母親が小さく悲鳴を上げるのを、幸彦は無感情に一瞥して言葉を続ける。
「珠城さんにはわざと言わなかったけど……怒ってる?」
「まさか」
柔らかい表情の珠城に軽く肩を竦めると幸彦は言葉を続けた。
「二十三年前に湖で溺死して死体が上がらなかった少年がその沢村信吾だよ」
「お前、どうして……」
「驚くほどのことでもないよ。温海だって知ってたしね」
「温海も……?」
野村夫妻は気まずそうに目を合わせ、重たく沈黙した。
「効果覿面だね」
不意に、幸彦は笑い出すと言った。
「夫婦してそんな顔してさ」
「幸彦、お前、何を言っているんだ?」
「あなたたちの前で、沢村信吾の名前を出してみたかったんだよ」
「何だと?」
憤怒の形相の父親に臆することなく幸彦は続ける。
「だから、あえて珠城さんをうちに連れて来た。あなたたちは……」
「幸彦くん、そのくらいで」
柔らかく珠城が幸彦の勢いを止めた。
「急いではいけません。もう少しゆっくりとお話しましょう」
幸彦は反論しようと口を開きかけたが、珠城の深い色の瞳を見るとたちまち毒気を抜かれて黙り込んでしまった。
珠城は改めて野村に向き直ると静かに言った。
「沢村信吾さんからの手紙、あなたもご覧になりますか?」
「手紙、か」
僅かに嫌悪をその顔に浮かべたが、野村は頷いていた。
☆
前略
僕はその昔、S町の中心にある大きな湖で大切なものを失くしてしまいました。
みつけたい。
でも、それが叶わずにいるのです。
珠城さん、どうか、僕の代わりにみつけてください。
この手紙をあなたに読んで貰えることを望みながらペンを置きます。
草々
野村信行は暗い溜息をつくと、珠城から渡された手紙をテーブルの上に置いた。
「……本当にこの手紙はあなたの元に届けられたのか」
「はい。ですが、僕は自分の店の住所を公にはしておりませんので、正確に申しますと手紙は配達されたのではなく、店の前に落ちていたのです」
「落ちていた?」
唖然として野村は珠城の顔を見た。
「なんだそれは。やはりいたずらだろう」
「いたずらかどうかは判りませんが、確かに、手紙というのは珍しいですね。大抵の方は僕の店を直接尋ねられますから」
「いや、私が聞きたいのは」
「ところで」
珠城はやんわりと野村の言葉を遮った。
「あなたは沢村信吾さんとどのようなご関係なのでしょうか」
「それか」
答えたくないという表情のまま、野村は小さな声で言った。
「信吾は高校時代の友人だよ」
「奥さまも?」
丁度、トレイにコーヒーカップを載せて応接室に入ってきた妻を、野村は緩慢な動作で振り返った。
「ああ、そうだ。香織も信吾の友人の一人だ。……それがどうだと言うんだ」
「いえ」
珠城は目を伏せる。
香織は無表情のままカップを二人の前に置くと、何も言わず、逃げるように出て行った。その間、一度も珠城の顔を見なかった。
「それでは佐々木章さんも沢村信吾さんをご存知ですよね。あなたと奥さま、そして佐々木さんは高校時代、とても仲が良かったと幸彦くんから伺っています」
「幸彦がそんなことを?」
野村は嫌悪感を露わに顔をしかめた。
「佐々木が幸彦に何か吹き込んでいるんじゃないだろうな。あいつは一人娘を亡くしているから、円満なうちをやっかんでいるんだ……」
「吹き込む? 佐々木さんと幸彦くんはよくお会いになっているのですか? あなた方は不仲と聞いていますが」
「ふん。いろいろと余計なことを知っているようだな。
幸彦は温海……佐々木の娘のことだが、あの子と幼馴染みだから、線香の一本もあげに行っているのだろう。幸彦にとって年上で優しい温海は憧れ存在だった。亡くなった今もその気持ちは変わらず、実際よりも温海のことを美化しているのだろう」
「美化?」
「温海という子は、繊細で物静かな娘でな、空が青いと言って涙ぐむような感受性の強い子供だった。外見も華奢で色白で、整った顔立ちをしていたから、幸彦のような思春期の少年には温海を神々しく感じていたのではと思っただけだ」
「なるほど。息子さんのことをよく見ていらっしゃるのですね」
「……意外か?」
「いいえ、そんなことはありません」
「だめな親と思っているのだろう」
「まさか」
「いいんだ」
不意に笑うと野村は言った。どこか諦めたような自虐的な笑みだった。
「その様子では息子からいろいろと聞いたのだろうが、私は正直言うと、幸彦のことはよく判からない。判りたいと思ってはいるんだが……。
あいつは中学の頃から病院でのボランティアなんかに入れ込むようになって、学校が休みの日は病院で老人の世話をしているか、図書館に籠っているかのどちらかで、家にずっといることはほとんどない。そうすることで私たちと顔を合わせないようにしているんだ」
野村は重い溜息をつきつつ続ける。
「今日も誕生日だというのに、わざと外を出歩いて帰ったと思ったら、あなたという知らない人を連れ込んできた。妻は幸彦のために、ケーキやご馳走を作って帰りを待っていたんだ。それが……沢村信吾だと? とんだ誕生日だ」
「……すみませんでした。お誕生日というのは伺っていたのですが……僕の思慮が足りませんでした」
「いや、あなたがここに来ていようがいまいが、結局、幸彦の態度は変わらんよ。あいつは私たちを嫌っている」
「……それは違うと思いますが」
「違うものか。つい一週間前もあいつは家出までしたんだ」
「家出、ですか?」
「ああ、学校から無断欠席の連絡を受けて、慌ててあちらこちらを捜したがみつからない。子供とはいえ、もう高校生だ。分別のつかない歳ではないからとあまり騒ぎ立てたりせず、少し様子を見ようということになった。
そうして一日が過ぎた頃、ひょっこり戻ってきたんだ。何でもなかったような顔でな。どこへ行っていたといくら聞いても答えない。私は佐々木のことを疑っているんだが、結局、真相は判からずじまいだ」
「佐々木さん? 彼が幸彦くんをどうかしたと思っているのですか?」
「誘拐とまでは思っていない。だが、あいつの家は旅館だからな、人ひとりを一日ぐらい隠そうと思えばできないことではないだろう」
「確かにそうですが、そんなことをしても佐々木さんに得は無いと思いますが」
「あいつの魂胆は判かっている。私たち夫婦を困らせたいんだよ。嫌がらせをしたいんだ。きっと幸彦と共謀して、つまらん家出騒ぎを起こしたに決まっている」
「そのようなことをする方には見えませんでした」
「佐々木を知っているのか?」
「僕は今、佐々木さんの旅館に泊まっているのです」
「……そうか」
野村はしばし黙り込んだ。
「……あなたは珠城さん、といったな」
「はい。珠城と申します」
「失礼だが、私はあなたの素性を知りたい。あなたはいろいろと私たちのことを調べているようだが、正直、気分は良くない。
あなたがこの町にやってきた理由はこの手紙にあるのは判った。だが、言い換えればそれだけのことだ。いたずらかもしれないこんな手紙ひとつで平穏な生活を乱されてはこちらはかなわない。あなたが何の権限があって私たちの生活に介入して来るのか理解に苦しむ」
「……すみません」
「根本的な質問をする。あなたは何者だ?」
「そうですね」
少し考えてから、珠城は言った。
「僕はハートヒーラーと呼ばれています」
「何だって?」
野村は露骨に相手を卑下する表情になった。
「ハート……なんだ?」
「ハートヒーラー。聞きなれない言葉だと思います。戸惑われるのも無理もありません」
「それは何かの職業なのか?」
「はい、そうのようなものですね」
柔らかく珠城は笑った。
「ハートヒーラーというのはそもそも造語です。『ハート』は心、『ヒーラー』は癒す人、あるいは心霊治療師などの意味を持ちます。名づけてくださったのは『謎工房』という雑誌の記者の方です」
「謎工房……?」
「その記者の方は、僕に多大な興味を持っていらして……ユニークな方なのです」
「あなたはその記者の取材を受けている、ということか?」
「はい。いくつかの制約を設けさせていただきましたが、僕も彼が気に入りましたので僕にまつわる物語をその雑誌に掲載することを彼のみに許可しています。
もし、気が向きましたら『謎工房』という雑誌をお読みください。少しは僕を取り巻く世界がお判かりになると思いますよ」
「……謎工房。そうか、雑誌の名前か」
「もしかして、ご存知ですか?」
「いや、どこかで見かけたような気がしただけだ」
何か嫌なものを振り払うようにひとつ大きく首を振ると野村は改めて珠城を見た。
「今、あなたはハートヒーラーとは癒す人とか、心霊治療師とか言ったな」
「はい。そのようなものです」
「はっきりしない仕事だな。失礼だが、いかがわしく思う」
野村はソファーから腰を上げると、珠城を険しい顔で見下ろした。
「そんな者が息子に近寄り、家に上がり込んでくるとは……不愉快だ」
「ご理解しにくいのは判ります」
今にも家から叩きだそうと身構える野村を、のんびりと見返して珠城は言う。
「ですが、僕は真摯な気持ちでここにいます。その気持ちは疑わないで欲しいのです」
「真摯? 死人の手紙をでっちあげることがか? その内、お祓いをするとか言いだして金を要求するんだろう」
「お祓いはしません。何も要求しません」
珠城は少し、困った顔になると言葉を続けた。
「もう少しだけ、信じていただくことはできませんか? 幸彦くんの為にも」
「幸彦の……」
しばらく逡巡した後、野村はおずおずとソファーに座りなおした。
「確かに、あなたは悪い人ではなさそうに見える。胡散臭くはあるがな」
「……すみません」
「認めるんだな」
「よく言われるので」
呆れた表情で野村は珠城をみつめ、次に瞬間には思わず吹き出していた。
「まったく、変な人だ。それで、そのハートヒーラーがここに来て何をしようというんだ? お祓いはしないんだな?」
「しません。祓うというのは、穢れや悪いものをそこから追い出し清める、という意味です。
僕は何ものも追い出したりしません。それはここにある闇から、また別の闇に追いやることに他ならないからです。彼らが望むのは『祓い』ではなく『救い』のはず。光のある方に僕は導き、解き放ちたいのです」
「何を……解き放つというのだ」
「想い、あるいは祈りです」
「想い? 祈り?」
苦しそうに、野村はその言葉を口にした。
「つまり、あなたは……信吾の想いやら祈りやらを解き放つ、と?」
「それを沢村信吾さんが望むなら」
「……この手紙が何を意味するのかは判らないが、しかしはっきりと言えるのは、沢村信吾は死んだということだ。死んでしまった人間の想いだとか祈りだとかと言われても……」
「人の想いや祈りは、生きていても死んでいても変わることはないと、僕は思います」
弾かれるように野村は顔を上げた。それに優しく微笑みかけて珠城は言う。
「なんてことを言うとやはり、胡散臭く感じますか?」
「……いや」
野村はそう低く呟くと、それきり考え込んでしまった。
そして、次に口を開いた時には、さっきまで猜疑心に満ちていた野村の顔つきが変わっていた。どこかすがるような目で珠城を見る。
「……実はな、信吾があの湖で行方不明になった時、同級生が一緒にいた。調べればすぐに判ることだから言ってしまうが……その同級生というのが私と、妻の香織。そして佐々木だったんだ」
「そうですか」
落ち着いたまま応じる珠城の様子に野村は溜息をついた。
「察しはついていた、という感じだな。……もう昔の話だ。私たちはあの事故でみんな傷ついた。それが何だって今頃……」
「それは」
珠城が何か言いかけた時、突然部屋のドアが開いた。そこには青い顔をした幸彦が立っていた。
「一緒にいて……お父さんたちが一緒にいて、それであの時、何があったの?」
「幸彦……!」
ソファーから立ち上がった野村が叫んだ。
「そこで何をしている! 自分の部屋にいろと言ったはずだ!」
「嫌だ」
きっぱりと言うと、幸彦は弱々しい足取りで珠城に近づいた。珠城も立ち上がると、今にも倒れてしまいそうな彼に腕を差出しその身体を支える。
「幸彦くん、大丈夫ですか。お父さまの言う通り、部屋に戻って休んだ方が」
「だめだよ」
幸彦は必死に首を横に振る。
「僕は、だって……僕は……!」
「幸彦くん、君は温海さんのように死にたいの? それとも、死にたくないの? 今日、僕と湖で初めて会った時……君は死のうとしていたね?」
一瞬、場が凍りついた。
野村が何か言おうとしたが、それを制するように幸彦が言葉を継いだ。
「だって、しかたないじゃない。どうしても思ってしまうんだ。僕も温海みたいに十六の誕生日に、湖で沢村信吾に捕まって殺されてしまうんじゃないかって……。
誕生日が近づいてくるにつれて死も一緒に近づいてくるようで、すごく怖くて怖くて……そんなこと考えなきゃいいことなんだけど、あの湖がいつも気になって、頭から離れない。僕ももうじき、あの湖の底に行かなきゃいけないんだってどうしても思ってしまう……。
だけど、怖いと思う反面、死に惹かれてる自分もいるんだ。いっそのこと、死んでしまえば楽になるかなって。……自分の気持ちが判らない。こんなの下らない妄想だって自分でも思うよ。でも自分の中から、どうしても追い出せない。沢村信吾を、温海を……どうしても」
「だから、僕に手紙を書いたのですか」
「え……」
毒気を抜かれたように、幸彦は珠城をみつめた。
「一体、どうなっているんだ……」
野村が呆然と呟いて、珠城と幸彦の顔を見比べた。
☆
佐々木章は夕食の支度をあらかた済ますと時計を見た。
八時を回っている。
それほど遅い時刻ではないが、まだ帰ってこない珠城のことが佐々木はなんとなく気になっていた。
それにしても変わった青年だな、あの人は。
今日の明け方、玄関先を清めていると、まだ暗い道をゆっくりとした足取りでこちらにやってくる人影があった。誰だろうと目を凝らしていると、その人は愛想よくこちらに微笑みかけてきた。
「おはようございます」
さわやかに挨拶をされ、佐々木も丁寧に返した。
「おはようございます。……お見かけしない方ですね。どちらに行かれますか?」
「こちらに」
目の前に来た青年は、優しい声で答えた。佐々木は驚いて聞き返す。
「え? ここに、ですか?」
「はい。泊めてください」
「はあ、それは勿論。ここは旅館ですから。……あなたはどこから来られましたか? 突然、闇から不意に現れたように見えましたが……」
「闇から? まさか」
微かに困った顔をした青年に、佐々木は慌てて言った。
「あ、これは、失礼なことを申しまして」
「いいえ」
くすりと青年は笑った。
その笑みがどこか不吉に感じて、佐々木は思わず青年の顔から目を逸らした。
「僕は」
と、佐々木の様子に気付いていないのか、青年は穏やかに話を続ける。
「珠城と申します。ここには人を捜しにきました」
「……人を捜しに、ですか? ……ああ、そうですか。まあ、中にどうぞ。たいしたおもてなしはできないのですが……それで構わないなら」
「はい。お願いします」
珠城は笑顔で頷いた。
こうして珠城と名乗った見知らぬ青年を自身の旅館に泊めることとなった佐々木だが、明るい照明の下で見る彼は、こちらが拍子抜けするくらい優しい面差しをしたごく普通の青年で、暗がりの中で感じたあの不吉なものはきれいに消えてなくなっていた。
あれは何だったんだろう。
佐々木は不思議に思いながら、珠城を客室に案内した。
「この部屋の感じはいかがですか? どの部屋も似たようなもので……若い人はこんな古ぼけた旅館は嫌なのではありませんか?」
「いいえ。僕はこのような部屋の方が落ち着きます」
「そうですか。そう言っていただけると嬉しいです」
佐々木は微笑んで、きちんと正座をしている珠城の前にお茶を出した。
「それではこの旅館の雰囲気を存分に楽しんでいってくださいね……とはいえ、ご覧の通り、この旅館にはもう私ひとりしかいません。気が利かず、ご不自由をお掛けするかもしれませんが」
「おひとりで切り盛りされているのですか」
「ええ、今は」
佐々木は寂しげに笑うと言った。
「妻も娘も亡くしました。昨今では経営も苦しくなり、旅館を閉めることを考えて従業員にも辞めてもらったのです」
「閉めてしまうのですか。残念です。いい感じの旅館ですから」
「ありがとうございます。今まで何とかやってきたのですが、そろそろ限界のようで。宿泊客もあなたひとりですしね。あなたが最後のお客さまになりそうです」
「そうですか。もう決めたことなのですね?」
「はい。仕方ありません。もうこの町は私の知っている町ではなくなってきています。娘を二年前に亡くした時に決断すべきでした」
「娘さんはご病気で?」
「いえ、自殺でした。……まだ高校生だったんですよ、しかも十六歳の誕生日に湖で死んだのです。あの湖は娘の好きな場所だった……。
死ななくてはならないほど、何を悩んでいたのか。何かに影響を受けたのか。情けないことに私には何も判らないのです。……ここには悲しいことしかありません。それでも生まれ育った場所ですから離れることに抵抗もあって……」
「……ラベンダーの香りがしますね」
「ああ」
佐々木は柔らかく微笑むと言った。
「お香です。娘の好きな香りで仏前に供えているのです。一日中、焚いていますから、旅館中に匂いがこもってしまったようです。お気に触りましたか?」
「いいえ。とても良い香りです。後ほど、ご仏前に手を合せてもよろしいでしょうか」
「それはありがとうございます。温海《あつみ》……ああ、娘の名前です。温海もきっと喜ぶと思います」
「温海さんはどのような方でしたか?」
「親の私が言うのもなんですが、名前の通り、温厚な性格の優しい娘で……それが、よりによって十六歳の誕生日にどうして自殺なんか」
「お誕生日に……」
「あ、すみません。お疲れのところ、長話しをしてしまいまして」
「お待ちください」
腰を上げかける佐々木を制して珠城は言った。
「聞きたいことがあるのです。もう少し、よろしいですか」
「え。はい、何でしょうか?」
珠城はにこりと笑った後、少し身を乗り出し、佐々木に囁くように言った。
「あなたは沢村信吾さんをご存知でしょうか」
まるでそれが忌まわしい名前ででもあるかのように、佐々木は、はっと息を呑むとその場にへたり込んだ。
「……それは……幽霊の名前だ。湖に巣食う幽霊の」
「幽霊、ですか」
「あ、あなたは何故、その名を口にするのですか?」
佐々木は痩せた体を震わせると言った。
「まさか、既に娘が湖で自殺したことを知っていて、面白がってそんなことを言うのではないでしょうね……」
「面白がってなどおりません」
静かだが、強い口調で珠城を言うと、じっと佐々木をみつめた。その視線の深さにひるんだ佐々木は思わず口ごもる。
「あなたは一体、何者なんです? ここには人を捜しに来たと言っていたが、あなたは探偵か?」
「いいえ、そうではありません。僕はただ、その沢村信吾さんから手紙をいただき、そしてこの町に彼に会いに来たのです」
「ちょっと待ってください。あなたが捜しているというのは沢村信吾、なのですか?」
「はい。お会いしたいのですが」
「会う? そんなこと出来ませんよ。信吾はとうに死んでいるのですから。死人にどうやって会うというのです? だいたい手紙とは何です? そんなものいたずらに決まっているじゃないですか」
「僕は本当に沢村信吾さんから手紙をいただいたのです。これをご覧ください」
珠城が差し出した手紙を、佐々木は気味悪そうにながめ、結局それを手に取ろうとはしなかった。
「……そうか、判ったぞ」
しばらくの後、佐々木が絞り出すように言った。
「あなたは騙されているんだ」
「はい?」
「あなたを見ているとどうやら嘘を言っているのではないらしい。なら、騙されていると思うよりない」
「誰に僕は騙されていると言うのですか?」
「信吾の母親にですよ」
声を落として佐々木は言った。
「知っていますか? 信吾の母親はこの町にいるのです」
「この手紙にある住所にも行きましたが、今はどなたも住んでいませんでした」
「病院に入院しているのです。心臓が悪いとのことですが、最近は高齢により痴呆の症状も出て来ているようです。でも、手紙くらいは書けるでしょう。
……彼女は二十三年前に唯一の肉親だった息子の信吾を亡くして、それを未だに受け入れることができずにいるのです。だから、信吾のふりをして手紙を書いてあなたに信吾を捜させようとしているんでしょう。まだ生きていると信じているんだ。不毛な話です」
「信吾さんの死を受け入れていない……」
「ええ。遺体が上がっていませんから、信じられないんでしょう。私も子供を亡くしていますから、その気持ちは判ります。……珠城さん、残念だが無駄足ですよ。あなたがどのような仕事をされている方かは詮索しませんが、その手紙は偽手紙です。母親に騙されているんですよ」
「そうですか」
冷静にそう応じると、珠城は改めて佐々木に向き合った。
「信吾さんはおいくつでお亡くなりになられたのでしょう?」
「……十六歳、です」
「もしかして、その亡くなられた日は」
佐々木は諦めたように、溜息交じりに言った。
「その日は、信吾の十六歳の誕生日でした……」
しばらくの沈黙の後、珠城は言った。
「娘さんも十六歳でお亡くなりになられたのですね。そして、沢村信吾さんと同様にその日は誕生日だった……」
「そうですが、それが何だと言うのですか? そんなもの、ただの偶然です」
「偶然ならそれでもいいのです。……後、もう少しだけ伺ってもよろしいですか?」
「……何ですか」
憮然とする佐々木に、珠城は愛想よく言う。
「少しここの湖の事を聞きました。湖には幽霊の噂がありますね。その幽霊の正体は沢村信吾さんで、湖に入ると水の中に引き込まれてしまうとか。娘さんの自殺はそれに関係がありますか? あなたはどうお考えなのでしょう?」
「馬鹿馬鹿しい」
ついに立ち上がって佐々木は言った。
「信吾が死んでからもう二十三年経つ。二十年以上も前のことを今更、何なんだ? もう、放っておいてくれ」
「では、娘さんの自殺とは関係ないと?」
「当然だ!」
苦しげな表情でそう言い放つと、佐々木は部屋を出て行った。
一人になった珠城は、ゆっくりと窓の外に目を向ける。そこからは青く霞む湖が見えた。
「さて、困ったな」
珠城はそうつぶやくと、少しも困ったようには見えない穏やかな笑みをこぼした。
厨房に立ち尽くしたまま、物思いにふけっていた佐々木は、ハッと顔を上げた。何か物音がしたと思ったのだ。
こんな時間に……誰かいるのか?
