眠り姫は宇宙ロケットの夢を見る

 大学の卒論について研究室の教授から指導という名の愚痴を延々と聞かされた後、僕は倦怠感を抱えながら帰路についていた。

「ーーただいま」

 寂れた学生アパートの扉を開ける。

「おかえりー」
「……梨沙」

 我が家の狭いリビングにいた先客は、パジャマ姿の妹だった。
 ソファに深く腰掛けて、呑気にテレビを眺めている。

 今年、専門学校を卒業して看護師になった妹の梨沙は、大学四年生になった僕のアパートにすっかり入り浸るようになった。

 看護師専用の寮に住んでいるくせに、何故かことあるごとに僕の部屋に泊まりに来る。
 なにかと荷物を置いていくことも多く、妹という名の侵略者によって、僕の生活スペースは徐々に浸食されつつあった。

「夕飯まだだから、お腹減ったー」
「結局それ目当てかよ……」
「今夜は何作ってくれるの?」
「……カレー」

 やったー、と妹が間の抜けた声を挙げる。
 まんまと良いように使われている気がする。

 僕はため息をつきながら、部活から帰ってきたサッカー少年のように、冷蔵庫から取り出したお茶を勢いよく飲み干した。
 今日は随分と疲れた。乾いた砂に水が仕込むようだ。

 妹が見ているテレビの音を片耳で聴きながら、手にしたスーパーの袋から食材を次々と冷蔵庫に入れていく。

 購入したのはカレーのルー、野菜、そして豚肉。
 豚バラ100グラムあたり203円。

 手を動かしながら、ふと考える。

 命は金に変えられないなんて、大嘘だろう。
 人以外の生物には、確実に値段がつく。
 食用にせよ観賞用にせよ、グラム数にせよ一頭あたりにせよ。

 或いは人間だって、考えようによってはその価値は値段に換算できる。
 人身売買がどうとかそんな単純ことでなくても、世間一般では賢くよく働く人間なら高い給料が貰える。
 愚かな怠け者には低い価値しかつかない。

 つまらない人間とご飯は行きたくないし、可愛い女の子になら遠出して高いレストランを奢ったって良い。
 人間の価値は、明らかに金銭に換算できる。

 じゃあ、僕の価値はいくらなんだろう。
 少なくとも、スーパーでパック詰めされた名もなき豚よりは、いくらか値段が張って欲しいものだけど。

「……どうだっていいか」

 そんな与太話を頭の中で繰り広げながら、食材をさっさと片付ける。

 そのままシャワーでも浴びようかと思ったけど、なんとなく気が向いて、僕もソファに腰を下ろしてテレビを一緒に眺めることにした。

 テレビでは、ちょうど心霊番組が始まるところだった。

 心霊といっても本格的なホラーとかではなく、再現VTRを流して芸能人が騒ぎ立てるだけのチープなバラエティだ。

「今どき珍しいね、こんな典型的な心霊番組」
「うん……」

 僕の苦笑混じりの言葉に、妹はどうも気の抜けた相槌を返す。
 改めて隣を見ると、妹はテレビに目をやりながらも、クッションを抱きしめて小さく震えていた。

 もう二十を超えた社会人だというのに、こんなチープな心霊番組が怖いようだ。

 そんなに怖いなら見なければいいのにと単純に思うけど、その視線は画面にくぎ付けになっている。
 どうやらそんな理屈を超えた魅力が、この心霊番組には隠されているらしい。

 テレビ画面には薄暗い寂れたマンションが映されていた。よく幽霊が出没するスポットと専らの評判らしい。

 いったい誰がそんな評判を流しているのだろう。世の中には噂好きな人がいるものだ。

 この建物の一室には、かつて自殺した女性が成仏出来ずに夜な夜な姿を現わすらしい。

「……ありがちだな」

 おどろおどろしい効果音をバックに、カラフルで派手なテロップが流れる。
 心霊現象というにはあまりに安っぽい演出で、恐怖からは程遠いように思えた。

 しかし、隣に座る妹は、いちいち場面が切り替わるたびに「ひっ」とか「きゃっ」とか怯えた声を漏らしている。

「......これ怖いの?」
「ここここ怖くないわよ」

 それ、怖い奴の反応でしょ。素直か。

 退屈な再現ドラマがしばらく流れた後、今度は白装束を纏った胡散臭いお婆さんがなにやら霊の解説を始めた。

『悪い気が溜まることで死後の世界との境界線が――』

 僕はふと、隣で沈むように丸まっている妹へ目をやる。

「――なあ、死後の世界って信じる?」

 妹は恐怖を抑えるために唇を噛みしめていたのか、唇が青白く変色している。本当に根っからの怖がりだ。
 たかが心霊番組でこんな様子では、看護師としてうまくやれているのだろうか。

「あるんじゃない……だって、これ見てよ」

 震えた声でそう口にしながら、テレビに視線を戻して再び唇を真一文字に引き締める。

 まったく可愛い奴だ。
 僕は妹の動揺ぶりに呆れ笑いを浮かべながら、同じくテレビの画面を眺めた。


 ーーそしてふと、もうこの世にいない、あの女の子のことを思い浮かべた。


 彼女が亡くなって、もう四年も時間が経った。
 時間の流れが、とても早く感じられる。

 当時は世界が終わってしまったかのような気持ちだったけれど、歳月は誰にも待ってくれたりはしなかった。

 まるで故障した砂時計のように、止めどないスピードで時間は流れ続けた。

 遥か遠くに思っていた未来は次々と僕の前に姿を現しては過ぎ去っていき、気がつけば僕は大学生四年生になり、二十も過ぎて、あの頃よりも少しだけ大人になっていた。

 彼女のいない世界で息をして。
 彼女のいない世界で食事をして。
 彼女のいない世界で眠る。

 当たり前のはずの生活は、薄いカーテンから外の光が漏れ出すみたいに、どうにも名状し難い悲しい感情が零れていくみたいだった。

 そういえば彼女は「私が死んだら化けてアナタを驚かしてやる」とイタズラっぽく笑っていた。笑えない冗談だ。
 僕は彼女の冗談にいつも、どう言い返したものかと反応に困っていた。

 もう彼女の死から四年が経つけれど、今のところは心霊現象に悩まされた経験はない。

 彼女はもう成仏してしまったのだろうか。
 それとも僕に霊感が皆無なせいで、彼女の姿が見えていないだけなのだろうか。

 そうだ、彼女は騒がしいことが大好きだったから、幽霊になっても街中を彷徨ってウィンドウショッピングを楽しんだり、誰かの誕生日パーティーにでも勝手に参加したり、ふざけたことでもしているのかもしれない。

 あの天真爛漫を体現したような女の子のことだ。
 この心霊番組みたいに、陰気なマンションの一室にいつまでも留まっているようなことは到底考え辛い。

『この世への未練が魂を霊へと変化させるんですね――』

 お婆さん霊媒師はまるでこの世の真理を語るかのように、厳かな雰囲気を醸し出しながら語っている。
 その口調は演技がかっていて、どうにも信憑性に欠いた。

 ーーこの世への未練。

 ふと思った。
 彼女はこの世に未練を残さなかったのだろうか。

 今もなお生きながらえているこの僕は、彼女への未練をまだこんなにも残しているのに。

 四年も経つのに、未だに何度も夢に見る。
 片時たりとも彼女のことが頭から離れないくらいだっていうのに。

 どんどんと時間が経ち薄汚れた大人になる僕とは対照的に、もう決して年を取らない、思い出の中の彼女の姿。

 それはただただ美しく、神秘的で、この手では触れられない郷愁の原風景だった。

 大学からの帰り道、葉桜の散る河川敷に、気が付けばそこにいるはずのない彼女の姿を探している。

 彼女はもう、僕の前に姿を現わすことは二度とないっていうのに。
 そこに居ないかのように生きていた。

 誰かと深く関わる必要なんてない。
 関われば自分が傷つくだけだ。

 他人と仲良くつるんで、退屈な世間話に花を咲かせて、くだらない冗談で笑い合って。
 まるで僕とは別の世界で起きている話のようだ。

 僕にはそんな生活を送る能力も、権利もない。

 高校三年生。
 それが平凡な僕に与えられた唯一の肩書。

 退屈な毎日だった。

 得意なこともない。
 容姿も、運動も、コミュニケーション能力も、すべて平均点以下。
 学校の勉強だけは、ちょっとマシな程度。

 人間関係も苦手で、友達もいなければ恋人もいない。

 以上、自己紹介終了。
 それが染谷悠介という人間だった。

 およそ充実した青春と呼べるものを全く享受せず、孤独に毎日を過ごしている高校三年生。

 世界からどうでもいいと思われている僕にできる唯一の抵抗は、僕が世界をどうでもいいと思うことしかなかった。

 ーー星空に例えるならそう、星屑だ。
 誰に見向きもされずに、光ることもできない、ただそれだけの存在。

 何者にもなれずに宇宙を漂いながら、いつか燃え尽きて、文字通り塵となるその日を待つだけ。

 学校に着けば教室の片隅から、誰と話すわけでもなく、いつも騒がしいクラスの中心をぼーっと眺めている。

 自分たちこそが世界の中心であるかのように、我が物顔で騒ぎたてるクラスメイトたち。

 そんな明るく振舞っている連中が、まるで自分とは違う星から来た宇宙人に見えた。
 そんなクラスの一軍の連中とは、関わったこともないし、関わろうとも思わない。

 どれだけ周囲に愛され、どれだけ友人に恵まれたら、あんな風に楽しげに毎日を過ごすことができるのだろう。
 前世で、全財産を世界中の恵まれない子供を救うために注ぎ込むくらいの徳を積んでいないと割に合わないんじゃないか。

 僕にとってそれは、世界七不思議に次ぐ謎だった。





「染谷、五十嵐先生に物理のノート出しに行くんだろ。俺のもついでに渡してくんね?」

 夏休みが明け、まだ暑さの余韻が残る季節だった。

 放課後、帰り支度をしていると、声をかけられた。
 仕方なく顔を上げると、坊主の男子生徒がこちらを向いて立っていた。

「ごめん、今日は早く塾に行かないとヤバいんだよ! 頼まれてくれ」

 そう言って、両手を擦り合わせるようにして顔の前で合わせる。

「べつにいいけど……えっと」

 僕は目線を滑らすようにして、差し出された大学ノートに書かれた名前に目をやった。

「分かったーー松坂君」
「ありがとな〜」

 男子生徒は調子の良い声をあげて、嬉しそうに手を振りながら足速に教室を出て行った。

 松坂君は坊主で日に焼けているようだったから、多分夏までは野球部だったのだろう。
 知らないけど。

 僕は軽くため息をついて、荷物を肩に背負う。
 部活やら、放課後の塾やらに向かう賑やかな生徒たちとすれ違いながら、職員室へ向かった。

 物理のノート二冊を片手に、職員室前に貼られた、先生たちのデスク配置表をしっかりと眺める。
 五十嵐先生の名前は……あった。

 間違えのないよう、しっかりと配置を頭に叩き込む。
 先生が不在の方が、都合が良い。いちいち余計な話をせずに済むから。
 先生に見つかる前に、机にノートだけ置いてさっさと帰ってしまおう。

 そんなことを考えていると、背後から突然声をかけられた。

「ーー染谷」

 慌てて振り返ると、僕よりも頭一つ高い、スーツ姿の痩身の男性教師が立っていた。

「俺に用だろ」
「えっと……」
「担任の五十嵐だよ」

 そう言って、五十嵐先生はワイシャツの胸ポケットに挿してあるボールペンをトントンと指さした。

 キャップには猫のキャラクターが模してある可愛らしいデザインで、一見すると男性の持つ文房具には不似合いに思えた。

「いい加減覚えろよ、この猫ちゃんキャップ」
「……すみません」

 ペコリと軽く頭を下げる。
 五十嵐先生は満足したように頷いて、職員室の方を親指でさした。

「まあ、来いよ」

 五十嵐先生に連れられるままに、職員室に入室する。
 授業の終わった放課後にも関わらず、先生たちは忙しそうに仕事に追われていた。
 きっと、教師というのは大変な仕事なのだろう。

「ほい、ノートの提出だろ」

 デスクに着くと、五十嵐先生は気怠そうに椅子に深く腰掛けた。

 担任の五十嵐先生は、物理を教えている。
 スラリとした長身に、黒縁メガネのダウナーな雰囲気がウケているのか、一部の女子の間ではイケメンと囁かれている。らしい。

「はい、お願いします」

 松坂君の分も合わせて、二冊のノートを重ねて手渡す。

 二冊のノートを、五十嵐先生は物珍しげに見比べた。

「なに、頼まれたの」
「まあ、なりゆきで」

 五十嵐先生は興味深げに「へぇ」と声を漏らした。

「仲良く話せたか?」
「いや、それは全然」

 僕の即答に、五十嵐先生は呆れたようにため息をついた。

 ノートを受け取ったときのやりとりは、友達同士の会話とかじゃなく、単なる業務連絡みたいなものだった。

 そもそも、クラスメイトと馴れ合うつもりもない。
 何を話せば良いのかも分からない。
 世間の高校生は一体どんな世間話で盛り上がっているんだろうか。

「どうせお前、クラスメイトの名前だって、覚えてなかったろ」

 五十嵐先生は僕の胸中を透かして読み取るみたいにして、僕の顔を見た。

「……図星です」
「素直なのは悪いことじゃない」

 クラスメイトの名前を覚えていないことは事実なのだから、言い訳のしようもない。
 潔く認める僕に、五十嵐先生はくっくっくっと小気味良く笑った。

「もう、行っても良いですか」
「まあ待て、染谷」

 ノートの提出という役目を終えたのだから、早く帰らせて欲しい。
 そんな様子を見かねたように、五十嵐先生は僕の肩にそっと手を置いた。

「いや、真面目な話さ、もう半年もすれば卒業だっていうのに、このままでいいのか?」

 五十嵐先生は、先ほどよりも真剣味を帯びた雰囲気で、僕の目を見つめた。
 なんと返したものか思いつかず、僕は答えに窮した。

「ーーいいですよ、僕は暗い奴だから」

 目線を泳がせながら、ひねた子供のように、ぽつりと呟いた。

 五十嵐先生が担任になったのは三年生になってからだけど、僕の置かれた状況はよく知ってくれていた。

 こうして、なにかと機会があるごとに僕に気をかけてくれる。
 でも、僕は孤独には慣れている。
 僕が友達がいないのは今に始まったことじゃない。昔からだ。

「俺は……後悔が無いように、高校生活を送ってほしいだけなんだけどな」

 そう言って、五十嵐先生は困ったように後頭部を掻いた。
 社会人にしてはボサボサに伸びた黒髪が、所在なさげに揺れる。

「後悔が残ると、大人になってから辛くなるぞ。昔を思い出すのが」
「……はい」

 五十嵐先生の、僕を射抜くような力強い目線。
 それに僕はただ、気の抜けた生返事をすることしかできなかった。

 五十嵐先生は優しい。
 それに、正しいとも思う。

 僕が間違っている。
 それだけなんだ。

「ーー失礼します」

 きまりが悪く感じて、僕は叱られて逃げる子供のように、そそくさとその場を後にした。

 振り返ることもせず職員室を出て、先ほどより人気が減って静かになった廊下の階段を、一段ずつ降りる。

 冷たい銀の手すりに指を這わせながら、考える。

 先ほど五十嵐先生に提出した、物理のノート。
 今回学習した教科書の単元に書いてあった内容を、ぼんやりと思い出す。

 この世界には、重力があるそうだ。
 ごちゃごちゃとした公式や、取ってつけたような説明が教科書には載っていたけど、そんなこと知らなくたって、僕らは生まれたときからその法則に縛られている。

