夢を見ていた。
宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろす夢。
白色で統一された船内は、名前も知らない様々な機器やコードが雑多に繋がれており、とても狭かった。
丸くて小さい窓から見える景色は、漆黒に包まれた宇宙空間が広がっている。
見下ろすようにして下を見ると、青く淡く光る地球が見えた。
白い雲に覆われながら、広大な海が見える。
茶色に見えるのは陸地だろうか。
あの大陸の形はどこの国だろう。
日本は、僕たちの住む街はどこなんだろう。
宇宙ロケットの船内を改めて見回すと、僕ともう一人誰かが載っている気配がした。
すると、そのもう一人が、無重力に揺られながら姿を表す。
その人は宇宙服を着ている。
頭まですっぽりと装備を整えて、いかにも宇宙パイロットといった様子だ。
もちろん、顔は見えない。
そこにいるのは誰か分からない。
でも、誰かは一緒にいる。
僕は気軽にその人に挨拶をした。
おはようと、と。
その相手はおはようと返した。
宇宙に朝も夜もあるものかと不思議な気持ちになった。
その人の顔を覗こうとする。
君は一体誰なんだろう、と。
いつもそこで目が覚める。
重量挙げの選手が必死にダンベルを持ち上げるみたいに、重たい瞼をなんとか上げる。
そこには見慣れた学生アパートの薄汚れた天井がある。
これもいつものことだった。
四年前から、何度も見るようになった夢。
日向佳乃が死んでから、何度も見る夢。
◆
今日は大学の講義も、日課のコンビニのアルバイトもなかったので、久しぶりの休みだと思って一日寝ていた。
深夜まで、大学の研究で必要な論文を読んでいたので、布団に入ったのは明け方だった。
世間の人々が生活の営みを送っている日中、僕は泥のように眠り続けた。
ガチャガチャとアパートの部屋の鍵が開く音で目が覚める。
寝ぼけ眼で身体を起こすと、病院での仕事終わりの妹が部屋に帰ってきた。
今年の四月から、妹は市内の病院で看護師として勤務している。
「あ、お兄ちゃん、もしかして今起きたの?」
「ん? ああ」
「昼夜逆転しちゃダメだよ。もう就職も決まったからって油断してたらーーお兄ちゃん?」
妹は母親のように生活習慣について口うるさく注意をする。
これもすっかり日常の一部になっていた。
しかし急に言葉を切って、眉を寄せて不審げな目つきで僕の顔を見た。
「あれーー」
ふと、僕も不自然なことに気がついた。
いやあるいは、あまりに自然で気がつかなかった。
僕の頰から、一筋の涙が流れていた。
僕自身も泣いていたことに気が付いていなかった。
夢から目が覚めたら泣いている。
悲しいからではない。
毎回、あの夢を見て目が覚めると、まるで記憶の残滓が零れ落ちるみたいに、涙が自然と流れていた。
「またーー佳乃さんの夢を見てたの」
妹は部屋に上がると、悲しそうな表情を浮かべて僕の顔を覗き込んだ。
僕は弱ったところを不意に見られたことが気恥ずかしくなって、急いで涙を拭って立ち上がった。
「いや、いいんだ。大丈夫。気にしないで」
日向佳乃が死んで、もうまる四年が経った。
県内の国立大学の工学部に進学した僕は、学生アパートで一人暮らしを始めた。
妹も専門学校に進んで看護師になることを決めていたし、叔父さん夫婦に経済的な負担をかけたくなかった僕は、実家から通うと主張したが、叔父さんは「男は早く一人暮らしを経験した方が良い」と頑なに譲らなかった。
申し訳ない思いを抱えながらも、僕は格安の寂れた学生アパートを選んでそこから大学へ通った。
毎日大学に通い、勉強に打ち込んだ。
周りからはやけに熱心で真面目な学生だなと驚かれたが、やりたいことは決まっていたから、そこまで苦ではなかった。
高校三年生のとき、相貌失認が治った僕は、いわゆる普通のコミュニケーションが取れるようになった。
ちゃんと相手の顔を見て、会話をする。
そんな世界中の誰もが行っている当たり前が、やっと僕のもとにも訪れた。
もう、一人きりで閉じこもっている必要はない。
日向さんの存在に背中を押され、僕は大学ではしっかりと人付き合いも頑張った。
相手と交流して友達になるというプロセスは、まったくもって得意ではなかったけど、理系の国立大学という地に足のついた学生が多い風土も相まって、なんとかやっていけている。
もちろん、日向さんのように出会う人全員友達の人気者とは行かなかったけど、少なくとも顔を合わせれば挨拶をしたり、たまにご飯に行ったりするくらいの友人は何人か作ることができた。
これは、かつての僕からしたらとんでもない進歩だ。
そして大学四年生になり、激烈で過酷な就職活動の結果、僕はかねてより希望していた宇宙ロケットを開発している民間企業に内定をもらうことができた。
嬉しかった。ずっと目標にしてきた道だったから。
理系ということもあり、周りの同級生たちは大学院に進む人も多かったけど、僕はなるべく早く目的地に辿り着きたくて、就職を選んだ。
「ーー佳乃さんのこと、まだ想ってるの」
「……梨沙」
妹は泣き出しそうな顔で僕のことを見つめた。
