放課後、二人きりでお互いの秘密を打ち明けたあの日。
僕らが小学校で同級生だったこと。
僕が事故で両親を亡くして転校したこと。
日向さんのお父さんが病気で亡くなって、苗字が変わっていたこと。
そして、僕が相貌失認という障害で人の顔が認識できなくなっていることーー
こんなに、自分の本当に根っこの部分について人に話したのは、高校に入って、いや人生で初めてだった。
そして、日向さんは最後、何かを伝えようとしていた。
しかし突然、前触れもなく日向さんは意識を失って倒れた。
糸の切れた人形のように、電力を失ったロボットのように。
僕は迷うことなくすぐに救急車を呼んだ。
そしてその後職員室に走り、五十嵐先生をはじめとした先生たちと協力して、彼女を介抱した。
数分後、けたたましいサイレントと共にやってきた救急車。日向さんは救急隊によって担架で乗せられた。
そして息をつく間も無く、養護教諭の先生だけが同乗をして、すぐさま救急車は行ってしまった。
救急車が去った後は先生たちも解散して、また静かになった中庭で立ち尽くす。
僕は予想できない展開に、動機が収まらず、とにかく不安でたまらなかった。
「お前が近くにいて良かった。救急車をすぐ呼んだのも正しい判断だった。ありがとう」
五十嵐先生は感謝の言葉を口にしながら、僕の肩にそっと手を置いた。
その手は大きくて、温かった。
きっと、落ち着かない様子の僕を、安心させようとしてくれたんだと思う。
「五十嵐先生……」
あんな騒ぎだったというのに、五十嵐先生は落ち着いた様子だった。
こうした事故や不測の事態にも、きっと先生たちは慣れているのだろう。
「先生、日向さんは……」
「保護者には学校から連絡しておく。お前はもう帰れ」
「でも……」
「いいから」
僕の訴えを遮るようにして、五十嵐先生はやめろとばかりに手を振った。
そして、下駄箱を指さして帰りを促す。
日向さんはどうなってしまったのだろうか。
いきなり意識を失うなんて、尋常じゃない事態だ。
もし何か深刻な病気とかだったら……そう考えると、不安で押しつぶされそうだった。
「先生、何か僕にできることはありませんか」
「……分かったよ、これ」
今までの僕なら考えられないほど、柄にもなく前のめりになって訴えかける僕に、五十嵐先生も担任として思うところがあったのかもしれない。
五十嵐先生は不意に、小さいメモ用紙を押し付けるようにして僕に手渡した。
「これは……」
おそるおそるメモ用紙を開くと、そこには殴り書きのような文字で「西南大学病院」と記されている。
「救急隊の人に聞いた。搬送先の病院だそうだ。いちおう……お前にも教えておく」
僕は顔を上げて、五十嵐先生の顔を見た。
五十嵐先生は、面倒くさそうにボサボサ頭を掻きながら、一方の手で僕の頭をポンポンと叩いた。
「まあなんだ、もしこういうことが起きても、大事にしないで欲しいと、事前に日向からお願いされてる。だから染谷、お前も不安だろうが、明日もちゃんと学校こいよ」
「事前に……」
僕は五十嵐先生の言葉の意味が図りかねて、頭に疑問符が浮かんだ。
事前に日向さんからお願いされている?
彼女が救急車に運ばれてしまうような自体が起きるかもしれないと、前から本人が分かっていたということなのか?
