幼い頃の僕は、事あるごとに「なんで?」「なんで?」とよく聞く子供だった。
母親が生きている頃は、ただ道を散歩するだけでも、「あの花はなんで良い香りがするの?」「あのセミはなんで鳴いているの?」と立ち
止まってあれこれ聞くので、母親をとても困らせていた。
その度に母は「お父さんに似ているわ。将来は学者さんね」と笑って、僕の頭を撫でた。
そうすると、僕の心は上手く言い表すことのできない心地の良い感情に包まれた。
それはまるで綿のブラウケットに肌をこすりあわせるような心地よさだった。
母の手の温かさが僕は大好きだった。
正解が知りたかったわけじゃない。
もしかしたら、ただ母の気を引きたくて、父親に似ているというそのセリフが聞きたくて、質問を繰り返していたのかもしれない。
やがて両親が亡くなり、小さい妹と、今にも泣き出しそうな目をした僕だけが残った。
あの日以来、僕は誰にも「なんで?」と聞かなくなった。
だって、世界の正解なんて、もう何一つだって知りたくはないから。
◆
「――暑い」
こめかみから汗が雫となって流れ落ちる。
もう9月も中旬だというのに、空から降り注ぐ日差しはまだ真夏のそれだ。
今年は例年よりも残暑が厳しくなると、テレビのお天気キャスターが言っていた。
僕が今何をしているかというと、ペットボトルロケットの材料を購入すべく、工具店に来ていた。
ペットボトルロケット製作をしたいと言い出した当の本人はここにはいない。
なにやら用事があるとか言って、買い出しは全て押し付けられた。
もはや驚きの自由奔放さだ。
高三にもなってペットボトルロケットを作ることになるなんて、思いもしなかった。
これでも一介の受験生だというのに、もっとやるべきことがある気がする。
この残暑が厳しい中、荷物を抱えて外を歩かないといけないのも難儀なことだ。
そもそも、なぜ僕が彼女の要望を叶えてあげないといけないのかも、改めて考えると理由が分からない。
買い出しの対価として、コンビニのアイスでも要求しようかな。
そんなことを考えながら、学校からほど近い商店街を歩く。
この商店街の通りにある工具店が、テープやらノズルやらの必要な材料を購入するには、一番近所だ。
少し遠出すれば大きなショッピングセンターもあって、百均ショップなどのテナントも入っているので、そちらの方がなんでも揃うことは分かっていたが、単純にそこまで歩くのが面倒くさかった。
商店街に並ぶ店舗は、ほとんどシャッターが下りていた。寂れた街だ。
地方なんて、きっと何処もこんなものなのだろう。
ふと、小学生の頃、転校する前の街並みを思い出す。
たしか、前住んでいた家の近所にも、こんな商店街があった。
しかし街の再開発で、僕が転校する頃には全て綺麗なビルや住宅に建て替えられた。
新しく綺麗な街よりも、幼少期過ごした街の方が古くも温かみがあって好きだった気がする。
もう戻ってこない思い出を、良いように美化しているだけなのだろうか。
人気のない通りで二度と開かないシャッターを眺めていると、まるで文明が滅んだ後の地球に残されたかのような気分になった。
「......帰ろう」
インターネットで調べた情報に従って、そそくさと買い物を終える。
さっさと家に帰って、冷たい炭酸ジュースを喉へ流し込みたい。
会計を済ませて、工具店から一歩出た瞬間に、道の先から喧しい騒ぎ声が聞こえて来た。
それが同じ高校のクラスメイトの集団であることはすぐに分かった。
聞こえてくる笑い声には、なんだか聞き馴染みがあったからだ。
そうだ、よく日向さんを中心として、教室で賑やかに騒いでいる男女数名の集まりだ。
きっと、放課後の寄り道でもしているのだろう。
声はだんだん近づいてきた。
このままでは、この狭い商店街の通りですれ違うことになるだろう。
僕はべつに後ろめたいことがあるわけでもないのに、踵を返して工具店に戻り、集団から見えないように姿を隠した。
クラスメイトたちは工具店の前を何事もなく通り過ぎて、商店街をそのまま歩いて行った。
もしかしたらと思ったけど、声を聞く限りその中に日向さんはいないようだ。
ただ、クラスメイト一行が通り過ぎる間、僕は息を潜めるようにして、ただ黙って立ち尽くしていた。
「......なんや兄ちゃん」
しわがれた声に顔を上げると、工具店の店主のお爺さんが不審な目で僕を眺めていた。