昨日、珠城と交わした会話を思い出し、背筋がぞくりと冷えた。
まさか、信吾が……。
だが、すぐに思い直す。
音は玄関の方からした。きっと、珠城さんが帰ってきたのだ。
佐々木はすぐに玄関に向かった。が、そこには誰もいない。外に出てみるが、夜の闇があるだけで人の気配は無かった。
おかしいな。
佐々木は庭の茂みをなんとなく覗き込んでみて、そのまま動けなくなってしまった。
「か、香織か?」
おずおずと声を掛けると、茂みの中でうずくまっていた人影がゆっくりと顔を上げる。ぼうっとした表情の野村香織は、やはりぼうっとした声で言った。
「ねえ、章くん。温海ちゃんはどうして死んでしまったのかしら……」
「おい、何を言っているんだ? 大丈夫か? だいたいこんな時間に何をやっている? 野村は知っているのか?」
香織は力なく、首を横に振る。
「……温海ちゃんは、十六の誕生日に死んでしまった。あの湖で。……うちの幸彦は……どうなるのかしら」
「何だって? お前、何を言っているんだ?」
佐々木は不毛な会話に苛立って、声を荒げる。
「おかしなことを言うのはやめてくれ。一体、どうしたというんだ。だいたい、お前や野村に温海のことをとやかく言われたくないぞ。あの子を亡くした時……俺がどれほど悲しく、辛かったか、誰にも判りはしないんだからな……!」
「……今日ね、幸彦の誕生日なの。あの子、十六になったのよ」
「え」
佐々木はぐっと息を呑んだ。
「そうか、今日は幸彦くんの誕生日だったな……」
「あの子、いくら注意しても、湖に行くことを止めないの。病院にも行くのよ、信吾くんのお母さんの所よ。知っているでしょう?」
「あ、ああ。ボランティアだって、うちの温海と。そうか、幸彦くんはまだ続けているんだな」
「そう、いくら私が言っても聞いてくれない……あの子、おかしいの。暗示をかけられて洗脳されているのかもしれない……」
「洗脳?」
「あなたも考えたことない? 温海ちゃんがどうして急に自殺したのか。しかも湖で、十六歳の誕生日に。信吾くんと同じようにどうして死んだのか……」
佐々木は少し、考えてから口を開いた。
「今、幸彦くんはどうしているんだ? まさか、行方不明ってことはないだろうな」
「家にいるわ。自分の部屋に。野村に怒られて部屋でおとなしくしていろって」
「無事なんだな」
ほっと佐々木は息をついた。
「ねえ、章くん、一緒に来てくれない?」
唐突に香織が言った。佐々木はぽかんと彼女を見返す。
「……何?」
「一緒に来て欲しいからここに来たの。本当はもっと早く来たかったのだけど、その前に寄らなきゃいけないところがあったから遅くなってしまったわ」
「寄らなきゃいけないところって……」
嫌な予感がして佐々木は聞き返す言葉に力が入った。
「それって、もしかして」
「ええ、病院よ」
さらりと香織は言った。
「面会時間ぎりぎりだったけど、信吾くんのお母さんに会って来たわ。あの人と話をしているとすごく疲れてしまって、ここでちょっと休んでいたの」
「信吾のお母さんに会って、何の話しをしたんだ?」
「一緒に来てくれれば判るわよ」
にこりと香織は笑った。その笑顔が不気味に思えて佐々木は思わず一歩後ずさる。それに呼応するように香織は立ち上がると、まっすぐに湖の方を指差した。
「信吾くんに会いに行きましょう」
「え? 会いにって……何を言っているんだ……」
「だって、うちの人じゃだめなんですもの。俺の言う通りにしていろって言うばかりで、私の言うことをきいてくれない。昔は何でも言うことをきいてくれたのに……でも、章くんは違うわよね? 章くんは昔も今も私の言うこと、きいてくれるでしょ」
「ちょっと待ってくれ」
佐々木は慌てて言った。
「何のことか判らないが、何かあるなら野村に言ってくれ。お前のために何でもするのは野村だろう」
「そうね」
声のトーンを落として香織は答えた。
「だけど、信吾くんのことに関してはだめなの。言うことをきいてくれないわ……。だから、章くん、お願い」
「いや、だから、それは」
「お願い」
不意に香織が佐々木の腕を掴んだ。ひやりとした冷たさにぎくりとする。
「一緒に来て。ね、章くん」
「やめてくれ」
佐々木は彼女の腕を振り払った。
「お前、何を言っているんだ? とにかく、もう遅い時間だ、家に帰れ。送って行くから」
「嫌よ!」
「おい」
「今日、来たのよ!」
佐々木を睨みつけて香織は言った。
「珠城って人が家に来たのよ。幸彦が連れて来て……それでその人は手紙を」
「信吾の手紙か」
「そうよ。どうして知っているの?」
「その人はうちに泊まっているんだ。その手紙のことは聞いたよ。中身は見なかったが。
……そうか、彼は今、野村の家にいるんだな。だけど、どうして幸彦が彼を連れて来たんだ?」
「それは判らないけど……とにかく、私、怖くて。信吾くんのこと、いろいろ野村に聞いてたわ」
「いろいろって、何をだ?」
「私たちの高校時代のことを野村は話していたようだったけど……私は耐えられなくて家をひとりで出てきたの」
「幸彦の傍にいてやらないとだめだろ」
「判ってる。だから、幸彦の傍にいてやるためにも、することがあるのよ」
「することって」
「私、信吾くんが今にも現れそうな気がするのよ。そして……温海ちゃんのように、自分が死んだ歳になった幸彦を湖に連れて行ってしまうんじゃないかって……」
「何を馬鹿なことを言っているんだ。温海の死は信吾とは関係ない。湖の幽霊だのと、下らない。信吾は死んだんだぞ、死んだ人間に何ができると言うんだ?」
言いながらも、佐々木は自分の声が震えるのを止められなかった。
……何だ、どうしてこんなに不安なんだ?
「確かに、死んでしまった信吾くんには何もできないでしょうよ」
佐々木の気持ちに切り込むように香織が言った。
「でも、信吾くんのお母さんは生きている。年寄りだけど、復讐はできるわ」
「……復讐?」
「温海ちゃんが自殺した理由は判らないままでしょう」
「それが、何だというんだ」
「暗示をかけられたのよ。自殺するように信吾くんのお母さんに仕向けられたのよ」
「おい、まだそんなことを」
「本当に違うと言い切れる?」
まっすぐにみつめられて、佐々木は次の言葉が出なかった。どこかで自分も疑っていたことだ。しかし、どうしても信じたくなくて必死で打ち消していた。大事な一人娘の温海が、自分の過去のせいで死んだなどと思いたくはなかったのだ。
「確かめに行きましょうよ」
香織がもう一度、佐々木の腕を掴んで引いた。
「真実を見に行きましょう」
「真実、だと?」
「ええ。そうでなきゃ、私たちは誰も前には進めないわ」
佐々木は、怖々、香織の顔を見返す。
「お前……何を企んでいるんだ?」
「家族を守ることよ」
きっぱりと彼女は即答した。
「夫を、子供を、この生活を、私は守ってみせる。そのためなら何だってするわ。他の誰かを傷つけたってかまうものですか」
香織の勢いに押されて、佐々木はただ、彼女の顔をみつめることしか出来なかった。
水の音、土の匂い、風の感触。
それだけしかない空間。
手を差し出せば、歪んだ月から降り注ぐ柔らかな光を受け取れた。
僕は誰だっけ?
少年は無垢な心でそう思った。
どうしてここにいるんだろう?
目を凝らしても何も見えない。
ここから出られないのかな、そう思った途端に、絶望が身体の中を這いまわった。
助けて!
ここから出して!
悲鳴を上げそうになった時、背後で何かの気配を感じた。
はっとして振り返ると、そこにいたのは白い服を着た初老の女性だった。
短い髪はすっかり白くなり、顔には深くしわが刻まれていたものの、それは自分の知っている懐かしい顔だった。
「……母さん?」
ぼんやりとそう呼ぶと、彼女は優しく微笑んで迎え入れるように両腕を広げた。
「ああ、信吾。こんなところにいたんだね。ずっとずっと捜していたんだよ。ずっとずっと待っていたんだよ。さあ、こっちへおいで。よく顔を見せて……」
「やっぱり、母さんだ」
すっと目の前が明るくなった気がした。
彼はゆっくりとした動作で自分の手を伸ばすと、それをまじまじとみつめた。
「母さん……僕はここにいる。やっとみつけたよ……」
☆
佐々木は恐ろしさのあまり、持っていた大きなスコップを取り落とし、よろけて尻餅をついた。そして、傍らで冷静にこの様子を見ている香織にもつれる舌で必死に言った。
「こ、これはどういうことだ。お、お前の言う通りここを掘ったら……は、白骨が出てきたぞ。これは一体……」
「誰か、なんて言わないでよ」
白けた様子で香織は言った。
「そんなの、信吾くんに決まっているじゃない」
「……嘘だろ。まさか、お前が殺して埋めたのか……?」
「違うわよ」
溜息交じりに彼女は言う。
「殺してない。埋めたのは野村だけどね」
「……は? お前、何、言っているんだ?」
佐々木は混乱しながらも、何とか立ち上がり、月明かりの中に浮かび上がる香織の冷たい横顔を見た。
「お、俺はお前の言う通りにスコップを持ってここに来た」
と、周囲を見渡す。
彼らが今いるのは、湖岸にある林の中だった。大きな木の根元を香織に言われるままに佐々木は掘り返した。そして、そこから現れたのは、子供のものと思われる白骨だったのだ。
「お前は、俺に、信吾を、あいつの骨を……掘り起こさせたのか?」
「そういうことになるわね」
「どういうことだよ!」
「……確かめたかったの。信吾くんが本当は生きていて、私たちを脅しているという可能性もあったから。私、埋めるところは見ていないのよ。だから不安だった。でも、違ったわね。ちゃんと死んでた」
「お前……」
ぐっと息を呑んで、佐々木は言った。
「……確認するぞ。出てきたこの骨は、信吾なんだな」
「そうよ」
香織は面倒だと言わんばかりに応じた。
「そうだって言ってるでしょ。くどいわね」
「どうしてこんなことになったんだ……?」
「今更、他人事のように言わないでくれる? あなただってあの時、一緒にいたでしょ。共犯じゃないの」
「共犯ってなんだよ、俺は何も」
「何もしてないって言える? 本当に?」
たたみこまれて佐々木は口ごもる。
言葉がみつからず、おろおろしていると香織が苛立って声を上げた。
「章くんも野村と一緒になって泳げない信吾くんを湖の深みに連れて行って、引っ張り回して面白がっていたじゃないの。それで何もしてないなんて言えるの?」
佐々木は足が震えるのを止められなかった。
確かにあの日、沢村信吾が湖で行方不明になった時、自分もそこにいた。そして、おとなしい信吾を湖に落として慌てて怖がる様子を見て笑っていた。
「だ、だけど」
佐々木は必死に抗うように言った。
「それを俺たちにやらせたのはお前じゃないか。退屈だから、何かしろって。信吾が泳げないことを知っていて、湖の深いところに行って泳げと言っただろ」
「冗談よ。本気にするなんて思わなかったわ。それに、信吾くんをいじめろなんて、私、言ってないから。あんたたちが勝手にやったことでしょう」
「嘘つけ。お前も溺れる信吾を見て笑っていただろ!」
「うるさいわね」
「……信吾が溺れて、失神した時、俺は信吾を湖岸に引き上げて、すぐに助けを呼びに行った。だけど、戻ってきたら信吾の姿が無くなっていた。
お前たちは助けに来た人たちに、信吾が湖に入ったまま上がって来ないと言った。それで湖の捜索が始まったけど……そんなはずはないんだ。俺は確かに信吾を湖岸に引き上げたんだからな。……ずっと、怖くて聞けなかった。……俺がいない間に、お前と野村は信吾に何をしたんだ」
「馬鹿」
吐き捨てるように香織は言った。
「何、妄想してんのよ。私たちがあなたのいない間に信吾くんを殺したとでも言いたいの?」
「ち、違うのか」
「そんなことするわけないでしょ。一度、溺れて失神している信吾くんを私たち三人で必死に助けたのよ? なのにどうしてわざわざまた湖に落として殺すのよ。殺したいなら最初から助けたりしないで溺れているのを見殺しにするわよ」
「そ、それはそうだが。じゃあ、どういうことだ?」
「……簡単な話よ。あなたが助けを呼んでくる間に、信吾くんが死んでしまったのよ」
「え……」
「最初、引き上げた時、あの子、ぜいぜい息をしていたでしょう。それがだんだん弱まって……野村が人工呼吸をしてみたけどだめだった。呼吸も無くなって、心臓の鼓動も聞こえなかったわ。顔は血の気が失せて、青ざめていった。……子供でも判ったわ。信吾くんは死んだって。もう助からないって思ったの」
「そ、それで……」
佐々木は、恐る恐る、自分の掘った穴を見た。
「ここに死体を埋めたのか?」
「ええ」
臆することもなく、香織は言った。
「あなたが帰ってくるまでに二人でこの林に信吾くんを運んで隠したのよ。夜になって戻ってきて野村が一人でここに埋めたわ。私もその時、ここにいたけど、埋めるところはさすがに怖くて見てないのよ」
「なんだってそんな恐ろしいことを……」
「何言っているのよ。馬鹿な質問しないでちょうだい」
「馬鹿なって……」
「そんなの、私も野村も人殺しになりたくなかったからに決まっているじゃないの。私は学校で優秀な生徒だった。野村もこの町の名士の子供よ。お互いに守るべきもの……利害が一致したってわけよ。だから……信吾くんには隠れて貰ったの」
「お前、自分が何したか判っているのか? これは事故だろ。隠す必要なんか」
「いじめが原因で信吾くんが死んだなんてことがばれたらどうなると思う? 事故だと言えばそうだけど、死のきっかけは私たちにあるのよ。
……信吾くんの体には、あなたたちが小突いたり、引っ張り回した時に出来た痣やひっかき傷がたくさんあった。あれを見たら誰だって、ただの事故だとは思わないわ。……あなただって判るでしょう? もしこのことがばれていたら、あなたの旅館だってとっくに潰れていたわよ」
「それはそうかもしれないが……でも、すぐに信吾を病院に運んでいれば助かったかもしれないじゃないか」
「いい子ぶらないでよ!」
香織が不意に激昂して叫んだ。
「あなただって私たちと同じよ」
「どういう意味だ?」
「湖岸に引き上げたはずの信吾くんがいなくなっていたことはすぐに気が付いたわよね? それをどうして黙っていたのよ?」
佐々木はぐっと息を呑んだ。返す言葉が見つからず黙っていると、ほら、見たことかと香織は笑った。
「あなただって、自分を守りたくて黙っていたんでしょう? いじめで信吾くんを死なせたのはあなたも同じよ。自分にも責任があることが判っているから、温海ちゃんの自殺を自分のせいにしたくなくて、私たちが悪いんだと決めつけることで現実逃避していたんじゃないの?
きっと、温海ちゃんはあなたに疑惑を抱いていたのよ。あなたが信吾を殺したんじゃないかって。だから、悩んだ末に自殺を」
「やめろ!」
佐々木はまるで悲鳴を上げるように叫んでいた。
「温海のことは言うな!」
「ほら、やっぱり、自分でも判っていたんじゃない。だから、そんなにあなたは怯えている」
「……ああ、そうだよ。あの子は優しい子だったからきっと耐えられなかったんだ……」
「嘆く前に考えなさいよ」
「……何だって?」
「どうして、温海ちゃんがその疑惑を抱いたのかということよ。誰かが余計なことを吹き込んだって思わないの? それはうちの幸彦にしてもそうよ」
「沢村さんのことを疑っているんだな」
「それしか考えられないでしょう? 思春期で感じやすい子供たちに、湖の幽霊がうちの息子かもしれないのって、病気の身寄りのないおばあさんが切実に話したら……子供たちは信じるんじゃない? その上で、私たちに対する疑惑を吹き込んで、『十六歳の誕生日に湖で死ぬ』ということを少しづつ刷り込んで、暗示にかけていく。……できないことはないと思うわ」
「そんなことをする意味が判らない」
「復讐よ」
きっぱりと香織は言った。
「覚えているでしょう。信吾くんがいなくなった時、信吾くんのお母さんは捜索が打ち切られた後も、湖をしつこくうろついて、私たちにも同じことを何回も聞きに来ていた。あの時から、あの人は私たちを疑っていたのよ。きっと、恨んでいたんだわ」
「だとしても、どうして今なんだ? 二十三年も経ってから」
「待っていたのよ」
「え? 待つって何をだ?」
「私たちが結婚して、子供を産んで、その子が信吾くんと同じ歳になるのをよ」
「どういうことだ?」
「親として、一番辛いことって何? 子供を失うことじゃなくて? 信吾くんのお母さんは、直接、私たちを殺しても意味が無いと思ったのよ。
自分の味わった苦しみを私たちにも味あわすためにじっと待ち続けていた。そして、私たちの子供が十六の歳になった今、復讐を実行したんだわ。私たちから子供を奪うために」
「……だが、あの人は最近、痴呆も出て来たって話だ。そんな人がこんな凝った復讐なんて出来るものか?」
「私は幸彦のことが気になって、病院に行って沢村さんの容態を聞いたのよ。あの人は確かにおかしい言動をする。痴呆の症状も出てきたって。幸彦のことを『信吾』って呼んだりもするらしいわ」
「それも痴呆の症状のひとつだろう。そのことは俺も聞いたことがある。信吾と同じ年頃の子供を見ると信吾と呼ぶって」
「だけど、いつもは支離滅裂なことを言うのに、幸彦を信吾と呼んで、話をするその時だけは急に正気に戻って、正常な話し方をするそうよ。それはどう思う?」
「どうって……」
「痴呆の振りをしている可能性もあるわ。だったら、私たちに復讐もできる」
「そんなこと……」
「信じられないなら、本人に直接聞きなさいよ。呼んであるから」
「は?」
佐々木は唖然として香織の顔を見た後、恐る恐る背後を振り返った。そこには白い人影があった。いつからそうしていたのか、じっと佇んでこちらの様子を伺っているようだ。
「誰だ?」
「また馬鹿なことを言うのね。信吾くんのお母さんに決まっているじゃないの。ここに来たことが、彼女が正気だって証拠にならないかしら?」
佐々木は思わず、顔をしかめた。
「お前、沢村さんを呼び出したのか?」
「この人が私たちを怖がらせたやり方と同じことをしただけよ。信吾くんの名前を使って手紙を書いたの。それを渡しただけよ」
「手紙だって?」
「ええ。『お母さん、僕は湖の近くにある林の中にいます。ひとりで会いに来てください』ってね」
「お前、そんなことして」
佐々木は背後の白い人影と掘った穴を見比べながら言った。
「この状況を見られたら、いくら相手が老人でもごまかせないぞ。なんだって、こんなことをするんだ」
「すべて終わらせたいだけよ。せっかく穴を掘ったんだから活用しない手はないわ」
「香織?」
「捜していた息子に会わせてあげるだけよ……」
香織はそう言うと、さっきまで佐々木が使っていたスコップを指差した。
「それを使えば」
「な、何を言っているんだ? それで信吾のお母さんを殴れとでも言うのか? お前は悪魔か!」
「私は今の生活や子供を守るためなら悪魔にでもなるわ! こんな人に……昔の亡霊なんかに負けやしない!」
香織はスコップを掴むと優しい声で、白い人影に向かって言った。
「沢村さん、信吾くんのお母さん、ですよね? こちらに来てください。ここにあなたの息子さんがいますよ」
「おい、香織!」
「黙って! あなたも温海ちゃんの仇を討てばいいじゃないの」
「温海の?」
「そうよ。あの人のせいで温海ちゃんは死んだのよ」
温海の仇……?