「ーーとにかく、今日は帰れ」
五十嵐先生の口調は強く、今度こそ本気で帰れというメッセージが伝わった。
ここに立ち尽くしていても、埒があかない。
せっかく気を回してくれた五十嵐先生にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
僕はざわめき立つ心の中を押さえながら、仕方なく諦めて帰途に着いた。
僕は学校からの帰り道をとぼとぼ歩きながら、ポケットに入った「西南大学病院」のメモの感触を確かめていた。
◆
次の日の放課後、僕は帰りのホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出した。
当たり前だけど、日向さんは欠席だった。
五十嵐先生はクラスの生徒たちに対して「日向は体調不良だ」の一言で済ませて、それ以上の説明はしなかった。
「ねえねえ、日向さんってさーー」
人の噂が回るのは早いもので、昨日の放課後、救急車が来て誰か女子生徒が搬送されたという話はクラスで話題になっていた。
おそらく部活やなんかで学校に残っていた生徒がその場を目撃したのだろう。
そして、その女子生徒が日向さんかもしれないという話で、朝からクラスの話題は持ちきりだった。
特に、鈴木さんをはじめとした日向さんを慕っているクラスのメンバーは、深刻そうな顔で額を寄せ合って心配をしていた。
どうやら、当の本人である日向さんと連絡が取れていないらしかった。
スマートフォンが手放せない現代の学生からしたら、一日メッセージが返ってこないなんて、それだけで大騒ぎの案件だ。
僕は騒がしい教室を後にして、スマートフォンで道を調べながら、五十嵐先生に教えてもらった西南大学病院に向かった。
日向さんが意識を失う直前、何かを伝えようとしてくれていた。
一体、何を言おうとしたんだろう。
そして彼女の体調は大丈夫なのか。
とにかく何でもいいから行動して、確認をせずにはいられなかった。
電車で二駅、さらに駅から十分ほど歩くと、目的地にたどり着くことができた。
「ここか……」
実際に来たのは初めてだったけど、西南大学病院は市内では一番規模の大きい病院として有名だった。
さまざまな種別の受診ができて、医師の数も多い。
たしか、僕が脳の検査で定期的に通っている専門病院とも関連がある。
以前、日向さんに教えてもらった連絡先。
念のため、そちらにメッセージを送ってみたけど、返信はおろか既読もつかなかった。
他のクラスメイトたちも連絡が返ってこないと言っていたことも考えると、日向さんはそもそもスマートフォンを確認していないようだ。
あるいは、どうしても確認ができない状態なのかもしれない。
今の僕には、五十嵐先生から渡された病院名のメモしか情報はない。
しかし、じっとしていることはできなかった。
なんとか、日向さんのもとに駆けつけたいと、そう思った。
病院の中は驚くほど広く、人の数も多かった。
天井に下げられた案内板を頼りに受付にたどり着く。
そして意を決して、受付の女性に声をかけた。
「すみません、お見舞いに来たんですけど……」
「はい、面会ですね。そしたら患者さんのお名前か病室番号分かりますか?」
「えっと、名前しか分からなくて……昨日から入院している日向佳乃さん、という方なんですけど」
受付に座る制服を着た女性はにこやかに微笑んで、設置されているパソコンのキーボードを叩いた。
「ご関係をお伺いしても良いですか?」
「えっと、高校の同級生です……西南高校の三年生」
僕は念のため学校名も告げる。
しばらくパソコンの画面を眺めた後、受付の女性は眉を顰めた。
「申し訳ありません、ご家族のご意向で面会のご希望をお断りさせていただいております」
「え、そうなんですか……」
受付の女性が告げたセリフに、言葉をなくす。
いわゆる面会拒絶、ということなのだろうか。
「ということですので、ご案内できません」
「そうですか……ありがとうございました」
ここで粘ったところで、迷惑をかけてしまうだけだ。
僕はペコリと頭を下げて、受付から離れた。
家族の意向……もしかして、面会もできないほどの重たい病気なのだろうか。
もう、今日のところは諦めて帰るしかないか。
メッセージで連絡が返ってくるのを待つしかない。
そうして、肩を落として帰ろうとしたそのときだった。
「ーーあ、染谷くん」
病院の広いフロアで、聞き馴染みのあるソプラノボイスが耳に届いた。
この声の主は、顔を見るまでもない。
声の方向に顔を向けると、そこにはパジャマ姿の日向さんが立っていた。
もちろん、日向さんの顔は僕には判別がつかない。
ただ高校生くらいの若い女性、と識別できる程度だ。