日向さんは、太陽のように光り輝く存在だった。
あたりを照らし、生命を与える日の光のようだった。
彼女と僕は、光と影だった。
いや、僕は影ですらないかもしれない。
彼女は光に違いない。
だけど僕は、この暗闇に支配された世界では、真っ黒に塗りつぶされた地面に己の輪郭すら描けずにいた。
彼女に近づくこともできず、影にもなれずにいる。
では僕は一体何者なのだろう。
どうやって僕は、僕の輪郭を描けば良いのだろう。
それは、アメリカに本社を置く検索エンジンサービスを使っても、岩のように分厚い聖典を引いても、どこにも答えは載っていないようだった。
「……お墓参り、行ってきたら。目標の宇宙ロケット開発には携われることになったんだし、区切りをつけるときなんじゃないかな」
妹は諭すような口調でそう言った。
いつだったか、かつても妹の説得で日向さんと和解できたことがあった。
昔から僕よりも精神年齢の高いしっかりした妹だったけど、看護師になってからはさらに大人びたようだ。
まったく、頭が上がらない。
「……そうだね。もう、そういうタイミングなのかもしれない」
四年。
長いようで、早かった。
高校三年生の頃の僕は、どうしようもなく子供だった。
自意識ばかりが肥大化して、何かあれば不遇な境遇のせいばかりにしていた。
今の自分からすると、拳骨を頭に落としたくなるほどのクソガキだった自覚がある。
じゃあ、今の自分はどうなんだろうか。
今年で二十二歳になる。
来年からは、立派なサラリーマンだ。
僕が高校生の頃想像していた二十二歳は、もっと大人だった。
格好良い、頼りがいのある大人。
人の悩みを解決して、卒なく問題を処理して、誰かに頼られるような存在。
でも、そんな大人になんてなれているはずもなく、今もまだ僕は鼻を垂れた子供のままだった。
社会人になる前に、蹴りをつけなければならない。
この宙ぶらりんな気持ちに。
この過去に囚われている記憶に。
◆
「ーー久しぶりだな」
「ご無沙汰してます」
五十嵐先生は、くたびれたようなボサボサ頭を掻いた。
その癖は四年たった今でも相変わらずらしかった。
「一丁前に挨拶できるようになったな」
僕のかしこまった態度がおかしかったのか、五十嵐先生は楽しそうに笑った。
なんだか子供扱いされるのが気恥ずかしくて、僕は目線を泳がせた。
四年という時間が立っていたが、五十嵐先生の外見はほとんど変化がなかった。
四年前の写真と見比べても違いが分からないかもしれない。
相変わらずのボサボサ頭と黒縁メガネで、ダウナーな雰囲気を保っていた。
僕が向かったのは、母校である西南高校だった。
足を運んだのは、高校の卒業式以来だった。
県内の国立大学への進学を機に、別の市の学生アパートに引っ越したから、自然と足が遠のいていた。
あの頃と同じ校舎、あの頃と同じ中庭。
見ているだけで、懐かしさに身が震える思いだった。
幸いなことに、五十嵐先生は転勤せずに西南高校にまだ勤めていたので、挨拶に伺うことはそこまで難しくなかった。
職員室で話し込むわけにも行かないので、僕と五十嵐先生は理科準備室で椅子に座って顔を突き合わせた。
「大学はどうだ。たしか県内の国立だろ」
「おかげさまで、あと少しで卒業です」
「そうか、俺は遊びすぎて留年したから、なによりだ」
五十嵐先生はこともなげにそう話した。
しかし、五十嵐先生が遊びすぎて留年とは、意外な事実だ。
もちろん、初めて耳にした。
もし日向さんが聞いたら大喜びして質問攻めにしそうなエピソードだ。
こうして、他人の意外な一面を知っていくことが、案外大人になるということなのかもしれないと思った。
「大学院か? それとも就職?」
「えっと、就職です。宇宙ロケット開発を手がかけてる民間企業です」
「ほお」
五十嵐先生は、珍しく感心したように声を漏らした。
「大したもんだ。染谷も成長したな。昔はあんなに斜に構えてたじゃないか」
「あの頃は……まあ」
僕は気まずさから、なんとか愛想笑いで誤魔化す。
高校生の頃の尖っていた性格を数年越しに改めて指摘されると、ものすごく恥ずかしい。
「あの頃は、僕の障害で、ご迷惑おかけしました。いろいろ便宜を図ってくれて」
「いんや、生徒のために便宜を図るのが俺たちの仕事みたいなもんだからな。迷惑じゃない。気にすんな」
面倒くさそうに手を振って、僕が頭を下げるのを制止する五十嵐先生。
五十嵐先生は、当時の僕が抱えていた障害を理解してくれていた、数少ない人間の一人だ。
天文台の夜に、奇跡的に相貌失認が治るまで、特徴的なボールペンをわざと胸元につけて、僕の見分けがつくようにしてくれていた。
「あのボールペン、今でもつけてんだ。いつの間にか俺のトレードマークになったみたいでな。生徒からも評判が意外といいんだ」
そう言って、胸元に挿してあるボールペンのキャップを指さす。
僕が高校三年生の頃見たキャップのキャラクターとは変わっていたが、かつてと同じような特徴的な可愛らしい猫のデザインがあしらわれていた。
僕はそれを見て、なんだか急に懐かしい感覚に襲われた。
