さに、つい笑ってしまった。
「しょうがない奴らだ」
「じゃあ、実験していい?」
「それはだめだ」
「えー、何で」
「そんな気味の悪いこと、しなくていい」
「もう、豊ちゃん先生は理解がない! ね、大田さん。大田さんなら判ってくれますよね? 金魚伝説、やってみたくないですか?」
「こ、こら、何を……!」
 慌てて豊が割って入ったが、少女たちはそのくらいでは止まらない。豊を押し退けると、ぼうっと立っている雅人に口々に騒ぎ立てた。
「手伝ってくれませんか? ね? ね?」
「大田さんには亡くなった人で会いたい人、いないですか?」
「やってみましょうよ。あたしたち、身近で亡くなって会いたい人っていないんですよねえ」
「いい加減にしろ」
 豊が二人の少女の襟首を掴んで、雅人から引き離した。
「大人をくだらん迷信遊びに巻き込むんじゃない」
「もう、やだ! 離してよ!」
「よし、離してやるからとっとと帰れ」
「えーっ、今来たばかりなのに」
「そうだよ、優雅に買い食いもしてないよ」
「じゃあ、優雅に買い食いをして来い。それが終わったらおとなしく帰れよ。ほら行け」
「もう、しょうがないなあ……」
 少女たちは顔を見合わせると渋々、霊泉を立ち去って行った。
 少女たちが祭りの明かりの方に消えていくのを見届けると、豊は雅人を改めて見た。今更ながら重い気持ちになる。
 豊は判っていた。雅人が八年前、この町を出て行き、それきり戻ってこなかった理由を。
 今日、神社の前で雅人と出会ったのは本当に偶然だった。帰ってきていたんだと、内心ほっとした。だが、少女たちの登場は予想外だった。それによって霊泉の金魚伝説が蒸し返されることになるとは……。
 雅人の顔に表情はない。痛々しくて豊は見ていられなかった。
「雅人……。大丈夫か」
「……なあ、豊。金魚伝説って本当だと思うか」
「おいおい」
 苦笑して豊は言った。
「あいつらの毒気にあてられたか? しっかりしろよ、本当なわけないのはお前も知っているだろ」
「ああ、そうだったな。俺たちは、知っているよな」
「お前……まだ、だめなのか」
 息苦しくなりながらも、豊はやっと言った。
「千秋のこと……まだ、引きずっているんだな……」
 その言葉に雅人は小さく笑った。
「なんだよ、何、笑っているんだ」
「……千秋のこと、お前も覚えていたんだなと、そう思っただけだよ。何にも覚えていませんって顔して」
「……ああ、そうだよ」
 一瞬の沈黙の後、怒ったように豊が言った。
「忘れるわけないだろ」
「……だな」
「無理に忘れなくてもいいことだ。……でもさ、それに取り込まれるのは……それも違うとは思うぞ」
「……取り込まれる?」
 意味が判らず、雅人はまじまじと豊の顔をみつめた。
「今のお前の状態はそうだろ。お前が八年前、逃げるようにこの町を出て、それきり帰って来なかったのも野間の一件がそうさせるんだろ。お前の心にはまだ野間がいる」
「……悪いかよ」
「悪くはねえよ」
 豊は笑って言った。
「お前ほど関わりが深くなかった俺の中にもまだいるくらいだ。すっかり忘れるなんて、お前に求めていねえよ。でもな、それに振り回されることはないと言っているんだ。
 なあ、野間千秋はとうに死んだ。病気で、死んだんだ。それは、俺たちにも責任のある死といえないこともない。それは認めるよ。きっかけは俺たちが作ったんだから。でもな、でも、あいつの死はそれだけじゃないだろ。あいつはもともと体が弱かったし、あの霊泉の水を飲んだのが原因かどうかも判らない。
 ……なあ、雅人、いい加減、自分の中で折り合いを付けろよ。亮太たちなんか何にも思ってないぞ」
「あいつらのことなんか知るか」
 雅人は顔を背ける。名前を聞いただけで不快だった。
「あいつらのせいで千秋は死んだ。そしてその罪は何もできなかった俺にだってある。何が病死だ。それが何の慰めになる?
 ……俺は逃げた。この町からも、お前たちからも、そして千秋からも。まだ、この町の残っていたお前は偉いよ。俺はその勇気すらなかった」
「別に俺がこの町を出なかったのは勇気じゃねえよ。ここの大学に進学したかったっていう個人的な事情だよ。
 なあ、雅人、頼むから、そんな顔しないでくれ。野間はもういないんだ。死んだんだよ。死人に生きている人間が振り回されてどうするよ。冷たいことを言うようだが、いい加減、吹っ切れよ。金魚伝説なんかに期待すんな」
「期待?」
 雅人は眉間にしわを寄せ、豊を見た。
「何言ってんだ? 俺は金魚伝説に期待なんか」
「してるだろ。真子や深雪の話を鵜呑みにしているわけでもないだろうが、でも、お前、魅かれているだろ、金魚伝説に。死んだ人間に会えるっていう金魚伝説に」
「豊……。今更なんだよ。俺もこの町の出身なんだぞ。金魚伝説のことは今知ったわけじゃない……」