それに普段と違う服装をしているから、ただ人混みに紛れているだけなら、僕に見つけることはできなかっただろう。
でも、声や仕草で彼女だと分かるくらい、もう彼女のことを覚えている。
「声をかけてくれてありがとう。おかげで気づけたよ」
「もしかして……お見舞いに来てくれたの?」
「う、うん、心配だったから」
日向さんは僕の返しに、嬉しそうににっこりと笑った。
「ありがとう、嬉しいよ」
「あの、五十嵐先生が教えてくれたんだ。ここに入院してるって。それに、メッセージも送ってたんだけど」
「あーごめん! 朝から身体の検査で、スマホまだ見てないんだ」
やはりスマートフォンをそもそも見られる環境じゃなかったようだ。
メッセージが来ているのに気が付いたうえであえてスルーされていたわけではないと分かって、少しホッとする。
「立ち話もなんだし、そっちの座れるところに行こうか」
「うん」
お互いに頷きあって、受付でごった返す人混みを抜ける。
病院内の購買やカフェのようなお店があって、そこに併設されているテラス席に、二人並んで座った。
「そういえば、救急車、染谷君が呼んでくれたんだよね。ありがとう、また助けられちゃった」
「いや、そんなことないよ」
日向さんは目尻を下げて、感謝するように両手を合わせた。
「驚いたでしょ、いきなり私が倒れちゃって」
「それは……まあ」
以前、彼女が大量の薬を持ち歩いているのを目撃したことがある身としては、驚きというより心配の気持ちが勝っていた。
「みんな心配してるみたいだった。鈴木さんとか」
「あちゃー、スマホの通知大変なことになってるかもね。後で返信しとかなきゃ」
漫画のヒロインのように額をコツンと叩いて舌を出す日向さん。
そんな陽気なオーバーリアクションが出来るなら、彼女は結構元気なのかもしれない。
クラスの人気者が急に学校を休んで、それも救急車で運ばれたかもしれないとなれば、クラスメイトたちはこぞってメッセージを送って心配することだろう。
「五十嵐先生も、みんなには君が倒れたってことは言ってなかった」
「うん、私が頼んでたの」
日向さんはこうなることが分かっていたかのように、平然とした顔で微笑んだ。
どうして、そんな疑問符が頭に浮かぶ。
「今日もさ、受付で君のお見舞いに来たと伝えたら、面会できないと言われちゃった。こうやって会って、大丈夫だった?」
「あれ、そうなの? もしかして……お母さんだな、きっと。もう、心配性なんだから」
日向さんは意外そうな表情を浮かべた。
面会できないようになっていたことを、自分で知らなかったということは、彼女自身が頼んだわけではないということだ。
もちろん、外部の人間に会うと身体に差し障るからということもあるだろうけど、こうして普通に院内を出歩いているということは、必ずしもそれだけが理由じゃない。
「お母さん、お父さんを病気で亡くして、一人娘までこんな調子だから、ちょっと過剰に心配してるんだよ。べつにお見舞いが来たからって病気が悪くなるわけでも、良くなるわけでもないのに」
日向さんはそう言って、自嘲気味に笑った。
こっそりと面会を禁止していたのは、母親なりの娘の身体への気の使い方だったのかもしれない。
「その、答えにくかったら、答えなくてもいいんだけど……」
「なに、改まって。私は何でも答えるよ。NGなし」
日向さんは大袈裟に手を広げて、イタズラっぽく笑う。
ここが病院で、彼女が入院患者でなければ、クラスの人気者の美少女にいろんなあれこれを聞くチャンスだっただろう。
しかし、このシチュエーションで聞きたいことは、一つだけ。
僕は不安の入り混じる感情を抑えて、恐る恐る口を開いた。
「その、居眠り病っていうのは、入院しなきゃいけないような重い病気なのかな。それとも、何か違う病気とか……」
病気のこと。
それは、極めてプライベートな質問だ。
僕自身、事故で障害を負っている身なので、気持ちは分かる。
たやすく他人が踏み入れて良い領域じゃない。
でも、僕はもっと日向さんのことが知りたかった。
もし許されるなら、力になりたかった。
「居眠り病……」
彼女は質問に答えるでもなく、その言葉を口の中で繰り返した。
実は、彼女の口からその病気の存在を聞いて、インターネットで軽く検索をかけて調べてみたことがある。
しかし、具体的な症例や記載した記事はほとんど見つからず、よく分からなかった。
「……ごめん、本当のことを言うね」
彼女は何かを諦めたように、あるいは覚悟したように、僕に視線を合わせた。
「本当のこと?」
「居眠り病は……嘘なの。病気自体は本当にあるものなんだけどね」
「どういう意味なの?」
居眠り病が、嘘?