「先生って、意外と卒業生のこと覚えてるんですね。もう四年も前なのに……」
「まあ、正直言ってお前らは特別だな。お前らっていうのは、染谷とーー」
僕はその先の名前が予想できた。
「ーー日向佳乃。後にも先にも、お前らみたいな生徒は、なかなかいない」
五十嵐先生は深く息を吸って、疲れた目つきで窓の外の景色をじっと眺めた。
容姿はあまり変わらないけど、少しだけ目尻の皺が増えた気もする。
僕にも、五十嵐先生にも、平等に時間は流れて、積み重なっている。
「その話をしにきたんだろ?」
「まあ……はい。社会に出る前に、自分の中で、整理をつけておきたくて」
懐かしい景色。
古びた校舎に囲われた、あの中庭のベンチで、僕は彼女を見つけた。
もう、この世にはいない、夢見る眠り姫を。
「日向はなんていうか、生きているスピードが早い奴だった。止まることのない、まるで短距離走の選手みたいだった。速くて、速すぎて、世界からも飛び出していった。そんな感じだ」
昔を思い出すような、遠い目をして外の景色を眺めながら、五十嵐先生はそう口にした。
僕は五十嵐先生の言葉を、何も言わずに黙って聞いていた。
今ではこの校舎も中庭も、理科準備室も図書館も、僕のまったく知らない生徒たちが過ごしている。
あの生徒で溢れた教室にも、もう僕や日向さんのことを知る人は誰もいない。
あの頃同じ授業を受けていたクラスメイトたちは、今はもう違うどこかで、それぞれの人生を生きている。
それは当然の事実なのに、どうにも不思議に感じられた。
「お前は今どうなんだ? もう、吹っ切れたか?」
五十嵐先生の問いかけに、僕は少し考え込んだ。
吹っ切れているとは、正直言い難い。
今でも彼女の夢を見る。
まさに彼女が言っていた、宇宙ロケットに乗って地球を見下ろす夢を。
彼女がしつこいくらいに言っていたせいで、刷り込まれて僕に移ってしまったのか。
あるいは、彼女への未練が潜在意識として、夢というスクリーンにその幻想を写しているのか。
しっかりと大学の勉強も頑張ったと思う。
彼女の生き方に背かないように、大学では人間関係からも逃げず、しっかりと向き合える仲間にも出会えた。
この四年間の自分の姿だけ見れば、しっかりと彼女の想いを引き継いでいると言えなくもない。
でも、やはり心の中の悲しみはなかなか癒えてくれなかった。
「まだーー忘れられません。今でも、夢に見るくらい」
「そりゃ……悪いこととは言わないけどよ」
五十嵐先生は、なんとも言えない表情で、困ったように眉を寄せた。
なんと返したものかと僕が迷っていると、五十嵐先生がスーツの内ポケットをごそごそと漁り始めた。
「まあ、お前が話しにきてくれたのは嬉しかった。やっとーー渡せるよ」
「渡せる?」
僕は五十嵐先生の言葉の意味が分からず、思わず素っ頓狂な声で聞き直した。
「実は、日向に頼まれてた。もし卒業後にお前が俺に会いに来る機会があったら、渡して欲しいって」
そう言って、五十嵐先生が差し出したのは、真っ白の小さい封筒だった。
恐る恐る、震える手でそれを受け取る。
宛名には、染谷悠介様と書いてある。
差出人には、日向佳乃と。
名前の横に添えられた日付は、四年前になっていた。
そんな。
これって、まさか。
「これ……」
「何年後になってもいいから、渡してくれって頼まれてよ。俺は自分で渡したほうが確実だぞって言ったんだが、『どうしても染谷君が自分で過去に向き合おうと思った時に読んで欲しい』って譲らなくてよ」
五十嵐先生は昔を懐かしむように微笑んだ。
「まるで、今日のことを予言してたみたいだな」
手元の白い封筒へ、目を落とす。
そんなことがあったなんて、僕はまったく知らなかった。
天文台で語り合ったあの日も、病気が深刻化し集中治療室に入って面会拒絶になる直前も、日向さんは手紙の存在なんて一言も言わなかった。
「まあ、読んでみろ」
「はい……」
僕は促されるがまま、封筒を開いた。
中には数枚の便箋が折り畳まれて封入されていた。
緊張で、指がかさつく。
丁寧に描かれた文字を、走るようにして目で追う。
便箋に書かれた丸みを帯びた文字は、たしかに日向さんのものだった。
◆
『染谷君へ
こんな形でのお手紙になってごめんなさい。
このお手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないんですね。
こんなありきたりでドラマみたいなセリフを、自分がいう日が来るなんて夢にも思ってみませんでした。
でも、そんな日が来てしまったのだから、せっかくだから使ってみました。
私が死んで、染谷君は悲しんでいるかな。
どうだろう、染谷君が泣いているところは見たことがないけど、私のために泣いてくれていますか。
きっと、私の死は染谷君にとってショックを与えると思います。
べつに全然気になんないぜ! って前向きに歩いてくれたら、それはそれで嬉しいけど、でも染谷君はそういうタイプじゃないと思うから。
もし、自分の過去と訣別したいと、そう決意した日が来たなら、このお手紙を読んで欲しいなと思ったので、五十嵐先生に託すことにしました。
五十嵐先生にお礼言っといてね!