 全ての存在は、より巨大で質量を持った存在へと引き寄せられて、逃れることはできない。

 世界にとって小さくて弱い存在は、大きい存在の前ではただ支配されるだけ。

 この世界には存在している。
 どうしようもないほどに僕らを地べたへ押し付ける、重力が。





 さっさと帰ろうと、職員室から下駄箱に向かう途中、廊下の窓から校舎に囲まれた中庭が見えた。

 この学校、西南高校の中庭は比較的広い。
 サッカーのグランドくらいはあるだろうか。
 校舎沿いに囲むように木が生い茂っており、ベンチや広場なども併設されている。

 昼休みは食事を取ったり、ふざけあう生徒たちで賑わっている。
 しかし放課後は人の気配がなく、まるで役目を終えたサーカスのステージみたいに、寂しいくらいに静かだった。

「ーーあれ」

 今日の夕飯はなんだろうとか、今度数学の参考書を本屋で探してみようとか、そんなどんでもいいことを考えながら、なんの気無しに眺めていた視界に、僕は違和感を覚えた。

 違和感の正体はすぐに分かった。
 中庭の片隅に、忘れられたように佇んでいるベンチ。

 そこに、女子生徒らしきシルエットの人間が、ぐったりと横たわっているのがチラリと見えたのだ。

 非日常的な感覚に、胸がどきりとした。
 あの女子生徒は、まさかベンチで寝ているのだろうか。

 いや、夏休みは過ぎたとはいえ、まだ残暑の厳しい時期だ。
 少し日に当たれば、汗をかいたシャツがべっとりとして気持ち悪く感じてしまう程度には、気温も湿度も高い。
 まだ陽のある夕方ごろとなれば尚更だ。

 そんな暑さの残る季節に、外のベンチで堂々と昼寝をしたりするだろうか。
 そもそも、放課後にわざわざ中庭の隅っこのベンチで昼寝なんて、あまり常識的な行動ではない。

 もしかしたら、倒れている、とか。
 もし、熱中症や体調不良で動けないなんてことになっていたら、どうしよう。

 内心焦りながら、キョロキョロと辺りを見回す。
 廊下にも、中庭にも、他に生徒や先生の姿は見えなかった。

 そもそも、ベンチ自体が中庭の隅っこにあるような、廊下の窓からやっと見えるような位置にあり、通行人が気がつくのは難しい。
 この状況に気がついているのは、おそらく自分だけだろう。

「ーーくそ」

 誰に聞かせるわけでもなく、舌打ちを鳴らす。
 気がつくと、身体が動いていた。

 勘違いだったら、どうしよう。
 そう思いながらも、流石に倒れているとしたら見過ごすことはできない。

 意識があるのか、様子を見るだけでいい。
 もし本当に倒れていて救助が必要だとしたら、とりあえず誰か先生を呼べばなんとかしてくれるだろう。

 勘違いなら、ただそのまま帰るだけ。
 それだけの話だ。

 そんな誰に聞かせるわけでもない言い訳を心の中で繰り返しながら、下駄箱を通り過ぎる。
 そして駆けるようにして、中庭に上履きのまま飛び出した。

 ベンチで横になっている女子生徒を見つける。
 あそこだ。

 気もそぞろに、早足でベンチに駆け寄る。
 そこに横たわっていたのは、

「ーーああ」

 思わず、嗚咽のようなため息を漏らした。

 まるで、眠りに落ちた姫。
 そんなキザな表現が、頭に浮かんだ。

 彼女を中心として、額縁で切り取った絵画みたいに、別の世界がそこにあった。

 流砂のようにきめ細かく美しい黒髪が、さらさらと垂れている。
 折り目のついたスカートからすらりと伸びた綺麗な足は、美しい曲線を描いていた。
 夏服のワイシャツから露出した肌は、きめ細やかで白く、陶磁器のように見える。

 まるで映画の世界から飛び出してきたような、美しさをたたえた女子生徒だった。

「……寝てる、だけか」

 緊張でどきまぎする気持ちを抑えながら、呟く。
 念のため、距離はとりながらも顔を覗き込んで確認する。

 女子生徒の顔色は悪くなかった。
 暑さから少し汗ばんでいるようだが、極端に汗をかいているようには見えない。

 なんなら、すうすうと寝息を穏やかに立てている。
 呼吸に合わせて、ゆるやかに長いまつ毛が揺れた。

 ただ寝ているだけなら、わざわざ起こすこともないだろう。

 誰とも知らない男子生徒がいきなり体を揺すってきたら、この女子生徒も驚くだろう。
 下手に身体に触れれば、寝込みを襲おうとした変態と間違われても言い訳はできない。
 触らぬ神に祟りなしだ。トラブルには関わりたくない。

 そんなことを考えながら、その場を去ろうとした瞬間だった。

「……ん」

 目の前の女子生徒が、前振りもなくパチリと目を開けたのだ。

 しゃがんだままだった僕は、まるでこれからシンデレラにキスをしようとする王子のように、至近距離で思い切り目線が交差した。

「あ、あの、すみまーー」
「ゆめ」
「へ?」

 もし勘違いされたら大変なことになる。
 しかし、身をのけぞらせて、慌てて謝ろうとした僕を制止するように、女子生徒が何か呟いた。

「夢ーー見てた。宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろす夢。何度も見る、夢」

 寝ぼけているのか、瞼を重そうにしながら不明瞭な言葉をポツリとこぼす。

 なんの話だろう、夢だって?
 脈絡がなくてよく分からないけど、まだ意識がはっきりしてないのかな。

「君は……誰?」

 女子生徒は目を擦りながら、僕の顔をじっと眺めた。
 徐々にその焦点が合ってくる。
 だんだんと頭が起きてきたのかもしれない。

「あの、僕は、誰か倒れているのかと思って」

 誤解されないよう、慎重に言葉を選んで弁明する。

 ここで痴漢にでも間違われたものなら、僕の高校生活は本当の意味で終わってしまう。
 退学だってあり得るかもしれない。
 まあ、僕がいなくなって惜しんでくれる人なんて、いないんだけど。

「あ、染谷君か」
「……僕のこと、知ってるの?」

 女子生徒は僕の顔を見て、安心したように笑った。

 僕の名前をちゃんと覚えている生徒なんて、ごく限られていると思うけど。
 もしかしてこの子、クラスメイトだったかな。

「同じクラスだもん。知ってるよ。もしかして、私の顔覚えてないの?」

 女子生徒は怪しむような目つきで、僕に目をやる。

 しまった、やってしまった。
 高校三年生の二学期にクラスメイトの名前を覚えてないなんて、人によっては反感を買ってしまうかもしれない。
 僕はまさかの女子生徒からの反撃に、困ったようにしどろもどろ言い訳を考える。

「あ、いや、顔覚えるのが苦手で……」

 苦手と言っても限度があるだろ、と自分自身に頭の中で突っ込む。
 我ながら苦しい言い訳だ。

「寂しいなぁ。たしかに喋るのは……初めてだけど」

 女子生徒のセリフに、妙な間が少しだけ空く。
 なんだろう、もしかして怒らせてしまったのだろうか。

「私は日向佳乃」

 日向佳乃。
 その名前には、たしかに聞き覚えがあった。
 いや、クラスで一番耳にする機会の多い名前と言っても過言ではないかもしれない。

 美少女と評判の、クラスの人気者だ。
 彼女を慕っているクラスメイトたちはとても多い。

 僕は直接は話したことはないけど、いつもたくさんの人に囲まれている印象がある。

「ああ、日向さん」
「知ってたの?」
「ごめん、顔と名前が一致しなかっただけなんだ」

 そう言って、愛想笑いでなんとか誤魔化す。

 日向さんは僕の愛想笑いを不思議そうな表情で眺めた後、はっと気がついたように顔を上げた。

「そういえば、心配してくれたんだね! 気づいたら私、こんなところで寝ちゃってたみたい」

 えへへ、と彼女は可愛らしくはにかんだ。
 まるで忘れ物を先生に注意された小学生みたいなリアクションだ。

 しかしながら、僕みたいな地味なクラスメイトの名前をちゃんと覚えてくれていた。
 それに加えて、この明るくて嫌味のない愛嬌。

 大抵の男子高校生なら、これだけで好きになってしまいそうなほどの魅力だろう。
 クラスメイトたちが彼女に夢中になる気持ちがなんとなく分かった。

「ごめんね、もう大丈夫だから。あーよく寝た!」

 上半身を猫みたいに伸ばして、うーんと大きなあくびをする。
 関わったことがなかったけど、日向さんは随分と自由奔放な人のようだ。

 僕はその姿を見ながら、小さくため息をついた。
 本当に昼寝をしていただけなら、もう大丈夫だろう。
 教科書の詰まった鞄を持って立ち上がる。

「じゃあ、僕はもう行くからーー」
「あれ、それ」

 僕の別れの挨拶を遮るように、不意に日向さんは僕の鞄を指さした。
 正確に言うと、僕の鞄に付いているキーホルダーを指さしていた。

 それは、僕が小学生の時から鞄につけている宇宙ロケットのキーホルダーだった。

 たしか、近所のおもちゃ屋さんのガチャガチャで手に入れたものだった気がする。
 もう古びてところどころ塗装も剥げているけど、なんだか愛着が湧いて今まで捨てられないでいる。

「ロケット……」
「そうだけど」
「好きなの?」
「うん、なんとなく……宇宙とか、ロケットとか、興味があって」

 彼女は興味深そうな目つきで、僕の顔とロケットのキーホルダーを見比べた。

 たしかに宇宙には少しだけ興味があって、子どもの頃に図鑑をよく眺めたり、親に天体観測に連れて行ってもらって嬉しかった記憶がある。

 でも、ロケットのキーホルダーがどうしたんだろう。
 そういえばさっき、寝起きのときに宇宙ロケットがどうとか言っていた気がするけど。

「私、よく夢を見るの。全く同じ夢。宇宙ロケットに乗って、宇宙から地球を見下ろすの」
「はあ」

 夢占い的な話だろうか。
 申し訳ないけど、僕は寡聞にしてそういった類の話については知識がない。
 朝のニュース番組の占いすらまともにチェックしたことがないくらい、興味がない。

 そういえばさっき、起き抜けにも夢がどうとか言ってたな。

「夢の正体をーー見つけて欲しいの。一緒に」
「は⁈」

 日向さんの不思議なお願いに、思わず大きな声でリアクションしてしまう。

 冗談でも言って、からかっているのだろうかと思ったが、彼女の表情は本気のようだった。
 真っ直ぐな目線で、こちらを見つめる日向さん。

 僕は全く話が飲み込めず、にわかに頭が混乱した。

「……よく分からないけど、僕と話すのは初めてなんだよね」
「うん」
「夢の正体を探すって言うのは、どうやって?」
「それを一緒に考えて欲しいの」

 顔すら覚えていなかった僕に、いきなり何か頼み事をするだけでも不思議なのに、夢の正体を探せだって?

 いったい、彼女にはどういう意図があるのだろう。
 もしかして、まだ寝ぼけているのだろうか。

 それか僕のことをからかって楽しもうとしているのだろうか。
 近くにクラスメイトたちが隠れていて、実はドッキリでしたーと登場するとか?

「ーー寝ぼけてないよ」

 何故か胡乱な目つきでこちらを見ながら、念を押してくる日向さん。
 心を読まないで欲しい。
 
 僕は内心を見透かされたようで、どぎまぎしながら首を振った。

「そういう冗談は、仲の良い友達に頼みなよ。僕は、そういうの苦手だから」
「染谷君だって、私の友達でしょ! クラスメイトだし」
「クラスメイトではあるけど……」

 日向さんは、キラキラと目を輝かせて、僕の顔をじっと見つめる。

 そんな期待されても困る。
 なんとか断る台詞を頭の中で探すが、こんな美少女を前にしては、緊張でなかなか気の利いた言葉が浮かばない。

「じゃあ、お願いね! これから、よろしく」

 僕の沈黙を肯定的に捉えたのか、日向さんは語尾に音符が付きそうな調子で、明るく微笑んだ。

 世界中の男子高校生が漏れなく恋に落ちてしまうような、魅力的な笑顔だった。
 静かに暮らしたい。そう思っていた。

 孤独で、不器用で、人とうまく関わることができない。
 自慢できるようなことだって、何一つだってない。

 そのくせ失うのが怖くて、自分がいつも一番大事。
 欠陥だらけで、歪んでいて、ちっぽけな存在。

 それが僕だった。

 学校でも、どこでも、人と馴染めない自分に気がついた。
 もともと馴染む気もないけど。

 今更、他人と深く関わることなんて無い。
 不必要な慣れ合いは必ず軋轢を生む。

 もう、何一つだって失いたくない。ただそれだけなんだ。
 無理して溶け込もうとせず、静かに暮らせればそれでいい。

 ただ過ぎ去っていく目の前の光景をぼーっと眺めながら、そんなことを考えていた。

 だが、彼女は違った。
 そう、日向佳乃だ。

「へー駅前にそんな場所あるんだ! 今度行ってみようかな」

 昼休み。
 教室で一人静かに教科書を開いてパラパラ捲っていると、日向さんの明るい声が耳に飛び込んできた。

 教室の一角に形成された、賑やかな人だかり。
 その中心に彼女がいた。

 クラスでもひときわ目を引く存在で、親し気に周囲と談笑している。
 日向さんはこのクラスでの確かな地位を確立していた。

 改めて観察してみると、彼女はいつも笑顔だった。

 突然クラスメイトから話しかけられたり、授業中に先生から話題を振られたときでも、まるで百戦錬磨のアイドルのようにサラリと上手に返してみせた。

 親しみやすく明るい態度で、そのうえ誰彼も垣根なく平等に接する日向さんの人柄は、クラスメイトたちから喜びと共に受け入れられているようだった。

 休み時間になると、クラスメイトたちはまるで習慣づけられた忠犬のように決まって彼女を取り囲んでグループを形成し、プロ野球の試合後のインタビューさながらに大質問会を開催していた。