日向さんの言葉の意図がよく分からず、僕は思わず怪訝な顔をした。
じゃあ、あの束になっていた薬は、一体なんのために持っていたというんだ。
「実は、眠気が我慢できなかったのは、服用してた薬の副作用なんだ。病気自体は、違うものなの」
「それは……」
日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
でも、その嘘はおそらく、僕を騙し貶めるための類の嘘ではない。
人を傷つけないように、相手のことを思ってついた、優しい嘘。
僕は彼女の告げた言葉が驚きで、少しの間言葉を失っていた。
あの大量の薬が彼女に与えていた影響が、あのベンチでの昼寝に繋がっていたって言うのか。
「じゃあ、あの薬は……」
「違う病気を抑えるための薬だったんだ。染谷君に見つかったとき、とっさに嘘ついたんだ。心配かけたくなくて……」
「それは、他のクラスメイトにも?」
「うん」
以前、鈴木さんが僕に難癖のような言いがかりを僕につけてきたとき、病気の話なんてまったく触れなかった。
ということは当然、日向さんの病気の話は知らなかったのだろう。
親しい友達にも黙っていた理由。
嘘をついてまで隠していた、別の病気。
「ーー私、心臓が悪いんだ。お父さんと同じ病気」
日向さんは深く息を吸った後、吐き出すようにそう言った。
心臓。
それは人間が生きていくうえで、なによりも重要な臓器。
何物にも替えが効かない、世界で一つだけの存在。
僕らの座っているテラスは、患者さんや面会のお客さんで溢れていた。
それにも関わらず、ガヤガヤと響く周囲の喧騒が、随分と遠くに聞こえた。
「それは……結構悪いの?」
恐る恐る、僕は彼女に質問した。
正直、これ以上詳しい話は聞きたくはなかった。
いつもみたいに明るく笑いながら、「すぐ治るよー」と、そんな答えを期待していた。
そんな深刻な顔はしないで欲しい。
それじゃまるで、本当に。
しかし、彼女の反応は違った。
「ーーもう、長くないみたい」
彼女は、静かにそう答えた。
嫌な予感は、いつだって的中する。
僕は不安を通り越して、にわかに吐き気まで催してきた。
長くない?