染谷君以上に、いろんなわがままを言って困らせてしまっていた気がします。
でも、私の担任なんだから、仕方ないよね。
私がもう治らない身体だと知ったのは、半年ほど前でした。
二年生の冬に、一度家で意識を失って倒れて、検査の結果心臓が悪いことが分かりました。
そしてそれがお父さんが亡くなった原因と同じ病気だってことも。
きっと、もう私は長くない。
直感的にそう感じました。
そして、その直感は当たってました。
そう、検査の末、私が主治医の先生から言い渡されたのは、残酷なプロポーズでした。
私はもう死を待つだけの存在。
私の世界はここで終わることは、神様の決定事項みたいでした。
検査入院したとき。
真四角の白い病室を眺めていると、時間の流れから取り残された気分になりました。
世の中では色んな人間が、色んな経験をして、色んな出会いと別れを繰り返している。
もうこの世を去るだけの私には、全てが他人ごとに思えました。
意外に思うかもしれないけど、病気がわかったとき私は、正直いろんなことを諦めようと思ってました。
人生があと少ししかないと分かっているのに、何かを頑張ろうとか、特別なことをしようという気分にはなれませんでした。
自分でも分からないけど、たぶん薬の副作用による身体の怠さとか、人生に対する諦観とか、いろんな理由が重なっていました。
でも、思い出したのです。
短かった人生を振り返るつもりで、めくっていた昔の卒業アルバムや写真。
そこに写っていた、小学校三年生の染谷君を見つけました。
お父さんの死で、悲しみの底に落ちていた私。
きっと、幼い頃同級生だったあの子も、同じような気持ちを抱いていたはず。
あのときと同じような気持ちを、お母さんや、仲の良い友達に味あわせるわけには行かない。
生きているうちに、みんなの心の中に何かを残したい。
人生ってこんなに面白いんだぞ!
日向佳乃はこんなに後悔のない人生を最後まで送ったんだぞ!
そう伝えようと思ったんです。
それ以来、なんとか服薬を続けながら、学校に通いました。
所属していた陸上部も最後の大会まで続けたし、活動時間が持つうちは塾にも通い続けました。
もちろん、お母さんと先生たち以外には病気のことは内緒で。
でも、だんだんと限界は近づいていました。
服薬の量が増えて、副作用で身体が上手くコントロールできなくなってきました。
体を動かしたりすることも難しくなって、放課後病院に通う日も増えました。
もう、そろそろ普通の生活は難しいかもしれない。
そんなことを考えているとき、染谷君に出逢いました。
まさか、君の方からやってくるなんて思っても見ませんでした。
それも、眠っている私を起こしにやってくるなんて。
この不思議な縁を失いたくなくて、私は思い付いたお願いをすることにしました。
宇宙ロケットの夢の正体を一緒に探して欲しい。
我ながら、無茶苦茶なお願いです。
でも、君は何も言わずに付き合ってくれました。
それからは楽しい日々でした。
身体のことを、病気のことをなんとかバレないように気をつけながら、染谷君と遊びました。
そう、遊んでいたんです。
小学校低学年の頃に戻ったような、そんな不思議な感覚でした。
でも、染谷君は昔と変わっていました。
その理由が、脳の障害にあると知ったときは本当に驚きました。
月並みなセリフになってしまうけれど、病気が治って良かったです。
本当に、本当に良かった。
そして、天文台に行って、一緒に夜空を眺めましたよね。
嬉しかったです。
嬉しかったのです。
もう、私はカーテンの閉まった医療機器に閉じられた部屋から出ることはできません。
あの天に広がる夜空が、私にとっての最後の夜空です。
あの夜、私が伝えたことは本心です。
優しくて、賢くて、手先が器用で、他人の痛みが分かる染谷君なら。
染谷君ならきっと、周りの人を幸せにすることができます。
大切な誰かのために頑張ったり、戦ったりすることができます。
日向佳乃は、染谷悠介のことを、信じています。
どうか、いつかの私みたいな、世界のどこかで眠っている存在を、起こしてあげてください。
染谷君のことは、好きとか、なんだかそんなありきたりな表現では説明できません。
染谷君との関係は、上手く言い表すことはできそうにありません。
それでは、そろそろ検査の時間なので、ここらで手紙を書き終えようと思います。
ありがとう、出会ってくれて。
誰にも見つけられない星を、見つけてくれて。』
◆
手紙を読み終わった僕は、そっと理科準備室の机に便箋を置いた。
「読み終わったか?」
「……はい」
五十嵐先生は、そっと問いかけるように声をかけた。
僕は潤む目を必死に抑えながら、ゆっくり頷いた。