「......いいな、人気者は」

 クラスメイトたちの興味の大半は彼女に向いている。
 彼女を取り囲む同級生たちからは、ある種の信頼や憧憬の念さえ感じられる。

 例えるなら、そう、まるで彼女は太陽のようだ。
 それ自体が圧倒的な輝きを持っている。

 他の生徒たちは恒星や衛星のように、その周りをただ回るだけ。
 その巨大な重力は見る者を引き付けて離さず、しかし一方でその熱量は誰も直接触れることを許されない。

 中庭での一件みたいな偶然こそあれど、僕みたいな暗い人間とは一生縁が無い存在だな。

 こんなエネルギッシュなキャラクターの女の子、僕とは正反対の存在だ。

 そう、正反対。

 光を発することもできずに、暗い宇宙空間でずっと一人で生きてきた、僕とは。





 夏休み終わりに行われた実力テストの結果が、職員室前に大々的に張り出されていた。

 今どき、個人情報保護の観点からテスト結果の掲示は取り止めているところが多いそうだけど、そういった風潮は我が校にはどこ吹く風らしい。

 一度、校長が朝礼で「あえてお互いの立ち位置を知ることで競争心をうんたら〜」と話していたのを覚えている。

 どうせなら、人間としての価値のランキングでも貼り出して欲しい。
 きっと僕が最下位で、日向さんみたいな人間が一位になるだろう。

 べつに誰と比べるわけでもないけど、テストの出来を確認するためにも、なんの気無しにテストの結果を眺めていると、

「染谷君って、頭良いんだね!」

 青い空に響く鐘のような、綺麗なソプラノが耳に届く。

 声の主は眩しい笑顔を浮かべながら、僕の隣へ並ぶようにやってきた。

「あ、えっと、そうでもないですけど」
「なんで敬語!」

 耳をくすぐるような、快活な笑い声。
 その眩しいくらいの明るさに、僕はどうにも答えに窮した。

「私もわりと自信あったんだけどなー。ほら、今回は総合十位だ」

 彼女が指をさした先には、日向佳乃の名前があった。

「そっか、すごいね」
「もー嫌味? 染谷君の順位は……」

 日向さんはつーっと列に沿って指を上下させる。

「二位じゃん! えー、すごい!」
「……たまたまだよ」

 何故か自分のことのように騒ぐ日向さんを横目に、なんとか嫌味に聞こえないよう気を遣う。
 本当に、たいしたことじゃない。

 学校の定期テストなんて、指定された範囲をいかに効率よく覚えるかの暗記ゲームだ。
 特に、三年生にもなると大学受験に使う科目を絞って、自分が受験に使わない科目は捨てる人も多いから、学校の定期テストがイコール偏差値には繋がらなくなる。

「私より良いじゃん! なんで授業中とか、もっと発言しないの? 分かってるんでしょ」
「目立つの、嫌いだから」

 僕のネガティブな返答に、不思議そうな表情で首を傾げる日向さん。
 彼女には、僕みたいな暗い人間の考えは理解できないらしい。

「っていうか、顔覚えるの苦手って言ってたけど、記憶力いいはずでしょ!」
「勉強とは、違うから」

 この言葉に嘘はなかった。
 僕は人の顔を覚えることはできない。
 ただそれだけなんだ。

「でも、勉強好きなんだ?」
「いや、文字の方が好きなんだ……人間より」

 学校の勉強は良い。
 ただ、文字や数列を追っていれば答えに辿り着ける。
 不確定な要素は排除され、たしかな前提のもとにしか話は進まない。

 単語や文法は嘘をつかない。
 難易度でいえば、人間の表情を読み取るよりもずっと、僕には優しいことに感じられる。

 テストの順位表を眺めながら、友達の名前を見つけては「うわー」とか「えー」とか声を上げている日向さんを眺めていると、僕はあることに気がついた。

「ーーそのリボン」

 僕は、日向さんの胸元にぶら下がっている、リボンを指さした。

 学校指定の女子の制服には、無地で灰色のリボンの着用が義務付けられている。
 しかし、彼女の制服のリボンには、端から中央にかけて青い線が数本走るように縫われていた。
 まるで流れ星のようなデザインだ。

「うん? ああ、ほつれちゃったことがあって、ちょっとアレンジして直したの。素敵でしょ?」

 ふふんと鼻息を荒くしながら、自慢するようにリボンを見せる日向さん。

「自分でやったの?」
「そう、お母さんに習って、刺繍してみたんだ」
「そっか、すごいね」

 僕はその刺繍をじーっと眺めた。
 校則違反で彼女が怒られなければいいけど。
 でも、日向さんならそんな場面も明るく笑って切り抜けるんだろうな。

「ーーねぇ、今日の放課後ヒマ?」

 まるで内緒話をするように、口に手を当てて日向さんが言った。

「べつに、何もないけど……」

 何故そんなことを聞くのだろう。
 まあ、放課後に用事があった試しなんてないけど。

「この前、言ったでしょ。夢の正体を探すのを手伝って」

 彼女はイタズラを企む子供のように、ニヤリと目を細めて笑った。





 放課後、教室を出て下駄箱に向かう途中、いきなり誰かに鞄を掴まれた。
 一瞬、不良にでも絡まれたかと思って心臓が跳ねそうになったけど、どうやら違った。

 振り返ってみると、僕より頭ひとつ背の低い女子生徒が、息を少し切らしながら僕の鞄を掴んでいた。
 灰色のリボンに青い流星の刺繍、日向さんだ。

「なんで帰るの」
「えっと……」
「約束したでしょ! さ、行きましょ」

 なんと返したものか、返答に困っていると、日向さんはその華奢な手で僕の腕を掴んだ。

 直に触れる肌から、こそばゆい感覚が伝わる。
 彼女のその手は、九月の息苦しい残暑の季節には不釣り合いなほど冷たく感じた。

「ちょっと……」

 これからどこに行くのか、何をするつもりなのか。
 質問も弁明をする暇もなく、そのまま引きづられるように歩いていく。

 彼女の揺れる後頭部を背後から眺めながら歩き続け、気がつくと、僕たちは図書室へたどり着いた。

「さ、入りましょう」
「いいけどさ……」

 放課後の図書室は随分と静かで、人気はほとんどなかった。
 教室よりはずっと広い図書室内を見渡しても、一人で座って勉強なり読書をしている生徒が片手に数えられる程度で、閑静な雰囲気が保たれていた。

「それで、これから何をするの」

 図書室の窓から校庭が見える。
 遠くから聞こえてくる運動部の掛け声が、まるで別の世界の出来事かのように思えた。

「言ったでしょ、夢の正体を探りたいの。手伝って」
「力になれるか、分からないよ」

 そのまま日向さんに促されるがまま、二人で席についた。

 今まで関わりがなかったから知らなかったけど、彼女は明るい性格であると同時に、かなり強引で積極的な性格でもあるようだ。

「まずは、宇宙ロケットに乗る方法を調べましょう」
「……夢占いじゃなくていいの?」

 僕は意味がよく分からず、眉をひそめた。
 夢の正体を探ると言われると、まず浮かんだのが夢占いだ。

 落ちる夢は吉兆だとか、同じ夢を何度も見るのはトラウマが原因だとか、どこかで聞いたことがある。
 もちろん、詳しくは知らないけど。

「占いは嫌いなの、私。運命は自分で切り開くものだから」
「……そうですか」

 何故か胸を張って、自信ありげに答える日向さん。
 まるで少年漫画の主人公みたいな物言いだ。
 彼女くらい自分に自信があれば、そんなセリフも堂々と口にできるのだろう。

「でも、宇宙ロケットに乗る方法なんて、どんな本に書いてあるのかな?」
「……図書館に来ておいてなんだけど、調べるならスマホでいいんじゃない?」

 宇宙ロケットや宇宙工学について、本当に詳しいことが知りたいなら書籍の方がいいかもしれないけど、まず手始めに調べるならインターネットの検索機能で事足りるだろう。

 ただ、他の生徒がいる教室で二人きりで話していれば、周囲から好奇の目で見られること間違いなしだ。
 その点、静かな図書館に来れたのは僕としては有難いけど。余計な気を使わなくて済む。

「……たしかに!」

 僕の指摘に、日向さんはポンと手を鳴らす。
 一見、彼女は溌剌として聡明そうに見えるけど、少し抜けたところもあるみたいだ。

「やっぱり頭良いね!」
「そんなことないよ」

 日向さんはやたら僕を持ち上げようとしてくるが、本当に過大評価だ。むしろこちらが萎縮してしまう。
 こうして相手に自信を持たせるような会話が、誰とでも仲良くするコツなのだろうか。

「調べてみようか」
「どれどれ」

 僕がスマホを取り出して検索画面を開くと、彼女はずいっと体を近づけて覗き込んできた。顔が近い。

 手を伸ばせば簡単に触れられそうな距離に、クラス一の美少女が座っている。
 それは地味な男子高校生の冷静さを奪うには、十分過ぎる非日常感だった。

 僕は物理的距離の近さにどぎまぎとしながら、その内心を悟られないように必死で気持ちを落ち着かせる。

「……そもそもの確認だけど、宇宙ロケットに乗って地球を見下ろす夢を見たから、日向さんは宇宙に行って同じ景色を見たいってこと?」
「うーん、それもあるかな? もしパイロットになって宇宙に行けたら、それは予知夢ってことになるよね」
「なるのかな……」

 よく分からない理屈だ。
 彼女はいったいどこまで本気で考えているのだろう。

 検索サイトで「宇宙」と打った段階で、まず「行き方」と検索候補が出てきた。
 日向さん以外にも宇宙へ行こうとする酔狂な人間が一定数はいるらしい。

 適当なホームページを開いて、画面を読み進めていく。
 厳しい選考と、長い訓練を経て、宇宙飛行士になる、という項目が目に入った。

 しかし、日向さんはお気に召さないようで、即座に却下された。
 理由は、

「私は今すぐ行きたいの!」

 とのことだった。

 一瞬、ある種の天才感がある日向さんなら、将来あるいは宇宙飛行士にさえもなってしまうかもしれないと思ったが、今すぐとなると流石に時間が足りなさそうだ。

 幾つか候補があるようだったが、調べる限り最も現実的な方法はジェット機で大気圏まで上昇し、数秒間の無情力を味わえるという旅行プランだった。
 だけど、馬鹿みたいに値段が高い。

 一瞬無情力を感じるだけでも数千万円のお金がかかるらしい。世知辛い世の中だ。
 どれだけの成功を収めれば、そんな贅沢な娯楽を体験する余裕が生まれるのだろうか。

 一通り調べ終わった後、思わずため息をつく。
 現実的な方法はほとんどなかった。それはそうか。
 宇宙に行くなんて、選ばれた人間の、選ばれた機会でしかあり得ないことなんだから。

「お金さえあれば、この無重力体験はできそうだけどね」
「じゃあそれに連れてって!」
「無理ですね……」

 放課後の図書館に、日向さんの明朗な声が響く。
 期待に満ちた笑顔を浮かべているところ悪いけど、僕にはそんな経済的余裕はない。

「じゃあ、宇宙ロケットの発射直前に忍び込むっていうのは?」
「ルパンですらそんなことは出来ないよ」

 その非現実的な提案に、僕は呆れた表情で日向さんの顔を見る。
 でも、彼女はまるで意に介していないように、うんうんと頭を捻っている様子だった。

 しばらく二人で考えた後、日向さんは大きく伸びをしながら、「あーあ」と息を漏らした。

「なにか宇宙に行く手っ取り早い方法はないかなー」
「......分からないよ」

 僕はため息を吐くように、ポツリと呟いた。
 分からないことだらけだ。僕には。

「頑張って将来宇宙飛行士にでもなればいい。日本人飛行士が宇宙に行ったとか、たまにニュースでやってるじゃないか」
「ーーそんな時間は私にはないよ」

 彼女は机に肘を乗せて身体を持たれかけながら笑った。
 宇宙に行けないって話をしてるのに、なんで嬉しそうに笑うんだ。

 まるで彼女は、僕と会話をしているこの状況を楽しんでいるようにも見えた。
 きっと、僕の勘違いだけど。

「時間がないっていうけど、時間ならあるでしょ。そりゃ宇宙飛行士を目指そうと思ったら、十年二十年は掛かるだろうけど、本気なら……」
「うーんそういう意味じゃないんだけど……」

 日向さんは頬を指で掻きながら、困ったように笑う。
 将来は他にやりたい仕事や目標でも決まっているのだろうか。

「見るだけじゃダメなの? ほら、映像を探したりとか、天体観測するとか......」

 僕は半ば投げやりになって提案する。
 見るだけ、それが一番手っ取り早くて楽だ。それにそこそこ楽しめる。

 実際、僕は天体観測が好きだった。
 子供の時に天文台に初めて行った以来、宇宙や夜空に浮かぶ星に興味を持つようになった。

 僕が小さい頃の、両親と一緒に出掛けた数少ない記憶。

 彼女は僕の提案に、口をへの字にしてこちらを眺めた後、やれやれとため息をつきながら首を振った。
 あからさまな態度に少し腹が立つ。

「あのね、見るだけならいつでもできるでしょ? 行くことに意義があるんだよ。それともあれかい、君は星空を眺めて満足するロマン チストに成り下がってしまったのかい」
「......」

 なんだその喋り方は。
 こちらこそ、ため息をつきたくなる気分だが、確かに彼女の言うことも一理ある。

 ただ星空を見るだけなら、彼女はわざわざ僕のような関わりのない人間を巻き込むことはしなかっただろう。

「星空を眺めることがロマンチックだって言うなら、それこそ男前な奴を選んで連れていけばいい。君なら引く手は数多だろ」

 彼女の周りには、自分に自信のある堂々とした人間が沢山いるはずだ。
 そういう人種は得てして容姿も優れていることが多い。

 僕の発言に、彼女は不機嫌そうに口をすぼめた。

「......君はなんでそんなことを言うかな」

 あれ、名案だと思ったんだけど。
 彼女が機嫌を損ねた理由はよく分からないが、僕は失礼なことを口にしていたらしい。
 たしかに、少し無遠慮な物言いだったかもしれない。反省。

 その後、日向さんはしばらく不機嫌なままだった。
 年頃の女子の気分というのは、春の天気のように変わりやすいものらしい。そう思った。





 図書館を出た僕らは、何故か帰途を共にすることになった。

 僕は全力で遠慮しようとしたが、日向さんが不思議なほど熱心に一緒に帰りたがったので、渋々受け入れた。

 まだ話すようになってから一日しか経っていないというのに、彼女の考えは謎そのものだった。
 こんなつまらない地味な人間と帰り道を共にしたって、そんな時間は退屈そのものだろう。

 図書館で過ごしているうちに、気がつけば陽も傾き始めていた。
 僕らの歩くアスファルトには、夕焼け空に照らされた二人分の影がゆらりと伸びていた。

「塾とかは行ってないの?」
「うん、行ってないよ」
「行ってないのにあんなに順位高いんだねー」

 日向さんは感心したように声を漏らす。

「部活は?」
「……中高ずっと帰宅部だよ」
「そっかー珍しいね」
「君こそ、部活はいいの?」
「もう夏の大会で引退したからねー」

 たしか、日向さんは陸上部だった気がする。
 全校集会で、県大会に出場する生徒の壮行会みたいなよく分からない催しがあって、その時に名前を呼ばれていた気がする。
 県大会に出場するくらいなのだから、選手としても結構すごいのだろう。知らないけど。