「す、すみません」
ペコリと頭を下げて、逃げるように店を飛び出す。
クラスメイトの集団は、もう姿も声も消えていた。
もう、早く家に帰ろう。
足早に商店街を抜ける。
僕は一人でいるのが好きだ。
人と仲良くすることなんて、できない。
学校で大して親しくもない友人と群れて、無理に騒いでいるようなタイプを、むしろ嫌っているくらいだ。
でも、一人でいるのが好きだと厭世的な人間を気取りながらも、世間から「寂しいヤツだ」と思われるのに対して、人並みの抵抗感も持っている。
そんな平凡な自分が、情けなく感じた。
僕はいつだって認められなかったし、期待されなかったし、理解されなかった。
でも、僕はいつだって認められたかったし、期待されたかったし、理解されたかった。
そんな評価に値するような資格も、あるいは能力だってないくせに、そんな叶わない願いを抱く自分が、酷く不恰好で歪んだものに思えた。
名状し難い、どうしようもない情けなさだけが、Tシャツについたカレーのシミのように残った。
◆
「この部屋借りますねー!」
理科準備室の扉を開けるなり、日向さんが元気よく声を上げた。
空いていた椅子に堂々と座って、まるで我が家のようにくつろぎ始める。
「ちょっと、日向さん」
僕は遠慮しながら、彼女をたしなめる。
「ーーまったく、自由な奴らだな」
扉にもたれながら、担任の五十嵐先生が面倒くさそうにぼやいた。
「僕は巻き込まれてるだけですけど……」
というのも、日向さんがわざわざ物理担当の五十嵐先生に頼み込んで、ペットボトルロケットを作る作業部屋として放課後の理科準備室を借りることになったのだ。
「ありがとー先生! ありがたく使わせてもらうね」
両手を上げて、満面の笑顔で感謝の意を口にする日向さん。
「......まあいいや。機械と薬には触るなよ」
担任の五十嵐先生は、眉を顰めて彼女を一瞥したが、諦めたようにうなだれた。
彼女の突っ走りがちな人間性は、良く知っているようだ。
「はーい」
日向さんはちゃんと聞いているのか分からない、気の抜けた返事をする。
五十嵐先生はボサボサ頭を掻きながら、理科準備室を去っていった。
普通、生徒の個人的な頼みのために教室を貸してあげたりなんてしないだろうに、五十嵐先生は案外優しい先生なのかもしれない。
「さ、作業しましょ! 時間は誰にも待ってくれないんだから」
「せめて君には待ってほしいけど......」
僕は彼女の傍若無人な態度に呆れながら、差し出すように手に提げていた袋を長机の上に置いた。
「よし、ちゃんと揃ってるみたいね」
日向さんは机に並べられた材料を漁りながら満足そうに頷いた。
「ーーねぇ、今更だけど、ペットボトルロケットが君の夢の正体に繋がるのかな?」
「それは分かりません!」
いっそ清々しいくらいの堂々とした態度で答える日向さん。
どこからその自信は湧いてくるのだろうかと、時々不思議な気持ちになる。
「でも、夢って潜在意識の表れでしょ? それも何回も同じ夢を見るってことは、私が無意識に強く考えていることが反映されてると思うの。だから、やりたいと思ったことをやれば、夢につながるヒントになると思う」
僕はなんと言い返すこともできず、渋々その説明を受け入れる。
なんだかそれっぽいことを説明してくれている気もするけど、いまいち得心がいかない。
「まあ、やるしかないか……」
「よーし」
日向さんは急に僕にずいっと近づくと、僕の手を掴んだ。
そして僕の手のひらの甲に、自分の手を重ね合わせる」
「あ、あのー」
「えい、えい、おー!」
僕から何か言い出す暇もなく、日向さんは勝手に掛け声をかけて二人分の手のひらを点に突き上げた。
何から何までエネルギッシュな日向さんに翻弄されながら、二人で理科準備室のテーブルについた。
それから僕と彼女はスマートフォンで作り方を調べながら、ペットボトルロケットの製作に勤しんだ。
彼女は意外と手先が不器用なようで、必要なところまでハサミで切ってしまったり、しょっちゅうミスをした。
その度に「あー!」と大きな声を上げて、僕はぎょっと驚く羽目になった。
「難しいな......」
「日向さんって、こういう作業苦手なんだ」
「うーん昔からね、細かい作業は下手なの。染谷くんは得意そうね」
「それは、僕が地味で冴えないって意味かな」