佐々木は呆然として、心の中でその言葉を繰り返した。
温海。
お前は何を思って自分の命を絶ったんだ?
「沢村さん、聞こえてますか? 信吾くんが呼んでいますよ……」
香織が優しい声で呼びかけるのが随分遠くで聞こえる。
佐々木がのろのろと顔を上げた時には、その白い人影はこちらに向かって近づいてきていた。
「……信吾?」
弱々しい声で人影は言った。
「こんなところにいたの? ずっと捜していたのよ……」
両手を広げこちらに近づいてくる姿は、佐々木には死んだ娘と重なった。悲しそうにこちらをみつめるその瞳の色は、確かに亡き娘のものだったのだ。
温海、悲しんでいるんだな、俺の罪を……。
「俺は……あなたの息子さんを見殺しにした……! 許してください! 許してくれ、温海!」
「馬鹿! 何、言ってんのよ!」
突然、その場に崩れてしまった佐々木を罵倒すると、香織はスコップを構えたまま、自ら信吾の母親に近づいて行った。
「亡霊! 消えて!」
彼女の頭にスコップを振り下ろそうとしたその時、寸前でそれは動かなくなった。驚いて振り向いた香織の目に映ったのはこの状況でも穏やかな顔をした珠城だった。
「いけません」
やはり穏やかに言うと、珠城はスコップを彼女から取り上げ、それを遠くに放り投げた。
「先ずは話をしましょう」
「あ、あなたは……」
呆然とする香織に優しく微笑みかけて珠城は言う。
「お年寄りは大切にするものですよ」
「どうして……?」
「間に合って良かったです。沢村さんにとっても、あなたにとっても」
「間に合った? 何言っているのよ。このままだと幸彦が……この人に殺されてしまうわ……!」
「幸彦くんなら大丈夫です」
珠城はそう言うと湖の方を指差した。
「彼ならそこにいますよ」
「え?」
香織が目を凝らすと、そこには確かに野村に守られるようにして佇む幸彦の姿があった。彼が悲しげにこちらを見ているのが柔らかな月明かりの下、香織にも判った。
「幸彦!」
言うや、彼女は息子に向かって駆け出していた。そして、すがるように幸彦に抱きつく。
「無事ね」
「無事だよ……」
低い声で幸彦は答える。
「判ったよ、すべて」
「え?」
「父さんが話してくれたから」
「……そう」
さして驚かずに香織は頷いた。
「知ってしまったのね」
「香織、すまない」
野村が小さな声で妻に詫びた。
「お前のことも、幸彦のこと苦しめていた。……あの日……信吾が死んだあの日、彼の死を隠したのは自分の立場を考えたからだ。すぐに警察に届けるべきだったんだ。本当のことを話すべきだった。私は自分の事だけを考えて……信吾や信吾の家族にひどいことを……申し訳ない」
「あなたはすべてを消してしまいたかったのですね」
静かに珠城が言った。
「だから、この町を新しく変えていこうとしたのですね。古いものを壊し、その上に新しいものを築く。そうして、なにもかも消してしまおうとした。……この林も潰してしまうおつもりでしたね」
「そういうことか」
佐々木が呻くように言った。
「お前がやっきになってこの町を変えていったのは、信吾のことをすべて消してしまうためだったんだな」
「ああ。お前の旅館には迷惑だったろうが、開発をやめるわけにはいかなかった。信吾の埋まっているこの林も駐車場にでもしてしまおうと思っていた」
「そんなにしてまで信吾を、あいつの痕跡を消したかったのか」
「香織が心配だったんだ」
野村は暗い目をして呟いた。
「香織は口癖のように言うんだ。あの時と変わらないこの町の風景を壊してくれと。この町を出て行くことができないなら、あの日のことが嘘だったと思えるほどにこの町を変えて欲しいと」
「……それでその通りにしたのか」
「家族を守りたかった。それだけだったんだ」
「馬鹿だな」
虚ろに笑うと佐々木は言った。
「現実に起こったことを変えられるわけないだろう。見た目をいくら変えたところで事実は変わらない……。そうだろう? 温海のこともな。あの子は死んでしまった。……それは変えられない事実だ」
「佐々木……」
「……僕と温海は父さんが始めた町の開発に不自然さを感じたんだよ」
幸彦が不意に言った。彼は母親から離れると、湖の方にゆっくりと歩きながら話し始めた。
「やっぱりそういうことだったんだね。父さんのしていることはどこか強引で、無理しているように見えた。何に焦っているんだろうってそう思っていたよ。
それから寄付の件も。父さんは病院に多額の寄付をしているよね。どうして寄付なんて始めたんだろう。だって、じいちゃんはそんなことしてなかった。それで調べてみたんだ。そうしたら、おかしなことに気が付いた。父さんは寄付しているだけじゃなく、ある身寄りのないお年寄りの入院費も負担していた。沢村さんというひとりのおばあさんに対してだけ。
変だよね。身内でもない人の入院費を全額負担しているなんて。それでもしかしたら、病院への寄付はその不自然さを隠すためのカモフラージュなんじゃないかと思ったんだ。
沢村さんは昔、息子さんを湖で亡くしている過去があって、しかも例の湖の幽霊がその息子さんだというのも判った。
ひとりであれこれ考えているとすごく怖くなって、温海に相談したんだ。温海も僕同様におかしいと思うところがあったみたいで、調べてみようということになったんだ。すぐにふたりで図書館に行って当時の新聞を閲覧した。それで……沢村さんの息子さんが湖で溺れたっていう事故に温海の父さんと僕の両親が関わっていることを知ったんだよ」
「それで、病院でのボランティアを始めたのか?」
「そう。沢村さんから直接、話を聞きたかったから。
だけど、沢村さんは痴呆が始まっているみたいで、話をするのは大変だった。支離滅裂なことを言い出すんだよ。でも、不思議と昔のことはよく覚えていて、息子さんのこと……信吾さんのこととなると正気に戻ったみたいに普通に話すんだ。いなくなった息子のことを思うと心が虚しくなる。それはまるで水を抱くようだって」
「水を抱く?」
「うん。愛しくて愛しくて抱きしめたい。だけど、抱きしめる体がここにはなくて……差し出したこの腕は、指先は、ただ虚しく水を掻くだけ。こんな悲しいことはないって」
ああ、と足元で香織が崩れた。慌てて野村が彼女を支える。
「大丈夫か」
「私、怖くて……幸彦を失いたくなくて……」
「判っている」
お互いをいたわるように抱き合う両親を一瞥して、幸彦は言葉を続けた。
「そんな話を聞いているうちに、温海と僕は自分の親を疑い始めたんだ。
沢村信吾さんは本当に事故死なのか? どうして遺体はみつからなかったのか? もしかしたら殺されて、この湖とは違う場所に遺棄されているんじゃないのか……いろんな可能性を話し合って、考えているうちに、段々、温海の様子がおかしくなってきたんだ。
もうじき、十六歳になる、信吾さんと同じ歳になるんだって、何かに操られているようにそんなことばかり言い始めて……気を付けてはいたんだけど、彼女が自分の誕生日に湖に飛び込んで自殺したって聞いた時は、目の前が真っ暗になったよ。止められなかったという後悔と、そして次は僕の番だろうかという恐怖で頭がおかしくなりそうだった。どうしていいのか判らなくなって」
幸彦はその時のことを思い出して、震えるように息をついた。
「その時、いつか図書館で暇つぶしに読んだ『謎工房』という雑誌のことを思い出したんだ。その雑誌に珠城さんという不思議な人の話が載っていた。それを読んだ時はたいして気にならなかったのに、今になって鮮明にその記事を思い出すんだ。
僕は図書館に行って、その雑誌のバックナンバーを何冊か借りて来て、珠城さんの記事を必死になって読んだ。
彼に会いたいと思った。でも、そこには珠城さんの店の住所は公開されていない。でも僕は本気で珠城さんに会いたかった。だから、きっと会える。……その記事にはこう書かれていたから。彼に会って相談するに足りる悩み事を持っている人なら、住所など知らなくても必ず、彼の元にたどり着けると。だから、こっそりと家を出て、珠城さんの店を探しに行ったんだ」
「それがあの時の家出か」
父親の言葉に、幸彦は頷いた。
「騒がせて悪かったけど、どうしても行きたかったから」
「彼の店に辿りつけたんだな」
「珠城さんの店の前まではね。
でも、ドアを開けるのは怖くて出来なかった。それで、あらかじめ用意しておいた、沢村信吾さんの名前で書いた手紙をドアの下に置いて、逃げるように帰ってきたんだ。
家出騒ぎまで起こしてしたことだけど、本当に珠城さんが来てくれるかは半信半疑だった。来てくれないかもしれない、助けてくれないかもしれない……。そうして思い悩んでいるうちに、珠城さんが現れることなく、僕は十六歳の誕生日を迎えてしまって……諦めて湖に入って、温海のところに行っていまおうか、そう思った。その方が楽だったから。でもその時、珠城さんが来てくれた。……あの時はそんな顔をしなかったけど、本当はすごく、嬉しかったんだ」
幸彦が珠城に顔を向けると、彼はにこりとして頷いた。
「はい、判っています」
「……『謎工房』という雑誌が幸彦の部屋にあったのは知っていたよ」
野村が独りごとのように呟いた言葉を、珠城が受けて言った。
「はい。僕も、彼の部屋の机の上に『謎工房』が置いてあるのを見ました。それで、あの手紙を書いたのは君だと確信しました」
「やっぱりよく見ているよね、珠城さんって」
軽く笑うと、幸彦は湖に向き直った。足元でひたひたと揺れる暗い水面を、彼は愛おしそうにみつめる。
「あの時は怖くて仕方が無かった。でも、今はもう怖くないよ」
そして、幸彦は何の躊躇もなく、突然、湖に飛び込んだ。それは一瞬の出来事で、周囲にいた大人たちは全く動くことが出来なかった。
「……幸彦!」
悲鳴を上げて、香織が湖に飛び込もうとするのを、寸前で野村が止めた。
「離してよ! 幸彦が死んでしまう!」
「待て! 私が行く!」
「だめです」
もみ合う夫婦を珠城は一言で止めた。呆然と自分をみつめるふたりに珠城は穏やかに言う。
「あなたたちはここで幸彦くんをお待ちください」
「いや、しかし……」
おろおろする野村を無視して、珠城は水際にしゃがみ込むと、その水面に静かに手を浸した。
☆
水。
いや、これはゼリーだ。
柔らかくて優しい、甘いゼリーの中に僕はいるんだ……。
幸彦は透明な世界にいた。
沈んでいるのか、浮かんでいるのかも判らない。不思議な感覚だった。
あまりの心地の良さに、思わず目を閉じた時、突然、誰かが力強く腕を引っ張った。驚いて目を開けると、そこには知らない少年の顔がある。
思わず、幸彦は腕を振り払おうとしたが、少年は決して掴んだ腕を放さなかった。
誰?
そう問いかけた瞬間に幸彦は悟った。
ああ、この少年は沢村信吾だ、と。
沢村、信吾さん?
心で呼びかけてみたが、少年は微笑むだけで何も答えなかった。代わりに幸彦の体を自分に引き寄せると両手で支え、ゆっくりと上へと押し上げた。
え? 何?
驚いている幸彦のその体を、少年の手と入れ替わって別の手が支えた。それは微かにラベンダーの香りがした。
……温海?
確かめようと目を凝らしたが、幸彦の目にはたゆたう水の色しか映らなかった。その手は更に彼の体を上へと押し上げ、違う手に渡した。今度のその手は今までとは違って、しっかりとした存在感があり、力強く幸彦の体を抱きとめた。
この手は……誰だろう?
「幸彦! しっかり!」
「もう少しだ、頑張れ!」
「幸彦くん!」
たくさんの声が上から降り注いでくる。うっすらと目を開けると、水の透明な膜の向こうから必死で手を伸ばし、自分を支えようとするたくさんの手が見えた。
そうか、僕はまだ、そっちにいていいんだね……?
幸彦はそこで意識を失った。
病院のベッドで目を覚まし、幸彦が最初に見たものは心配そうに自分を覗き込む大人たちの顔だった。
「……父さん、母さん?」
かすれた声で二人を呼ぶと、母親は安堵で泣きだし、父親は心からほっとした顔で頷いた。その後ろで申し訳なさそうに立っている佐々木と、看護師に付き添われ、椅子に座って微笑んでいる老婦人の姿も見えた。
「沢村のおばあちゃん……」
声を掛けると、老婦人は一層、優しく微笑んで言った。
「湖に落ちたんだってね。大した怪我も無くて良かったこと」
「おばあちゃんは大丈夫なの?」
「どうしてそんなことを聞くの? 私はいつも大丈夫だよ」
「え、でも」
「幸彦くん」
静かに佐々木が言った。
「沢村さんは湖でのことを何も覚えていないんだよ。ただ、お前のことを心配してここに来てくれたんだ」
「ああ、そうなんだ」
幸彦は少し迷った後、声を落として佐々木に聞いた。
「じゃあ、あの白骨のことも?」
「ああ、判っていないな。ただ、沢村さんは息子の信吾には会ったとは言うんだよ。まだ死んだとは思っていないようだ」
「会った?」
「信吾は閉じ込められていた場所から解放されて、やっと自分の元に戻ってくることが出来たって。沢村さんには信吾の姿が見えているのかもな。白骨や遺体としてではなく」
「そう」
幸彦は沢村婦人の今までにない幸せそうな顔をしばらくみつめてから言った。
「沢村信吾さんは湖で失くした自分の体を取り戻して、お母さんの元に帰れたんだね。それで沢村のおばあちゃんが幸せならそれでいいと思う」
「ありがとうね、優しい子だね」
沢村夫人は満足そうに微笑んだ。そして彼女に付き添っていた看護師に促され、静かに病室を出て行った。
その後ろ姿を見送った後で、佐々木は遠慮気味に幸彦に尋ねた。
「なあ、お前と温海は沢村さんとどんな話をしていたんだ? 暗示にかけられた、なんてことを香織……君のお母さんは心配していたが」
「暗示? まさか」
笑って、幸彦は母親に目を向けた。
「僕も温海も、最初は調べることが目的で沢村さんに近づいて話を聞いていたんだけど、接していくうちに沢村さんのことが好きになっていて、気がついたら家族みたいに思うようになってたんだ。
だから、沢村さんと一緒にいる時は、彼女の息子、娘に僕らはなりきっていたんだよ。そう思ったのは自然の成り行きで、暗示に掛けられたわけじゃない。あなたたちは復讐とかそんなことを気にしているようだけど、沢村さんの世界にそんな怖いものはないよ。ただ、愛情があるだけの人だった」
「……そうか」
その愛情に温海は呑まれてしまったのかもしれないな。
佐々木は重い気持ちでそう思ったが、口にしたのは別の言葉だった。
「お前はもう大丈夫だな?」
「え。あ、うん」
「それじゃあ、俺たちは行くから」
「……どこに?」
「警察だよ」
野村が横から口を挟んだ。明るい口調だった。
「今更だが、きちんと話をしてくるよ。これから、またお前に迷惑を掛けることになると思うが……済まないな」
「いいよ」
あっさりと幸彦は言った。
「本当に今更だけどね」
そして目を伏せる。すると自分の意思に反して涙がこぼれ落ちた。
「幸彦……」
悲しげに香織が息子の名を呼んだ。が、それに続く言葉が出てこない。結局何も言えず、逃げるようにして病室を出て行った。
「……じゃあ、行くよ。お前のことは看護師さんに頼んであるから」
野村はそう言うと幸彦の頭を撫でて病室を出て行った。
幸彦はたまらず、目を閉じる。大人たちが出て行く気配に耳をそばだてて聞いていたが、不意に体を起こすと、今まさに出て行こうとする佐々木の背中に声を掛けた。
「待って、佐々木さん。あの人はどこ? 珠城さんはどうしたの?」
「……いないよ」
佐々木は少し、気の毒そうに幸彦を見て言った。
「いつの間にかいなくなってた」
「それってどういうこと?」
「お前は覚えていないだろうが、湖に落ちたお前を助けてくれたのは珠城さんだよ」
「え?」
湖の中で次々と現れては消えた自分を助けてくれた手を思い出す。
最後のしっかりとした存在感のある手は……珠城さんだった?
「なんというか、マジックでも見せられたようだったよ。彼はあの時、ただしゃがみ込んで湖の水の中に手を差し入れただけだった。しばらくしてから、野村や香織、俺に同じことをしろと言うんだ。緊迫した状況だったから、みんな何も言わず、言う通りにした。
そうしたら、今まで何も見えなかった真っ黒な湖面が急に透明になって、俺たちが差し入れた手のすぐ下にお前がいるのが見えた。みんなで必死に引っ張り上げた。それでお前は助かったんだ。
気を失っているお前にみんな気を取られているうちに、いつのまにか珠城さんは居なくなっていた。……あの人は闇の中から不意に現れ、そして現れた時と同じように闇の中に消えていった。……不思議な人だったな」
闇の中に消えて……。
「ああ、そうだ。忘れるところだったよ」
佐々木はポケットから一通の手紙を取り出すと、幸彦に差し出した。
「この手紙、珠城さんが置いて行ったものだ。お前が持っているのがいいだろう」
「これは……」
「お前が珠城さん宛てに信吾の名前で書いた手紙だろう?」
「う、うん」
少し躊躇しながらも、幸彦はその手紙を受け取った。まじまじと手紙を見ている幸彦に佐々木はじゃあなと手を上げて病室を出て行った。
一人になった幸彦は、どこか違和感を覚えながら、のろのろと封筒から便箋を取り出し広げた。そして、はっとする。
この字は……。
文面はあの時のままだ。だけど、この筆跡は……僕じゃない?