「部活も、勉強も、今はいいんだ」
「……」

 日向さんは、夕焼け空を見上げながら、眩しそうに目を細めた。

 僕のような厭世的な人間が言うならまだしも、彼女のようなクラスの主役みたいな人間が口にするには、似合わないセリフだ。
 部活も勉強も、一般的な学生からしたら超重要事項だろう。

「ーー今は夢の正体が知りたい。それだけなの」

 彼女は両手で筒のような形を作って、望遠鏡のように目に当てて夕焼け空を眺めた。
 僕は隣を歩きながら、足元に伸びた影を見つめていた。

「いくら目を凝らしたところで、宇宙にはいけないよ」
「あら、分からないよ。UFOがやってきて連れ去ってくれるかもしれないじゃない」
「随分と電波なことを言うんだね」
「もし宇宙ロケットがダメだったら、最悪UFOでも良しとする」
「宇宙人に連れ去られて、呑気に宇宙旅行を楽しませてくれるとは思わないけど......改造手術されたりしちゃうかもよ」
「どんとこいよ」

 日向さんは、何故か嬉しそうに胸を軽く叩く。

「......ありえない話は止めよう」
「ロマンがあっていいじゃない。夢があるわ」
「そういう都市伝説みたいなの好きなんだ、意外だな」
「ワクワクすることは好きなの。ただ常識に流されるのはつまらないから」

 流されるがまま、まったく自分の足で歩むことを辞めてしまった僕からすれば、眩しいようなセリフだ。

「......僕は常識の枠から外れない方がいいと思うけど」
「いくら常識を守っても、常識は君を守ってはくれないよ」

 嫌な格言だ。
 でも、わりと正鵠を得ているといえなくもない。

 僕はどうにも胸が掻き立てられるような不安を感じて、気を紛らわせるためにテキトーな話題を探す。

「そ、そうだ。宇宙ロケットは無理でも、ペットボトルロケットなら作れるんじゃない?」
「......なにそれ」

 僕のその場しのぎのいい加減な提案に、彼女は驚いたように目を丸くした。

「おもしろそう」
 幼い頃の僕は、事あるごとに「なんで?」「なんで?」とよく聞く子供だった。

 母親が生きている頃は、ただ道を散歩するだけでも、「あの花はなんで良い香りがするの?」「あのセミはなんで鳴いているの?」と立ち
止まってあれこれ聞くので、母親をとても困らせていた。

 その度に母は「お父さんに似ているわ。将来は学者さんね」と笑って、僕の頭を撫でた。
 そうすると、僕の心は上手く言い表すことのできない心地の良い感情に包まれた。
 それはまるで綿のブラウケットに肌をこすりあわせるような心地よさだった。

 母の手の温かさが僕は大好きだった。

 正解が知りたかったわけじゃない。
 もしかしたら、ただ母の気を引きたくて、父親に似ているというそのセリフが聞きたくて、質問を繰り返していたのかもしれない。

 やがて両親が亡くなり、小さい妹と、今にも泣き出しそうな目をした僕だけが残った。

 あの日以来、僕は誰にも「なんで?」と聞かなくなった。

 だって、世界の正解なんて、もう何一つだって知りたくはないから。





「――暑い」

 こめかみから汗が雫となって流れ落ちる。

 もう9月も中旬だというのに、空から降り注ぐ日差しはまだ真夏のそれだ。
 今年は例年よりも残暑が厳しくなると、テレビのお天気キャスターが言っていた。

 僕が今何をしているかというと、ペットボトルロケットの材料を購入すべく、工具店に来ていた。

 ペットボトルロケット製作をしたいと言い出した当の本人はここにはいない。
 なにやら用事があるとか言って、買い出しは全て押し付けられた。
 もはや驚きの自由奔放さだ。

 高三にもなってペットボトルロケットを作ることになるなんて、思いもしなかった。
 これでも一介の受験生だというのに、もっとやるべきことがある気がする。

 この残暑が厳しい中、荷物を抱えて外を歩かないといけないのも難儀なことだ。
 そもそも、なぜ僕が彼女の要望を叶えてあげないといけないのかも、改めて考えると理由が分からない。
 買い出しの対価として、コンビニのアイスでも要求しようかな。

 そんなことを考えながら、学校からほど近い商店街を歩く。
 この商店街の通りにある工具店が、テープやらノズルやらの必要な材料を購入するには、一番近所だ。

 少し遠出すれば大きなショッピングセンターもあって、百均ショップなどのテナントも入っているので、そちらの方がなんでも揃うことは分かっていたが、単純にそこまで歩くのが面倒くさかった。

 商店街に並ぶ店舗は、ほとんどシャッターが下りていた。寂れた街だ。
 地方なんて、きっと何処もこんなものなのだろう。

 ふと、小学生の頃、転校する前の街並みを思い出す。

 たしか、前住んでいた家の近所にも、こんな商店街があった。
 しかし街の再開発で、僕が転校する頃には全て綺麗なビルや住宅に建て替えられた。

 新しく綺麗な街よりも、幼少期過ごした街の方が古くも温かみがあって好きだった気がする。
 もう戻ってこない思い出を、良いように美化しているだけなのだろうか。

 人気のない通りで二度と開かないシャッターを眺めていると、まるで文明が滅んだ後の地球に残されたかのような気分になった。

「......帰ろう」

 インターネットで調べた情報に従って、そそくさと買い物を終える。
 さっさと家に帰って、冷たい炭酸ジュースを喉へ流し込みたい。

 会計を済ませて、工具店から一歩出た瞬間に、道の先から喧しい騒ぎ声が聞こえて来た。

 それが同じ高校のクラスメイトの集団であることはすぐに分かった。
 聞こえてくる笑い声には、なんだか聞き馴染みがあったからだ。

 そうだ、よく日向さんを中心として、教室で賑やかに騒いでいる男女数名の集まりだ。
 きっと、放課後の寄り道でもしているのだろう。

 声はだんだん近づいてきた。
 このままでは、この狭い商店街の通りですれ違うことになるだろう。

 僕はべつに後ろめたいことがあるわけでもないのに、踵を返して工具店に戻り、集団から見えないように姿を隠した。

 クラスメイトたちは工具店の前を何事もなく通り過ぎて、商店街をそのまま歩いて行った。
 もしかしたらと思ったけど、声を聞く限りその中に日向さんはいないようだ。

 ただ、クラスメイト一行が通り過ぎる間、僕は息を潜めるようにして、ただ黙って立ち尽くしていた。

「......なんや兄ちゃん」

 しわがれた声に顔を上げると、工具店の店主のお爺さんが不審な目で僕を眺めていた。

「す、すみません」

 ペコリと頭を下げて、逃げるように店を飛び出す。
 クラスメイトの集団は、もう姿も声も消えていた。

 もう、早く家に帰ろう。
 足早に商店街を抜ける。

 僕は一人でいるのが好きだ。
 人と仲良くすることなんて、できない。

 学校で大して親しくもない友人と群れて、無理に騒いでいるようなタイプを、むしろ嫌っているくらいだ。

 でも、一人でいるのが好きだと厭世的な人間を気取りながらも、世間から「寂しいヤツだ」と思われるのに対して、人並みの抵抗感も持っている。
 そんな平凡な自分が、情けなく感じた。

 僕はいつだって認められなかったし、期待されなかったし、理解されなかった。
 でも、僕はいつだって認められたかったし、期待されたかったし、理解されたかった。

 そんな評価に値するような資格も、あるいは能力だってないくせに、そんな叶わない願いを抱く自分が、酷く不恰好で歪んだものに思えた。

 名状し難い、どうしようもない情けなさだけが、Tシャツについたカレーのシミのように残った。





「この部屋借りますねー!」

 理科準備室の扉を開けるなり、日向さんが元気よく声を上げた。

 空いていた椅子に堂々と座って、まるで我が家のようにくつろぎ始める。

「ちょっと、日向さん」

 僕は遠慮しながら、彼女をたしなめる。

「ーーまったく、自由な奴らだな」

 扉にもたれながら、担任の五十嵐先生が面倒くさそうにぼやいた。

「僕は巻き込まれてるだけですけど……」

 というのも、日向さんがわざわざ物理担当の五十嵐先生に頼み込んで、ペットボトルロケットを作る作業部屋として放課後の理科準備室を借りることになったのだ。

「ありがとー先生! ありがたく使わせてもらうね」

 両手を上げて、満面の笑顔で感謝の意を口にする日向さん。

「......まあいいや。機械と薬には触るなよ」

 担任の五十嵐先生は、眉を顰めて彼女を一瞥したが、諦めたようにうなだれた。
 彼女の突っ走りがちな人間性は、良く知っているようだ。

「はーい」

 日向さんはちゃんと聞いているのか分からない、気の抜けた返事をする。

 五十嵐先生はボサボサ頭を掻きながら、理科準備室を去っていった。
 普通、生徒の個人的な頼みのために教室を貸してあげたりなんてしないだろうに、五十嵐先生は案外優しい先生なのかもしれない。

「さ、作業しましょ! 時間は誰にも待ってくれないんだから」
「せめて君には待ってほしいけど......」

 僕は彼女の傍若無人な態度に呆れながら、差し出すように手に提げていた袋を長机の上に置いた。

「よし、ちゃんと揃ってるみたいね」

 日向さんは机に並べられた材料を漁りながら満足そうに頷いた。

「ーーねぇ、今更だけど、ペットボトルロケットが君の夢の正体に繋がるのかな?」
「それは分かりません!」

 いっそ清々しいくらいの堂々とした態度で答える日向さん。
 どこからその自信は湧いてくるのだろうかと、時々不思議な気持ちになる。

「でも、夢って潜在意識の表れでしょ? それも何回も同じ夢を見るってことは、私が無意識に強く考えていることが反映されてると思うの。だから、やりたいと思ったことをやれば、夢につながるヒントになると思う」

 僕はなんと言い返すこともできず、渋々その説明を受け入れる。
 なんだかそれっぽいことを説明してくれている気もするけど、いまいち得心がいかない。

「まあ、やるしかないか……」
「よーし」

 日向さんは急に僕にずいっと近づくと、僕の手を掴んだ。
 そして僕の手のひらの甲に、自分の手を重ね合わせる」

「あ、あのー」
「えい、えい、おー!」

 僕から何か言い出す暇もなく、日向さんは勝手に掛け声をかけて二人分の手のひらを点に突き上げた。

 何から何までエネルギッシュな日向さんに翻弄されながら、二人で理科準備室のテーブルについた。

 それから僕と彼女はスマートフォンで作り方を調べながら、ペットボトルロケットの製作に勤しんだ。

 彼女は意外と手先が不器用なようで、必要なところまでハサミで切ってしまったり、しょっちゅうミスをした。
 その度に「あー!」と大きな声を上げて、僕はぎょっと驚く羽目になった。

「難しいな......」
「日向さんって、こういう作業苦手なんだ」
「うーん昔からね、細かい作業は下手なの。染谷くんは得意そうね」
「それは、僕が地味で冴えないって意味かな」
「もーネガティブなんだから」

 日向さんは呆れたように笑った。

 相手の言葉をマイナスに取ってしまうの僕の癖だ。
 今更変えられない、悪い癖だ。

「また失敗したー......ま、これくらいだったらセーフかな」
「いや、アウトだよ」

 彼女が手にしているペットボトルは思いきり歪んでいる。これでは墜落必死だ。

「裁縫、得意なんじゃなかったっけ」
「裁縫より難しいんだよなー」

 日向さんは困ったように眉を寄せる。
 僕には針と糸を使った技術の方がよっぽど難しいように思えるけど。

 僕も慣れないなりにせっせと手を動かして、一時間ほど作業を続けた。
 仕上げを終えると、子供番組で見たことのあるようなペットボトルロケットが完成した。

「よっしゃー! 完成ね!」

 日向さんは戦国武将さながら、両手を挙げて高らかに勝鬨をあげる。

「……結局ほとんど僕が作ったけどね」

 彼女が切り貼りした部品は切り口がガタガタでほとんど使えなかったから、僕が作り直す羽目になった。
 誰にでも苦手なことというのはあるらしい。

「さっそく飛ばしてみよ!」

 そう言うやいなや、彼女はペットボトルロケット本体と空気入れを抱えて、理科準備室から外に飛び出して行った。
 その奔放な振る舞いはまるで、活発な育ち盛りの子供を見ているような気分になる。

 やれやれと呟きながら、ロケットの発射台と、空気入れに繋げる取りつけ口を持って、その背中についていく。
 中庭まで行き、水道のある場所までたどり着いた。

「ほら、そこの蛇口で水を入れて」
「はいはい」

 僕は彼女から本体を受け取って、外の花壇近くにある水道の蛇口から水を注いだ。

「はい、空気入れ」

 彼女は何処から用意してきたのか、自転車のタイヤに使う小さい空気入れを僕に渡した。

「これ職員室にある備品じゃないの。勝手に使って大丈夫?」
「大丈夫よ、私が保証する」

 頼りにならない保証だ。無駄に怒られるのはごめんだけど、この際仕方ない。
 僕は空気入れを繋げて、ピストン運動で空気を入れていく。

「おお」

 日向さんが膨れたペットボトルロケットを手で押さえて、設置台にセットする。

「おし、行くよー」

 そう合図をして、さらに空気を押し込む。
 このまま上手くいけば、勢い良くペットボトルロケットが発射されるはずだ。
 ちゃんと発射されるかどうか、ちょっとドキドキしてきた。

 すると、

「あっ」

 瞬間、前方へ噴出するはずのペットボトルロケットはしゅるしゅるとマヌケな音を発しながらふわっと浮いて、中に溜まった水を吐き出しながらすぐに落下した。
 べしゃりと悲しい音を立てて、地面に墜落するペットボトルロケット。

「あら、失敗か」

 僕と日向さんは慌ててロケットに駆け寄った。

 地面に落ちた衝撃で、見るも無残に分解してしまったペットボトル。
 接続部分の作りが甘く、空気が漏れてしまったらしい。
 真心込めて作成した作品がこんな形になってしまうのは、なんだか切ない。

「あれー。作り方がおかしかったのかなー」

 日向さんが首を傾げながら、崩れたペットボトルロケットを眺める。

「改良の余地があるね」

 インターネットで調べた情報を頼りに作ってみたけど、作りが十分じゃない部分があったのかもしれない。

 とりあえずあたりに散らばった部品を回収して、理科準備室へと二人並んですごすごと戻る。

 次は接続部分のパーツをもう少し丁寧に削る必要があるな。
 ロケットエンジニアさながら、一丁前にそんなことを考えながら、工具を手元に用意して、改めてスマートフォンで作り方を調べる。

「少し角度を調整してみよう」
「……私よりやる気になってない?」

 笑いを浮かべながら、日向さんが僕の顔を覗く。
 僕はどぎまぎしながら、言い訳をするように手元の作業を続けた。

 いざ作業をやり始めると、案外集中して取り組んでしまうものだ。
 発射に失敗して分解してしまったペットボトルロケットにも、妙な愛着が生まれて「お前の死は無駄にしないぞ……」という気分になる。