「まあ、これ以上は無粋だから、俺からは何も言わないでおくよ」
僕は俯きながら、涙がこぼれないように必死に耐えた。
「五十嵐先生、あの世ってあると思いますか」
「……自殺でもする気か?」
怪訝な表情を浮かべる五十嵐先生。
しかし僕は即座に首を振って否定する。
「いや、死にません。むしろ、めちゃくちゃ色んなことを経験して、めちゃくちゃ面白いこと探して、周りの人間幸せにしまくってから、百歳まで絶対生きるってきめました」
「……そうか」
僕の馬鹿げた決意表明に、五十嵐先生は納得したように笑った。
宇宙ロケットを作ろう。
僕のこの手で作った宇宙ロケットが、地球の大気圏を飛び出して、この地球の重力を振り払って、美しい宇宙空間に向かう。
そんなイメージが、頭の中で浮かんだ。
でも、作る方だから、自分が宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろすことはちょっと難しいかもしれない。
もし日向さんがいたら、文句を言われそうだけど、こればっかりは仕方ない。
「じゃあ、俺はもういくよ」
「あ、あの、ありがとうございました」
「ーーおう」
五十嵐先生は椅子を立ち上がって、理科準備室の扉をガラガラと開けた。
去り際、五十嵐先生はこちらを振り返った。
「もし、あの世があったら、どうするんだ」
「それはーー」
僕はあえてその先は何も答えず、静かに顔を上げて、窓から見える外の景色を眺めた。
もう二度と出会うことはない君へ。
探しに行こう。
この宇宙のどこかで光っている君を見つけよう。
いつかどこかで、君にまた出会えたなら、真っ先に伝えようと思う。
誰にも見つけられない星を、やっと見つけたと。
宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろす夢。
白色で統一された船内は、名前も知らない様々な機器やコードが雑多に繋がれており、とても狭かった。
丸くて小さい窓から見える景色は、漆黒に包まれた宇宙空間が広がっている。
見下ろすようにして下を見ると、青く淡く光る地球が見えた。
白い雲に覆われながら、広大な海が見える。
茶色に見えるのは陸地だろうか。
あの大陸の形はどこの国だろう。
日本は、僕たちの住む街はどこなんだろう。
宇宙ロケットの船内を改めて見回すと、僕ともう一人誰かが載っている気配がした。
すると、そのもう一人が、無重力に揺られながら姿を表す。
その人は宇宙服を着ている。
頭まですっぽりと装備を整えて、いかにも宇宙パイロットといった様子だ。
もちろん、顔は見えない。
そこにいるのは誰か分からない。
でも、誰かは一緒にいる。
僕は気軽にその人に挨拶をした。
おはようと、と。
その相手はおはようと返した。
宇宙に朝も夜もあるものかと不思議な気持ちになった。
その人の顔を覗こうとする。
君は一体誰なんだろう、と。
いつもそこで目が覚める。
重量挙げの選手が必死にダンベルを持ち上げるみたいに、重たい瞼をなんとか上げる。
そこには見慣れた学生アパートの薄汚れた天井がある。
これもいつものことだった。
四年前から、何度も見るようになった夢。
日向佳乃が死んでから、何度も見る夢。
◆
今日は大学の講義も、日課のコンビニのアルバイトもなかったので、久しぶりの休みだと思って一日寝ていた。
深夜まで、大学の研究で必要な論文を読んでいたので、布団に入ったのは明け方だった。
世間の人々が生活の営みを送っている日中、僕は泥のように眠り続けた。
ガチャガチャとアパートの部屋の鍵が開く音で目が覚める。
寝ぼけ眼で身体を起こすと、病院での仕事終わりの妹が部屋に帰ってきた。
今年の四月から、妹は市内の病院で看護師として勤務している。
「あ、お兄ちゃん、もしかして今起きたの?」
「ん? ああ」
「昼夜逆転しちゃダメだよ。もう就職も決まったからって油断してたらーーお兄ちゃん?」
妹は母親のように生活習慣について口うるさく注意をする。
これもすっかり日常の一部になっていた。
しかし急に言葉を切って、眉を寄せて不審げな目つきで僕の顔を見た。
「あれーー」
ふと、僕も不自然なことに気がついた。
いやあるいは、あまりに自然で気がつかなかった。
僕の頰から、一筋の涙が流れていた。
僕自身も泣いていたことに気が付いていなかった。
夢から目が覚めたら泣いている。
悲しいからではない。
毎回、あの夢を見て目が覚めると、まるで記憶の残滓が零れ落ちるみたいに、涙が自然と流れていた。
「またーー佳乃さんの夢を見てたの」
妹は部屋に上がると、悲しそうな表情を浮かべて僕の顔を覗き込んだ。
僕は弱ったところを不意に見られたことが気恥ずかしくなって、急いで涙を拭って立ち上がった。