何がだろう。
彼女は一体、何の話をしているのだろう。
そうだ、まだ日向さんの夢の正体だって分かっていない。
まだ調べていない、一緒に宇宙へ行く方法もあるのかもしれない。
まだ、何も。
「すごい顔してるよ、染谷君」
「え、あ、ごめん」
僕は多分、相当思い詰めた顔をしていたのだろう。
日向さんは少し吹き出すように笑顔を浮かべた。
「ーーねぇ、染谷君、一つだけお願いをしても良い?」
彼女は思いついたように指を立てて、僕に顔を近づけた。
「お願い……」
「一つだけじゃないか、今まで、染谷君はたくさんのお願いを聞いてくれた」
僕は何も返すことができず、ただ黙って俯いていた。
「ーー夢の正体に、一番近い場所に連れて行って」
彼女は、消え入りそうな笑顔で、そう口にした。
僕らが小学校で同級生だったこと。
僕が事故で両親を亡くして転校したこと。
日向さんのお父さんが病気で亡くなって、苗字が変わっていたこと。
そして、僕が相貌失認という障害で人の顔が認識できなくなっていることーー
こんなに、自分の本当に根っこの部分について人に話したのは、高校に入って、いや人生で初めてだった。
そして、日向さんは最後、何かを伝えようとしていた。
しかし突然、前触れもなく日向さんは意識を失って倒れた。
糸の切れた人形のように、電力を失ったロボットのように。
僕は迷うことなくすぐに救急車を呼んだ。
そしてその後職員室に走り、五十嵐先生をはじめとした先生たちと協力して、彼女を介抱した。
数分後、けたたましいサイレントと共にやってきた救急車。日向さんは救急隊によって担架で乗せられた。
そして息をつく間も無く、養護教諭の先生だけが同乗をして、すぐさま救急車は行ってしまった。
救急車が去った後は先生たちも解散して、また静かになった中庭で立ち尽くす。
僕は予想できない展開に、動機が収まらず、とにかく不安でたまらなかった。
「お前が近くにいて良かった。救急車をすぐ呼んだのも正しい判断だった。ありがとう」
五十嵐先生は感謝の言葉を口にしながら、僕の肩にそっと手を置いた。
その手は大きくて、温かった。
きっと、落ち着かない様子の僕を、安心させようとしてくれたんだと思う。
「五十嵐先生……」
あんな騒ぎだったというのに、五十嵐先生は落ち着いた様子だった。
こうした事故や不測の事態にも、きっと先生たちは慣れているのだろう。
「先生、日向さんは……」
「保護者には学校から連絡しておく。お前はもう帰れ」
「でも……」
「いいから」
僕の訴えを遮るようにして、五十嵐先生はやめろとばかりに手を振った。
そして、下駄箱を指さして帰りを促す。
日向さんはどうなってしまったのだろうか。
いきなり意識を失うなんて、尋常じゃない事態だ。
もし何か深刻な病気とかだったら……そう考えると、不安で押しつぶされそうだった。
「先生、何か僕にできることはありませんか」
「……分かったよ、これ」
今までの僕なら考えられないほど、柄にもなく前のめりになって訴えかける僕に、五十嵐先生も担任として思うところがあったのかもしれない。
五十嵐先生は不意に、小さいメモ用紙を押し付けるようにして僕に手渡した。
「これは……」
おそるおそるメモ用紙を開くと、そこには殴り書きのような文字で「西南大学病院」と記されている。
「救急隊の人に聞いた。搬送先の病院だそうだ。いちおう……お前にも教えておく」
僕は顔を上げて、五十嵐先生の顔を見た。
五十嵐先生は、面倒くさそうにボサボサ頭を掻きながら、一方の手で僕の頭をポンポンと叩いた。
「まあなんだ、もしこういうことが起きても、大事にしないで欲しいと、事前に日向からお願いされてる。だから染谷、お前も不安だろうが、明日もちゃんと学校こいよ」
「事前に……」
僕は五十嵐先生の言葉の意味が図りかねて、頭に疑問符が浮かんだ。
事前に日向さんからお願いされている?
彼女が救急車に運ばれてしまうような自体が起きるかもしれないと、前から本人が分かっていたということなのか?