思わず、封筒をひっくり返し、差出人の名前を見る。
沢村信吾という名前。
当たり前だ。自分が書いたのだから。しかし、幸彦は震える自分の手を止めることが出来なかった。
「この手紙を書いたのは……僕なんかじゃなくて、本当に沢村信吾さんだったのかもしれない……」
以前より柔らかくなった自分の心を抱きしめながら、幸彦は何もかもを見透かしたような珠城の澄んだ瞳を思い出していた。
(水を抱く おわり)
☆
大田雅人は懐かしさに目を細め、祭りで賑わう境内を遠くから眺めた。
高校を卒業して、この町を出て行ったのは八年前。それきり一度も戻っていない。その八年間の空白が、この町の様子を少しばかり変えていた。
駐車場だった土地にモダンな外観の一戸建てが並んでいたり、買い物するなら商店街だったはずのこの町に、大手のスーパーやコンビニエンスストアが当然のように出来ていた。その事実に雅人は少なからず驚いたが、しかし、考えてみればそれはどこにでも起こりうる当たり前の変化なのだ。区画整備により町並みが変わる。古い店が潰れて新しいお洒落な店が建つ。……そんな珍しくもない変化に、雅人はどうしても戸惑ってしまうのだった。
雅人は生まれ育ったこの町が好きだった。
ここは、古くから住む人たちが多く、近所付き合いという過去の遺物となりつつある習慣が未だに続くような町だ。おばさんやおじさんたちは、近所の子供は自分の子供と同じだと当たり前に思っているらしく、他人の子供も遠慮なく怒ったり、説教したり、心配したり、また褒めてくれたりしたものだった。
家の間を伸びる細い路地を子供頃、走り回って遊んでいるとうるさいと近所のおじさんに怒られ、竦みあがったことを雅人は懐かしく思い起こした。
駅前にある商店街も子供の頃の雅人のいい遊び場所だった。顔なじみの店員にお菓子を貰ったり、商店街の裏通りをこっそりと仲間たちと冒険したりした。
あの裏通りの空気は今も変わらないだろうか。
大人たちにみつかると死ぬほど怒られたあの裏通りの冒険。今、思い出しても雅人の胸は高鳴った。
明るく庶民的な表通りの商店街とは真逆な、あの独特な空気が漂う裏通り。子供の目にも怪しいと判る店が並んでいた。
「なあ、なあ、知っているか? ここって伝説があるんだぜ」
ドキドキしながら夕暮れの裏通りを歩いている時、仲間のひとりがそう言った。あの時は確か、裏通りに現れる女の幽霊を捜しに行ったのだったか。暗がりの角を曲がろうとしたタイミングで言い出したものだから、ひどく緊張したのを覚えている。
「ここには不思議な店があるんだよ。その店がこの裏通りのどこにあるのか判らないんだけど、もし、探し当てて、その店のマスターにお願いすれば、死んだ人に会えるんだって。うちのお母さんの知り合いの親戚の人が、死んだおじいさんに会えたんだって……」
ばっかじゃねえ。
あの時、実はちょっと怖かった。だから強がって俺はそう言って笑い飛ばしたんだった。
でも、もし、それが本当なら。
雅人は切ない気持ちで目の前の神社の鳥居を見上げた。
この神社の夏祭りは昔と変わらない。
雅人はふと、自分が高校生だったあの頃に戻った気がして、微かな恐怖を感じた。
この恐怖。
俺は、まだふっきれていないんだ。
雅人が逃げるようにこの町を出て、八年という長い時間、一度も戻って来なかった理由。あの日の、夏祭りでの出来事がまだ胸にこびり付いているのだ。
母親に「一度くらいは戻って来なさい」と電話で散々せっつかれ、仕方なく今年は夏季休暇を利用して帰省したのだが、雅人は家で家族と過ごすのがなんとなく落ち着かず、夕食後、散歩してくると言ってひとりで夜の町に出てきた。
ここに来るつもりじゃなかったんだけどな。
雅人は苦笑する。目的などなく、ただでたらめに歩いていたらいつの間にか鳥居の前に出てしまったのだ。図らずしも、あの日と同じ夏祭りの夜。懐かしいという郷愁の想いが雅人の胸を抜けていくと、代わりにやってきたのは、やはりあの日の出来事に対する恐怖と呵責だった。
雅人はそのまま、鳥居の前で動けなくなってしまった。中に一歩でも足を踏み入れたら、そこに高校生のままの野間千秋が笑顔で待っているような気がして恐ろしかったのだ。
雅人は思わず、後ずさる。
やっぱり、帰って来なければ良かった。
後悔した雅人はもうここに一刻もいたくなかった。家に戻ろうと体を回転させた、その時、後ろから歩いて来た人物とまともにぶつかった。雅人は大きくよろめいたが、相手は大柄の男でびくともせずそこに立っている。
「あ、すみません。大丈夫ですか」
と、柔和な声で相手の男が言った。雅人も謝ろうと顔を上げて、そしてそこで止まってしまった。
「……え? 雅人、か?」
大柄の男の方が、先に声を上げた。雅人は頷きながら言った。
「豊、だよな? 西山豊だよな?」
「おお! そうだ、大田雅人! 久しぶりだな、元気だったか」
「お前、でかくなったなあ、なんだよ、この腕」
雅人は挨拶を省略すると、豊のTシャツから出ている太もものような二の腕を手の平で叩いた。
「何かスポーツでもやってんのか?」
「ラクビーだよ。今更、驚くなよ。俺はずっと、でかかっただろうが」
「たっぱだけだろ」
雅人は自分より、余裕で頭ひとつ分は背の高い豊を見上げた。雅人の記憶にある豊は背ばかり高く、ひょろりと痩せた少年だった。しかし虚弱そうに見えるその風貌とは裏腹に、豊の運動神経は良く、その体には十分な耐性があった。昔からスポーツが好きな少年だったが、ラクビーとは初耳だ。
「それにしても、ラクビーって……。高校の時はサッカーやってなかったか?」
「うん。ラグビーは先輩に誘われて、大学に入ってから始めたんだ。それからハマちゃってなあ。大学時代はラクビーに明け暮れた四年間だったよ。……今は俺たちが卒業した高校で教師やっててな、そこのラクビー部の顧問もしている」
「ああ、教師をしているってのは誰かから聞いたな」
雅人はいかついくせに、優しい目をした豊の顔をまじまじとみつめた。
雅人は高校を卒業すると、すぐに就職を決めて逃げるようにこの町を出て行ったが、この高校時代の友人は、地元の大学に進学した。そしてその大学を卒業した後は、地元の高校の教師になったと噂で聞いていた。明るい顔色をした豊を、雅人は密かにうらやましく思った。
「……そっか。俺たちの卒業した高校で、か」
雅人の心は複雑な思いで揺れた。
「行こうぜ」
不意に、豊が明るい声を上げた。何のことかと雅人がいぶかると豊は鳥居の向こうを顎でしゃくる。
「祭りに来たんだろ? 行こうぜ。俺は自分の学校の生徒が馬鹿してないか、見回りも兼ねているんだよ。相変わらずだぞ、高校生は。夏休みだと羽目外すからなあ」
からりと笑って、豊は先に立って歩いていく。その大きな背中を雅人は恨めしげにみつめた。
こいつ、あの日のことを、野間千秋のことを忘れたのか……。
「おーい、どうしたよ?」
豊は不思議そうに、付いて来ない雅人を振り返った。その誠実な声に抗えなくて、雅人は仕方なく歩き出す。
「久しぶりだな。お前とこうして歩くなんてな」
「うん」
雅人が隣の来るのを待って歩き出した豊は本当に嬉しそうだ。懐かしそうに遠い目をして言葉を続ける。
「夏祭りもよく一緒に行ったよな。そうそう、お前、金魚すくい上手くて、俺は一匹もすくえないのに、あれは悔しかったよ……」
豊は金魚すくいの屋台を見つけると、集まっている子供たちの頭の上から水槽を覗き込んだ。小さな赤い金魚がゆらゆらと水の中を泳いでいる。それを子供たちが歓声を上げながらホイを使って追いかけていた。
「雅人、やってみるか」
「いいよ」
雅人は苦笑して言う。そんな気持ちには到底なれない。豊はあからさまに残念そうな顔をして、尚も泳ぎ回る金魚を見下ろしている。
こいつ、変わらないなあ。
ぎすぎすしていた雅人の心に柔らかいものが満ちてきた。思わず微笑んで豊をみつめていると、突然、雅人の背後から女の子達の嬌声が響いた。
「きゃー、豊ちゃん先生じゃん」
「あ、本当だ。豊ちゃん先生も金魚すくいするのー? 似合わねー」
雅人が驚いて振り返るのと、豊が声を上げるのとほぼ同時だった。
「こら。何が豊ちゃんだ。そう呼ぶなって言っただろう」
「えー、だから、先生って最後に付けてるじゃん」
「ばーか。どこの世界に、先生に『豊ちゃん先生』なんてまどろっこしい呼び方をする生徒がいるんだよ」
「はーい」
「ここにいまーす」
「……お前らなあ」
豊は苦笑して、傍らに唖然と立ち尽くしている雅人を見た。
「やかましくて悪いな、こいつらは一年生で俺の教え子なんだ。黄色の浴衣が浅岡真子。紺色のが坂井深雪だ」
「こんばんわー」
二人して同時に声を上げ、意外に律儀に頭を下げる。
「豊ちゃん先生のお友達、ですか?」
真子が探るように雅人を見ながらそう言うのを、苦笑した顔のまま豊が答えた。
「おう。高校時代の親友、大田雅人だ。お前らの先輩だぞ」
「へえ、そうなんだ」
「何かカッコイイ。この町に住んでいるんですか?」
「いや。今は仕事が休みだから帰省しているんだ」
「そうなんだー。よろしくお願いしまーす」
少女たちはそう言うと何が面白いのか一斉に笑いさざめく。その騒がしさに困惑しながらも、雅人は作り笑いで頷いた。自分が高校生だったのは昔のことだが、高校生という生き物は、流行などに左右され外見などは変わっても、その内面は変わらないのかもしれない。
今思えばくだらないことに熱中したり、何でも大げさに取り立てて仲間内で騒いだものだ。
雅人が羨ましさに似た思いで、二人の少女を眺めていると豊が真顔で言った。
「で、お前たち、金魚すくいに来たのか? それだけだろうな? 何かまた企んではいないだろうな?」
企む?
その言葉が、目の前にいる陽気な少女たちには似合わない気がして、雅人は豊を思わず見た。
「企むってどういう意味だ」
「雅人、こいつらの外見に騙されてはいけないぞ。悪いことなど企みそうもないあどけない顔をしているが、ところがどっこい、この二人組み、とんでもない問題児なんだ」
「もう、豊ちゃん先生、ひっどーい」
黄色地に色とりどりの蝶の舞う派手な浴衣の真子がやはり派手に袖を振って騒いだ。
「あたしたち、真面目な高校生だよ」
「そうそう」
紺地に白百合の柄という清楚な浴衣の深雪も笑いながら真子の後押しをする。
「あたしたち、悪い事なんてしてないよねー」
「してないしてない」
「お前ら、どの口がそう言うんだ。停学になりかけたのを助けてやったのを忘れたか」
そう言われた途端、二人は目を見合わせ、ぐっと口を閉じた。
「……停学って?」
居心地悪そうに身じろぎする二人に気を遣いながらも雅人が尋ねると、豊が仕方なさそうに言った。
「ほら、お前も知っているだろう、悪名高い商店街の裏通り。こいつら、女子二人だけで夜の遅い時間、あんなやばい場所をうろついていたんだ。挙句、警察に補導されて……」
「だからあれは、遊んでいたんじゃなくて、学習の一環だったんだって何度も言っているじゃない……!」
真子が声を上げるのを、豊はひと睨みで黙らせた。
「なーにが学習だ。都市伝説だの、妖怪だの、UFOだの、カッパだのと。それのどこが学習なんだよ」
「カッパって……」
雅人は意味が判らず、顔を赤くして怒っている友人をぽかんと見上げた。
「おい、何の話だ? 俺がこの町を出ている間にここはカッパの名所にでもなったのか? カッパが出そうな川なんかあったけ」
「あるか、そんなもん」
いらいらと豊が答えると、少女たちがくすくすと笑い出した。
「豊ちゃん先生がカッパなんて変なこと言うからだよ。大田さん、この町にカッパなんかいないし、あたしたちが裏通りに行ったのはもっと別な理由」
「別って何?」
「大田さんもこの町の出身なら知っているよね? 裏通りにある不思議な店の話」
「……え? 不思議な、店?」
真子が深雪に目配せすると、深雪は頷いて、持っていた和風生地の手提げかばんから一冊の雑誌を取り出した。
「これ、見てください。その付箋が貼ってるところ」
「……謎工房?」
雅人が機械的にその雑誌のタイトルを声に出して読んだ。見たこともない雑誌だった。
「あたしたち、ミステリー部の部長と副部長なんです」
「はいっ。あたしが副部長。でもって、会計も兼ねてまーす」
と、妙なテンションで深雪が元気に手を上げた。雅人はとりあえず頷いてから、言われた通り付箋の付いているページを開いてみた。屋台から溢れる明かりと境内に張り巡らされたたくさんの提灯で雑誌の細かな文字もしっかりと読める。『ハートヒーラーの光と闇』という大きな見出しがいきなり目に入り、雅人は何故かぎくりとした。
「……ハートヒーラーって……何だろう?」
雅人が言うと、深雪が傍らに寄り添ってきた。
「ハートヒーラーというのは造語よ。もともとそういう言葉は存在しないの。でも、ヒーラーって言葉はあるわ。治療師とか、癒す人とかいう意味なの。で、ハートは心じゃない? だからハートヒーラーというのは心霊治療師とか心の治療師とか、そういう意味になるみたい」
「心の……治療師」
そうつぶやくなり、熱心に記事を読み始めた雅人に豊は慌てて言った。
「おいおい、本気にするなよ。そんな怪しげな三流雑誌の記事なんかアテにならないって。それにこいつら、ミステリー部なんてそれらしいことを言っているが、新任の先生にむりやり顧問になってもらって今年なんとか立ち上げた、部員は五人しかいない弱小部なんだぞ。しかもそのうち三人は名前だけ借りた幽霊部員だ。
部活動というのもな、夜中にUFOを呼ぶとか言って校庭でおかしな格好をして踊って近所の住人に不審者がいると警察に通報されたり、さっき言った裏通りを真夜中に散策したりなんだからタチが悪いにこの上ない。そうそう、妖怪を探しに行くと言って家出したこともあったよな。とにかく、頭痛の種にしかならんのだ。こいつらの部活動とやらは」
「……なあ、豊。このハートヒーラーって人の伝説、俺たちがガキに頃にもあったよな?」
「……おい、人の話、聞いているか?」
一通り記事を読んだ後、雅人は顔を上げて真直ぐに豊を見た。その真剣な様子に豊はどぎまぎする。
「な、なんだよ、そんな話……今更」
「お前とは高校からの付き合いだから、それ以前のことは知らないけど、でもこの辺で育ったガキのやる遊びっていったら似たようなもんだよな。お前もあの裏通り、冒険したことあるだろ」
「……うん。それは……そう、だな」
豊は横で興味津々にこちらの話を聞いている少女たちに困ったように一瞥を投げてから、渋々頷く。
「ここいらは古い町で年寄りも多いから、そういう迷信話がたくさん受け継がれているんだよ。今じゃそういうのを都市伝説とか言うらしいが……。商店街の裏通りに忽然と現れるバーの話は一応、知ってはいるけど。珠城とかいう人の話だろ、確か」
「それってここいらだけの話じゃないんだな。マイナー誌みたいだけど、ちゃんと雑誌に載るような都市伝説なんだ」
「だけどさ、この記事は本当にここの裏通りのことなのか? 場所の特定はないんだろ? ただの伝説ってことで」
「信じないのは仕方ないけど」
深雪が上から目線で口を挟んできた。
「でも、珠城さんは有名なんだよ。まあ、一部でっていう言葉が頭に付くけどね。その雑誌だって確かにマイナー誌だけど、いい加減な雑誌じゃないよ。きちんと取材を重ねて正しいと確認できた記事しか載せないんだから。先生も読んでみれば判るんだけどなあ」
「そんな怪しげな雑誌、誰が……」
憮然として深雪の言葉をはねつけようとした豊の言葉を雅人は遮ると深雪に言った。
「取材を重ねてってことは、この雑誌の記者はハートヒーラーに会ったということだよね。本当にその珠城とかいうハートヒーラーは存在するの?」
「記事に載っているでしょ」
深雪がどこか誇らしげに言った。雅人はおとなしくもう一度、雑誌の目を落とす。
その記事には写真は無かった。文字ばかりが並ぶ見た目は地味な記事だ。何でも写真を撮らないということが取材を受ける条件の一つであるらしい。その店の住所や場所が特定できる文章もない。それでもその記事を読み進めていくと、そこに書かれている『乱反射』なるバーがこの町の商店街の裏通りにある、例の店のことなのだと雅人は確信した。
薄暗い裏通りは、入ってみると入り組んだ迷路のように複雑だ。いや、実際は単純な道なのかもしれない。迷路だと感じてしまうのは、あの裏通りの空気がそう思わせてしまうのだろう。
雅人は小さく息を吐いてから、豊に言った。
「お前、この記事、読んでないんだな」
「……うん。興味ないからな」
「そうか。俺は、この人に会えるもんなら会いたいと思うよ」
「おい、雅人。お前、こいつらにのせられて裏通りにその店を探しに行くとか言うつもりじゃないだろうな」
呆れ顔の豊に、雅人は薄く微笑んだ。
「しないよ。というか、出来ないだろう。ほら、ここに書いてある。この『乱反射』という店に行って珠城さんというハートヒーラーに会いたいなら、彼に会えるだけの真摯な理由がないとだめだって。ちょっと会ってみたいという興味だけではその店には行き着けないんだと」
「ああ、なかなかその店をみつけることが出来ないというのは聞いたことがあるけど……」
豊も思わず、雅人の手元を覗き込む。しばらく無言でその記事を目で追った後、豊は低い声で読み上げた。
「ハートヒーラー・珠城氏は、生死に関係なく人の心を救う癒しの人、心の治療師。そして、彼の元を訪れたければ、それこそ生死に関わるような真摯な理由が無ければ会うことは適わない。興味本位で『乱反射』を探してみても、永遠に見つけることが出来ず、迷路に迷うように同じ場所をいつまでもぐるぐると回り続けることになるだけ、か。なるほどね。いかにもこいつらの」
と、ちらりと深雪たちに一瞥を投げる。
「好きそうな話だな。でもな、雅人。それで、このハートヒーラーは何をしてくれるんだ? 確かにその記事には珠城という人に会って救って貰ったという人の体験談も載っているようだが、なんだか曖昧だよな?