「もーネガティブなんだから」
日向さんは呆れたように笑った。
相手の言葉をマイナスに取ってしまうの僕の癖だ。
今更変えられない、悪い癖だ。
「また失敗したー......ま、これくらいだったらセーフかな」
「いや、アウトだよ」
彼女が手にしているペットボトルは思いきり歪んでいる。これでは墜落必死だ。
「裁縫、得意なんじゃなかったっけ」
「裁縫より難しいんだよなー」
日向さんは困ったように眉を寄せる。
僕には針と糸を使った技術の方がよっぽど難しいように思えるけど。
僕も慣れないなりにせっせと手を動かして、一時間ほど作業を続けた。
仕上げを終えると、子供番組で見たことのあるようなペットボトルロケットが完成した。
「よっしゃー! 完成ね!」
日向さんは戦国武将さながら、両手を挙げて高らかに勝鬨をあげる。
「……結局ほとんど僕が作ったけどね」
彼女が切り貼りした部品は切り口がガタガタでほとんど使えなかったから、僕が作り直す羽目になった。
誰にでも苦手なことというのはあるらしい。
「さっそく飛ばしてみよ!」
そう言うやいなや、彼女はペットボトルロケット本体と空気入れを抱えて、理科準備室から外に飛び出して行った。
その奔放な振る舞いはまるで、活発な育ち盛りの子供を見ているような気分になる。
やれやれと呟きながら、ロケットの発射台と、空気入れに繋げる取りつけ口を持って、その背中についていく。
中庭まで行き、水道のある場所までたどり着いた。
「ほら、そこの蛇口で水を入れて」
「はいはい」
僕は彼女から本体を受け取って、外の花壇近くにある水道の蛇口から水を注いだ。
「はい、空気入れ」
彼女は何処から用意してきたのか、自転車のタイヤに使う小さい空気入れを僕に渡した。
「これ職員室にある備品じゃないの。勝手に使って大丈夫?」
「大丈夫よ、私が保証する」
頼りにならない保証だ。無駄に怒られるのはごめんだけど、この際仕方ない。
僕は空気入れを繋げて、ピストン運動で空気を入れていく。
「おお」
日向さんが膨れたペットボトルロケットを手で押さえて、設置台にセットする。
「おし、行くよー」
そう合図をして、さらに空気を押し込む。
このまま上手くいけば、勢い良くペットボトルロケットが発射されるはずだ。
ちゃんと発射されるかどうか、ちょっとドキドキしてきた。
すると、
「あっ」
瞬間、前方へ噴出するはずのペットボトルロケットはしゅるしゅるとマヌケな音を発しながらふわっと浮いて、中に溜まった水を吐き出しながらすぐに落下した。
べしゃりと悲しい音を立てて、地面に墜落するペットボトルロケット。
「あら、失敗か」
僕と日向さんは慌ててロケットに駆け寄った。
地面に落ちた衝撃で、見るも無残に分解してしまったペットボトル。
接続部分の作りが甘く、空気が漏れてしまったらしい。
真心込めて作成した作品がこんな形になってしまうのは、なんだか切ない。
「あれー。作り方がおかしかったのかなー」
日向さんが首を傾げながら、崩れたペットボトルロケットを眺める。
「改良の余地があるね」
インターネットで調べた情報を頼りに作ってみたけど、作りが十分じゃない部分があったのかもしれない。
とりあえずあたりに散らばった部品を回収して、理科準備室へと二人並んですごすごと戻る。
次は接続部分のパーツをもう少し丁寧に削る必要があるな。
ロケットエンジニアさながら、一丁前にそんなことを考えながら、工具を手元に用意して、改めてスマートフォンで作り方を調べる。
「少し角度を調整してみよう」
「……私よりやる気になってない?」
笑いを浮かべながら、日向さんが僕の顔を覗く。
僕はどぎまぎしながら、言い訳をするように手元の作業を続けた。
いざ作業をやり始めると、案外集中して取り組んでしまうものだ。
発射に失敗して分解してしまったペットボトルロケットにも、妙な愛着が生まれて「お前の死は無駄にしないぞ……」という気分になる。
そもそも、日向さんの夢の正体を探すのが目的だったはずだけど。
何故、こんな夢中になってペットボトルロケットを飛ばそうとしているのだろう。
我ながら、かなり迷走してる気がする。
「私にも手伝わせて!」
予想より僕が前向きに取り組んでいるのが意外だったのか、負けじと前のめりに参加しようとする日向さん。
「それじゃ、この留め具を……」