「ーーとにかく、今日は帰れ」
五十嵐先生の口調は強く、今度こそ本気で帰れというメッセージが伝わった。
ここに立ち尽くしていても、埒があかない。
せっかく気を回してくれた五十嵐先生にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
僕はざわめき立つ心の中を押さえながら、仕方なく諦めて帰途に着いた。
僕は学校からの帰り道をとぼとぼ歩きながら、ポケットに入った「西南大学病院」のメモの感触を確かめていた。
◆
次の日の放課後、僕は帰りのホームルームが終わるとすぐに教室を飛び出した。
当たり前だけど、日向さんは欠席だった。
五十嵐先生はクラスの生徒たちに対して「日向は体調不良だ」の一言で済ませて、それ以上の説明はしなかった。
「ねえねえ、日向さんってさーー」
人の噂が回るのは早いもので、昨日の放課後、救急車が来て誰か女子生徒が搬送されたという話はクラスで話題になっていた。
おそらく部活やなんかで学校に残っていた生徒がその場を目撃したのだろう。
そして、その女子生徒が日向さんかもしれないという話で、朝からクラスの話題は持ちきりだった。
特に、鈴木さんをはじめとした日向さんを慕っているクラスのメンバーは、深刻そうな顔で額を寄せ合って心配をしていた。
どうやら、当の本人である日向さんと連絡が取れていないらしかった。
スマートフォンが手放せない現代の学生からしたら、一日メッセージが返ってこないなんて、それだけで大騒ぎの案件だ。
僕は騒がしい教室を後にして、スマートフォンで道を調べながら、五十嵐先生に教えてもらった西南大学病院に向かった。
日向さんが意識を失う直前、何かを伝えようとしてくれていた。
一体、何を言おうとしたんだろう。
そして彼女の体調は大丈夫なのか。
とにかく何でもいいから行動して、確認をせずにはいられなかった。
電車で二駅、さらに駅から十分ほど歩くと、目的地にたどり着くことができた。
「ここか……」
実際に来たのは初めてだったけど、西南大学病院は市内では一番規模の大きい病院として有名だった。
さまざまな種別の受診ができて、医師の数も多い。
たしか、僕が脳の検査で定期的に通っている専門病院とも関連がある。
以前、日向さんに教えてもらった連絡先。
念のため、そちらにメッセージを送ってみたけど、返信はおろか既読もつかなかった。
他のクラスメイトたちも連絡が返ってこないと言っていたことも考えると、日向さんはそもそもスマートフォンを確認していないようだ。
あるいは、どうしても確認ができない状態なのかもしれない。
今の僕には、五十嵐先生から渡された病院名のメモしか情報はない。
しかし、じっとしていることはできなかった。
なんとか、日向さんのもとに駆けつけたいと、そう思った。
病院の中は驚くほど広く、人の数も多かった。
天井に下げられた案内板を頼りに受付にたどり着く。
そして意を決して、受付の女性に声をかけた。
「すみません、お見舞いに来たんですけど……」
「はい、面会ですね。そしたら患者さんのお名前か病室番号分かりますか?」
「えっと、名前しか分からなくて……昨日から入院している日向佳乃さん、という方なんですけど」
受付に座る制服を着た女性はにこやかに微笑んで、設置されているパソコンのキーボードを叩いた。
「ご関係をお伺いしても良いですか?」
「えっと、高校の同級生です……西南高校の三年生」
僕は念のため学校名も告げる。
しばらくパソコンの画面を眺めた後、受付の女性は眉を顰めた。
「申し訳ありません、ご家族のご意向で面会のご希望をお断りさせていただいております」
「え、そうなんですか……」
受付の女性が告げたセリフに、言葉をなくす。
いわゆる面会拒絶、ということなのだろうか。
「ということですので、ご案内できません」
「そうですか……ありがとうございました」
ここで粘ったところで、迷惑をかけてしまうだけだ。
僕はペコリと頭を下げて、受付から離れた。
家族の意向……もしかして、面会もできないほどの重たい病気なのだろうか。
もう、今日のところは諦めて帰るしかないか。
メッセージで連絡が返ってくるのを待つしかない。
そうして、肩を落として帰ろうとしたそのときだった。
「ーーあ、染谷くん」
病院の広いフロアで、聞き馴染みのあるソプラノボイスが耳に届いた。
この声の主は、顔を見るまでもない。
声の方向に顔を向けると、そこにはパジャマ姿の日向さんが立っていた。
もちろん、日向さんの顔は僕には判別がつかない。
ただ高校生くらいの若い女性、と識別できる程度だ。