死んでしまった恋人に言えなかった言葉を伝えて貰ったとか、死んだ家族が帰ってきて一晩だけ一緒に過ごせたとか、それって、本当に人の心を救えているのか? 余計悲しくならないか? 死んだ人間は戻っては来ないんだぞ。大体、ここに載っているのは本当のことなのか? 珠城という人の素性は勿論、その体験談を語っている人たちも匿名でどこの誰なのか判らない。おまけに写真もない。いかにも嘘くさいじゃないか」
「そうだな」
柔らかくそう言うと、雅人は雑誌を閉じて深雪に返した。
「俺には会う理由もないしな」
会う理由、か。
自分で言った後で、寒々しい気持ちになる。会う理由がないんじゃなくて、会う資格がないんじゃないのか。ふと溜息を付くと、豊が明るい調子で背中を叩いた。
「おいおい、そんな顔すんなって。祭りの夜だぞ」
「ねー、豊ちゃん先生」
慌てたように真子が高い声で言う。
「金魚すくいやらないの?」
「え? ああ、そうか。お前らこそ、やらんのか」
「やるよ。でも下手なんだよねー。すぐ穴開いちゃうの」
「そうか。おい、雅人、乙女たちのために、腕を見せてやれよ。お前、十匹くらい余裕ですくってただろ」
「うわ。すごい」
「ああ、でもさ、あたしたち、一匹いればいいから」
真子が言いかけるのを深雪が肘で突付いて止めた。はっと真子も慌てて口を閉じるが、その様子を豊は見逃してはいなかった。少女たちに向き直ると教師の顔と声で言う。
「お前ら、やっぱり何か企んでいるだろう」
「た、企んでなんかいないってば」
「いないいない」
「正直に言え。でないと、このまま、自宅に強制送還だぞ」
「えーっ」
「困るよ、先生に家まで来られたら夏休みの間、外出禁止になっちゃうかも」
「日頃の行いが悪いからな」
きっぱり言われて、少女二人は押し黙る。しばらく、もじもじしていたが、結局、仕方なさそうに深雪が口を開いた。
「……本当に悪いことじゃないのよ。あのね、豊ちゃん先生は霊泉って知ってる?」
「レイセン?」
「幽霊の霊に泉と書いて、霊泉よ。この神社にあるんだけど……」
「霊泉って……」
豊は雅人の顔を思わず見た。雅人も同じように豊に顔を見上げる。まさか、いきなり霊泉という言葉が出てくるとは思わなかった。呆然とする大人たちの様子をどう受け取ったのか、少女たちはちらりと目くばせしあうといきなり駆け出した。
「あ、こら!」
「こっちにあるの。来て」
「ちょっと、待てって。おい、走るな!」
待つつもりなどかけらもないらしい少女たちは笑いさざめきながら、人でごった返す境内を器用に走り抜けていく。豊は困って雅人を見た。
「どうする?」
「どうって?」
「いや、俺はさ、教師だから、あいつら放っておけないから追いかけるんだけど、お前は……どうするかなと」
「ああ」
雅人は豊の物言いたげな顔から目をそむけた。気を遣われているのも時には重荷になる。しばらく黙っていると豊が言った。
「霊泉は……野間のことがあるから、お前は」
「いいよ、行くよ」
豊の言葉を遮ると、雅人は言った。
「俺も、久しぶりに霊泉を見てみたい」
「平気か?」
「うん。ほら、早く行こう。彼女たち、危険人物なんだろ?」
微笑む雅人に豊もつられて笑ってみたものの、不安は拭いきれなかった。
☆
「ほら、ここ」
雅人たちが追いつくと少女たちがニコニコしてそう言った。
彼女たちが足を止めたのは、神社本殿のすぐ横にある鉄製の門の前だった。そこには石碑があり霊泉と刻まれている。あの時以来、ここには来ていない。木が生い茂り、あまり目立たない場所だ。
この辺には屋台はひとつも出ていないため、ひとけも無くひっそりとしてる。明かりもここにはあまり届いていない。霊泉の横にある石灯籠の火が、霊泉が見える程度に柔らかく照らしていた。向こうから聞こえる夏祭りの賑わいがまるで別世界にように思える。
「門が開いてる」
真子はそう言うと、身を乗出して奥を覗き込む。
門の向こう側は小さな日本庭園という感じだった。背の低い木が周囲に植えられ、地面には白い玉砂利がひかれている。その中央に石に囲まれた小さな泉があった。その真中辺りから水が湧き出ているのがここからでも見える。中には十円玉や百円玉が投げ込まれているが、それでも霊泉は澄んだ水を湛えていた。
「お祭りだから、開けてんのかなあ。お正月の三が日とかも開いてるからねえ」
「あ、見て。お金が投げ込まれてる」
「池とか噴水とか見ると、コインを投げ込みたくなるのかあ、日本人って」
深雪は明るく笑った。
「面白いよねー、そういう習慣って。調べてみようかなあ」
「で、何なんだ?」
少女たちのお喋りを遮るように豊が言った。
「霊泉で何をするつもりなんだ?」
「たいしたことじゃないんだって。悪いことじゃないもん。ちょっとした実験」
「その実験が怖いんだ」
「もー。信用ないんだなあ」
「いいから、説明しろって」
「金魚伝説って奴。それを実践しようと思ったの」
「……金魚、伝説」
豊は誰かに頭を殴られたような衝撃を覚えた。そうかもしれない、という予感はあったが、しかし、はっきりと言われてしまうとさすがにショックだった。
思わず隣に立っている雅人の顔を見る。
「豊ちゃん先生は知らない? この霊泉にね、夏祭りの夜に一匹、金魚を放すの。で、心からお祈りをするの。そうするとね、死んだ人と話しができるんだって」
豊や雅人の様子に気が付かず、深雪がさらりと言った。
「この霊泉の力を借りるの。死んだ人の魂がその金魚に乗り移るんだって。金魚の命を一時的に借りるんだって」
「でね、やり方としては、その死んだ人の事を一心に思うの。で、その人の名前を呼ぶんだって。そしたら霊泉から返事が返ってくるの。その返事にまた答えたら、その人が霊泉から出てくるらしいよ」
「え? 霊泉から? 水の中から出てくるの?」
「うん、多分そういうことだと思う。ね、なかなか、気味悪いでしょ」
少女たちは代わる代わる二人で説明した後、嬉しそうに顔を見合わせて笑いだす。そんな二人にうんざりしながら豊が言った。
「何で嬉しそうなんだ? そんな気味の悪いこと、年頃の女の子のすることじゃないだろ」
「年頃の女の子が普通、何をするのかあたしたち、判らないもの。ねー」
「判らない判らない」
「まったく」
豊は少女たちの無邪気さに、つい笑ってしまった。
「しょうがない奴らだ」
「じゃあ、実験していい?」
「それはだめだ」
「えー、何で」
「そんな気味の悪いこと、しなくていい」
「もう、豊ちゃん先生は理解がない! ね、大田さん。大田さんなら判ってくれますよね? 金魚伝説、やってみたくないですか?」
「こ、こら、何を……!」
慌てて豊が割って入ったが、少女たちはそのくらいでは止まらない。豊を押し退けると、ぼうっと立っている雅人に口々に騒ぎ立てた。
「手伝ってくれませんか? ね? ね?」
「大田さんには亡くなった人で会いたい人、いないですか?」
「やってみましょうよ。あたしたち、身近で亡くなって会いたい人っていないんですよねえ」
「いい加減にしろ」
豊が二人の少女の襟首を掴んで、雅人から引き離した。
「大人をくだらん迷信遊びに巻き込むんじゃない」
「もう、やだ! 離してよ!」
「よし、離してやるからとっとと帰れ」
「えーっ、今来たばかりなのに」
「そうだよ、優雅に買い食いもしてないよ」
「じゃあ、優雅に買い食いをして来い。それが終わったらおとなしく帰れよ。ほら行け」
「もう、しょうがないなあ……」
少女たちは顔を見合わせると渋々、霊泉を立ち去って行った。
少女たちが祭りの明かりの方に消えていくのを見届けると、豊は雅人を改めて見た。今更ながら重い気持ちになる。
豊は判っていた。雅人が八年前、この町を出て行き、それきり戻ってこなかった理由を。
今日、神社の前で雅人と出会ったのは本当に偶然だった。帰ってきていたんだと、内心ほっとした。だが、少女たちの登場は予想外だった。それによって霊泉の金魚伝説が蒸し返されることになるとは……。
雅人の顔に表情はない。痛々しくて豊は見ていられなかった。
「雅人……。大丈夫か」
「……なあ、豊。金魚伝説って本当だと思うか」
「おいおい」
苦笑して豊は言った。
「あいつらの毒気にあてられたか? しっかりしろよ、本当なわけないのはお前も知っているだろ」
「ああ、そうだったな。俺たちは、知っているよな」
「お前……まだ、だめなのか」
息苦しくなりながらも、豊はやっと言った。
「千秋のこと……まだ、引きずっているんだな……」
その言葉に雅人は小さく笑った。
「なんだよ、何、笑っているんだ」
「……千秋のこと、お前も覚えていたんだなと、そう思っただけだよ。何にも覚えていませんって顔して」
「……ああ、そうだよ」
一瞬の沈黙の後、怒ったように豊が言った。
「忘れるわけないだろ」
「……だな」
「無理に忘れなくてもいいことだ。……でもさ、それに取り込まれるのは……それも違うとは思うぞ」
「……取り込まれる?」
意味が判らず、雅人はまじまじと豊の顔をみつめた。
「今のお前の状態はそうだろ。お前が八年前、逃げるようにこの町を出て、それきり帰って来なかったのも野間の一件がそうさせるんだろ。お前の心にはまだ野間がいる」
「……悪いかよ」
「悪くはねえよ」
豊は笑って言った。
「お前ほど関わりが深くなかった俺の中にもまだいるくらいだ。すっかり忘れるなんて、お前に求めていねえよ。でもな、それに振り回されることはないと言っているんだ。
なあ、野間千秋はとうに死んだ。病気で、死んだんだ。それは、俺たちにも責任のある死といえないこともない。それは認めるよ。きっかけは俺たちが作ったんだから。でもな、でも、あいつの死はそれだけじゃないだろ。あいつはもともと体が弱かったし、あの霊泉の水を飲んだのが原因かどうかも判らない。
……なあ、雅人、いい加減、自分の中で折り合いを付けろよ。亮太たちなんか何にも思ってないぞ」
「あいつらのことなんか知るか」
雅人は顔を背ける。名前を聞いただけで不快だった。
「あいつらのせいで千秋は死んだ。そしてその罪は何もできなかった俺にだってある。何が病死だ。それが何の慰めになる?
……俺は逃げた。この町からも、お前たちからも、そして千秋からも。まだ、この町の残っていたお前は偉いよ。俺はその勇気すらなかった」
「別に俺がこの町を出なかったのは勇気じゃねえよ。ここの大学に進学したかったっていう個人的な事情だよ。
なあ、雅人、頼むから、そんな顔しないでくれ。野間はもういないんだ。死んだんだよ。死人に生きている人間が振り回されてどうするよ。冷たいことを言うようだが、いい加減、吹っ切れよ。金魚伝説なんかに期待すんな」
「期待?」
雅人は眉間にしわを寄せ、豊を見た。
「何言ってんだ? 俺は金魚伝説に期待なんか」
「してるだろ。真子や深雪の話を鵜呑みにしているわけでもないだろうが、でも、お前、魅かれているだろ、金魚伝説に。死んだ人間に会えるっていう金魚伝説に」
「豊……。今更なんだよ。俺もこの町の出身なんだぞ。金魚伝説のことは今知ったわけじゃない……」
「そうだな。だが、あいつらにそれらしい話を聞いて、心が動かなかったか? 金魚伝説が急に身近になって」
豊はちらりと霊泉に一瞥を送った。
「目の前に霊泉もある。お前が何も期待しないわけがない」
「おい……」
「なあ、雅人、俺はひとつ、聞いておきたいんだが、お前、どうしたいと思っているんだ?」
「……え?」
「例え、金魚伝説をやったとして、そこで、野間を呼び出せたとして……それでどうしたいんだ? あいつを連れ戻すことなんて出来ないんだぞ。千秋は……死んだんだから」
「当たり前だろ」
「それじゃあ、何か伝えたいことでもあるのか? 聞きたいことでもあるのか? 謝りたいのかよ?」
「やめてくれ」
低い声で雅人は言った。
「俺は、だから、金魚伝説なんかやらないって」
「そうか……」
まだ何か言いたげな豊に、雅人は慌てて言った。
「俺もそろそろ帰るわ」
「え? ああ、そうか。俺はまだ見回りがあるから」
「おお、じゃあ、また連絡するから」
雅人は軽く手を上げると、足早にその場を立ち去った。
☆
野間千秋は生まれつき、足が悪かった。
右足が変形していて、まっすぐに歩くことが出来なかった。松葉杖を使用しなくても歩くことは出来たが、歩き方に特徴があり目立ったため、千秋は幼い頃からいじめの標的にされていた。障害のせいか、体の発育のあまり良くなかった彼は、小柄で痩せていた。その上、色が白く、女の子のような顔立ちをしているのもからかわれる原因のひとつになっていた。
「親が悪いんだよ。千秋、なんて女の子みたいな名前つけるんだから」
ひどいからかいの言葉を受けた後、千秋が震える唇で無理に笑ってそう言っていたのを思い出す。
あの時の、必死に笑顔を作ろうとする千秋の顔を雅人は忘れることが出来ない。だからその時、思ったのだ、俺がこいつを守ってやろうと。それは正義感半分、義務感半分だった。
当時、小学三年生だった雅人は学級委員をしていた。そして同じクラスになった、いつもいじめられ、ひとりでいる野間千秋に心を動かしたのだった。
野間くんは何も悪いことしてないじゃないか。なのに、何故いじめられるんだ……。
幼いなりに理不尽さを感じ、雅人は怒った。
それから、雅人は何かにつけ、千秋をかばい、彼の世話をし、いつも一緒にいた。こうして、優等生で先生のウケのいい雅人の庇護を受けている千秋を、あからさまにいじめるものはいなくなった。
足の悪い千秋を気遣って、登下校の送り迎えまでするようになった雅人に、千秋本人は勿論、母親まで雅人に感謝し、家に招き入れては、やれケーキだ、クッキーだと雅人をもてなした。
「雅人くんはうちの千秋を助けてくれて、本当にいい子。ありがとうね。雅人くん、勉強もできるってね? 千秋はもう、毎日、雅人くんの話しばかりするのよ。自慢話しばかりよねえ? 千秋」
千秋に良く似た美人のお母さんは、うれしそうにケーキやジュースを千秋の部屋に運んできてはそんなことを言った。雅人は照れて笑うのみだったが、千秋はばつが悪そうにいつも怒って、母親を部屋から追い出していた。
「ごめん、雅人くん。お母さん、嬉しいんだよ。僕、こんなだから、いままで友達っていなかったから……」
「こんなだからって?」
雅人はしらっとした顔で応じると、早速、ジュースのグラスに口を付けた。
「……何のこと言ってんのか知らないけど、千秋は千秋だから、俺は友達してるんだって」
ぱっと頬を赤くして、千秋は微笑んだ。そんな時の千秋は、本当に女の子のように可憐で、雅人はどぎまぎしたものだった。
だが、雅人と千秋の関係がうまくいっていたのは、中学生の頃までだった。同じ地元の高校に進学した二人は、同じクラスになった。その頃になって戸惑いを感じ始めたのは雅人の方だった。
十五歳になった千秋は急に大人びた。
その美少年ぶりは学校の中だけではなく、外にまで響き、他校の女子生徒たちが校門の前で千秋を待っている光景はいつの間にか、当たり前になっていた。足が悪い、という本来ならマイナスになる要因も、それが悲劇性をおびて素敵だとプラスに働き、千秋人気は急増していった。
「困るよね」
いつものように一緒に下校しながら、隣の千秋は苦笑して雅人に言った。
「僕は雅人くんと一緒に帰るって言うのに、ほら、一組の吉田さんと山口さんがしつこくて。校門の前で待ち伏せされるのも迷惑だし……」
「そう」
雅人はあえて、千秋を見ないで言った。
「女と一緒に帰りたいならそうしたらいいよ。俺は何とも思わないから」
「……え? あ、ごめん。怒った?」
「別に」
「違うよ」
不意に立ち止まって、千秋は言った。
「僕が自慢した、とか思ってる? 違うよ。僕は、雅人くんが……いいんだ」
ぐっと胸が詰まった。
雅人は肩越しに、頼りなくそこに立ち尽くす千秋をみつめた。小学校の頃より背は伸びたものの、相変わらず細く頼りなげな体。色白で女の子のような綺麗な顔立ち。少し茶色っぽい癖のない髪はさらさらと風になびいた。
近くにいると、使っているシャンプーか石鹸のせいだろう、汗と混じって匂ってくる甘い体臭は、いつの頃からか雅人の心を乱すようになっていた。
「雅人、くん?」
すがるような目でじっとみつめられて、眩暈がした。
だめだ、このままじゃ……。
雅人は千秋から目を引き剥がすと、冷たく前を向き無言で歩き出した。このままじゃ、俺がおかしくなる。
「待って、雅人くん」
慌てて、千秋が追いついてきて腕を掴んだ。
「怒ったの? ごめんね、ごめんね」
「触るなよ」
必死で謝る千秋を振り払うと雅人は言った。
「お前さ、もう高校生なんだからそろそろ俺を頼るの、やめろよ」
「……え?」
「西山たちが俺達のこと、何て言ってるか知ってんのか」
ぐっと黙る千秋を見て、雅人は追い討ちをかけるように言った。
「俺達が出来てるって、その意味判るか? え?」
「……そ、そんな噂があるのは知ってる。でも本当のことじゃない。放っておけばいいよ、そんなの」
「俺は嫌だ」
きっぱり、雅人は言った。
「俺はそんな趣味はないし、お前のことをそんな目で見たことは一度もないぞ」
「判ってるよ!」
唐突に千秋は叫んだ。
「そんなの、判ってる! 雅人くんはいつも清潔だもの」
「……なんだよ、清潔って……」
「僕みたいに、壊れものでもないし、汚れてもいないってことだよ!」
「おい、ちょっと」
通学路でヒスを起こし始めた千秋の腕を掴むと、脇道に連れ込んだ。何人かの生徒たちが好奇の目で二人を見ては通り過ぎていく。それらを忌々しく思いながら雅人は千秋に向き直った。
「なんだよ、落ち着けよ」
肩で息をしている千秋に懇願するように雅人は言った。これ以上、噂のネタにはなりたくなかった。雅人の頭には、自分の優等生としての立場を保持することしかなかったのだ。
「大声で何言ってんだ」
「……僕は、別に」
彼の声は震えていた。顔を上げて雅人の顔を見る千秋の目には涙が盛り上がって今にも溢れそうだった。雅人は情けないほど動揺して言った。
「……泣くなよ、なんで泣くんだよ……!」
「僕は、君が」
「やめろよ!」
雅人は、次に出てくる言葉が怖かった。聞きたくなかった。相手が足が悪いという事実を忘れて、気が付くと思い切り突き飛ばしていた。
千秋はあっけないくらい簡単にアスファルトの上に尻餅をつくと、涙で濡れた顔を上げて雅人をみつめた。
「……んだよ、そんな顔しても無駄だからな」
雅人は千秋の視線を振り切るようにあえて乱暴に言った。
「お前、気持ち悪いんだよ! 女みたいになよなよして、いつもくっついてきて……鬱陶しいんだよ! もう、俺に近づくな!」
「そんなふうに思われていたんだ……」
かすれた声で千秋は言った。悲しそうに顔を俯ける。
「ごめんね。僕は、ただ雅人くんのことが好きで、傍にいたかっただけなんだ。雅人くんと一緒にいる時だけ、僕は自分の醜さから解放されていられたから」
「醜い?」
唖然として、雅人は言った。
「お前のどこが醜いって? 女子からモテまくりの美少年のくせに……嫌味かよ」
「違う」
小さな千秋の声はほとんど、泣き声になっていた。そのか弱さが雅人の神経を苛立たせる。
「泣くなよ。鬱陶しいって言ってるだろ!」
「ごめん。僕……自分が嫌な奴だって判っているんだ。雅人くんに会う前は、毎日、僕をいじめる奴らや笑った奴らを呪ってた。死んでしまえって思っていたんだ。雅人くんと出会った後も、そういう奴らはいたよ。でも、前みたいに、死んでしまえって呪うことはなくなった。雅人くんのおかげで、僕はそういう嫌なものから……本当は醜い自分から、解放されていたんだよ。雅人くんは僕にとっては清潔な存在なんだ。だから」
「うるさい!」
雅人は後ずさりながら怒鳴った。
何が清潔だ。ふざけんな! 俺はそんな御大層な人間じゃない! お前も本当は判っているんだろう? 俺の方こそ醜いってことを!