工具を片手に持ちながら、ペットボトルロケットの材料に手を伸ばそうとした、その時だった。
「あっ」
急に手を伸ばしたせいで、彼女が椅子にかけていた鞄に勢いよくぶつけてしまった。
半開きになっていた鞄の口から、小さいポシェットが滑り落ちる。
ポシェットは、二人の目の前で大袈裟な音を立てて地面に落下した。
しかも不運なことに、少しだけチャックが開いてしまっていたようだ。
まるでピタゴラスイッチみたいに、ひっくり返った勢いで、理科準備室の床に中身が撒き散らされた。
「あ、ご、ごめん」
「あちゃー、やっちゃった」
僕は屈んで、謝りながら慌てて中身を拾いあげようとする。
そして同時に、驚愕に目を見開いた。
小さなポシェットの中には、ぎゅうぎゅうにある物がたくさん詰まっていた。
僕が手に取ったのは、飲み薬の束だった。
それも見たこともないくらい山盛りで、様々な種類が重なっていた。
色とりどりのカプセルやタブレットの数々。
それはあまりに非日常的なアイテムだった。
「ーーだ、大丈夫?」
思わず目を泳がせながら、呟くように問いかける。
それは、持ち物が床に散らばってしまったことなのか、それともこんなに大量の薬を持ち歩いていることなのか、自分でも分からなかった。
日向さんも屈んで、薬の束を一緒に拾い集める。
「見てしまったね」
日向さんは、慌てるでも、怒るでもなく、妙に落ち着いた様子だった。
「いや、この量は......普通じゃないでしょ」
僕は彼女の手に薬の束を渡しながら、思わず目を逸らして俯く。
これは一体、どういうことなんだろう。
何故、彼女がこんなにも大量の薬を持ち歩いているのか。
まるで、遊園地の舞台裏でキャラクターが着ぐるみを脱いでいるのを目撃してしまったかのような、見てはいけないモノを見てしまった気持ちになった。
「んー......」
彼女はゆっくりと思案するように、薄い唇をつむんだ。
「あ、ごめん、言いたくなかったらいいけど」
しまった、そう思った。
不思議な縁から、日向さんと関わる機会が出来たからって、浮かれてしまったところがあったかもしれない。
十代の女の子が薬の束を持っているなんて、絶対に何かしらの事情があるに決まっている。
こんな風に、気安く踏み込んでいい領分じゃない。
「まあ、教えちゃおうかな」
一瞬の逡巡の後で、すうっと彼女は息を吸った。
その仕草はまるで、空気から大切な成分を奪おうとしているみたいだった。
「――私ね、居眠り病なの」
「......居眠り病?」
彼女の口から飛び出した予想外の言葉に、僕はマヌケな声を漏らした。
聞き間違いじゃないよね。
居眠り病、だって?
初めて聞いた単語だった。
「ーーうん。病気が分かったのは今年に入ってからなんだけど。昼間でも意識がなくなるみたいに眠っちゃうの。だからこの前のベンチでも寝ちゃってたんだよね」
そう口にする日向さんの表情に目をやる。
その顔は、たしかに真剣な雰囲気が感じられた。
「そんな――病気があるの」
初めて耳にする病名だった。
こんなことを言っては失礼だけど、なんだかサボりの言い訳に使えそうな病気だ。
深刻な顔をしていたから身構えたけれど、やっぱり僕をからかっているのだろうか。
「いつもは、薬で症状を抑えてるんだ」
日向さんは「てへへ」と口にしながら、コツリと自分の額を叩いた。
昭和の芸人みたいなリアクションだ。
病気を告白している人にしては、いささか明るすぎる、気がする。
「あ、信じてないでしょ」
そう言って、不満げに口をへの字にして、彼女は僕の顔を覗き込んだ。
少し油断すれば、吐息がかかりそうな距離だ。
日向さんはなにかと距離が近くて、反応に困るときがある。
「......信じるよ」
僕が諦めたようにそう口にすると、彼女は何故か満足そうに頷いた。
疑ったところで、そんな変な嘘を僕につく意味もないだろう。
僕みたいな奴相手でも、信じてもらえたことは嬉しいらしい。
「これは秘密だよ」
「分かったよ。誰にも言わない」
「ーー二人だけの、秘密ね」
彼女は人差し指を口元にあてて、いたずっらぽい笑みを浮かべた。
先ほどまでの重たい雰囲気はどこかへ消えてしまったようだ。
僕は不思議な罪悪感に、心がざわつくのを感じていた。
秘密。
僕はまるで悪事の共犯者にでもなってしまったようだ。
そして思った。