 そもそも、日向さんの夢の正体を探すのが目的だったはずだけど。

 何故、こんな夢中になってペットボトルロケットを飛ばそうとしているのだろう。
 我ながら、かなり迷走してる気がする。

「私にも手伝わせて!」

 予想より僕が前向きに取り組んでいるのが意外だったのか、負けじと前のめりに参加しようとする日向さん。

「それじゃ、この留め具を……」

 工具を片手に持ちながら、ペットボトルロケットの材料に手を伸ばそうとした、その時だった。

「あっ」

 急に手を伸ばしたせいで、彼女が椅子にかけていた鞄に勢いよくぶつけてしまった。

 半開きになっていた鞄の口から、小さいポシェットが滑り落ちる。
 ポシェットは、二人の目の前で大袈裟な音を立てて地面に落下した。

 しかも不運なことに、少しだけチャックが開いてしまっていたようだ。
 まるでピタゴラスイッチみたいに、ひっくり返った勢いで、理科準備室の床に中身が撒き散らされた。

「あ、ご、ごめん」
「あちゃー、やっちゃった」

 僕は屈んで、謝りながら慌てて中身を拾いあげようとする。
 そして同時に、驚愕に目を見開いた。

 小さなポシェットの中には、ぎゅうぎゅうにある物がたくさん詰まっていた。

 僕が手に取ったのは、飲み薬の束だった。
 それも見たこともないくらい山盛りで、様々な種類が重なっていた。

 色とりどりのカプセルやタブレットの数々。
 それはあまりに非日常的なアイテムだった。

「ーーだ、大丈夫?」

 思わず目を泳がせながら、呟くように問いかける。
 それは、持ち物が床に散らばってしまったことなのか、それともこんなに大量の薬を持ち歩いていることなのか、自分でも分からなかった。

 日向さんも屈んで、薬の束を一緒に拾い集める。

「見てしまったね」

 日向さんは、慌てるでも、怒るでもなく、妙に落ち着いた様子だった。

「いや、この量は......普通じゃないでしょ」

 僕は彼女の手に薬の束を渡しながら、思わず目を逸らして俯く。

 これは一体、どういうことなんだろう。
 何故、彼女がこんなにも大量の薬を持ち歩いているのか。

 まるで、遊園地の舞台裏でキャラクターが着ぐるみを脱いでいるのを目撃してしまったかのような、見てはいけないモノを見てしまった気持ちになった。

「んー......」

 彼女はゆっくりと思案するように、薄い唇をつむんだ。

「あ、ごめん、言いたくなかったらいいけど」

 しまった、そう思った。

 不思議な縁から、日向さんと関わる機会が出来たからって、浮かれてしまったところがあったかもしれない。

 十代の女の子が薬の束を持っているなんて、絶対に何かしらの事情があるに決まっている。
 こんな風に、気安く踏み込んでいい領分じゃない。

「まあ、教えちゃおうかな」

 一瞬の逡巡の後で、すうっと彼女は息を吸った。
 その仕草はまるで、空気から大切な成分を奪おうとしているみたいだった。

「――私ね、居眠り病なの」
「......居眠り病?」

 彼女の口から飛び出した予想外の言葉に、僕はマヌケな声を漏らした。

 聞き間違いじゃないよね。
 居眠り病、だって?
 初めて聞いた単語だった。

「ーーうん。病気が分かったのは今年に入ってからなんだけど。昼間でも意識がなくなるみたいに眠っちゃうの。だからこの前のベンチでも寝ちゃってたんだよね」

 そう口にする日向さんの表情に目をやる。
 その顔は、たしかに真剣な雰囲気が感じられた。

「そんな――病気があるの」

 初めて耳にする病名だった。
 こんなことを言っては失礼だけど、なんだかサボりの言い訳に使えそうな病気だ。

 深刻な顔をしていたから身構えたけれど、やっぱり僕をからかっているのだろうか。

「いつもは、薬で症状を抑えてるんだ」

 日向さんは「てへへ」と口にしながら、コツリと自分の額を叩いた。
 昭和の芸人みたいなリアクションだ。
 病気を告白している人にしては、いささか明るすぎる、気がする。

「あ、信じてないでしょ」

 そう言って、不満げに口をへの字にして、彼女は僕の顔を覗き込んだ。

 少し油断すれば、吐息がかかりそうな距離だ。
 日向さんはなにかと距離が近くて、反応に困るときがある。

「......信じるよ」

 僕が諦めたようにそう口にすると、彼女は何故か満足そうに頷いた。

 疑ったところで、そんな変な嘘を僕につく意味もないだろう。
 僕みたいな奴相手でも、信じてもらえたことは嬉しいらしい。

「これは秘密だよ」
「分かったよ。誰にも言わない」
「ーー二人だけの、秘密ね」

 彼女は人差し指を口元にあてて、いたずっらぽい笑みを浮かべた。
 先ほどまでの重たい雰囲気はどこかへ消えてしまったようだ。

 僕は不思議な罪悪感に、心がざわつくのを感じていた。

 秘密。
 僕はまるで悪事の共犯者にでもなってしまったようだ。

 そして思った。
 一体どれくらいの人が彼女が病気だということを知っているのだろう、と。
 僕と日向さんは、幾度かの失敗を重ねながら、まだペットボトルロケットの製作に勤しんでいた。

 もう放課後もだいぶ時間が経って、夕焼けが夜空に変わりかけていた。
 理科準備室の窓からも、空の色がグラデーションに変わっていく景色が見えた。

 部活や習い事とは無縁の学生生活を送ってきた僕からすると、こんな陽の落ちる時間まで校舎に残った経験はほとんどない。
 部活動の練習に汗を流している生徒たちも、そろそろ片付けて帰り始める時間だ。

「ーーお前ら、まだいたの」
「あ、五十嵐先生」

 顔を上げると、五十嵐先生が呆れた表情で僕らを見下ろしていた。

「もう帰ったと思って見にきたら、随分と熱心だな。授業も、それくらい熱心に受けてくれると有り難いが」
「私たちはわりと優等生じゃないですか〜」
「自分で言うな」

 日向さんが力なく笑う。
 元気がトレードマークの日向さんも、流石にそろそろ疲れてきたみたいだ。
 細かい作業が続いたせいか、僕も幾分かくたびれてきた。

「もう学校も閉める時間だ。そろそろ終われよ」
「はい、次でラストにします」

 何故こんな熱心に取り組んでいるのか、自分でもよく分からないけど、ここまで来たら完成させたい気持ちが強くなってきた。

 後日に持ち越すのも変な話だ。
 そんな夏休みの自由研究みたいに宿題にするのも嫌なので、ここで成功させて終わりにしたい。

「ーーあ、なんだろこれ」

 日向さんが不意に、呑気な声を上げる。

 僕と五十嵐先生が顔を向けると、彼女はいつのまにか何かの冊子を机の上に広げていた。
 どこから引っ張り出してきたのだろうか。

「何それ?」
「なんかそこの棚にあったから」

 日向さんは理科準備室の壁際に陳列されている棚を指さす。
 そこには授業で使われる実験器具などの他に、辞書や分厚い資料集などの書籍も並べられていた。
 でも、ほとんどの物品は埃を被って、まるで世界が終わった後に残されたオーパーツのようだった。

「どれどれ……」

 ペットボトルロケットの材料を片付けながら、僕も興味本位で冊子を覗き込んでみる。

 やや古ぼけて、埃の被った厚い冊子だった。
 それなりに丁寧に装丁されて、立派な見た目をしていた。
 冊子をめくると、その表紙には「西南高校野球部OB記念誌」とプリントアウトされていた。

 西南高校。もちろん、うちの学校名だ。

「ーーそれは俺のだ」

 五十嵐先生はしまったという顔をして、声を漏らした。

 普段のクールな態度からは意外なほど慌てた様子で、冊子に手を伸ばそうとする。
 すると、日向さんは冊子を抱き寄せて、奪われないように身を引いた。

「ちょっと見せてください! 興味があります」
「べつに見ても、なんにもならんぞ……」

 面倒くさそうにため息を吐く五十嵐先生。
 反対に、日向さんは疲れを忘れたみたいな顔で、目をキラキラさせながら冊子をめくり始めた。

「……うちの野球部の記念誌みたいなやつかな? なんで先生が?」

 僕が疑問を口にすると、五十嵐先生は気まずそうに口をへの字に曲げた。
 何か生徒に見られたら困るようなものでも写っているのだろうか。

「これ、五十嵐先生が写ってるんですか?」

 ずっとページをめくっていた日向さんが、嬉しそうにあるページを指さす。

 理科準備室の電灯にかざしながら覗き込むと、そこには少し年季の入った写真と、選手名簿が掲載されていた。
 写真には野球のユニフォームを身に纏った高校生たちが、整列している姿が収まっている。

「え、どれ?」
「ほら、これよこれ!」

 日向さんが嬉しそうに指をさす。
 まるでウォーリーを探せに夢中になる小学生みたいだ。

 言われるがままによく見ると、名簿に五十嵐先生の名前が記されており、写真にもその面影が残る坊主頭の高校生が写っているようだった。
 写真の日付は、今から十三年も前だ。

「え! 先生、野球部だったんですか?」
「――まあ、十年以上も昔の話だけどな」

 五十嵐先生は面倒くさそうな風で答えた。
 その様子からすると、あまり触れられたくない過去だったらしい。
 まあ、昔のアルバムの写真を他人に見られるのは、誰しも恥ずかしいものか。

「なんか、意外!」

 日向さんは写真と実物の五十嵐先生を見比べながら、感嘆の息を漏らした。
 かなり失礼だからやめた方が良い気がする。

「まあ、今じゃ演劇部の顧問だしな」

 意外だと言う点については、完全に同意だ。
 今では痩身で色白な容姿で、文化系なイメージがある五十嵐先生にも、そんな時期があったのか。
 というか、うちの高校のOBだったんだ。
 初めて知る事実だ。

「強かったんですか?」
「いや、弱かったよ」

 五十嵐先生はいつも以上に静かな声で、諦めたようにポツリと答えた。

「ポジションは?」
「……セカンドだった」
「思い出とかあるんですか?」

 まるで若手インタビュアーのように、矢継ぎ早に質問を繰り出す日向さん。
 担任教師の若き日の話に興味津々のようだ。

 いつもくたびれたような顔をした五十嵐先生の高校球児時代。
 たしかに僕も少し気になるけど。

「べつにねえよ」
「嘘だ、少しくらいあるでしょ」

 五十嵐先生は眉を寄せて、少しだけ考える素振りを見せた。
 そして深く息を吸い込んで、窓から覗く暗い空を眺める。

「......あれは三年生の夏だった」

 ゆっくりと、語って聞かせるようなトーンで先生は口を開いた。

「そうだな、地区大会の二回戦、六対五の二死満塁」

 夏の暑さには似合わない、低く響くような声色だった。
 僕と日向さんは突然のモノローグに、驚いて顔を見合わせる。

 五十嵐先生は授業の教科書でも読み上げるみたいに、淡々と言葉を紡いだ。

「俺はセカンドを守っていた。あと一つアウト取れば勝ちって場面。相手は打ち損じてフライを上げた。フライは俺の頭上に来た。その場にいた仲間全員が勝ちを確信した」

 五十嵐先生は、机の上に転がる空のペットボトルを手に取って、ポンポンと掌で叩いた。
 まるで、スタンドで試合を観戦する応援団のようだった。

「だが、俺はエラーした。信じられないようなミスだった。呆然としているうちに、俺のチームは負けていた。最後の夏はあっけなく終わった」

 五十嵐先生は吹き出すような短い笑い声を喉から鳴らした。

 担任教師の、意外な青春時代
 僕は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

 日向さんの方を見ると、彼女は眉を寄せて、なんとも言えない切なそうな感情を浮かべていた。

「べつに甲子園がかかってたわけでもないし、プロ野球を目指してたわけでもない。なんて事のない、地方大会の二回戦だ。よくある話さ」

 五十嵐先生が言葉を切ると、重たい沈黙が流れる。

 誰もが抱えている、忘れられない過去。
 それが五十嵐先生にとっては高校の野球部時代だったのだな、とすぐに分かった。

「ーーでもな、今でも思うんだよ。もしあのとき、セカンドフライを取ってたらって」

 五十嵐先生は言葉を切って、遠い目で、窓から広がる夕闇に染まった景色を眺めた。

「セカンドフライ……か」

 物音ひとつしない、静かな校舎の中。
 窓を挟んだ遠く外の校庭から、運動部の声出しが聞こえてくる。
 まさに五十嵐先生の後輩に当たる野球部連中も、こんな遅くまで練習に精を出しているのかもしれない。

「先生......意外と感傷的なんだね」
「ほっとけ」

 なぜか嬉しそうに五十嵐先生を見つめる日向さん。

 照れくさいのを誤魔化すためか、五十嵐先生はその視線から逃れるように頭を掻いた。

 僕は部活で悔しい思いをしたこともない。
 劣等感なら毎日感じて生きてはいるけど、努力とか、挑戦とか、そういったことから逃げた生活をしている。

 だから五十嵐先生が抱えている心のわだかまりが、どういう類のものなのか、いまいち実感できなかった。
 でも、五十嵐先生にとっては忘れられない、心の傷みたいな思い出なんだろう。

 そんなことを考えていると、五十嵐先生がポツリと呟いた。

「お前ら見てると思い出すわ。高校生のガキだった頃」
「私はガキじゃないですよー」

 日向さんが唇を突き出して嘯く。
 私はとはなんだ。僕はガキなのか。

「――お前らの時間は今しかない」

 零すようにそうセリフを残した後、五十嵐先生は日向さんの手元から記念誌を取り上げた。

「あっ」
「ラストチャレンジするんだろ。さっさと終わらせろよ」

 僕は五十嵐先生の言葉の真意を測りかねて、日向さんに目をやった。
 彼女は納得したような、そうでもないような表情で、五十嵐先生を眺めていた。

「先生! 良かったら、見て行ってください」
「……まあ、いいけど」

 僕は思わず、立ち上がって五十嵐先生を引き止めた。
 自分でも、意外な行動だった。

 五十嵐先生は僕からそんな申し出をしたのが意外だったのか、物珍しいものを見る目で頷いた。

 理科準備室を片付けて、鞄と共に荷物を持つ。
 三人揃ってもうほとんど人気のない校舎を通って中庭に向かった。

 もう何度目かの挑戦だ。手慣れてきた手つきでペットボトルロケットをセッティングする。

「さあ、やるぞー!」
「あいよ」

 日向さんの威勢の良い掛け声に背中を押されながら、僕は空気入れを動かし始めた。

 ピストン運動が続くにつれて、膨張していくペットボトルロケット。
 段々と機体の中の気圧は増していき、いよいよ限界を迎えーー

「おお!」

 思わず大きな声で叫ぶ。
 ペットボトルロケットは、シュポンと気持ちの良い音を立てながら、勢い良く飛び上がった。

 ぴゅーん、そんな擬音が頭に浮かぶような見事な放物線を描いて、校舎の三階近くまでみるみる飛んでいく。

「すごい! 大成功だ!」

 日向さんが歓喜の声をあげる。
 僕と日向さん、ついでに五十嵐先生も加えて、首を傾けながらペットボトルロケットの行く末を見すえる。

 ペットボトルロケットは限界まで上昇した後、推進力を失ってゆっくりと落下を始めた。

 中身が空っぽになったペットボトルロケットが、空気の抵抗を受けながらゆらゆらと揺れて、僕らのちょうど足元あたりに落ちた。
 からんころん、とペットボトルロケットが地面に転がる。