「いや、いいんだ。大丈夫。気にしないで」
日向佳乃が死んで、もうまる四年が経った。
県内の国立大学の工学部に進学した僕は、学生アパートで一人暮らしを始めた。
妹も専門学校に進んで看護師になることを決めていたし、叔父さん夫婦に経済的な負担をかけたくなかった僕は、実家から通うと主張したが、叔父さんは「男は早く一人暮らしを経験した方が良い」と頑なに譲らなかった。
申し訳ない思いを抱えながらも、僕は格安の寂れた学生アパートを選んでそこから大学へ通った。
毎日大学に通い、勉強に打ち込んだ。
周りからはやけに熱心で真面目な学生だなと驚かれたが、やりたいことは決まっていたから、そこまで苦ではなかった。
高校三年生のとき、相貌失認が治った僕は、いわゆる普通のコミュニケーションが取れるようになった。
ちゃんと相手の顔を見て、会話をする。
そんな世界中の誰もが行っている当たり前が、やっと僕のもとにも訪れた。
もう、一人きりで閉じこもっている必要はない。
日向さんの存在に背中を押され、僕は大学ではしっかりと人付き合いも頑張った。
相手と交流して友達になるというプロセスは、まったくもって得意ではなかったけど、理系の国立大学という地に足のついた学生が多い風土も相まって、なんとかやっていけている。
もちろん、日向さんのように出会う人全員友達の人気者とは行かなかったけど、少なくとも顔を合わせれば挨拶をしたり、たまにご飯に行ったりするくらいの友人は何人か作ることができた。
これは、かつての僕からしたらとんでもない進歩だ。
そして大学四年生になり、激烈で過酷な就職活動の結果、僕はかねてより希望していた宇宙ロケットを開発している民間企業に内定をもらうことができた。
嬉しかった。ずっと目標にしてきた道だったから。
理系ということもあり、周りの同級生たちは大学院に進む人も多かったけど、僕はなるべく早く目的地に辿り着きたくて、就職を選んだ。
「ーー佳乃さんのこと、まだ想ってるの」
「……梨沙」
妹は泣き出しそうな顔で僕のことを見つめた。
日向さんは、太陽のように光り輝く存在だった。
あたりを照らし、生命を与える日の光のようだった。
彼女と僕は、光と影だった。
いや、僕は影ですらないかもしれない。
彼女は光に違いない。
だけど僕は、この暗闇に支配された世界では、真っ黒に塗りつぶされた地面に己の輪郭すら描けずにいた。
彼女に近づくこともできず、影にもなれずにいる。
では僕は一体何者なのだろう。
どうやって僕は、僕の輪郭を描けば良いのだろう。
それは、アメリカに本社を置く検索エンジンサービスを使っても、岩のように分厚い聖典を引いても、どこにも答えは載っていないようだった。
「……お墓参り、行ってきたら。目標の宇宙ロケット開発には携われることになったんだし、区切りをつけるときなんじゃないかな」
妹は諭すような口調でそう言った。
いつだったか、かつても妹の説得で日向さんと和解できたことがあった。
昔から僕よりも精神年齢の高いしっかりした妹だったけど、看護師になってからはさらに大人びたようだ。
まったく、頭が上がらない。
「……そうだね。もう、そういうタイミングなのかもしれない」
四年。
長いようで、早かった。
高校三年生の頃の僕は、どうしようもなく子供だった。
自意識ばかりが肥大化して、何かあれば不遇な境遇のせいばかりにしていた。
今の自分からすると、拳骨を頭に落としたくなるほどのクソガキだった自覚がある。
じゃあ、今の自分はどうなんだろうか。
今年で二十二歳になる。
来年からは、立派なサラリーマンだ。
僕が高校生の頃想像していた二十二歳は、もっと大人だった。
格好良い、頼りがいのある大人。
人の悩みを解決して、卒なく問題を処理して、誰かに頼られるような存在。
でも、そんな大人になんてなれているはずもなく、今もまだ僕は鼻を垂れた子供のままだった。
社会人になる前に、蹴りをつけなければならない。
この宙ぶらりんな気持ちに。
この過去に囚われている記憶に。
◆
「ーー久しぶりだな」
「ご無沙汰してます」
五十嵐先生は、くたびれたようなボサボサ頭を掻いた。
その癖は四年たった今でも相変わらずらしかった。
「一丁前に挨拶できるようになったな」
僕のかしこまった態度がおかしかったのか、五十嵐先生は楽しそうに笑った。
なんだか子供扱いされるのが気恥ずかしくて、僕は目線を泳がせた。
四年という時間が立っていたが、五十嵐先生の外見はほとんど変化がなかった。
四年前の写真と見比べても違いが分からないかもしれない。
相変わらずのボサボサ頭と黒縁メガネで、ダウナーな雰囲気を保っていた。