一体どれくらいの人が彼女が病気だということを知っているのだろう、と。
母親が生きている頃は、ただ道を散歩するだけでも、「あの花はなんで良い香りがするの?」「あのセミはなんで鳴いているの?」と立ち
止まってあれこれ聞くので、母親をとても困らせていた。
その度に母は「お父さんに似ているわ。将来は学者さんね」と笑って、僕の頭を撫でた。
そうすると、僕の心は上手く言い表すことのできない心地の良い感情に包まれた。
それはまるで綿のブラウケットに肌をこすりあわせるような心地よさだった。
母の手の温かさが僕は大好きだった。
正解が知りたかったわけじゃない。
もしかしたら、ただ母の気を引きたくて、父親に似ているというそのセリフが聞きたくて、質問を繰り返していたのかもしれない。
やがて両親が亡くなり、小さい妹と、今にも泣き出しそうな目をした僕だけが残った。
あの日以来、僕は誰にも「なんで?」と聞かなくなった。
だって、世界の正解なんて、もう何一つだって知りたくはないから。
◆
「――暑い」
こめかみから汗が雫となって流れ落ちる。
もう9月も中旬だというのに、空から降り注ぐ日差しはまだ真夏のそれだ。
今年は例年よりも残暑が厳しくなると、テレビのお天気キャスターが言っていた。
僕が今何をしているかというと、ペットボトルロケットの材料を購入すべく、工具店に来ていた。
ペットボトルロケット製作をしたいと言い出した当の本人はここにはいない。
なにやら用事があるとか言って、買い出しは全て押し付けられた。
もはや驚きの自由奔放さだ。
高三にもなってペットボトルロケットを作ることになるなんて、思いもしなかった。
これでも一介の受験生だというのに、もっとやるべきことがある気がする。
この残暑が厳しい中、荷物を抱えて外を歩かないといけないのも難儀なことだ。
そもそも、なぜ僕が彼女の要望を叶えてあげないといけないのかも、改めて考えると理由が分からない。
買い出しの対価として、コンビニのアイスでも要求しようかな。
そんなことを考えながら、学校からほど近い商店街を歩く。
この商店街の通りにある工具店が、テープやらノズルやらの必要な材料を購入するには、一番近所だ。
少し遠出すれば大きなショッピングセンターもあって、百均ショップなどのテナントも入っているので、そちらの方がなんでも揃うことは分かっていたが、単純にそこまで歩くのが面倒くさかった。
商店街に並ぶ店舗は、ほとんどシャッターが下りていた。寂れた街だ。
地方なんて、きっと何処もこんなものなのだろう。
ふと、小学生の頃、転校する前の街並みを思い出す。
たしか、前住んでいた家の近所にも、こんな商店街があった。
しかし街の再開発で、僕が転校する頃には全て綺麗なビルや住宅に建て替えられた。
新しく綺麗な街よりも、幼少期過ごした街の方が古くも温かみがあって好きだった気がする。
もう戻ってこない思い出を、良いように美化しているだけなのだろうか。
人気のない通りで二度と開かないシャッターを眺めていると、まるで文明が滅んだ後の地球に残されたかのような気分になった。
「......帰ろう」
インターネットで調べた情報に従って、そそくさと買い物を終える。
さっさと家に帰って、冷たい炭酸ジュースを喉へ流し込みたい。
会計を済ませて、工具店から一歩出た瞬間に、道の先から喧しい騒ぎ声が聞こえて来た。
それが同じ高校のクラスメイトの集団であることはすぐに分かった。
聞こえてくる笑い声には、なんだか聞き馴染みがあったからだ。
そうだ、よく日向さんを中心として、教室で賑やかに騒いでいる男女数名の集まりだ。
きっと、放課後の寄り道でもしているのだろう。
声はだんだん近づいてきた。
このままでは、この狭い商店街の通りですれ違うことになるだろう。
僕はべつに後ろめたいことがあるわけでもないのに、踵を返して工具店に戻り、集団から見えないように姿を隠した。
クラスメイトたちは工具店の前を何事もなく通り過ぎて、商店街をそのまま歩いて行った。
もしかしたらと思ったけど、声を聞く限りその中に日向さんはいないようだ。
ただ、クラスメイト一行が通り過ぎる間、僕は息を潜めるようにして、ただ黙って立ち尽くしていた。
「......なんや兄ちゃん」
しわがれた声に顔を上げると、工具店の店主のお爺さんが不審な目で僕を眺めていた。
「す、すみません」