それに普段と違う服装をしているから、ただ人混みに紛れているだけなら、僕に見つけることはできなかっただろう。
でも、声や仕草で彼女だと分かるくらい、もう彼女のことを覚えている。
「声をかけてくれてありがとう。おかげで気づけたよ」
「もしかして……お見舞いに来てくれたの?」
「う、うん、心配だったから」
日向さんは僕の返しに、嬉しそうににっこりと笑った。
「ありがとう、嬉しいよ」
「あの、五十嵐先生が教えてくれたんだ。ここに入院してるって。それに、メッセージも送ってたんだけど」
「あーごめん! 朝から身体の検査で、スマホまだ見てないんだ」
やはりスマートフォンをそもそも見られる環境じゃなかったようだ。
メッセージが来ているのに気が付いたうえであえてスルーされていたわけではないと分かって、少しホッとする。
「立ち話もなんだし、そっちの座れるところに行こうか」
「うん」
お互いに頷きあって、受付でごった返す人混みを抜ける。
病院内の購買やカフェのようなお店があって、そこに併設されているテラス席に、二人並んで座った。
「そういえば、救急車、染谷君が呼んでくれたんだよね。ありがとう、また助けられちゃった」
「いや、そんなことないよ」
日向さんは目尻を下げて、感謝するように両手を合わせた。
「驚いたでしょ、いきなり私が倒れちゃって」
「それは……まあ」
以前、彼女が大量の薬を持ち歩いているのを目撃したことがある身としては、驚きというより心配の気持ちが勝っていた。
「みんな心配してるみたいだった。鈴木さんとか」
「あちゃー、スマホの通知大変なことになってるかもね。後で返信しとかなきゃ」
漫画のヒロインのように額をコツンと叩いて舌を出す日向さん。
そんな陽気なオーバーリアクションが出来るなら、彼女は結構元気なのかもしれない。
クラスの人気者が急に学校を休んで、それも救急車で運ばれたかもしれないとなれば、クラスメイトたちはこぞってメッセージを送って心配することだろう。
「五十嵐先生も、みんなには君が倒れたってことは言ってなかった」
「うん、私が頼んでたの」
日向さんはこうなることが分かっていたかのように、平然とした顔で微笑んだ。
どうして、そんな疑問符が頭に浮かぶ。
「今日もさ、受付で君のお見舞いに来たと伝えたら、面会できないと言われちゃった。こうやって会って、大丈夫だった?」
「あれ、そうなの? もしかして……お母さんだな、きっと。もう、心配性なんだから」
日向さんは意外そうな表情を浮かべた。
面会できないようになっていたことを、自分で知らなかったということは、彼女自身が頼んだわけではないということだ。
もちろん、外部の人間に会うと身体に差し障るからということもあるだろうけど、こうして普通に院内を出歩いているということは、必ずしもそれだけが理由じゃない。
「お母さん、お父さんを病気で亡くして、一人娘までこんな調子だから、ちょっと過剰に心配してるんだよ。べつにお見舞いが来たからって病気が悪くなるわけでも、良くなるわけでもないのに」
日向さんはそう言って、自嘲気味に笑った。
こっそりと面会を禁止していたのは、母親なりの娘の身体への気の使い方だったのかもしれない。
「その、答えにくかったら、答えなくてもいいんだけど……」
「なに、改まって。私は何でも答えるよ。NGなし」
日向さんは大袈裟に手を広げて、イタズラっぽく笑う。
ここが病院で、彼女が入院患者でなければ、クラスの人気者の美少女にいろんなあれこれを聞くチャンスだっただろう。
しかし、このシチュエーションで聞きたいことは、一つだけ。
僕は不安の入り混じる感情を抑えて、恐る恐る口を開いた。
「その、居眠り病っていうのは、入院しなきゃいけないような重い病気なのかな。それとも、何か違う病気とか……」
病気のこと。
それは、極めてプライベートな質問だ。
僕自身、事故で障害を負っている身なので、気持ちは分かる。
たやすく他人が踏み入れて良い領域じゃない。
でも、僕はもっと日向さんのことが知りたかった。
もし許されるなら、力になりたかった。
「居眠り病……」
彼女は質問に答えるでもなく、その言葉を口の中で繰り返した。
実は、彼女の口からその病気の存在を聞いて、インターネットで軽く検索をかけて調べてみたことがある。
しかし、具体的な症例や記載した記事はほとんど見つからず、よく分からなかった。
「……ごめん、本当のことを言うね」
彼女は何かを諦めたように、あるいは覚悟したように、僕に視線を合わせた。
「本当のこと?」
「居眠り病は……嘘なの。病気自体は本当にあるものなんだけどね」
「どういう意味なの?」
居眠り病が、嘘?