僕が向かったのは、母校である西南高校だった。
足を運んだのは、高校の卒業式以来だった。
県内の国立大学への進学を機に、別の市の学生アパートに引っ越したから、自然と足が遠のいていた。
あの頃と同じ校舎、あの頃と同じ中庭。
見ているだけで、懐かしさに身が震える思いだった。
幸いなことに、五十嵐先生は転勤せずに西南高校にまだ勤めていたので、挨拶に伺うことはそこまで難しくなかった。
職員室で話し込むわけにも行かないので、僕と五十嵐先生は理科準備室で椅子に座って顔を突き合わせた。
「大学はどうだ。たしか県内の国立だろ」
「おかげさまで、あと少しで卒業です」
「そうか、俺は遊びすぎて留年したから、なによりだ」
五十嵐先生はこともなげにそう話した。
しかし、五十嵐先生が遊びすぎて留年とは、意外な事実だ。
もちろん、初めて耳にした。
もし日向さんが聞いたら大喜びして質問攻めにしそうなエピソードだ。
こうして、他人の意外な一面を知っていくことが、案外大人になるということなのかもしれないと思った。
「大学院か? それとも就職?」
「えっと、就職です。宇宙ロケット開発を手がかけてる民間企業です」
「ほお」
五十嵐先生は、珍しく感心したように声を漏らした。
「大したもんだ。染谷も成長したな。昔はあんなに斜に構えてたじゃないか」
「あの頃は……まあ」
僕は気まずさから、なんとか愛想笑いで誤魔化す。
高校生の頃の尖っていた性格を数年越しに改めて指摘されると、ものすごく恥ずかしい。
「あの頃は、僕の障害で、ご迷惑おかけしました。いろいろ便宜を図ってくれて」
「いんや、生徒のために便宜を図るのが俺たちの仕事みたいなもんだからな。迷惑じゃない。気にすんな」
面倒くさそうに手を振って、僕が頭を下げるのを制止する五十嵐先生。
五十嵐先生は、当時の僕が抱えていた障害を理解してくれていた、数少ない人間の一人だ。
天文台の夜に、奇跡的に相貌失認が治るまで、特徴的なボールペンをわざと胸元につけて、僕の見分けがつくようにしてくれていた。
「あのボールペン、今でもつけてんだ。いつの間にか俺のトレードマークになったみたいでな。生徒からも評判が意外といいんだ」
そう言って、胸元に挿してあるボールペンのキャップを指さす。
僕が高校三年生の頃見たキャップのキャラクターとは変わっていたが、かつてと同じような特徴的な可愛らしい猫のデザインがあしらわれていた。
僕はそれを見て、なんだか急に懐かしい感覚に襲われた。
「先生って、意外と卒業生のこと覚えてるんですね。もう四年も前なのに……」
「まあ、正直言ってお前らは特別だな。お前らっていうのは、染谷とーー」
僕はその先の名前が予想できた。
「ーー日向佳乃。後にも先にも、お前らみたいな生徒は、なかなかいない」
五十嵐先生は深く息を吸って、疲れた目つきで窓の外の景色をじっと眺めた。
容姿はあまり変わらないけど、少しだけ目尻の皺が増えた気もする。
僕にも、五十嵐先生にも、平等に時間は流れて、積み重なっている。
「その話をしにきたんだろ?」
「まあ……はい。社会に出る前に、自分の中で、整理をつけておきたくて」
懐かしい景色。
古びた校舎に囲われた、あの中庭のベンチで、僕は彼女を見つけた。
もう、この世にはいない、夢見る眠り姫を。
「日向はなんていうか、生きているスピードが早い奴だった。止まることのない、まるで短距離走の選手みたいだった。速くて、速すぎて、世界からも飛び出していった。そんな感じだ」
昔を思い出すような、遠い目をして外の景色を眺めながら、五十嵐先生はそう口にした。
僕は五十嵐先生の言葉を、何も言わずに黙って聞いていた。
今ではこの校舎も中庭も、理科準備室も図書館も、僕のまったく知らない生徒たちが過ごしている。
あの生徒で溢れた教室にも、もう僕や日向さんのことを知る人は誰もいない。
あの頃同じ授業を受けていたクラスメイトたちは、今はもう違うどこかで、それぞれの人生を生きている。
それは当然の事実なのに、どうにも不思議に感じられた。
「お前は今どうなんだ? もう、吹っ切れたか?」
五十嵐先生の問いかけに、僕は少し考え込んだ。
吹っ切れているとは、正直言い難い。
今でも彼女の夢を見る。
まさに彼女が言っていた、宇宙ロケットに乗って地球を見下ろす夢を。
彼女がしつこいくらいに言っていたせいで、刷り込まれて僕に移ってしまったのか。
あるいは、彼女への未練が潜在意識として、夢というスクリーンにその幻想を写しているのか。
しっかりと大学の勉強も頑張ったと思う。
彼女の生き方に背かないように、大学では人間関係からも逃げず、しっかりと向き合える仲間にも出会えた。