「もうやめろ!」
「ま、雅人くん」
必死に起き上がろうともがく千秋を冷たく見下ろして、雅人は言った。
「こっちに来るな! もう、放っておいてくれ! 頼むから、俺を自由にしてくれ!」
千秋がはっと、息を呑むのが判った。茶色い大きな目が一層見開かれる。
自分の言葉に千秋が深く傷ついたのが判ったが雅人は何も言わず、踵を返してその場を立ち去った。
家に帰ってからも、手や足に何かどろどろとした厭なものがまとわりついている気がして雅人は落ち着かなかった。だがその奇妙な感覚も、時間が経つうちに次第に消えてなくなった。千秋の傷ついたあの顔も時間と共に薄れていった。
それから、雅人は千秋をあからさまに避けた。
いつも一緒だった登下校もなくなり、校内で言葉を交わすこともほとんどなくなった。
そのよそよそしい二人を見て、いつかの下校時に千秋と言い合いをしたことを騒ぎ立てる生徒達もいた。その一部の生徒のおかげで『千秋が雅人にふられた』『ふたりは喧嘩して別れたらしい』という噂がまことしやかに流れはしたが、あくまで雅人は知らない顔を決め込み、噂はいつか下火になって消えていった。
こうして数ヶ月が過ぎ、雅人たちは高校生最初の夏休みを迎えた。
その頃には雅人は、西山豊や杉田晴彦、大槻貴志、山本亮太といった成績優秀あるいは人気のあるクラスメートたちのグループの中にいた。他の生徒たちから一目置かれるグループの中で、雅人はかなり自由で楽しい高校生活を送っていた。
楽だな、と雅人は心から思った。回りにいる連中はみんな、それなりに優秀で強く、誰かに庇護される存在ではない。だから雅人もそのままでいられた。誰かに気を遣ったり、良い子の演技をしてみたり、人目を気にしたり、下らない噂に心を乱されることも無い。そして何よりも優越感とか劣等感とか、そんな面倒なことに関わらずに済むことが何よりも楽だった。
いつも当たり前のように雅人の隣にいた弱い千秋……。守ってやらなきゃ、と心を正義感で一杯にしたあの幼い日はもうとうに雅人の中で、過去の遺物に成り下っていたのだ。
解放された。
雅人は心からそう思い、相変わらず女の子にはモテているが、一人でいることが多くなった千秋の存在を見ないように日々を送っていた。
そして、事件が起きたのは、近所の神社で毎年二日間行われる夏祭りの初日でだった。
雅人は西山豊や山本亮太といった同じグループの友人たちと鳥居の前で待ち合わせをしていた。
雅人と豊、そして大槻貴志の三人は時間通りに来ていたが、後二人がなかなか来ない。
いい加減じれてきた時に、ようやく山本亮太と杉田晴彦の姿が見えた。彼らの姿を見つけた雅人は、手を振ろうとして上げたかけた手を途中で止めてしまった。亮太と晴彦の他にもうひとり意外な人物がいたのだ。彼らの後ろを申し訳なさそうに歩いてくるのは、千秋だった。
「……なんで、千秋が」
グループの中で一番気が合って仲良くしていた豊に小声で雅人は言った。
「亮太と千秋がどうして一緒にいるんだよ?」
「気にすんな。また亮太の悪ふざけだよ。あいつらも来たことだし、先に行こうぜ、貴志。ほら、雅人も」
豊はにやにや笑っている大槻貴志に声を掛け、それから強引に雅人の腕を引くと鳥居を抜けて神社の中に入って行った。
「……雅人、お前が野間と喧嘩したのは知ってるよ。気まずいなら、離れていたらいいだけだ。亮太や晴彦はちょっと……面白がっているだけで悪意はないんだよ」
「何? お前、何か知っているのか?」
素直に豊に腕を引かれて人で賑わう境内を歩きながらも、険しい顔で雅人は豊の顔を見た。
「何するつもりだよ」
「別に。ただ、気まずいお前らを引き合わせてその反応を見て笑おうってだけだろ、なあ、貴志」
「ああ、亮太はそういうの好きだから。いいじゃん。俺、野間ってなんか気に入らないんだよね」
貴志が細い眉を嫌な角度に上げて言った。
多分、クラスの多くの男子が貴志と同意見だろうな、と雅人は思った。暗い性格のくせに女子に囲まれていい気になっている、そんな風に千秋は見られているに違いない。
雅人は後ろから付いてくる亮太たちを振り返った。
かなり後ろを歩いている彼らは、いつの間にか千秋を真中に挟むと何か熱心に話しながら、のろのろと歩いていた。のろのろ歩いているのは足の悪い千秋に速度に合わせているのかもしれないが、その三人から出ている空気に嫌なものを感じて雅人は思わず足を止めた。
「おい、雅人」
「……あいつら、どこに行くんだ」
ごったがえす人ごみの中、不意に三人は露店の並ぶ通りから外れた本殿の方に歩き出したのだ。雅人の視線に気が付いたのか、ふと、亮太がこちらを見た。そしてにやりと笑う。いつものいたずらっぽい亮太の笑顔が、この夜ばかりは邪悪に見えた。
「おい、亮太!」
聞こえないのを承知で雅人は叫び、走り出す。
後から慌てて豊たちも追いかけてくる。何人かとぶつかりながらも走り続けて、雅人はようやく神社の本殿の前にたむろしている亮太たちの姿を見つけた。
あいつら、何やっているんだ。
尚も走り出そうとした雅人の腕を豊が掴んで止めた。
「ちょっと、待てよ」
「なんだよ、離せよ。あいつら、変だ。千秋に何するつもりだよ」
「何もしないって」
横から笑いながら貴志が言った。
「ちょっとした亮太流のお遊びだって」
「お遊び?」
苦々しく聞き返して二人を振り返ると、豊と貴志はさもおかしそうにくすくす笑っていた。
「お前ら……」
「いいからさ、見学しようぜ」
二人は雅人を引っ張って、本殿を大回りした。少し距離はあるが正面から亮太たちの様子が良く見える位置につく。
「おし。ここなら声もなんとか聞こえるぜ」
木によりかかりながら、嬉しそうに貴志が言った。その陽気な声に雅人はむっとした。
「何なんだ。いい加減、説明しろよ」
「声、落とせよ。向こうに聞こえるだろ」
「そんなことはいいから」
「判った、判った。話すよ」
声を低めて豊は言った。
「お前、金魚伝説って知ってるか?」
「え? ああ、この神社の霊泉に金魚を放してって奴か? 死んだ人と話しができるとかいう」
「そうそう」
「まさか、それをやろうってのか?」
「まさか。やらねーよ。なあ?」
「うん。そういうんじゃなくて……あ、始まった」
え?
雅人は慌てて亮太たちの方に視線を向ける。霊泉を囲っている柵の前に、急に千秋が跪いた。足が悪い千秋にすれば、ちょっとしゃがむのも大変なはずだ。もたつきながらも、何とか跪いた千秋は亮太の方に顔を向けた。千秋の隣で亮太が妙に優しい声で言うのが聞こえる。
「ほら、心を込めて祈るんだぞ。霊泉には不思議な力があるからな、金魚の伝説、知ってるだろ? あれは本当なんだぞ。俺の知り合いが試したんだから。この霊泉は本当に、何でも叶えてくれるんだ」
千秋が頷いているのが見える。不安になって雅人は身を乗り出す。何をする気だ?
「早くしろよ。雅人が来ちゃうぞ」
せかされて千秋は恐る恐る霊泉に手を伸ばした。両手の手の平に霊泉の水をすくい、それをそっと口元に持っていく。
何? 飲むつもりか?
雅人はぞっとした。この神社の霊泉は神聖なものだ。特に、雅人のように祖父母と一緒に暮らしている者は、古くから伝わる霊泉の伝説を幼い頃から聞いて育っている。人の手によって泉を汚すようなことはもっての外。その上、飲むなんて論外だ。そんなことをすれば、手ひどい報いを受ける……。
「やめろ!」
思わず叫ぶと、雅人は走り出していた。
「飲むな!」
「……雅人くん」
驚いてよろよろと立ち上がった千秋の口元は既に水で濡れていた。雅人は千秋の肩を掴むと言った。
「お前、何してんだ。ここの水、飲んだのかよ」
「あ、う、うん。だって……」
千秋は困ったように亮太を見た。亮太は笑うのをこらえる顔つきで隣の晴彦を見る。
「おい、ハル。なんか言ってやれよ」
「なんで俺なんだよ」
晴彦もおかしくてしょうがないというように、顔をゆがめてそっぽを向いた。その嫌な雰囲気に千秋も気付くと顔を強張らせる。
「……なに? やっぱり、嘘、だったの?」
その千秋の台詞がまるで合図だったように、雅人以外の全員がどっと笑い出した。
みんな、文字通り腹を抱えての大爆笑だ。初めは圧倒されて声も出なかった雅人だったが、はっと我に返ると大声で叫んだ。
「お前ら、いい加減にしろ! 何なんだよ、これは! 説明しろって!」
「そんなに本気になるなよ」
まだ笑いながら、亮太が言った。
「お前さ、ちょっと出てくるの早いんだよ。コクるとこまで見たかったのになあ」
「コクる?」
雅人がそう言うと、隣で千秋がかっと赤くなって俯いた。その様子を亮太たちはまた面白がる。
雅人は苛立って、また大声を出した。
「誰が誰にコクるって? 何やるつもりだったんだ!」
「だから、俺達はちょっと、手伝ってやろうとしただけなんだよ」
「そうそう。千秋ちゃんが雅人に振られて辛いって言うから、いいこと教えてあげたんだよ」
「……何を、教えたって?」
「ヨリの戻し方」
言って、また笑い出す。
「おい!」
「判ったって。で、この霊泉の伝説、教えたんだよ。金魚伝説から始まってちょっとしたおまじないまでをね」
「おまじない?」
「ああ。ここの水を、好きな人を心から想いながら飲んで、それからその人に告白すると百パー成功するってね」
「そんなこと、聞いたことない」
「そりゃそうだ。亮太が考えた新伝説だもんな」
「……お前ら」
怒りでどうにかなりそうだった。雅人は震える唇で言った。
「そんな悪ふざけで、千秋にこの水を飲ませたのか」
「なんだよ、そうマジになるなよ。ただの冗談だって」
「ふざけんな!」
亮太に掴みかかろうとする雅人を止めたのは千秋だった。慌てて二人の間に割って入ると彼は泣きそうな声で言う。
「やめて、僕が悪いんだ……」
「何がだよ!」
雅人は気をそがれて、亮太に突っかかるのはやめたが、苛立ちは納まらずその矛先は千秋に向った。
「一体、お前は何がしたいんだ! 霊泉の水を飲んでまで何がしたいんだよ!」
「元に戻りたかったんだ!」
不意に千秋が怒鳴り返してきた。雅人はその勢いに、ぐっと黙り込む。
「僕は……告白とか、そんなことしたかったんじゃない……。ただ、山本くんたちが雅人くんと仲直りできるおまじないがあるって……それはすごく効果があるから、やってみる価値はあるって教えてくれたから……」
「それが、この霊泉の水を飲むことなのかよ……」
「うん。山本くんたちが雅人くんも呼んで、準備してくれるって言うから……僕は、その、別に変な意味でこのおまじないをしようとしたんじゃないんだ。告白、じゃなくて、謝りたかったんだ。もう一度、心から謝れば、雅人くんが許してくれるかもしれない、元に戻れるかもしれないって……」
「……何、言ってんだよ」
雅人は混乱して千秋から顔を背けた。他の四人もこの緊迫した空気にさすがに笑いを引っ込めると、黙って二人の様子を見ていた。
「ごめんね。僕の未練のせいだから……だから、誰のことも怒らないで」
「お前、馬鹿なこと言ってんじゃねえよ……」
「帰るよ」
不意に千秋が言った。
「せっかくの夏祭りなのに、邪魔してごめんね」
真っ赤な顔をして、千秋は不自然に笑うと、呆然としている雅人たちに背中を向けてのろのろと歩きだした。
ビッコを引く独特の歩き方で暗い神社の中をひとりきりで去っていく千秋の背中は、雅人の心を激しく揺らした。悲しいのか、辛いのか、それとも腹を立てているのか、自分でも判らなかった。
遠く近くから聞こえる楽しげな祭りの賑わいが、空しく雅人に耳に響いていた。
夏休みが終り、学校が始まっても、野間千秋は登校して来なかった。
担任の教師の話によると千秋は急に体調を崩し、入院したのだという。検査入院だから心配はいらないと教師は最後に付け加えたが、雅人にはそれが白々しく聞こえた。
雅人は入院までしたという千秋の体調と霊泉の水を飲んだことを、どうしても結び付けて考えてしまっていた。そんなこと関係ない、そう思いながらも心のどこかに強く引っかかっていたのだ。
「なあ、千秋のことなんだけど……」
ある日、一緒に下校していた豊に、雅人は思い余って問いかけた。
「あいつが病気になったのって……」
「霊泉のバチだ、なんて言うなよ」
豊が、苦笑してすぐに言った。
「お前の家って年寄りがいるから、迷信、信じるんだろ? 霊泉たって、あれはただの湧き水だぞ。考えすぎなんだよ。野間って元々、体弱かったじゃん。一学期からよく休んでただろ?」
「そうだけど」
「……あのことは俺達もやりすぎたとは思っているよ。お前には謝っただろ。勿論、野間にも謝らないとって思ってるよ。けど、あいつ、学校来ないし、だからといって入院している病院にまで押しかけるのも……ちょっと、だろ?」
「うん……」
「何だよ、暗くなんなよ」
「あのさ、もし、このまま、千秋が……」
「な、何だよ」
明らかに怯えた顔で豊は雅人を見た。そして強引な調子で言った。
「関係ねえよ。そうだろ? 霊泉のおまじないなんて元々、亮太の作り話しなんだし。そもそも金魚伝説だってあやしいもんだ。だから、それで野間が病気になったとか、バチがあたったとか、そんなの考えすぎだよ。関係ないって。な?」
「うん……。そうだよな、関係、ないよな」
「……ただ、さ」
「え? 何だよ」
「うん、ちょっと思ったんだけど」
「だから、何?」
急に声のトーンが落ちた豊に、雅人は苛立って言った。
「何が言いたいんだよ?」
「絶対の話じゃないんだけど、親から聞いたんだけど、あの霊泉な、湧き水だけど飲めない水じゃないかって」
「飲めない水? ただの湧き水、だろ?」
「そうだけど、湧き水がすべて飲用になるとは限らないだろ? 人体に悪い成分が含まれているかもしれないし……よく判んないけど、バクテリアとか何かの菌が含まれていたりとかさ。だから、もし飲んではいけない水だったら、その、バチが当たるとかそういうことは関係なく、現実的な話として……飲んだことで病気になった可能性も……あるかなって、ちょっと思ったんだよ。あ、でも、それは勝手に俺が可能性として思っただけで、何か根拠があるとかじゃないから……判らないことだけどな」
「……そんなこと、言うなよ」
「ごめん……関係ないって思いたいけど」
「……関係ないよ。特に、お前は」
豊に微かに笑って雅人は言った。そうだ、豊には関係のないことだ。罪があるというのなら俺に、だ。雅人は壊れそうな心でそう思った。
野間千秋の死亡が伝えられたのは、それから一ヶ月後のことだった。
☆
声をかけられたのは、雅人が夏祭りの雑踏を抜け、鳥居をくぐって神社を出て行こうとした時だった。ぎくりとして声のする暗がりを振り向くと、そこにいたのは浴衣姿の二人の少女、深雪と真子だった。
驚いている雅人に少女たちはにこやかに笑いながら手招きした。
「君たち、一体……」
「待ってたんだ、大田さんのこと」
「そうそう。お願いがあって」
「お願い?」
雅人は咄嗟に、嫌な顔をした。少女たちが何を言い出すのか、想像が付いたからだ。
「そんな顔しないでくださいよお」
「……君たち、豊先生に怒られるよ」
先手を打って雅人がそう言うと、少女たちはからりと笑った。
「平気」
「平気じゃないだろ……」
「会いたい人、いるんですよね?」
切り込むような鋭さで、深雪が言った。思わず、雅人は息を呑む。
「いるんですよね?」
深雪がもう一度、言う。頷きそうになるのを寸前で抑えて雅人は言い返した。
「君たちには関係ない」
「手伝いますよ」
今度は真子が言う。さっきまでうるさいくらいはしゃいでいた少女とは思えない、落ち着いた声だった。
「金魚伝説は本当なんです。やってみませんか。ねえ、大田さん、大丈夫ですよ。あたしたちがサポートしますから」
「君たち、が?」
「ええ。任せてください。これでも本気で勉強しているんですから。遊びでやっているわけじゃないんですよ」
薄暗闇の中で少女たちは小さく笑った。
「明日、この時間に、霊泉の前で待っています。金魚伝説が出来るのは夏祭りの夜だけ。つまり、明日しかないんです。必ず、来てくださいね」
その声を振り切るように、雅人は大股で歩き出した。心のどこかが疼いている。
何でそんなことを言うんだ。
雅人は、あどけない少女たちを思わず呪いそうになる。
金魚伝説、なんて、そんなもの、俺には関係ない。あんなのインチキだ。そうだ、千秋が死んだのだってあの霊泉の水を飲んだからじゃない。豊の言うように元々、体が弱かったから……。
そうなのか?
心の奥のもうひとりの雅人が問いかけてきた。
本当にそう思っているのか?
思ってないくせに。
千秋に会いたいんだろう?
金魚伝説に期待、しているんだろう?
不意に眩暈がして、雅人は足を止めた。傍らのブロック塀に体を寄せる。泣きたい、と思ったが、涙が出て来ない。
「助けてくれ……」
誰か。
助けてくれ。
雅人の脳裏に、さっき、少女たちから見せてもらった雑誌の記事が浮かんだ。
「珠城、さん」
雅人は知らず知らずの内に夜の闇に手を伸ばしていた。
「本当に、あなたが存在するのなら、俺をここから……この暗闇から出してください……」
☆
『なあ、なあ、知っているか? ここって伝説があるんだぜ』
え?
雅人はぎくりとして顔を上げた。
今、何て?