日向さんの言葉の意図がよく分からず、僕は思わず怪訝な顔をした。
じゃあ、あの束になっていた薬は、一体なんのために持っていたというんだ。
「実は、眠気が我慢できなかったのは、服用してた薬の副作用なんだ。病気自体は、違うものなの」
「それは……」
日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
でも、その嘘はおそらく、僕を騙し貶めるための類の嘘ではない。
人を傷つけないように、相手のことを思ってついた、優しい嘘。
僕は彼女の告げた言葉が驚きで、少しの間言葉を失っていた。
あの大量の薬が彼女に与えていた影響が、あのベンチでの昼寝に繋がっていたって言うのか。
「じゃあ、あの薬は……」
「違う病気を抑えるための薬だったんだ。染谷君に見つかったとき、とっさに嘘ついたんだ。心配かけたくなくて……」
「それは、他のクラスメイトにも?」
「うん」
以前、鈴木さんが僕に難癖のような言いがかりを僕につけてきたとき、病気の話なんてまったく触れなかった。
ということは当然、日向さんの病気の話は知らなかったのだろう。
親しい友達にも黙っていた理由。
嘘をついてまで隠していた、別の病気。
「ーー私、心臓が悪いんだ。お父さんと同じ病気」
日向さんは深く息を吸った後、吐き出すようにそう言った。
心臓。
それは人間が生きていくうえで、なによりも重要な臓器。
何物にも替えが効かない、世界で一つだけの存在。
僕らの座っているテラスは、患者さんや面会のお客さんで溢れていた。
それにも関わらず、ガヤガヤと響く周囲の喧騒が、随分と遠くに聞こえた。
「それは……結構悪いの?」
恐る恐る、僕は彼女に質問した。
正直、これ以上詳しい話は聞きたくはなかった。
いつもみたいに明るく笑いながら、「すぐ治るよー」と、そんな答えを期待していた。
そんな深刻な顔はしないで欲しい。
それじゃまるで、本当に。
しかし、彼女の反応は違った。
「ーーもう、長くないみたい」
彼女は、静かにそう答えた。
嫌な予感は、いつだって的中する。
僕は不安を通り越して、にわかに吐き気まで催してきた。
長くない?
何がだろう。
彼女は一体、何の話をしているのだろう。
そうだ、まだ日向さんの夢の正体だって分かっていない。
まだ調べていない、一緒に宇宙へ行く方法もあるのかもしれない。
まだ、何も。
「すごい顔してるよ、染谷君」
「え、あ、ごめん」
僕は多分、相当思い詰めた顔をしていたのだろう。
日向さんは少し吹き出すように笑顔を浮かべた。
「ーーねぇ、染谷君、一つだけお願いをしても良い?」
彼女は思いついたように指を立てて、僕に顔を近づけた。
「お願い……」
「一つだけじゃないか、今まで、染谷君はたくさんのお願いを聞いてくれた」
僕は何も返すことができず、ただ黙って俯いていた。
「ーー夢の正体に、一番近い場所に連れて行って」
彼女は、消え入りそうな笑顔で、そう口にした。