ペコリと頭を下げて、逃げるように店を飛び出す。
クラスメイトの集団は、もう姿も声も消えていた。
もう、早く家に帰ろう。
足早に商店街を抜ける。
僕は一人でいるのが好きだ。
人と仲良くすることなんて、できない。
学校で大して親しくもない友人と群れて、無理に騒いでいるようなタイプを、むしろ嫌っているくらいだ。
でも、一人でいるのが好きだと厭世的な人間を気取りながらも、世間から「寂しいヤツだ」と思われるのに対して、人並みの抵抗感も持っている。
そんな平凡な自分が、情けなく感じた。
僕はいつだって認められなかったし、期待されなかったし、理解されなかった。
でも、僕はいつだって認められたかったし、期待されたかったし、理解されたかった。
そんな評価に値するような資格も、あるいは能力だってないくせに、そんな叶わない願いを抱く自分が、酷く不恰好で歪んだものに思えた。
名状し難い、どうしようもない情けなさだけが、Tシャツについたカレーのシミのように残った。
◆
「この部屋借りますねー!」
理科準備室の扉を開けるなり、日向さんが元気よく声を上げた。
空いていた椅子に堂々と座って、まるで我が家のようにくつろぎ始める。
「ちょっと、日向さん」
僕は遠慮しながら、彼女をたしなめる。
「ーーまったく、自由な奴らだな」
扉にもたれながら、担任の五十嵐先生が面倒くさそうにぼやいた。
「僕は巻き込まれてるだけですけど……」
というのも、日向さんがわざわざ物理担当の五十嵐先生に頼み込んで、ペットボトルロケットを作る作業部屋として放課後の理科準備室を借りることになったのだ。
「ありがとー先生! ありがたく使わせてもらうね」
両手を上げて、満面の笑顔で感謝の意を口にする日向さん。
「......まあいいや。機械と薬には触るなよ」
担任の五十嵐先生は、眉を顰めて彼女を一瞥したが、諦めたようにうなだれた。
彼女の突っ走りがちな人間性は、良く知っているようだ。
「はーい」
日向さんはちゃんと聞いているのか分からない、気の抜けた返事をする。
五十嵐先生はボサボサ頭を掻きながら、理科準備室を去っていった。
普通、生徒の個人的な頼みのために教室を貸してあげたりなんてしないだろうに、五十嵐先生は案外優しい先生なのかもしれない。
「さ、作業しましょ! 時間は誰にも待ってくれないんだから」
「せめて君には待ってほしいけど......」
僕は彼女の傍若無人な態度に呆れながら、差し出すように手に提げていた袋を長机の上に置いた。
「よし、ちゃんと揃ってるみたいね」
日向さんは机に並べられた材料を漁りながら満足そうに頷いた。
「ーーねぇ、今更だけど、ペットボトルロケットが君の夢の正体に繋がるのかな?」
「それは分かりません!」
いっそ清々しいくらいの堂々とした態度で答える日向さん。
どこからその自信は湧いてくるのだろうかと、時々不思議な気持ちになる。
「でも、夢って潜在意識の表れでしょ? それも何回も同じ夢を見るってことは、私が無意識に強く考えていることが反映されてると思うの。だから、やりたいと思ったことをやれば、夢につながるヒントになると思う」
僕はなんと言い返すこともできず、渋々その説明を受け入れる。
なんだかそれっぽいことを説明してくれている気もするけど、いまいち得心がいかない。
「まあ、やるしかないか……」
「よーし」
日向さんは急に僕にずいっと近づくと、僕の手を掴んだ。
そして僕の手のひらの甲に、自分の手を重ね合わせる」
「あ、あのー」
「えい、えい、おー!」
僕から何か言い出す暇もなく、日向さんは勝手に掛け声をかけて二人分の手のひらを点に突き上げた。
何から何までエネルギッシュな日向さんに翻弄されながら、二人で理科準備室のテーブルについた。
それから僕と彼女はスマートフォンで作り方を調べながら、ペットボトルロケットの製作に勤しんだ。
彼女は意外と手先が不器用なようで、必要なところまでハサミで切ってしまったり、しょっちゅうミスをした。
その度に「あー!」と大きな声を上げて、僕はぎょっと驚く羽目になった。
「難しいな......」
「日向さんって、こういう作業苦手なんだ」
「うーん昔からね、細かい作業は下手なの。染谷くんは得意そうね」
「それは、僕が地味で冴えないって意味かな」
「もーネガティブなんだから」