『ここには不思議な店があるんだよ。その店がこの裏通りのどこにあるのか判らないんだけど、もし、探し当てて、その店のマスターにお願いすれば、死んだ人に会えるんだって。うちのお母さんの知り合いの親戚の人が、死んだおじいさんに会えたんだって……』
一瞬、目の前がぼやけてうまく見えなかった。
一つ首を振って、じっと正面をみつめていると、次第に視界がクリアになっていく。
「……ここは?」
彼が佇んでいたのは、見覚えのない狭い路地だった。神社を出たところで少女たちに声をかけられ、それから逃れるように歩いて来たのは覚えているが、どうやってここまでたどり着いたのか、まったく記憶になかった。
「ええっと」
指を額に当てて顔を上に向け、考えようとした時、雅人の目に飛び込んできたのは、コーヒー色の看板だ。どうやらここは飲み屋の前であるらしく、看板にはBARの文字。そして店の名前は。
「乱反射!」
何度見ても、看板には『乱反射』とある。ここが乱反射という名前のバーであることを認知すると、その後で雅人を襲ったのは純粋な恐怖だった。
『その店のマスターにお願いすれば、死んだ人に会えるんだって……』
雅人はじりと後ろに下がった。
まさか、本当にここに来てしまう、なんて。
暑さのせいではないねっとりとした汗を全身にかいていた。
たまらなくなって店に背中を向け、駆け出そうとしたが、二、三歩踏み出したところで足を止めた。向こうの暗がりから誰かが歩いてくるのが見えたのだ。
「これは」
身動きできずに立ち竦んでいる雅人の前まで来ると、その人物は優しく言った。
「お客さまでしたか。店を空けて失礼いたしました。さあ、どうぞ」
「あ、あの」
その人物が『乱反射』の重厚な木製のドアに手を掛けた時、なんとか絞り出すように雅人は言った。
「ここは……乱反射、ですか」
「ええ、そうですよ」
「あなたは……?」
「僕は珠城と申します。この店のマスターです」
簡潔に答えると、珠城は微笑み、ドアを開けた。どうぞ、と丁寧な手つきで雅人を招く。
「い、いえ。俺はここに来たくて来たわけじゃなくて、あの……」
珠城はドアを一旦閉めると、雅人に向き直って唐突に切り出した。
「お会いしたい方がいらっしゃるのでは?」
「……え?」
くしくも少女たちと同じことを言われ、雅人はぎくりとした。
「ど、どうして……」
「そんなお顔をされていましたので」
「は? そんな顔、ですか?」
うろたえる雅人に珠城はいたずらっぽく笑った。
「冗談ですよ。さ、お入りください」
「あ、でも」
雅人は戸惑いながらも、目の前の人物を観察した。
伝説といわれているハートヒーラーと思しきこの人物は、しかし、普通の人に見える。整った顔立ちをしているが、美青年という表現は何か違う気がする。身長は高く、百八十センチは超えていそうだ。軽く後ろに流した黒髪はいかにも柔らかく、触れてみたい衝動にすらかられる。
とにかく、優しそうな人だ。そう思った途端、雅人は、はっとした。彼の漆黒の瞳に気が付いたのだ。漆黒のはずのその瞳に、透明な水を感じる。あくまでも澄みきった、果てのない広さと深さを湛える海がそこにある。
怖いな。
雅人はふとそう思った。恐怖心は確かにある。だが、それと同時に安心感もそこにはあった。怖いと思いながらも、不思議と心は波立たないのだ。
何だろう、この感じは。
困惑する雅人に、珠城は優しく微笑んだ。
「どうぞ」
その笑みに背中を押されて、結局、雅人は店の中に入った。まるで魔法にでもかかったようだ。雅人は勧められるまま、カウンターの席に着いた。
「あ、あの、いいお店ですね」
一旦、カウンターの奥に姿を消した珠城に聞こえるよう、雅人は少し身を乗り出して言った。返事はない。間を持て余して店の中を見回してみる。店はアンティックな装飾の、落ち着いた雰囲気だ。間接照明の柔らかな光が心を慰める。
店の奥にグランドピアノが一台置かれていた。あの珠城というマスターが弾くのだろうか。似合いすぎだと、雅人はおかしくなった。
「どうかされましたか、お客さま」
近い場所から聞こえてくる声に、雅人はぎくりとして顔を向けると、いつの間にかカウンターを挟んだ正面に珠城が立っていた。
「あ……いえ。何でもありません」
「何を差し上げましょうか」
「……はい?」
「お飲み物です。ここはバーですから」
「……あ、そうでした。それじゃあ、ビールを」
「はい。かしこまりました」
恭しく頭を下げると珠城はグラスを出して慣れた手つきでビールを注ぐ。それをぼんやり眺めながら、雅人は言った。
「……珠城さん、俺はあなたのことを知っています。多分、ガキの頃から」
「それは光栄です」
「あなたはずっと、ここにいるんですか」
「はい」
「どうして?」
「どうして?」
珠城は雅人の言葉をそのまま繰り返すと、カウンターの上にそっとビールの入ったグラスを置いた。
「理由が必要ですか」
「……いえ。ただ、気になって」
肩を落とすと雅人は目を伏せた。
「俺はここにいられなくて逃げ出したんです」
「悲しいことでもありましたか」
「……悲しいこと。そう、ですね。悲しくもありましたが、でも、それより怖くて……逃げ出したんです。……俺は千秋に……あの夏祭りの夜から会っていない。俺は怖くて葬式にも行けなかった」
唐突に雅人は千秋の話しを切り出したが、珠城は問い返すこともなく、穏やかにこう言った。
「では先ず、会いに行ってはいかがでしょう」
「いや、会いに行きたくても、もう、千秋は死んでしまったんです。だから、金魚伝説のあの霊泉に」
そこで、雅人は慌てて口をつぐんだ。何だ、俺は。豊には信じていないようなことを言ったくせに、金魚伝説をするつもりでいるのか。
ふと、少女たちの顔と声が浮かんだが、すぐ頭を振ってそれを追い払う。
「金魚伝説、ですか」
珠城が少し、顔をしかめてつぶやいた。
その表情を見て、雅人は金魚伝説を口走ったことを後悔した。が、すぐに思い直す。このハートヒーラーなる人物なら、金魚伝説のことを詳しく知っているかもしれない。
少し身を乗出すと、雅人は尋ねていた。
「あの……金魚伝説とは、あれは一体、何なんですか? 死者に会えるというのは本当のことなんですか?」
「あれは邪道です」
珠城はきっぱりとした口調で言うと、真直ぐに雅人の目をみつめた。
「そこに亡くなった方々の心はないのですよ。金魚の命と引き換えに、つかの間、死者の魂をこちらの世界に引きずり戻す。強引で厭なやり方だと僕は思います」
「え? 金魚の命を引き換えに?」
「金魚はつまりは生贄なのです」
「生贄ということは、金魚は死んでしまうんですか?」
「はい」
「それは……金魚だって生きているわけだから、可哀想だとは思いますけど……だけど、それはつまり……金魚伝説は本当だってことなんですよね? 死者はよみがえるんですよね?」
「……よみがえるといっても少しの間です。金魚一匹の命を使い切る間だけというわけです」
「それでもいいじゃないですか。その短い時間だけでも、会いたい人に会えるなら……それでもいいと思う人はいますよ」
「やり方が間違っていても……ですか?」
「ええ、そうですよ……!」
あくまでも穏やかな珠城の声が癇に触る。雅人は思わずムキになって言った。
「やり方が間違っていても、例え、それが他の生き物の命を犠牲にする邪道なことだとしても、死んでしまった人間にわずかな時間だけでも会えるなら……それで、生きている時に伝えられなかったことを伝えることができたり、聞きたかった言葉が聞けるなら、それでいいと思うのが人として当たり前の気持ちですよ。
ただ、もう一度会いたい。そう思う人だっているはずだ。あなたには判らないのですか? そんな切実な人の心が」
ハートヒーラーなのに。そう付け足したいのを雅人は寸前でこらえた。そんな雅人の顔を珠城は優しく見返して静かに言った。
「判りません、僕には」
珠城の声も顔も相変わらず穏やかだったが、深く沈んだ冷たい空気が漂ってくるようで、雅人は、はっとして身を引いた。
「な、何ですか……」
「いいえ。失礼いたしました」
珠城はその冷たいものを払拭するように甘く微笑むと言った。
「僕はただ、お客さまに気を付けて頂きたいだけなのです」
「気を付けるって……何を?」
「確かに金魚伝説は死者を呼び戻すことが出来ます。しかし、問題は戻ってくる死者が呼んだ人とは限らないところにあるのです」
「……え? それはどういう」
「伝説では戻ってきて欲しい死者のことを一心に想えば必ずその人が戻ってきてくれるということになっていますが、実際には、それは確実なことではないのです。違う者が名前を騙り、成りすましてお客さまの前に現われるかもしれません」
「違う者って……?」
雅人は恐る恐る尋ねる。
「誰が現れるというのです?」
「怖いですか?」
じっとみつめられて、雅人は思わず目をそらす。それでも肯定するのが悔しくて、あえて強気で応じた。
「べ、別に怖くありませんよ。そ、それに、それは裏を返せば、会いたい人に会える可能性もあるってことですよね?」
必死で言う雅人に、珠城は微妙な表情で頷く。
「そうですね。それでお客さまは金魚伝説をやってみようと思われたのですか?」
「え。あ、俺は……」
雅人は言いよどむ。千秋には会いたい。しかし、会ってどうするのか。雅人は豊に言われたことを、今更ながら思い起こしていた。
『千秋に何か言いたいことがあるのか? 聞きたいことがあるのか? それとも謝りたいのか?』
そのどれでもない気がしていた。雅人は溜息まじりに珠城に言った。
「……珠城さん。俺、自分が判らないんですよ。……俺はただ、悔いているだけなんです……」
「お客さまはこのような神話をご存知でしょうか。亡くなった妻を連れ戻すために黄泉の国に行ったイザナキの話しを」
雅人はきょとんと珠城の顔をみつめる。
「えっと……イザナキ……って、古事記の? それなら、子供の頃、児童書で読んだ覚えがあります。でも……内容は詳しくは覚えていませんけど……」
「それはこんなお話しです。……イザナキは死んでしまった美しい妻、イザナミを連れ戻すために、死者の国である黄泉の国に赴きます。
しかし、イザナミは黄泉の国の食べ物を口にしたため、既に黄泉の国の住人になっていました。それでも愛ゆえに迎えに来てくれたイザナキのためにイザナミは言うのです。帰れるように黄泉神にお願いしてみましょう、その間、決して私を見ないでください。しかし、イザナキは待ちきれず、イザナミの姿を見てしまいます。その妻の姿は、ウジがたかり、八柱の雷神を体にまとわり付かせた恐ろしくも醜い姿だったのです。
恐ろしくなったイザナキは妻を捨て、一目散に逃げ出します。
イザナミは夫のその仕打ちを悲しみ、そして恥をかかされたと怒り狂います。逃すものかと追いかけて妨害しますが、イザナキは黄泉の国をなんとか逃げ出し、入り口である黄泉津比良坂を岩で塞いでしまうのです。
こうしてイザナキは、あれほどに愛していたはずの妻との別離を決意するのです」
「ああ、確かそんな話でしたね。……あの、それが?」
「もう少し、話を続けましょう。入り口を塞がれたイザナミは言うのです。『こんなひどい仕打ちをするなんて許せません。この仕返しにあなたの国の人を一日千人ずつ殺してしまいましょう』それを受けて、イザナキは言います。『ならば私は一日に千五百の産屋を建てて、新しい命を生み成せるようにしよう』」
「……それってなんだか迷惑な夫婦喧嘩、ですね。しかも、すごく怖い」
「そうです。とても怖いのです」
珠城は言葉とは裏腹に、優しい声で言った。
「約束を破ったために大切なものを失ってしまうというお話は世界にたくさんありますね。タブーを犯すと取り返しの付かないことになるという教訓でしょうか」
「あの、つまり、それは……金魚伝説もそうだと言いたいのですか?」
雅人に問いに、珠城は微笑むだけで応えなかった。少し苛立った雅人は強い口調で言った。
「俺は別に千秋を黄泉の国から連れ戻そうと思っているわけじゃないですよ」
「亡くなった方は、その姿を見られたいと思っているでしょうか」
「え? 姿って」
雅人は、腐敗した体にウジにたからせた千秋の姿を想像して、その恐ろしさに思わず体を強張らせた。
「お客さま」
珠城が労わるように声をかける。雅人は恐る恐る顔を上げた。
「……僕が思うに、お客さまが迷っておられるのは、千秋さんにお別れをされていないからではないでしょうか」
「お別れ?」
「はい。お葬式に行かれなかった、と仰っておられたので」
「そうですが……それがなんだって言うんですか」
雅人の声に、珠城の、漆黒の瞳が真直ぐにこちらを向く。まるで真夜中の海のようなそれに雅人は、はっとする。
溺れそうだな。
雅人はどこか卑屈な気持ちでそう思った。
「……お葬式という儀式は死者のためにあるというよりは生者のためにあるのではないかと僕は思います。
お葬式は死者をこの世からあの世に送るという儀式ですが、その実、送る側の生者が、死者への想いに区切りを付け、その気持ちを整理するためにあるように僕は思うのです。つまり、葬式とは死者を整理整頓するための儀式。そうすることで遺された者は生きていけるのです」
「整理整頓、なんて、なんだか冷たい言い方ですね……」
露骨に嫌な顔をして雅人は応じた。
千秋を物のように扱われた気がして気分が悪かった。しかし、珠城はあっさりと言葉を続ける。
「お客さまはその儀式に出られていない。千秋さんにお別れをしていないあなたはまだ、心が残っている。僕はそれが不安でならないのです」
「心を残して何が悪いのですか。俺に千秋を忘れろとでも……」
「お忘れにならなくてもいいのです」
包み込むように珠城は言った。
「問題なのは、お客さまがどうしたいのか、ご自分でお判りでないことです」
「……何の話、ですか」
苛立つ雅人に珠城は静かに言った。
「お客さまは千秋さんに何を求めているのですか?」
求めている?
雅人は愕然とした。確かに、千秋に対して負い目はある。忘れることも出来ず、この町を逃げ出した。何か言おうとしたが、結局、言葉に出来ずに黙ってしまった。
「……千秋さんのお家に行ってみてはいかがですか。そして千秋さんにお会いください」
ぎくりとして雅人は珠城を見た。
「……会うって、何を言っているんですか。千秋は死んだんですよ。それも八年も前の話しです。今更、会えと言われても無理ですよ!」
雅人は勢いよく椅子から立ち上がった。
「俺、帰ります。おいくらですか」
「いえ」
にこりとして珠城は言った。
「僕のおごりです」
「いや、そういうわけには」
「では、次にお越しの時にお願いします」
「次? でも、あなたには簡単に会えないんでしょう? 会えるかどうかも判らない人に次の約束なんて……」
「お客さまは、もう僕には会いたくなさそうですね?」
笑いながら言う珠城に、少々、むっとして雅人は投げつけるようにして言った。
「ええ、そうです。俺はあなたにもう会いたくないですよ! 俺がそう思っているんですから、もう会うことはないでしょうよ」
「いいえ。会えますよ。あなたは必ず、僕に会いたいと思います」
「な、何ですか、それ」
雅人は引きつった笑いを顔に貼り付けて言った。
「その自信はどこから来るんですか……。と、とにかく、俺は帰りますから」
「はい。どうぞ、お気をつけてお帰りください」
そう言った珠城の声は穏やかだったが、その言葉の端々から冷たい気配が流れてくるのを感じて、雅人はぞくりとする。
今更ながら怖くなって足早にドアに向かうと外に転がり出た。暗い路地を闇雲に駆け出す。とにかく、早くこの裏通りから抜け出したかった。雅人は決して後ろを振り返らなかった。何かが背後にぴたりと張り付いて来ているようで恐ろしかったのだ。
☆
雅人はまた鳥居の前に立っていた。夏祭りの最終日である今夜も、昨日と変わらず賑わっている。こんな暗い気持ちで祭りに来るのは俺ぐらいのものだろうな、と雅人は自虐的に笑った。
彼はゆっくりと足を踏み出し、祭りの雑踏の中を歩き始めた。一歩一歩がふわふわする。頼りない足取りだったが、目指す場所は決まっていた。
雅人は真っ直ぐに霊泉に向う。霊泉の門は昨日と同じように開いていた。その前に、少女二人が立っている。今夜は浴衣姿ではなく、二人ともTシャツにジーパンというラフな服装をしていた。真子が片手に金魚の入ったビニール袋を提げているのが見えたが、特に心は騒がなかった。
「大田さーん」
真子が先ず気が付いて手を振る。
「来てくれたんですね!」
「こっちこっち! 大田さーん」
判ってるって。
雅人はつい、笑ってしまう。相変わらず、賑やかだ。
「こんばんは」
雅人が彼女たちの前まで来ると、真子と深雪が声を揃えて挨拶をする。雅人も少女たちに挨拶を返すと、早速、本題を切り出した。
「本当に、金魚伝説をするつもりなんだね」
「勿論」
真子と深雪は目を合わせて真面目に頷いた。
「大田さんもそのつもりなんでしょ?」
探るような視線に、雅人は笑って頷いた。
「だから、来たんだよ」
「ですよねー」
にっと笑ったのは深雪だった。彼女は早く始めたいらしく、真子の腕を引いて言った。
「ね、金魚、そろそろ霊泉に放そうよ」
「そうだね。あ、大田さん、いいですか? その、心の準備とか。ええっと、やり方、判ります?」
「うん? やり方って何かあるの?」
「あ、そうですねえ」
ちらりと深雪は真子と目を合わす。
「そう言われれば、特に無いのかも。ただ会いたい人のことを霊泉に向かって真剣に想うだけ、みたいだから」
「判った。やってみるよ」
雅人が穏やかにそう応じると、深雪はひとつ頷き、それが合図のように真子が霊泉の前にしゃがんだ。そしてそっと金魚を水の中に放す。金魚は何のためらいもなく輪を描くようにゆったりと泳ぎだした。
「……じゃあ、あたしたち、離れたところにいますから」
「何かあったら呼んでください。あ、あの、無理はしないで下さいね……」
金魚の様子をしばらく眺めた後、真子と深雪はそう言ってそそくさと霊泉の前から離れて行った。
ひとりになった雅人はゆっくりと、あの日の千秋のように、少しもたつきながらそこに跪いた。地面のひやりとした感触が足から伝わってくる。
「……千秋、お前は戻ってきてくれるのだろうか」
霊泉の水面をじっとみつめて、雅人は囁くように言った。
「あの日、お前はここの水を飲んだ。お前が死んだのは、そのせいなのか? ……今更、だけど、俺さ、正直、どうしていいか判らないんだよ。自分が今、こうして霊泉の前に跪いていること自体が不思議なくらいだ。……珠城さんは、金魚伝説は邪道だって言っていたけど、俺はやってみることにしたんだよ。お前を呼び出して、そして、どうなるかはお前に任せようと思うんだ。そう言えばお前は困った顔をするだろうけど、俺はもうそれ以上のことは考えられないんだ。もし、お前が俺を許せないというのなら、罰を与えてくれればいい。一緒にいてくれというのなら連れて行ってくれればいい。俺は抗わないよ……」
ぴしゃんと水の音がした。金魚が跳ねたのだろうか。雅人は言葉を呑み込んで、じっと目の前の霊泉の水面をみつめた。墨汁のように黒く光っている水がゆるく波立って、そこに何かがいるのが判る。
金魚? いや、金魚のような小さいものでは、ない?
ずるりと霊泉の水面が丸く盛り上がった。そこから除くのは鈍く光るふたつの目。それが今、じっと雅人をみつめている。
ぞくりと背筋に寒気が走った。逃げ出したくなる気持ちを抑えて、雅人は目の前のものに目を凝らした。
「そこにいるのは千秋、か? 返事してくれ、頼むから」
『嬉しいよ、雅人くん』
優しい声がわんと辺りに響く。それはまさしく千秋のものだった。雅人の中にあった恐怖も警戒心もその一声で消し飛んだ。
「千秋? 千秋だな? もっと何か言ってくれ!」
『……僕と一緒にいてくれる?』
ああ、いいよ。
それがお前の望みなら。
雅人は水面に現れた人の顔らしきものに頷いていた。その刹那、それはずるりと動いた。水の底から人の形をした影のようなものがゆっくりと這い出してくる。
恐怖で雅人はその場に尻餅を付いた。
不意に、珠城の話してくれたイザナキの話を思い出す。体中にうじをたからせた醜い千秋の姿が現れることを想像して背中がぞくりとした。
『雅人くん……』
目を固く閉じ、体を硬直させる雅人の耳元で千秋の囁く声がした。
千秋?