「いやー、良い飛びっぷりだったね」
「……そうだね」

 日向さんが嬉しそうにペットボトルロケットを拾い上げて、僕に駆け寄る。
 苦労したプロセスがあったせいか、打ち上げに成功した瞬間、僕もにわかに興奮してしまった。
 比べられるわけもないけど、もしかしたら宇宙ロケットを作っている人たちも、きっとこんな気持ちなのかもしれない。

「まあ、悪くなかった」

 五十嵐先生も、満更でもない様子で頷いた。

「先生、ありがとうございました! 場所貸してくれて」
「僕からも、ありがとうございました」

 二人揃って、ぺこりと頭を下げる。
 べつに部活動でもないのに、いきなりペットボトルロケットを飛ばそうなんていう謎のお願いに場所を貸しくれただけでなく、こんな遅くまで付き合ってくれるなんて、五十嵐先生は相当優しい人だ。
 正直、見直した。

「これに懲りたら、ちゃんと勉強しろよ」
「……はい」

 二人で協力して、役目を終えたペットボトルロケットや打ち上げ台を回収し、帰り支度を済ませる。

「それじゃ、帰りますね」
「気をつけて帰れー」

 鞄を背負って、下駄箱の外に出る。
 もう外はすっかり真っ暗だった。早く帰って夕飯が食べたい。

「あ、理科準備室の鍵、返していけよ」

 五十嵐先生が思い出したように、下駄箱から声をかける。
 僕は慌ててポケットを探すが、持っていない。ということは、日向さんが手にしているはずだ。

 五十嵐先生のセリフを聞いた日向さんは、ニヤリと笑うと突然駆け出して、数メートル進んだ先で振り返った。

「先生! ほら、カッキーン」

 彼女は小気味好い効果音を叫びながら、手に持った理科準備室の鍵を天高く放り投げた。

 鍵は夕闇の中、蛍光灯の灯りを反射してキラキラ輝きながら、ゆるやかな放物線を描く。

 僕は蛍光灯の眩しさで鍵を見失わないように目を細めながら、その行く先を追いかけた。

 パシッ。

 先生は顔の前に手を伸ばし、鍵を空中でキャッチした。
 それはまるで、野球のフライのように。

「......ナイスキャッチ」

 僕は思わず呟いた。
 それは世界で一番鮮やかな、セカンドフライだった。

「ばーか、物を投げるな。そんで早く帰れ」

 先生は手にした鍵をしばらく眺めた後、その手に握り直して、怒るでもなく呆れたように笑った。

「それじゃあ、先生、ありがとね!」
「おう」

 日向さんは手をブンブンと振り回しながら、足早に駆けていく。
 五十嵐先生は早く行けとばかりに面倒くさそうに手を振った。
 僕はペコリと頭を下げてから、彼女の後を追う。

 日向さんの行動の意図は分からない。
 五十嵐先生がそれをどう受け止めたのかも、僕には想像がつかない。

 人の心なんて、分かるわけがないんだから。

 何も分からない僕は、夜空を背景に小さくなっていくその背中を、ただ追いかけた。
 日向佳乃と関わるようになってから、一週間が経った。

 あの不思議なベンチでの出会い。
 なんの縁か、今まで話したことすらないようなクラスの人気者と、一緒に過ごす時間が増えた。

 放課後の図書館で一緒に調べ物をしたり、夜遅くまでペットボトルロケットの打ち上げに挑戦したり。

 改めて考えてみると、僕と日向さんはどいう関係なのだろうか。
 人に説明してみろと言われても、説明できる気がしない。

 友達、なのだろうか。
 もうしばらくそう呼べる存在がいなかったから、いまいち実感が湧かない。
 喋るようになった日数は浅いし、日常的に休み時間に話したりする関係でもない。

 あくまで、彼女が僕のもとにやってくると始まる、その時間だけの交流。

 いつも、日向さんの方から僕のもとにやってきて、あーでもないこーでもないといろんな提案をふっかけてくる。
 僕から何か働きかけをしたわけじゃない。

 僕は偶然、ベンチで眠る彼女を見つけただけ。
 全てはそこから始まったのだ。

 だいたい、夢の正体を見つけてくれなんて、無理難題にも程がある。
 そんなの占い師か、心理学者でもない限り分かるわけがない。

 何故こんな、孤独で暗い僕のような人間に頼み込んできたのか。
 とにかく自分の思う好きな方向に、僕の手を引いて突っ走っていくのか。

「まったく……」

 僕は彼女の顔を想像しながら、小さく呟いた。

 そう。
 とんだ迷惑だと口にしながらも、内心満更でもない想いを抱えている自分に、気がついていた。

 今まで味わったことのない非日常。
 いや、あるいはみんなが当たり前に味わっている、友達との日常。

 そんな感覚が、いつしか日向さんとの間に芽生えていた。

 こんな、あまりに一方的で、あまりに行き当たりばったりな不思議な関係を、僕は楽しいと思っていたのだ。

 このままなんとなく、彼女の思いつきやわがままに付き合わされて。
 やれやれと面倒くさそうに呟きながら、その背中に着いていく。

 そんな関係が続いていけば良い。
 そんな日常が続いていけば良い。
 そう、思ってしまったのだ。





 放課後、下駄箱を降りて校舎を出たところで、誰かに肩を叩かれた。

 振り返ると、女子生徒が黙ってこちらを見て立っていた。
 襟元にある、灰色のリボンに青い流星の刺繍が目に入る。
 何度も見たトレードマーク。

「あ、日向さん」
「え? 私、鈴木だけど……」

 僕の見当違いなセリフに、目の前の女子生徒が驚きに目を見開いた。
 思わず口をついて出たセリフに、猛烈な後悔が襲ってきた。

「あ、えっと、その……」

 しどろもどろになりながら、なんとか言い訳の言葉を頭の中で探す。
 だけど、この場を逃れる最適なセリフは、なかなか浮かんでこなかった。

 やってしまった。
 僕が絶対にしてはいけないミスを、今してしまった。

「鈴木さん……」

 鈴木さん、そうだ、名前なら分かる。
 日向さんとよく一緒にいる、目立つクラスメイトたちの一人だ。

 こうして会話するのも、なんなら面と向かって顔を合わせるのも初めての相手。
 最悪の初対面だ。

 鈴木さんは、不審者を見るような目つきで、うろたえる僕の顔を睨んでいる。
 気まずい沈黙が、二人の間を漂流物のように流れる。

「その、リボン……」

 僕が灰色のリボンを指さす。

 我が校の女子生徒にはもれなく着用が義務付けられている、地味でパッとしないリボン。
 そこに、少しお洒落で垢抜けた、青い流星の刺繍が施されている。

「ああ、これ、佳乃に刺繍してもらったやつだけど……なんで知ってるの?」

 鈴木さんはイライラとした様子で、不満そうに首を傾けた。

「そんなことより、最近、佳乃と仲良いよね」
「仲良いというか、べつに」

 まるで囚人を詰問する尋問官のように、鈴木さんは強い口調で言い放つ。
 穏やかな様子でないことは、どんなに鈍い人間でも一目瞭然だ。

「でも、私を佳乃と間違えるなんて、どうかしてるんじゃないの? わけわかんない」

 どうかしてる。
 そうですか、どうかしてますか。
 僕はどうかしてる人間ですか。

 クラスメイトに向けているとは思えないほど、軽蔑を込めた視線で僕の顔を睨みつける。
 どういう了見でこんな喧嘩を売りにきたような態度をとっているのか分からないけど、僕は火に油を注いでしまっているようだ。

「それは……」

 言葉を探しているうちに、目の前が急にぐるぐると渦巻いて、気分が悪くなってきた。
 さざ波が押し寄せるように、頭がズキズキと痛み始める。
 呼吸が、異常をきたしたように荒くなっているのを自分で感じる。

「この前、佳乃と話してるの見たの。アンタみたいな名前も覚えてないような暗い奴が、なんで佳乃と一緒にいるわけ?」

 鈴木さんは一歩前に出て、僕へにじり寄る。
 その語気は強く、威圧的な態度であることを隠そうともせず、こちらへ睨みを効かせている。
 明らかな、敵意だ。

「佳乃、最近おかしいの。放課後すぐ帰っちゃうし、引退した陸上部の後輩の指導も来なくなったし」

 僕は何も言い出せず、俯いたまま鈴木さんの言葉を聞いていた。

 そんな話は、完全に初耳だ。
 日向さんの口から、彼女の友人関係や最近の様子について聞いたことはなかった。

「通ってた塾も辞めちゃったみたい。何も私たちに説明してくれない……なのに、なんで染谷、あんたとは一緒に楽しそうにしてるのよ」
「べつに……そんなんじゃないけど」

 言い訳にもならない言い訳を、なんとか捻り出すので精一杯だった。
 僕は日向さんのことについて、何も知らない。

 高校三年生になるまで、人と関わらないようにしていたから、他人からの無関心には慣れていた。
 でも、こうした真っ向からの敵意には、まったく対処の仕方を知らなかった。

「とにかく、もう佳乃に近づかないで。受験生で、大切な時期なのに……」
「……ごめん」

 念を押すようにして、鈴木さんは改めて僕の顔を鋭い双眸で睨んだ。

 謝ることしかできない。
 鈴木さんの認識の中では、僕が何か怪しいことを日向さんに吹き込んで、様子をおかしくさせているというシナリオが出来上がっているようだ。
 どんな返事も、彼女の気を逆撫ですることしかないだろう。

 僕が間違っていて、世界が正しい。
 ただそれだけは、ずっと前から不変の原理なんだから。

 僕はうろたえながら、日向さんについて頭を巡らせた。

 鈴木さんの口から聞いたことは、僕の知らないことばかりだった。
 鈴木さんの方が、きっとよっぽど日向さんについて詳しいはずだ。

 友人付き合いが悪くなったとか、部活に顔を出さなくなったとか、そんなこと日向さんとの関わりの中で話題にすらあがったことはない。

 そもそも、普段彼女が何をしているかなんて僕は知らない。
 日向さんはいつも、思いつきのようなセリフを吐いて、僕を困らせるばかりだ。

 塾をいきなり辞めたなんて、たしかにちょっと普通の話ではない。
 もしかしたら何か事情があるのかもしれないけど、少なくともたかが一週間程度の付き合いしかない僕が原因なんてことはないはずだ。

「そうだ……」

 嫌な予感が頭をよぎる。
 あの、居眠り病のことについては、もしかしたら鈴木さんも知らないのかもしれない。

 見たこともないような、薬の束。
 まだ、僕は彼女のことを何も知らないのだ。

 黙っている僕にうんざりしたのか、言いたいことを言えてスッキリしたのか、鈴木さんはふんと鼻を鳴らして、その場を去っていった。

 僕は一歩も動けず、ただ肌にまとわりつく不快な暑さの中で立ち尽くしていた。





 昼休み、中庭のベンチで一人でご飯を食べていると、目の前に女子生徒が現れた。

「また一人で食べてる、染谷君」
「……日向さん」

 顔を上げる。灰色のリボンに、青色の流星。
 今度こそ、日向さんだ。

 日向さんはくすっと笑って、僕の隣に腰掛けた。
 
「この前、体育の授業ですれ違ったよね。合図したのに、なんでシカトしたの」
「いや、べつに」
「出た、いや、べつに」

 日向さんは子供みたいにベーッと舌を出した。

「ーー僕みたいな地味な奴が君に話しかけたら、クラスで変な感じになるでしょ」
「なんでそんなに卑屈なの」

 僕は食べかけの惣菜パンを口に押し込んで、なんとか嚥下した。
 空になったプラスチックの袋をクシャクシャに丸めて、ポケットに詰める。

 そして、早々に会話を切り上げるつもりで、ベンチから立ち上がった。

「もう教室に戻るの? お昼休みはまだ時間あるし、お話ししようよ」
「いや、もう戻らないといけないし」
「……なんか怒ってる?」

 日向さんは眉を寄せて、少し悲しそうな顔をした。
 僕はその小動物のようなリアクションに胸がずきりと痛んだが、その痛みを押し殺すように俯く。

「……怒ってないけど」
「怒ってるよ」

 まるで子供同士の押し問答のようなやりとりだ。
 本当に、怒ってなんていない。

「なんかおかしいよ」
「べつにおかしくない……」

 僕はおかしくない。
 おかしくない、のかな。

 自分でも、自分のことが分からない。
 そんな僕が他人のことなんて、分かるわけがないじゃないか。

「もう、あまり関わるのは良くないと思う。僕と関わっていたら、きっと変な風に思われる」

 禍々しい毒を吐き出すように、僕はなんとか呟いた。
 胸のあたりに重々しい鉛があるかのように、苦しく塞がっている。

 ずっと俯いたまま、くたびれたシューゲイザーのように足先を見つめる。
 隣に腰掛けている彼女がどんな感情なのか、僕から見えない。

「……もしかして、誰かに何か言われた?」

 日向さんは覗き込むようにして、俯く僕に綺麗な顔を近づけた。
 夏の生暖かい風に乗って、ふんわりと花のようなフレイバーが鼻に届く。

 本当の理由なんて、言えるわけがない。
 鈴木さんに因縁をつけられたなんて話をすれば、友達想いで、優しい日向さんは、きっと傷ついてしまう。

 きっと、鈴木さんも良い子なんだ。
 クラスメイトたちといつも仲良く楽しそうにしている。
 そんなまともな人間が、悪い奴であるはずがない。
 そう、良い子。どこまでも良い子。

 鈴木さんは、友達のために本気で怒ったり、本気で悲しんだりできる人なんだろう。
 友達のためにわざわざ自分のエネルギーを使って、誰かに抗議することができる。
 敵に向かって戦うことができる。