日向さんは呆れたように笑った。
相手の言葉をマイナスに取ってしまうの僕の癖だ。
今更変えられない、悪い癖だ。
「また失敗したー......ま、これくらいだったらセーフかな」
「いや、アウトだよ」
彼女が手にしているペットボトルは思いきり歪んでいる。これでは墜落必死だ。
「裁縫、得意なんじゃなかったっけ」
「裁縫より難しいんだよなー」
日向さんは困ったように眉を寄せる。
僕には針と糸を使った技術の方がよっぽど難しいように思えるけど。
僕も慣れないなりにせっせと手を動かして、一時間ほど作業を続けた。
仕上げを終えると、子供番組で見たことのあるようなペットボトルロケットが完成した。
「よっしゃー! 完成ね!」
日向さんは戦国武将さながら、両手を挙げて高らかに勝鬨をあげる。
「……結局ほとんど僕が作ったけどね」
彼女が切り貼りした部品は切り口がガタガタでほとんど使えなかったから、僕が作り直す羽目になった。
誰にでも苦手なことというのはあるらしい。
「さっそく飛ばしてみよ!」
そう言うやいなや、彼女はペットボトルロケット本体と空気入れを抱えて、理科準備室から外に飛び出して行った。
その奔放な振る舞いはまるで、活発な育ち盛りの子供を見ているような気分になる。
やれやれと呟きながら、ロケットの発射台と、空気入れに繋げる取りつけ口を持って、その背中についていく。
中庭まで行き、水道のある場所までたどり着いた。
「ほら、そこの蛇口で水を入れて」
「はいはい」
僕は彼女から本体を受け取って、外の花壇近くにある水道の蛇口から水を注いだ。
「はい、空気入れ」
彼女は何処から用意してきたのか、自転車のタイヤに使う小さい空気入れを僕に渡した。
「これ職員室にある備品じゃないの。勝手に使って大丈夫?」
「大丈夫よ、私が保証する」
頼りにならない保証だ。無駄に怒られるのはごめんだけど、この際仕方ない。
僕は空気入れを繋げて、ピストン運動で空気を入れていく。
「おお」
日向さんが膨れたペットボトルロケットを手で押さえて、設置台にセットする。
「おし、行くよー」
そう合図をして、さらに空気を押し込む。
このまま上手くいけば、勢い良くペットボトルロケットが発射されるはずだ。
ちゃんと発射されるかどうか、ちょっとドキドキしてきた。
すると、
「あっ」
瞬間、前方へ噴出するはずのペットボトルロケットはしゅるしゅるとマヌケな音を発しながらふわっと浮いて、中に溜まった水を吐き出しながらすぐに落下した。
べしゃりと悲しい音を立てて、地面に墜落するペットボトルロケット。
「あら、失敗か」
僕と日向さんは慌ててロケットに駆け寄った。
地面に落ちた衝撃で、見るも無残に分解してしまったペットボトル。
接続部分の作りが甘く、空気が漏れてしまったらしい。
真心込めて作成した作品がこんな形になってしまうのは、なんだか切ない。
「あれー。作り方がおかしかったのかなー」
日向さんが首を傾げながら、崩れたペットボトルロケットを眺める。
「改良の余地があるね」
インターネットで調べた情報を頼りに作ってみたけど、作りが十分じゃない部分があったのかもしれない。
とりあえずあたりに散らばった部品を回収して、理科準備室へと二人並んですごすごと戻る。
次は接続部分のパーツをもう少し丁寧に削る必要があるな。
ロケットエンジニアさながら、一丁前にそんなことを考えながら、工具を手元に用意して、改めてスマートフォンで作り方を調べる。
「少し角度を調整してみよう」
「……私よりやる気になってない?」
笑いを浮かべながら、日向さんが僕の顔を覗く。
僕はどぎまぎしながら、言い訳をするように手元の作業を続けた。
いざ作業をやり始めると、案外集中して取り組んでしまうものだ。
発射に失敗して分解してしまったペットボトルロケットにも、妙な愛着が生まれて「お前の死は無駄にしないぞ……」という気分になる。
そもそも、日向さんの夢の正体を探すのが目的だったはずだけど。
何故、こんな夢中になってペットボトルロケットを飛ばそうとしているのだろう。
我ながら、かなり迷走してる気がする。
「私にも手伝わせて!」
予想より僕が前向きに取り組んでいるのが意外だったのか、負けじと前のめりに参加しようとする日向さん。
「それじゃ、この留め具を……」
工具を片手に持ちながら、ペットボトルロケットの材料に手を伸ばそうとした、その時だった。