恐る恐る目を開けた雅人の目の前には懐かしい人がいた。あの時のまま、優しい面差しの野間千秋だった。
「千秋!」
思わず叫び、前のめりになる雅人に千秋は微笑んだ。
『雅人くん……。やっと会えたね』
そう言ってこちらに差し出す千秋の細い手を、雅人は素直に掴んだ。そのまま、千秋に引っ張り上げられ立たされる。至近距離で見る千秋の顔は相変わらず美しく、その唇は甘く微笑んでいた。
『一緒に来てくれるね。もう、僕を避けたりしないよね』
「しない」
低く短くつぶやくと、雅人はもう一度目を閉じた。眠気に襲われて目を開けていられなくなったのだ。
「眠いよ、千秋……。どうしたんだろう。せっかくお前に会えたのに」
『眠っていいよ。僕がずっと君の傍にいるから。もう何も考えなくていいからね……』
雅人が力を抜くと、崩れそうになるその体を千秋がしっかりと抱き止めた。
『一緒に行こう。僕と一緒に。いいね?』
雅人は頷いていた。
ああ、これで千秋に償えるんだ……。
心も体も楽になり、雅人の意識が遠のきそうになった時だった。背後から凛とした声が響いた。
「本当にそう思っているのですか」
その声はまるで風だった。涼やかで清い一陣の風は、その場にたまる暗い空気を一瞬で吹き飛ばした。
雅人の体を捕まえていた千秋の腕がするりと抜け落ちる。そこではっと意識を取り戻した雅人はすぐに背後に立っている珠城に気付いた。気持ちのよい眠りを邪魔されて、雅人は思わず珠城を睨む。
「あなたは……どうしてここにいるんですか? いつから?」
「ずっと最初から見ていました」
「ずっとって? 何ですか、それは。千秋は……どこに行ったんです? おい、千秋! どこだ!」
雅人は辺りに首を巡らせて友人の姿を探すが、どこにも千秋の姿はない。しんと静かな夜の景色があるだけだった。
「あなたが千秋をどこかに隠したんですか!」
珠城に食って掛かる雅人に、珠城はゆるく首を振ると言った。
「千秋さんはここにはいません」
「どうして! さっきまでここに」
「あれは千秋さんではありません」
「何言っているんだよ……」
「僕は言ったはずです。出て来た者が必ずしも本人であるとは限らない、と」
「いや、あれは確かに千秋の声だった。千秋の顔だった……!」
「声や姿は呼び出す人の記憶から盗めばいい。簡単なことです」
「盗む? だ、誰が?」
「迷神です」
「……え? 何ですって? 神?」
聞きなれない言葉に、雅人は顔をしかめたが、珠城は相変わらずの穏やかさで応じた。
「迷神というのは、未練や恨みを残し死んでいった者たちのことです。長い時間をかけ、それらの魂があらゆる事象と融合し、神のような力を得たのでしょう。彼らは常に救済を求めていますから、あなたのように身も心も捧げます、という隙だらけの心と体で近づけば、彼らに引かれるのも無理のないことです」
「引かれるというのは……?」
「この世ならざる世界、つまり、黄泉の国にあなたをお連れする、ということです。そこはずっと深い闇の世界でしょう」
「あ、あなたはそれが判っていて、俺が千秋ではないものに連れて行かれそうになるのをずっと黙って見ていたんですか?」
「はい」
「はいって……。どうしてすぐに助けてくれないんですか? 俺はもう少しで……!」
「それはあなたのお望みになったことなのでは?」
珠城の言葉に、雅人は居心地悪そうに目を伏せた。その様子に珠城は小さく息を付く。
「とは言え、いくら覚悟をされていても、いざとなれば恐ろしくもなるでしょう。あなたのような方は、考え込みすぎて他が見えなくなり、自分の悲劇性に酔ってしまわれる。少しくらい怖い思いをされた方が、良い気付け薬になるというものです」
「……だから、ぎりぎりまで黙って見ていたんですか」
「はい」
鮮やかに微笑んだ珠城に、雅人は何も言えない。黙り込む雅人に珠城は言った。
「金魚伝説はあきらめてください。いいですね」
「でも、金魚伝説は死んだ人に会えるって」
自分でもわがままな子供のようだと思いながら、雅人は珠城に言い募った。
「伝説は本当だって、あなたも言っていたじゃないですか。俺は千秋に会いたいんですよ……。亡くなった人にちゃんと会えた人だっているんでしょう? だから金魚伝説は語り継がれているんでしょう?」
「そうですね、時には彼らも手を貸しましょう。ですが、その反面、欲しいと思うものは力づくで奪っていくのです」
珠城が不意に霊泉を指差した。
「霊泉をご覧ください。それでも金魚伝説を続けるというのなら、僕はもう止めません」
「え? 霊泉を?」
そう言って振り返った雅人の目には、霊泉の水面に絡み合い、のたうつ複数の黒い人影が見えた。先ほどとは比べ物にならないくらいの禍々しさが漂っている。
何だ、これは……。
後ずさろうとして珠城の体に背中が当たる。彼の冷たい手が雅人の肩を捕まえた。
「まだです。しっかりとご覧なさい。この中にあなたの千秋さんはいらっしゃいますか?」
雅人の耳元に冷たい気配と共に、珠城の言葉が滑り込んできた。駄々をこねる子供のように嫌だ嫌だと首を振る。一目散にこの場から逃げ出したい。しかし珠城が手を離してくれる気配はなかった。
そのうちに霊泉の中の、ひとつの人影が顔を上げ、それは助けを求めるように雅人に手を伸ばした。
その手。
それは肉が腐って爛れ、黄色く変色した骨が見えている。その指先が空を引っかくようにゆるゆるともがいた。
雅人はその醜さに、ぐっと息を呑む。
……珠城さんが来てくれなかったら、今頃はこの手に捉えられ、彼らの闇の世界に引き込まれていたのか……。
じわじわと雅人の体に、心に恐怖が染込んできた。
「う……うわあ!」
たまらず絶叫した時、その手がぐんと雅人目掛けて伸びてきた。
雅人の首元まで迫った手は、その寸前で動きを止める。
醜く爛れた手を何の躊躇もなく珠城が掴んでいたのだ。途端にその手は細かな砂と化し、儚く霧散して消えてしまった。すると霊泉を覆っていた禍々しい空気も、水面を覆っていた黒い影も同じように消し飛んだ。
「た、珠城さん……」
「ですから、僕は」
呆然とする雅人に珠城の声が穏やかに応じた。
「金魚伝説はお勧めしないのですよ……」
力なく、へなへなと雅人はその場に座り込んだ。
「……珠城さん、俺はどうしたらいいんでしょう」
「あなたはずるい人です。逃げてばかりです。その上、自分の負い目を千秋さんに清算して貰おうとしている」
「でも、俺は本当にどうしたらいいのか判らないんだ……」
「でしたら、何もなさらなくていいのではありませんか」
「……は?」
ぽかんと雅人は珠城を見上げる。
「どういうこと、ですか?」
「僕はあなたにイザナキの話をしましたね? イザナキは愛していた妻の醜い姿を見て逃げ出した。その時のイザナミの気持ちはどんなものだったでしょうか? きっと、彼女は愛している人に死んで朽ち果てた自分の姿を見られたくはなかったでしょう。いつまでも生きていた頃の美しい自分を思っていて欲しかったはずです」
「お、俺は、千秋がどんな姿をしていたって逃げ出したりなんか」
しない、と言いかけて、さっき、自分を捕まえようと伸びてきた手の醜さを思い出し、言葉を呑み込んだ。
千秋もあんな姿をしているのだろうか……。もしそうだとして、俺は冷静に、千秋と向き合えただろうか……。
「千秋さんに会いに行けますか?」
雅人の心を読んだように珠城が言った。
「金魚伝説などという無理なやり方ではなく、自然な形でお別れを言うべきです。イザナキはイザナミを連れ戻そうと黄泉の国を訪れましたが、それはイザナミの気持ちより自分の気持ちを優先させた行動です。その上、イザナミの変わり果てた姿を覗き見して逃げ出したことで彼女に恥をかかせ、挙句、彼女に『仕返しをしてやる』という呪詛の言葉まで言わせている。……お客さまはもうお判りでしょう。千秋さんに会い、千秋さんの声を聞く場所はここではないのです」
「千秋に会う……」
惚けたように雅人は、その言葉を繰り返した。
「つまり……千秋の家に行って、千秋の母親に恨み言を言われながら、千秋の遺影を拝ん来いと言うんですね、珠城さんは」
「はい。そうです」
「それで、千秋の声が聞こえるんですか?」
「ここよりは確実に」
「簡単に言いますね……」
ふっと雅人は笑い、顔を上げると、もうそこに珠城の姿は無かった。闇の中に溶け込んで消えて行ったように、まったく何の気配も感じない。しばらく、その場で呆然としていると明るい声が聞こえてきた。
「大田さーん」
ばたばたと足音がして少女二人が駆け込んでくる。
「大丈夫ですか?」
座り込んでいる雅人の傍らに少女たちもしゃがみこみ、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……ああ、大丈夫だよ」
「良かった。急に座り込んじゃうからどうしたのかと」
「ええっと……君たちには見えたのかな?」
「え? 見えたって……何かあったんですか!」
途端に二人の顔に喜色が浮かぶ。
「もしかして、死んだ人に会えたとか?」
「そういう質問をするということは、見えていなかったってことだね……」
「何ですか? 何があったか教えてください!」
「いや、何もないよ」
「えー、本当ですか?」
のろのろと立ち上がった雅人に真子が詰め寄ってきた。それに優しく雅人は言う。
「本当に何もなかったよ。ほら、金魚も元気に泳いでいるだろ」
言われて少女たちは霊泉を見る。確かに金魚は何事もなかったように、ゆったりと尾ひれを動かし水中を泳いでいた。
「……そうだけど、でも」
「金魚を回収して、帰ろう」
「もう、大田さんってば! ずるい!」
「何で話してくれないんですか? 会えたんですか? どうなんですか?」
口々に不平を言い出す少女たちに雅人は言った。
「会いたい人にはこれから歩いて会いに行くことにしたんだよ」
少女たちはぽかんとお互いの顔をみつめ合った。
☆
八年前、千秋の葬式に俺は怖くて行けなかったんだ……。
雅人は当時のことを思い出しながら、野間千秋の実家の前に立っていた。腕時計を見ると九時を過ぎている。いくらなんでも非常識だよな……。そう思いながらも、雅人は立ち去りがたく、その場に佇んでいた。今夜でなければならない気がしていた。きっと、明日になれば、また臆病風が吹くに決まっている。
雅人は懐かしい友の家を見上げた。
野間千秋の家は煉瓦造りの一戸建てだ。日本家屋の古い家で生まれ育った雅人の目には、その洋風の家は新鮮に映ったものだった。子供の頃は毎日、この家に来ていた。千秋の送り迎えをしていたあの頃が、一番輝いていたように思う。まっすぐに、自分の中の正義を信じて、ただ友達を守っていたあの頃。
千秋の葬式は、確か、雨が降っていたな。
雅人は遠い目をして暗い映像を思い出す。
俺は千秋の母親と顔を合わせるのが怖くて、こっそりと離れたところから葬式の様子を見ていた。ごめんな、ごめんなと何度も心でつぶやきながら……。
雅人は顔を伏せる。胸にこみ上げてくるものはあったが、涙は出てこなかった。
雅人はひとつ溜息をつくと、帰るべく歩き出した。
やっぱりだめだ。会わせる顔がない。だが三歩もいかないうちに名前を呼ばれてぎくりと立ち止まる。その声には聞き覚えがあった。昔と同じ柔らかな優しい声だった。
「おばさん……?」
「ああ、やっぱり、雅人くんね。まあまあ、随分立派になって。久しぶりねえ」
中年女性が家の門から顔を出し朗らかに笑っていた。何の屈託のない笑顔だった。
「あ、あの」
「門が開けっ放しのような気がしたから、戸締りしようと出てきたら雅人くんがいたなんて! 虫が知らせたのかしら。良かったわ。……うちに来てくれたんでしょ? 千秋に会いに来てくれたんじゃないの?」
「あ、いえ。あの……近くまできたので……でも、もう帰ろうかと」
「あら、急ぐの?」
本当に悲しそうに彼女は言った。
「少しでいいから、寄って行ってよ。ね?」
門から出てきた小柄な千秋の母親に、雅人はぐいぐいと手を引かれ、家の中に引っ張り込まれてしまった。
リビングに入った雅人は、途端にぎょっとして立ち止まる。いきなり目の前に仏壇とそこに飾られている明るく笑う千秋の写真が目に入ったのだ。
千秋……。
「どうしたの? どうぞ、座ってちょうだい」
一旦、台所に消えた母親が、ジュースとクッキーの入った皿を盆に載せて現れた。立ち尽くしている雅人の視線の先をちらりと見たが、特に何も言わなかった。
「こんなものしかなくて、ごめんなさい」
「あ、いいえ。すぐに……おいとましますので。すみません、こんな時間に」
雅人はおずおずとソファーに座りながら言う。本来ならすぐ友達の遺影に手を合わせるのが礼儀なのだろうが、体が硬直して動かない。そこに座ることだけで精一杯だった。
「いいの、いいの。……雅人くん、いくつになったの?」
母親も向かい合わせにソファーに座りながら、唐突に尋ねてきた。雅人は少し怯えながら答える。
「二十五、です」
「ああ、そうか。そうよね。千秋と同い年だもの」
「……あの、俺……」
「雅人くん、うちの千秋があなたに何をしたの?」
「え……」
それは優しい物言いだったが、雅人には心臓を鷲摑みにされたような衝撃が走った。責められることは覚悟していたが、やはり辛い。黙り込んでいると、尚も母親は言葉を続けた。
「小学生や中学生の頃は良かったわ。あなたと会ってから千秋は明るくなったもの。いつも千秋を助けてくれて。本当に感謝していたのよ……」
「あの、おばさん、俺は……」
「千秋はいい子だったでしょ? 生まれつき足が悪くて、そのことでよくいじめられていたけど、家族に心配かけないよう、いつも笑顔だったわ。ああ、そうそう。あなたが来たらぜひ見て貰おうと思っていたものがあるの……」
母親はそう言うと立ち上がり、仏壇の引き出しの中から一冊のノートを取り出した。
「これ、あの子の日記なの」
「日記?」
雅人は母親が差し出すそのノートをまじまじと眺めた。千秋が日記を付けていたなんて初耳だった。
「千秋が、ですか?」
「そうなのよ。でもね、あの子、文章を書くの、苦手だったから、一行だけしか書いていなかったり、二、三日、書いてなかったりで、そんなにちゃんとした日記でもないんだけど、それでも、最後まで続けていたのよ。ほら、見てちょうだい。雅人くんのことばかり書いているんだから」
強引に渡されて雅人は仕方なく、ページに目を落とす。
確かに懐かしい千秋の、癖のある文字が一日に二、三行のペースで日々の感想を綴っていた。それは母親が言うように、雅人のことでほとんど占められている。雅人にこんなことをして貰って嬉しかった、だの、雅人にこう言って貰って助かった、だの、そんなことばかりだ。
震える指でページを進めていくと、日記は突然に終わっていた。その最後の日付は千秋が亡くなる前日だった。濃い鉛筆の文字で一言、『雅人くん、ごめん』と書かれていた。
「……なんで、謝っているんだ」
低く雅人は呟いた。思えば千秋は雅人と何かあるたびに、それが別に千秋のせいでなくても、いつも雅人に謝っていた。必死で雅人の顔色を伺って、嫌わないでね、と健気なくらいに。
「雅人くんだけだったから」
母親が静かに言った。
「あの子の友達は雅人くんだけだったから、嫌われたくなくていつも、いつも、謝っていたのよ。雅人くんのこと、本当に好きで、尊敬していたと思うわ。勉強も運動も出来て、先生にも信頼されている雅人くんと友達でいられることが、あの子の唯一の自慢だったし、希望の光だったのよ……」
「俺、尊敬されるような人間じゃないです。そんな人間じゃないです」
「少なくとも、千秋にはあなたはそういう人間だったのよ」
「……迷惑です」
言ってしまった後で、雅人は後悔した。
そんなことを言うつもりはなかったのに。どぎまぎしている雅人を、母親は優しく包むように言った。
「そうよね。うん。私もそう思うよ。あの子、思い込んだら命がけって感じがあったし……純粋なんでしょうけど……。雅人くん、そういうとこ、嫌だったんじゃない?」
「別に……そんなことは」
「いいの。本音で話しましょうよ。実は私ね、あの子が死んでしまってしばらくの間は、雅人くんのこと、恨んでいたのよね。だって、あんなに仲良くしていたのに葬式にも来てくれない。他の生徒さんが千秋の葬式に来てくれなくったって何とも思わないけど、雅人くんが来てくれなかったのは、正直、こたえたわ。
それに、高校に上がってから、喧嘩でもしたのか、毎日登下校にうちに来てくれていた雅人くんが来なくなったのも、すごく不安だったの。千秋はなんでもないって言うから、高校生にもなった子供の喧嘩に親が出て行くわけにも行かなくて、私は傍観していたのだけど」
母親はここで一度、言葉を切ると、まっすぐに雅人を見た。
「そして、あの夏祭りの夜。あの日に何があったの?
千秋はその日は雅人くんたちと出掛けるんだと言ってとても楽しそうにしていたの。なのに、帰ってきた千秋は真っ赤な顔をして熱があった。ぐったりとしてお風呂にも入らず、ご飯も食べずにすぐに寝てしまった。
私は、てっきり雅人くんとは仲直りして、久しぶりにはしゃいで遊んだせいで熱を出したのかと思ったわ。だから、そう気にしなかった。でも、翌日になっても熱は引かず、具合はどんどん悪くなり、結局、入院することになってしまったの。そして、あの子は回復することなく……死んでしまったわ」
「……千秋くんは……俺が殺してしまったのかもしれません」
「雅人くん?」
「俺たち、いや、俺は、千秋の純粋な気持ちを踏みにじったんですよ。俺は、さっきも言いましたけど、尊敬されるような人間じゃないんです。
千秋のこと、守ってきたような顔をしてたけど、でも実際は自分がいい格好したかっただけなんです。
最初のうちは、確かに純粋な正義感でした。でも、だんだん変わってきたんです。俺は千秋を道具に使って優等生を演じ始めていたんです。足の悪い同級生を助ける優等生を気取って、いい気になっていたんです。
千秋を傍に置いておくだけで、他の生徒も先生も、近所の大人たちも俺が偉いって言うんです。さすが、学級委員だなって褒めてくれました。
俺は……そうして……千秋に優越感をいだいていたんです。自分より弱いもの、力のないものを傍に置いて。そうして千秋に劣等感を植え付けて、自分は優越感に浸っていました。千秋がいつも卑屈になって俺に謝っていたのは、俺が千秋にそうするよう仕向けていただけなんです。俺と千秋は友達という同等の立場にはいませんでした。千秋は、俺の、俺をよく見せるための道具だったんです。だから……」
「だから?」
言葉に詰まる雅人に母親が励ますように先を促した。雅人は搾り出すように続きを話した。
「それに気付いてしまったら、自分がすごく醜く思えて嫌だった。だから、千秋を遠ざけたんです。やり方が間違っているのは判っていました。でも、怖かった。もし本心を言えば、道具でいいよって、それでもいいから傍にいさせてくれって、千秋なら言うかも知れない。それが怖い。あいつの身も心もっていうあの健気さが、とにかく怖かった」
そして、日に日に綺麗になっていく千秋に、心から惹かれていく自分も怖かった……。
「そうね。そうよね」
一瞬の沈黙の後、驚くくらい明るい調子で母親が言った。
「うちの子、そういうとこ、あったから。判るよ、雅人くんの気持ち。ごめんね……。あら、嫌だ。親子で雅人くんに謝っちゃったね」
「おばさん……」
「そんな暗い顔しないで。雅人くん、真面目だから……。
あのね、夏祭りの日に千秋が雅人くんのことでからかわれたって話は他の生徒さんたちから聞いてはいたの。いじめがあったのかもしれないって。でも、それだけであの子の具合があんなに悪くなるものかしら。他に何かあったんじゃないか、何かされたんじゃないかと疑っていたんだけど……でも、もうよしましょうね、こんな話」
悲しげに微笑む母親の顔を、雅人は直視できなかった。逡巡した後で、雅人は顔を上げると口を開いた。
「おばさん、そう言ってくれるのはうれしいけど、でも俺、話さなきゃならないことがあるんです。あの日、祭りの夜に起こったことをちゃんと話したいんです」
ふっと、母親の顔から笑みが消えた。少し怯えたような目になるが、彼女は優しい声で言った。
「いいわ。話してちょうだい」
一呼吸置いて、雅人は祭りの夜に霊泉で起きた一部始終をゆっくりと話した。その間、母親は一切、言葉を発することなく聞いていた。
「……そう、霊泉の水を。そんなことがあったのね」
話を聞き終わるとそう言って、しばらく、母親は俯いて目を閉じていたが、顔を上げた時には微笑んでいた。
「ありがとう、雅人くん。すっきりしたわ」
「……え?」
雅人は文字通り、きょとんとして母親の顔を見返した。どんな罵倒の言葉が返ってくるかと思っていただけに雅人は拍子抜けしてしまった。
「何でお礼を言うんですか? 俺は、千秋にひどいことをしたのに」
「かもね」
あっさりと母親は肯定して言葉をつないだ。
「でも、ちゃんと告白しに来てくれた。それがありがたいと思ったのよ。……ねえ、雅人くん、あなたもずっと苦しんできたのでしょう? どう、あなただって、すっきりしたんじゃない?」
言われて、雅人も気が付いた。
抱え込んでいた罪を告白したことでその罪が消えるわけじゃない。それでも、確かに胸につかえていた硬く冷たいものはいつの間にか消えていた。
「あの子は幼い頃からいじめられていたから、だから、千秋の死因もいじめが関係あるんじゃないかって、ずっと考えていたの。でも、そうか、霊泉の水を飲んだだけだったのね」
「飲んだだけって……」
「バチが当たったとか思っているの?」
「というか、その飲めない水を飲んだせいで具合が悪くなったのかもしれないって」
「あれはただの湧き水じゃないの」
からりと笑われて、雅人は二の句が継げない。母親はそんな雅人の表情をしばらく眺めた後、少し、声を落として言った。
「どちらにせよ、もう判らないことよ。千秋は死んでしまった。そして、私や雅人くんは生きている。それだけよ」
「おばさん……でも、俺は」
「あの子のことで暗い顔したり悩んだりはもうおしまいにしましょう。だから、雅人くん。また、いつか、ここに遊びに来てやって。千秋にとってそれが一番の供養だと思うから……」
死んだ人間はもう帰っては来ないのよ。
小さな声で途切れがちに母親がつぶやく声が雅人の耳と心を打った。
固く目を閉じる。じわりと熱いものが目じりに膨らんで頬を伝って落ちていく。無意識に指でそれを拭った。
「あ。涙」
思わず、雅人は声を上げた。母親が驚いて雅人の顔をまじまじと見る。
「俺、まだ、泣けるんだ」
普通に聞けば奇妙なその言葉に、母親は柔らかく微笑んで頷いた。
「……俺、これでおいとまします」
立ち上がった雅人に母親も立ち上がりながら言った。
「そう。気を付けて帰ってね。真直ぐ帰るのよ、いいわね?」
「やだな、おばさん。俺、もう高校生じゃないんですよ」
「それでもよ。夜遊びはだめ。真直ぐ帰りなさい」
「はい。あ、でも、ひとつだけ寄りたい店があるんです。そこに行かないと」
「あら、飲み屋さん? 可愛い子でもいるのかしら」
面白そうに尋ねる母親に雅人はにこりとして言った。
「いえ、ちょっと怖いくらいの人です。あの人にはツケがあって……ビール代を払いに行かないといけないんです。と言っても、もう一度、あの店にたどり着けるかどうか自信はないんですけど」
「場所を覚えていないくらい飲んでいたの? よほど酔っていたのね」
「はい。酔っていたんです」
雅人はふと、仏壇に飾られている千秋の遺影を見た。
「でも、もう酔いは覚めました。だからこれからは真直ぐに歩いて行こうと思います……」
千秋、ごめんな。
俺は行くよ。
遺影に向かって頭を下げたその時、耳元で、千秋の声が聞こえた気がした。慌てて顔を上げるが、そこには優しく微笑む母親がいるだけで、千秋の姿は見当たらない。
「……雅人くん、どうかした?」
「あ、今、千秋の」
言いかけて雅人は口を閉ざす。軽く首を横に振ると、改めて辞意を告げて外に出た。門の所まで出てきた母親はいつまでも名残惜しそうに雅人を見送ってくれた。
ひとりで暗い夜の道を歩きながら、雅人は知らず知らずに耳を撫でる。千秋の声がまだそこに残っていた。
ありがとう。さようなら。
千秋はそう言った。少なくとも、そう言ったように雅人には聞こえた。
千秋の奴、ごめん、以外の言葉もちゃんと言えるじゃないか……。
笑いかけて、雅人は真顔に戻る。
いや、千秋のその声は俺の願望がもたらした幻聴なのかもしれない。
八年前の夏祭りの夜のことを、千秋の母親に告白できたことで、雅人の心は少し軽くはなった。しかし、それはそれだけのことだ。自分のしたことが消えるわけではない。千秋のことは一生忘れられないだろう。
雅人は目を凝らす。濃度の高い闇の向こうに、街灯だろうか、ぽつりと灯る光があった。
黄泉の国でイザナミに追いかけられたイザナキが、息も絶え絶えに仰ぎ見た現世に続く入り口もこんな小さな光だったのかもしれない。
雅人は少し、足を速める。
あのバーのマスターに無性に会いたくなっていた。
(祭りの夜に おわり)
(都市奇談 了)