 僕は、それができない。

 いきなり言いがかりをつけてきたのはどうかと思ったけど、友達が僕のような人間に関わっていて、それに様子がおかしいとなれば、怒って当然だ。

 僕が間違っていて、世界が正しい。
 何度も言わせるなよ。何度も、何度も。

「……僕が自分でそう思っただけだよ。べつに誰かのせいじゃない」
「やっぱり言われたんだ」

 顔を上げると、怒ったような表情で眉を寄せる日向さんの顔があった。
 どうにも目を合わせることができず、逃げるみたいに視線を泳がせる。

「とにかく、もうこういう話はやめよう。日向さんも、無理して話しかけなくて良いよ」
「……無理なんてしてない」

 不自然なほど静かで、落ち着いた口調。
 日向さんは怒っているのか、悲しんでいるのか、その口調から読み取ることはできなかった。

「楽しくなかった? 私と一緒にいるの」
「それは……」
「私は、楽しかったよ。無茶苦茶言っちゃう私に、染谷君はちゃんと向き合ってくれた。染谷君は優しいから」

 優しい? この僕が?
 僕は、優しくなんかない。
 優しい人間は、こんな風に相手を突き放そうとしたりなんかしない。

「夢の正体だって、まだ見つけてないんだよ」
「ーーどうだっていいんだよ、君の夢なんて」

 膨れ上がった感情が、怪物のようにのたうち回って、僕の胸の内をドンドンと叩く。
 思わず、乱暴な言葉が口から飛び出る。
 止めようと思っても、止められない。

「だいたい、わがままじゃないか。いきなりあれこれ頼み込んで、僕には関係ことじゃないか」

 日向さんの顔を見ることができない。
 僕は地面に生えた雑草を見つめながら、強く拳を握りしめた。

「どうせ、僕みたいな地味な奴が、君みたい人気者に話しかけられて、浮かれているのを見て笑ってたんだろ。寂しい奴に構ってあげて、聖人にでもなったつもりなの。余計なお世話なんだよ」
「……染谷君」

 僕は張り裂けそうな胸の痛みを感じながら、言葉を吐き出した。
 まるで針の筵に自らを突き落としたかのように、全身から血が吹き出す感覚に囚われる。

 本心ではなかった。
 僕は嘘つきだから。

 さようなら、楽しい時間。
 もう、行かなくちゃ。

 僕は己を奮い立たせるように再び拳を握りしめて、振り返ることもなくベンチを後にした。
 日向さんが結局どんな顔をしていたのか、確認することはしなかった。

 これでいい。
 これでいいんだと、何度も自分に言い聞かせながら。

 階段を登りながら、ぼーっとした頭を巡らせる。

 鈴木さんの、怒ったような口調。
 日向さんの、悲しむような表情。

 ほら、こうなる。
 人と深く関わるから、こうなるのだ。
 分かっていたことじゃないか。
 こうなることなんて。

 あの日から、全てが始まったのだ。
 終わりの、始まり。

 僕は、両親が事故で死んだ、あの日を思い出していた。





 小学校三年生のある日だった。
 今でもはっきりと覚えている。
 あの不気味なほど真っ白で、怖いぐらいに清潔な病室。

 目が覚めると、ズキズキと悲鳴をあげるように体の節々が痛んでいた。
 特に、頭がぼんやりとして、まるで靄がかかったみたいに上手く働かない。

 僕が目を開けたことに気がついた妹が、「やっとお兄ちゃんが目を覚ました」と、白いシーツにしがみついて泣いていた。
 僕は天井を見つめながら、痛いから身体を揺らさないで欲しいと、ぼんやり思った。

 その後、高齢のおじいちゃんみたいなお医者さんが来て、病室のベットの上に横たわる僕に、いろいろ説明してくれた。
 僕はぼんやりとした頭を必死に働かせて、なんとか理解しようとした。

 交通事故だった。
 僕と、一歳下の妹と、母と、父。
 四人家族を乗せた自動車は、対向車線をはみ出して突っ込んできたトラックと正面衝突をした。

 トラックは、飲酒運転だった。

 結局、どこの誰が犯人なのか、犯人はどんな顔をしていたのか、どんな反省の弁を述べたのか、僕と妹はあえて何も聞かなかった。
 僕らはただ、警察や弁護士たちが、親戚の人たちと話している姿を何度か見ただけだった。

 ただ、無慈悲なまでの現実が僕らの目の前を覆っていた。
 避ける間も無く、予感する間も無く、突如として不条理な運命が、平凡で幸せな家族を破壊した。

 両親が死んだ。
 残されたのは僕と、妹の二人きり。

 妹は軽症だったが、僕の場合は命があっただけでも奇跡だと、お医者さんは言った。
 でも、そんな奇跡もありがたがる気持ちにはなれないくらい、この事故は小学生になる僕ら兄妹には、あまりに残酷な話だった。

 優しかった父さん、母さん、もう会えないんだ。
 もう、二度と。
 僕と妹は絶望に打ちひしがれた。

 そして、事故がもたらしたのは、両親の死だけではなかった。

「悠介君、君はーー」

 お医者さんが僕に告げた、病名。
 聞き馴染みのない、難しい漢字の羅列。

 でも、そんな病名を聞くまでもなく、僕がおかしくなってしまったことに、僕自身気が付いていた。
 だって、文字通り、一目瞭然だったから。

「治療法が見つからない限り……完治は難しいでしょう」

 お医者さんの告げた言葉。
 小学三年生の僕には難しいことはよく分からないけど、なるほど、もう僕は誰とも深く関わることはできない、それだけは確かなようだった。

 それは世界で一番悲しいプロポーズだった。

 その日から世界は、すっかりと姿を変えてしまった。
「ーーお兄ちゃんこの前、笠原さんと歩いてたでしょ」

 日向さんを一方的に責めて、二人の間に距離を作ってしまった、あの日。
 その日以来初めて迎える週末、自宅のリビングで一人勉強をしていると、妹の梨沙が不意に声をかけてきた。

 勉強といっても、正直まったく身は入っていなかった。
 日向さんのことで頭がいっぱいで、勉強どころではない。
 言い訳のように開きっぱなしの参考書は、いくら目で追っても解読不能の古文書のようで、その役目をまったく果たしていなかった。

 僕はぼーっと意味もなく参考書に目を泳がせながら、気の抜けた調子で答えた。

「笠原さんって、誰のこと?」
「誰って……」

 妹は「はあ?」と呆れたように口を開けた。

 そんな苗字の人間と一緒に歩いた記憶なんてない。
 笠原なんて奴、クラスにいただろうか?
 誰と勘違いしているのかな。

「ーー笠原佳乃さんよ」

 僕は思わず、手にしていたシャープペンシルをコロリと落とした。

 妹の口から飛び出した名前に、耳を疑った。
 頭の中で、ぐるぐると思考が巡る。

 笠原佳乃が、なんだって?
 込み上げてくる衝撃を必死に抑えながら、ごくりと生唾を飲み込む。

「佳乃……もしかして日向佳乃?」
「え、笠原さんじゃなかったっけ。でも、佳乃さんだよ」

 当然のように、その名前を口にする妹。
 あまりにも自然にその名前が出てきたので、僕は自分の感覚がおかしくなったのかと疑った。

「ーーなんで知ってるんだ?」
「なんでも何も……転校前に仲良くしてたじゃん。だいぶ前の話だけどさ」

 妹の梨沙は、こともなげにあっけらかんと答えた。
 僕はそのセリフに驚きを隠せなかった。

 転校前の記憶。
 思い出したくはなかった。
 まだ両親が生きていた頃の、幸せな記憶。
 まだ僕がまともだった頃の記憶。

「笠原……」

 本当に、掛け値なしに本当に、久しぶりに思い出した。
 今、この瞬間まで完全に忘れていたと言っても過言じゃない。

 たしかに、小学校のとき、同じクラスに笠原佳乃という女子生徒がいた。

 笑顔が特徴的な、元気な女の子だった。
 そう、近所の仲良しグループの一人で、放課後になると同じ公園で遊んでたっけ。

 おぼろげながら、そんな印象が思い出せる。
 あくまで小学校低学年の頃の記憶だから、ハッキリと覚えているわけではないけど。

「懐かしいね〜。私もよくお兄ちゃんのお友達グループに混ぜてもらって遊んでたでしょ? そのときよく佳乃さんに面倒見てもらったなあ」

 そうだ、たしかに妹の梨沙は小さい頃は人見知りで、僕の遊びによくついて来たことがあった。
 妹は学年は一個下だけど、近所に住んでいる同じ学校の子供達で一緒によく遊んでいた。

「お兄ちゃんも仲良かったでしょ、佳乃さん」
「そう……だった気もする」

 もう十年近く前のことだし、まだ幼かったから、ハッキリとした記憶があるわけじゃないけど、言われてみればその女の子のことが印象に残っている気もする。

 笠原佳乃と日向佳乃。
 苗字が違うけど、まさか同一人物なのだろうか。

「話しかけようと思ったけど、ちょうど別れ際みたいだったからタイミング逃しちゃった」

 妹はそう言いながら、残念がるように眉を寄せた。

 図書館で宇宙に行く方法について調べた日か、あるいはペットボトルロケットを打ち上げた日か、たしかに家の近くまで二人で帰り道を共にしたことがあった。

 妹は別の高校に通っているから、家の近くで偶然二人でいる場面を目撃したのだろう。

「なんで、分かったの」
「うーん、雰囲気? 顔とか、わりと変わってないよ。昔から可愛かったし」
「僕は……分からなかった」

 胸の内になんとも言えない感情がざわつく。
 日向佳乃が、実は小学生のときクラスメイトだった。

 たしかに、両親の事故死をきっかけに、僕と妹は隣の市に住む叔父さんの家に引き取られた。
 隣の市なので、途方もないほど距離が離れているわけではないから、当時の知り合いとどこかでで会う可能性はゼロではない。

 それこそ、日向さんが苗字が変わっているということは、なにか家庭の事情があって地元を離れたのかもしれない。

 でも、たしか中庭のベンチで顔を合わせたとき「初めて話す」と彼女は言っていた。
 日向さんも、僕がかつての同級生であったことに気がついていなかったのだろうか。

 混乱する様子の僕を見て、妹は困ったようにため息を漏らした。

「お兄ちゃん、顔が分からないのはしょうがないけど、流石に喋ったら気付きなよ」
「いや、本当に気がつかなくて……そもそも小学生の頃だって正直覚えてないんだよな」

 小学校低学年の頃の自分。
 それは、両親が事故で亡くなるまでの、唯一友達と遊んだり、普通に過ごせていた頃の記憶。

 あの頃の僕は、少なくとも今の僕よりは明るくて社交的だった。
 人生のピークが小学校低学年なんて、なんとも言えない物悲しさがあるけど、こればかりは事実なんだから仕方がない。

 思い出せないというより、思い出したくない過去なのかもしれない。
 あの頃の、もうこの手には戻ってこない世界を、思い出しても辛くなるだけだから。

「気付いてないのに一緒に帰ってたの? 逆にどういう関係よ」
「クラスメイト……だけど」

 日向さんは、僕の過去に気がついていたのだろうか。

 小学生の頃、同じクラスで何回か遊んだ記憶があるくらいの関係。
 妹が覚えていたのが不思議なくらいで、忘れていたって不自然ではない。

「話してみたら、小学生の頃の話。意外と盛り上がるかもよ」
「べつに……盛り上がりはしないでしょ」

 僕は首を振って、妹の提案を否定する。

 ここまでお互い気がつかず忘れていたくせに、今さら懐かしい思い出話に花を咲かせたり、久闊を叙するのも白々しく感じる。

 それに、僕が小学校三年生で転校したことや、日向さんの苗字が変わっていたことは、センシティブな話題だ。

 お互いに、触れられたくないデリケートな部分だってあるだろう。
 なんでもかんでも曝け出すことが、正しいコミュニケーションのあり方とも思えない。

「ーーでも、話した方がいいと思う」

 妹は改まったように、声のトーンを少し落とす。
 ゆっくりと顔を上げると、神妙な面持ちで僕の顔を見つめていた。

「……梨沙」

 吐き出したい想いを飲み込むようにして、ポツリと呟く。
 にわかに、静かな雰囲気が二人を包む。

「お兄ちゃん、最近少し変わったと思うよ。明るくなった。病気でしょうがないことはもちろんあるけど、私は変わって欲しいって思ってる」

 妹の言葉を聞きながら、目の前に広げられた参考書に目を落とす。
 相変わらず、参考書に書かれた言葉は一文字だって頭には入ってこない。

「そろそろ、一歩踏み出してもいいんじゃないかな」

「それじゃ」と小さく微笑む。
 妹はそんな言葉を残して、自分の部屋へ戻っていった。

 リビングに一人残された僕は、妹とのやりとりを頭の中で反芻する。

 本当に人間的によくできた妹だと思う。
 一歳年下とは思えないな。

 精神年齢でいえば、むしろ僕の方がよっぽど低いような気がする。

 交通事故に遭ったとき、僕と妹もその車に同乗していた。
 幸い、僕と違って妹は軽症で、特に後遺症もなかった。

 しかし、幼くして両親を失ったという衝撃は、並大抵のものではなかっただろう。
 妹という立場で、僕とは違う苦労や悲しみが沢山あったはずだ。

 叔父さん夫婦の家庭に引き取られてから、本当に良くしてもらった。
 小学生の子供二人を引き取るなんて、突然降って湧いたような状況に嫌な顔一つせず、我が子のように迎え入れてくれた。

 こうして兄妹揃って高校に通えているのも、叔父さん夫婦の援助があってこそだ。
 経済的にも不自由することはなく、現在進行形で、本当に感謝している。

 ただ、そんな環境で、僕は妹に対して兄らしいことを一つもやってやれなかった気がする。

 もっと模範となる立派な人間になりたかった。
 心配されるどころか、叔父さん夫婦や妹にも「いてくれてよかった」と感謝されるような、そんな存在になりたかった。

 それどころか、妹は僕のことをこうして、何かと気遣ってくれる。

 両親が交通事故で突然いなくなって、後部座席に乗っていた僕と妹だけがこの世に残された。

「そう、だよな……」

 あの日から止まっていた時計の針。
 もう事故から十年近くが経ち、僕も十八歳になった。

 自分の力で、自分の人生の扉を開く必要がある。
 妹のおかげで、そう覚悟をすることができた。

 僕が口にするのを遠ざけ、逃げ続けてきた事実。
 そろそろ、自分の人生と向き合わないといけない時期なのかもしれない。





 物語はいつも、放課後に始まる。
 放課後、僕は中庭のベンチに向かった。

 帰りのホームルームが終わると、日向さんは荷物を片付けて、そそくさと教室を出て、どこかへ向かっていった。

 僕はそれを、教室の後ろの席から眺めていた。

 日向さんが教室を出る直前、鈴木さんが席を立ち上がって、日向さんに話しかけようとしているのが見えた。

 しかし、日向さんは気がつく様子もなくさっさと教室を出てしまった。
 置いていかれた鈴木さんは、所在なさげに立ち尽くしていた。

 そんな場面を目の前で目撃すれば、鈴木さんの言っていた、日向さんの友達付き合いが悪くなったという話もにわかに信憑生が増す。

「……行くか」

 ゆっくりと帰り支度を済ませて、僕も教室を出る。
 向かう先は、中庭のベンチ。

 目的の場所に足を運んだのは、何も確信があったわけじゃなかった。
 普通に考えれば、授業が終わって教室を出たなら、もう帰ってしまったと考えるのが妥当だ。

 日向さんがまだ帰っていないことを祈るしかなかった。
 もし今日話せなければ、明日も残る。
 明日もダメなら、明後日も。
 それくらいの覚悟だった。

 教室で、僕から彼女に話しかけることはできない。
 クラスメイトが周りにいる状態では。

 それこそ、鈴木さんのような友達連中から、本格的に反感を買ってしまう恐れがある。
 大勢の目がある中でそんな揉め事になれば、亀裂は決定的になってしまう。

 日向さんはきっと、こんな僕でも庇おうとしてくれる。
 そんな状況でも友達として、みんなの折り合いがつくような方法を模索しようとしてくれる。

 しかし、せっかくもう三年生の夏終わりだというのに、そんなしょうもないことでクラスメイトたちの関係性を悪くしてしまうのは、本意ではない。

「……ふう」

 中庭のベンチに腰掛けて、あの日の出来事を思い出す。
 ベンチで横たわる、眠り姫を見つけた瞬間。

 そうだ、あの瞬間から。
 僕は、彼女のことをーー

「ーー奇遇だね」

 待ち始めて、二十分ほどが経った頃だろうか。
 気がつくと目の前に、華奢な女子生徒が立っていた。

 ガラスの風鈴を夏風が鳴らしたような、耳心地の良いソプラノボイス。

「……そうだね」

 日向佳乃が、そこにいた。

 彼女がそこにいるだけで、当たり前の風景が特別に見える魔法にかけられたみたいだった。
 古ぼけた校舎の壁が、雑草の生える赤茶けたタイルの床が、まるで生きたアニメーションのようにキラキラと輝き始める。そんな気がした。