「あっ」
急に手を伸ばしたせいで、彼女が椅子にかけていた鞄に勢いよくぶつけてしまった。
半開きになっていた鞄の口から、小さいポシェットが滑り落ちる。
ポシェットは、二人の目の前で大袈裟な音を立てて地面に落下した。
しかも不運なことに、少しだけチャックが開いてしまっていたようだ。
まるでピタゴラスイッチみたいに、ひっくり返った勢いで、理科準備室の床に中身が撒き散らされた。
「あ、ご、ごめん」
「あちゃー、やっちゃった」
僕は屈んで、謝りながら慌てて中身を拾いあげようとする。
そして同時に、驚愕に目を見開いた。
小さなポシェットの中には、ぎゅうぎゅうにある物がたくさん詰まっていた。
僕が手に取ったのは、飲み薬の束だった。
それも見たこともないくらい山盛りで、様々な種類が重なっていた。
色とりどりのカプセルやタブレットの数々。
それはあまりに非日常的なアイテムだった。
「ーーだ、大丈夫?」
思わず目を泳がせながら、呟くように問いかける。
それは、持ち物が床に散らばってしまったことなのか、それともこんなに大量の薬を持ち歩いていることなのか、自分でも分からなかった。
日向さんも屈んで、薬の束を一緒に拾い集める。
「見てしまったね」
日向さんは、慌てるでも、怒るでもなく、妙に落ち着いた様子だった。
「いや、この量は......普通じゃないでしょ」
僕は彼女の手に薬の束を渡しながら、思わず目を逸らして俯く。
これは一体、どういうことなんだろう。
何故、彼女がこんなにも大量の薬を持ち歩いているのか。
まるで、遊園地の舞台裏でキャラクターが着ぐるみを脱いでいるのを目撃してしまったかのような、見てはいけないモノを見てしまった気持ちになった。
「んー......」
彼女はゆっくりと思案するように、薄い唇をつむんだ。
「あ、ごめん、言いたくなかったらいいけど」
しまった、そう思った。
不思議な縁から、日向さんと関わる機会が出来たからって、浮かれてしまったところがあったかもしれない。
十代の女の子が薬の束を持っているなんて、絶対に何かしらの事情があるに決まっている。
こんな風に、気安く踏み込んでいい領分じゃない。
「まあ、教えちゃおうかな」
一瞬の逡巡の後で、すうっと彼女は息を吸った。
その仕草はまるで、空気から大切な成分を奪おうとしているみたいだった。
「――私ね、居眠り病なの」
「......居眠り病?」
彼女の口から飛び出した予想外の言葉に、僕はマヌケな声を漏らした。
聞き間違いじゃないよね。
居眠り病、だって?
初めて聞いた単語だった。
「ーーうん。病気が分かったのは今年に入ってからなんだけど。昼間でも意識がなくなるみたいに眠っちゃうの。だからこの前のベンチでも寝ちゃってたんだよね」
そう口にする日向さんの表情に目をやる。
その顔は、たしかに真剣な雰囲気が感じられた。
「そんな――病気があるの」
初めて耳にする病名だった。
こんなことを言っては失礼だけど、なんだかサボりの言い訳に使えそうな病気だ。
深刻な顔をしていたから身構えたけれど、やっぱり僕をからかっているのだろうか。
「いつもは、薬で症状を抑えてるんだ」
日向さんは「てへへ」と口にしながら、コツリと自分の額を叩いた。
昭和の芸人みたいなリアクションだ。
病気を告白している人にしては、いささか明るすぎる、気がする。
「あ、信じてないでしょ」
そう言って、不満げに口をへの字にして、彼女は僕の顔を覗き込んだ。
少し油断すれば、吐息がかかりそうな距離だ。
日向さんはなにかと距離が近くて、反応に困るときがある。
「......信じるよ」
僕が諦めたようにそう口にすると、彼女は何故か満足そうに頷いた。
疑ったところで、そんな変な嘘を僕につく意味もないだろう。
僕みたいな奴相手でも、信じてもらえたことは嬉しいらしい。
「これは秘密だよ」
「分かったよ。誰にも言わない」
「ーー二人だけの、秘密ね」
彼女は人差し指を口元にあてて、いたずっらぽい笑みを浮かべた。
先ほどまでの重たい雰囲気はどこかへ消えてしまったようだ。
僕は不思議な罪悪感に、心がざわつくのを感じていた。
秘密。
僕はまるで悪事の共犯者にでもなってしまったようだ。
そして思った。
一体どれくらいの人が彼女が病気だということを知っているのだろう、と。