「奇遇って言葉、素敵だよね。奇跡の奇と、偶然の偶。決められた運命みたいなのものに、逆らってる感じが好き」

 日向さんは爽やかな微笑みを湛えながら、僕の横にゆらりと座った。

 ベンチに並んで、同じ景色を眺める。
 もう、こうして隣り合って座るのも、だいぶ慣れてきた。

「ーー話したいことがあって、待ってたよ」

 僕は日向さんと向かい合って、正直に思いを伝えた。
 今日はありのままに、思ったことを伝えようと決めていた。

「そう、私も聞きたいことがあって、来たよ。職員室に寄ってたから、遅くなってごめんね」

 僕は胸に込み上げる不安を押し殺しながら、覚悟を決めて口を開いた。

「君を避けてた。この間は酷いことを言って、ごめん」

 頭を深く下げて、謝罪の意を示す。
 そしてそのまま言葉を続ける。

「鈴木さんに言われて。僕と関わることが、君に迷惑をかけるんじゃないかって。でも、それは僕の勝手なエゴだった。ごめん」
「……やっぱりそうだったんだね」

 日向さんは、納得したように笑った。
 彼女は、鈴木さんの独断行動をある程度予期していたのかもしれない。

 ーーもしかしたら、日向さん自身にも、友人たちと距離を置いている自覚があったのだろうか?

「うーん、優里も悪い子じゃないんだけどね」

 優里、鈴木さんのことかな。

「良い子だと思うよ、彼女は」

 きっと二人には今までも、親しいが故の衝突や悩みもあったのだろう。
 人と深く関わらないで生きてきた僕には、想像するしかできない。

「それに、確認しておきたいことがあるんだ。僕らの話」
「私と……染谷君の?」

 不思議そうな顔で首を傾ける日向さん。

 そう。妹から背中を押されて、向き合おうと決意した過去の話。

「僕らは、小学生のときに同じクラスだった……違うかな」
「ーー思い出したんだね」

 彼女は手品のタネを披露するマジシャンみたいに、にっこりと笑った。
 まるで答え合わせをするのを、ずっと楽しみにしていたみたいだ。

「正確には、妹に言われて気がついたんだ」
「梨沙ちゃん! 懐かしいなー元気にしてる?」
「妹は元気すぎるくらいだよ」

 そっか、良かったと日向さんは昔を思い出すように目を瞑った。
 小学生のとき、友達グループで遊ぶときには妹も一緒に混ざっていたっけ。
 よく覚えてくれているものだ。

「覚えてる? 小学二年生のときかな。ツチノコを探しに行くって男子たちが言い出して、染谷君たちと山に行ったよね」
「……懐かしいね」
「私や梨沙ちゃんは止めたのに、結局男子は迷子になって、警察沙汰になったっけ」
「思い出したくない失敗談だよ」

 日向さんはやけに嬉しそうに思い出話を話した。
 そんな子供の頃の失敗を聞かされるとは予想していなかった。
 思わず気恥ずかしくなって、目線を泳がせる。

「あの頃は、染谷君もやんちゃだったね」
「誰しも若かりし頃はあるんだよ……」
「今も若いじゃん」

 嬉しそうに笑う日向さん。
 なんとか話題を変えようと頭を巡らせる。

「そ、そうだ、日向さんは僕のこと、いつ気づいてたの?」
「ーーうん、実はね。入学してすぐ気がついてたよ」

 僕は思わず驚いて、口を開けた。

 日向さんと同じクラスになったのは、高校三年生になってからだ。
 クラスメイトですら関わりの薄い三年間を過ごしてきたというのに、そんな僕のことを一年生の頃から知っていたなんて。

「定期テストの順位表を見て、ビックリしたよ。名前だけで分かった。他のクラスまでわざわざ確認に行って、顔を見て確信したの。面影があったからね」
「そうかな……」

 小学校三年生から高校三年生なんて、だいぶ容姿は変わっていそうだけど。
 妹といい、日向さんといい、人の顔とか雰囲気を覚えるのが得意な人には分かるものなのだろうか。

「ずっと、覚えてたんだ。何回か遊んだことがあるくらいの関係だったと思うけど、それ以上に転校した理由がーーね」

 小学校三年生で転校したあのとき。
 忘れられない傷を、残した両親の死。

「話して、大丈夫?」
「うん」

 日向さんは、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
 僕のことを慮ってくれる彼女の優しさが、胸に沁みた。

「両親が事故で亡くなって、親戚に引き取られたんだ。妹と一緒に」
「そうだよね……人づてに聞いたよ」

 日向さんは、申し訳なさそうに眉を寄せた。
 僕はそれを見て、胸がずきりと痛んだ。

「ーー実はね、私のお父さんね、私が中学生のとき病気で亡くなったの」

 日向さんは深く息を吸ってそう言った。
 思わず顔をあげて、彼女の顔を見る。
 驚きの感情が頭の中に広がる。

「……そうだったんだ」

 僕は言葉が見つからず、なんとか絞り出すようにして呟いた。

 こんなにも明るく楽しそうな笑顔を振る舞える日向さんが、抱えている悲しみの部分。

 中学生にして、父親の死。
 その悲しみは、察して有り余る。

「病気……」

 不意に、以前目にした、日向さんの大量の薬が頭をよぎった。
 ポシェットいっぱいに詰められた色とりどりの錠剤やカプセル。
 それはなんとも不吉な、カラフルカラー。

「苗字、変えなくてもよかったんだけど、前を向いて歩こうってお母さんが」

 日向さんは、なるべく重たい雰囲気にならないように気を遣ってくれたのか、明るい調子で話した。
 その軽妙さが、かえって物悲しさを冗長させるようにも感じた。

「お父さんが亡くなったときね、あの転校していった小学校の同級生も、きっと私と同じような気持ちだったのかなって、印象に残ってたんだ」
「……辛かったね」

 僕はなんと返していいものか分からず、ただそんな言葉を返すことしかできなかった。
 こんな場面で、気の利いた言葉や、悲しみを和らげられるようなセリフを返せたらと思うが、不器用な僕にはできない。

「辛い記憶を思い出させたら可哀想だと思って、あえて染谷君には昔の話はしなかったんだ。だから、このベンチで起こしにきてくれたときは驚いた!」

 日向さんは大袈裟に目を丸くして、僕の顔を見た。
 その芝居がかった仕草になんだか気恥ずかしくて、僕は目を泳がした。

「まるで私を起こしにきたーーいや、なんでもない」

 日向さんは言葉の途中で口をつぐんで、誤魔化すように手を振った。

「……なにさ」
「へへー、内緒」

 にっこりと頬を上げて、いたずらっぽく笑う日向さん。
 なんだろう、何かを言いかけたように思ったけど。

「でも、ショックだったなー。私のこと覚えてなかったんだもん」
「それは……ごめん、苗字が変わっていたし」
「でも、妹の梨沙ちゃんは私の顔覚えてたんでしょー」

 疑うようなジト目で、こちらに視線を投げかける日向さん。
 思い切りこちらに投げかけてくるその視線が痛い。

「実は、まだ話さないといけないことがあるんだ」
「……なに?」

 僕は姿勢を正して、改めて日向さんに向き合った。
 日向さんも、僕の真剣さを汲み取ってくれたのか、真面目な面持ちで向き合う。

「僕のーー脳の話なんだ」

 僕の目から見えている視界。
 目の前に座っている、日向さんの顔。

 目がぱっちりとしてモデルみたいだとか、唇が薄くて綺麗だとか、クラスメイトの女子が騒いでいるのを聞いたことがある。
 美少女と表現して大袈裟でない、日向さんの容姿。

 でも、僕は見たことがない。
 本当に見たことがないのだ。

 そう、顔に靄がかかったみたいに、僕には見ることができない。

「相貌失認っていう、病気なんだ。交通事故の後遺症で」
「そうぼう……しつにん?」

 日向さんが、子供のようなたどたどしい口調で復唱する。
 初耳だったようだ。
 それはそうだ、あまり一般的な病名とは言い難い。

「脳の障害で、人の顔が認識できなくなる病気なんだ。だから、小学校三年生からずっと、人の顔が分からなくて」
「人の顔が……」

 日向さんは相当驚いたようで、口をぽっかりと開けてこちらを見た。

 そう、人の顔が分からない。
 もちろん、覚えることもできない。
 そもそも、識別ができないのだ。

 例えば、顔写真を並べて、この中から家族が写っている写真を選べと言われたら、間違える人は誰もいないだろう。

 でもそれが、手のひらの写真だったとする。
 どの指紋が家族の指紋か当てろ、という問いだったらどうだろう。
 正解できる人はおそらく、いないだろう。

 話の例えとして正しいのか分からないけど、今の僕にとっては、人の顔が指紋や板の模様のように、識別が不可能なものに見えているのだ。

 まるで靄がかかっているように、ぐにゃりと視界が曲がっているように、不思議なくらいに顔だけが理解できない。

「喜怒哀楽くらいは分かるんだけど、覚えたりはできないんだ」

 相手がどんな目線でどちらを見ているとか、顔にどんな感情を表しているのかとか、それくらいは何となく理解できる。
 でも、その程度だった。

「だから、ごめん、実は日向さんの顔も、鈴木さんの顔も、五十嵐先生の顔も、僕には分からないんだ」

 普段は、声や背丈といった身体的な特徴、そして衣服や持ち物などでなんとか見分けている。
 しかし、いちいち一人一人の特徴を記憶しておくことには限界があって、どうしても対人コミュニケーションが上手くいかないことが多かった。

 たとえば、五十嵐先生は僕の症状を知ってくれている。
 だから、ワイシャツの胸ポケットにいつもお決まりの特徴的なボールペンを挿してくれているのだ。

 もし同じくらいの体格で、同じような格好をされると、ほぼ見分けがつかないと言っていい。
 つまり、制服を着るのが当たり前の学校という場所では、特定の相手を識別してコミュニケーションを取る術が壊滅的になってしまう。

「ごめんね、初めて聞く病名で……それが、染谷君が一人で過ごそうとしてる理由なんだね」
「うん、どうしても……どうにもできなくて」

 僕は諦めたように笑った。

 何度か、この障害を克服しようと思ったときもあった。
 顔が見えなくたって、コミュニケーションは取れる。
 そう自分に言い聞かせて、学校や社会に溶け込もうとした。
 でも、無理だった。

 声や仕草を見てからでないと、相手を識別できない。
 遠くから名前を呼んだり、写真から特定の相手を見つけることもできない。
 ましてや、顔が分からない以上、クラスメイトの名前を間違えて呼んでしまうリスクだって常にある。

 そんな人間が、溶け込めるわけもなかった。
 僕は早々に諦めて、とにかく他人に迷惑をかけないことだけを考えて、日陰で生きることを決めた。

「もう、治らないの?」

 日向さんは自分のことのように、悲しそうに呟いた。

「治療法はまだ分かってないらしくて……見つかるのいつになるか。ある日急に、自然に治ったなんて人もいるらしい。でもそれが明日なのか、十年後なのかも、分からない」

 定期的に病院で検査をしてもらっているが、未だに症状は改善されていなかった。
 そもそも症例の少ない病気だから、どうしても分からないことが多い。
 脳の仕組みはまだ解明されていない部分が多い、とか。

「そっか……」
「でもね」

 今日は病気のことはもちろん、どうしても伝えたい気持ちがあったのだ。

 僕は改めて勇気を出して、口を開いた。

「僕は日向さんに出会えてよかった。嬉しかった。僕に手を差し伸べてくれて」
「染谷君……」

 僕は万感の想いで、感謝の気持ちを口にした。

 誰の顔も分からず、世界で一番孤独に過ごしていた僕に。
 日向さんは当たり前のように、手を差し伸べてくれた。

 それは、何者にも変え難い、救いだった。

「もし良かったら、これからも君の夢の正体を探す手伝いをさせて欲しい。正直、何をすれば良いのか未だに見当もつかないけどね」
「……ありがとう、染谷君」

 日向さんはゆっくりと微笑んで、たしかに頷いた。
 分からなくても、分かる。
 きっとその顔は、とびきり可愛いに決まっている。

「まるで、告白だね」
「いや、あの……」

 日向さんのからかうような口調に、しどろもどろになる。

 改めて考えてみると、こんな一対一で向かい合った愛の告白みたいなシチュエーション、人生で初めてだ。

 勢いでベラベラと話してしまったけど、改めて自分を顧みてみると、妙に恥ずかしくなってきた。

「ーーまあ、なんて言うか、日向さんがこのベンチで寝てたことに感謝しないとね」

 恥ずかしさを紛らわそうと、思いついたテキトーなセリフを話す。

 しかし僕はそう口にした瞬間、はっとした。

「あ、ごめん、無神経なこと言った。日向さんも居眠り病って病気なのに、大変だよね……」

 罪悪感を感じて、すぐさま謝る。
 つい調子に乗って言わなくても良いことまで喋ってしまった。

 病気の当事者にしか分からない辛さや悩みがある。
 日向さんに不快な思いをさせてしまったかとしれない。

 日向さんは思い詰めたような表情で、目をぱちぱちさせた後、少し間を置いて口を開いた。

「あのね」
「うん?」

「あのね、実はーー」

 そう、彼女が口にした瞬間だった。

 それは、突然の出来事だった。
 日向さんは、急にがくりと身をかがめて、胸を押さえた。

「え、日向さん?」

 あまりに不意の出来事に、頭が混乱する。

 考えている間も無く、日向さんは倒れ込むようにしてその場に崩れた。

「日向さん! 大丈夫⁈」
「染谷……くん」

 声にならない声を絞り出して、日向さんはその場で意識を失った。