この四年間の自分の姿だけ見れば、しっかりと彼女の想いを引き継いでいると言えなくもない。
でも、やはり心の中の悲しみはなかなか癒えてくれなかった。
「まだーー忘れられません。今でも、夢に見るくらい」
「そりゃ……悪いこととは言わないけどよ」
五十嵐先生は、なんとも言えない表情で、困ったように眉を寄せた。
なんと返したものかと僕が迷っていると、五十嵐先生がスーツの内ポケットをごそごそと漁り始めた。
「まあ、お前が話しにきてくれたのは嬉しかった。やっとーー渡せるよ」
「渡せる?」
僕は五十嵐先生の言葉の意味が分からず、思わず素っ頓狂な声で聞き直した。
「実は、日向に頼まれてた。もし卒業後にお前が俺に会いに来る機会があったら、渡して欲しいって」
そう言って、五十嵐先生が差し出したのは、真っ白の小さい封筒だった。
恐る恐る、震える手でそれを受け取る。
宛名には、染谷悠介様と書いてある。
差出人には、日向佳乃と。
名前の横に添えられた日付は、四年前になっていた。
そんな。
これって、まさか。
「これ……」
「何年後になってもいいから、渡してくれって頼まれてよ。俺は自分で渡したほうが確実だぞって言ったんだが、『どうしても染谷君が自分で過去に向き合おうと思った時に読んで欲しい』って譲らなくてよ」
五十嵐先生は昔を懐かしむように微笑んだ。
「まるで、今日のことを予言してたみたいだな」
手元の白い封筒へ、目を落とす。
そんなことがあったなんて、僕はまったく知らなかった。
天文台で語り合ったあの日も、病気が深刻化し集中治療室に入って面会拒絶になる直前も、日向さんは手紙の存在なんて一言も言わなかった。
「まあ、読んでみろ」
「はい……」
僕は促されるがまま、封筒を開いた。
中には数枚の便箋が折り畳まれて封入されていた。
緊張で、指がかさつく。
丁寧に描かれた文字を、走るようにして目で追う。
便箋に書かれた丸みを帯びた文字は、たしかに日向さんのものだった。
◆
『染谷君へ
こんな形でのお手紙になってごめんなさい。
このお手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないんですね。
こんなありきたりでドラマみたいなセリフを、自分がいう日が来るなんて夢にも思ってみませんでした。
でも、そんな日が来てしまったのだから、せっかくだから使ってみました。
私が死んで、染谷君は悲しんでいるかな。
どうだろう、染谷君が泣いているところは見たことがないけど、私のために泣いてくれていますか。
きっと、私の死は染谷君にとってショックを与えると思います。
べつに全然気になんないぜ! って前向きに歩いてくれたら、それはそれで嬉しいけど、でも染谷君はそういうタイプじゃないと思うから。
もし、自分の過去と訣別したいと、そう決意した日が来たなら、このお手紙を読んで欲しいなと思ったので、五十嵐先生に託すことにしました。
五十嵐先生にお礼言っといてね!
染谷君以上に、いろんなわがままを言って困らせてしまっていた気がします。
でも、私の担任なんだから、仕方ないよね。
私がもう治らない身体だと知ったのは、半年ほど前でした。
二年生の冬に、一度家で意識を失って倒れて、検査の結果心臓が悪いことが分かりました。
そしてそれがお父さんが亡くなった原因と同じ病気だってことも。
きっと、もう私は長くない。
直感的にそう感じました。
そして、その直感は当たってました。
そう、検査の末、私が主治医の先生から言い渡されたのは、残酷なプロポーズでした。
私はもう死を待つだけの存在。
私の世界はここで終わることは、神様の決定事項みたいでした。
検査入院したとき。
真四角の白い病室を眺めていると、時間の流れから取り残された気分になりました。
世の中では色んな人間が、色んな経験をして、色んな出会いと別れを繰り返している。
もうこの世を去るだけの私には、全てが他人ごとに思えました。
意外に思うかもしれないけど、病気がわかったとき私は、正直いろんなことを諦めようと思ってました。
人生があと少ししかないと分かっているのに、何かを頑張ろうとか、特別なことをしようという気分にはなれませんでした。
自分でも分からないけど、たぶん薬の副作用による身体の怠さとか、人生に対する諦観とか、いろんな理由が重なっていました。
でも、思い出したのです。
短かった人生を振り返るつもりで、めくっていた昔の卒業アルバムや写真。
そこに写っていた、小学校三年生の染谷君を見つけました。
お父さんの死で、悲しみの底に落ちていた私。
きっと、幼い頃同級生だったあの子も、同じような気持ちを抱いていたはず。
あのときと同じような気持ちを、お母さんや、仲の良い友達に味あわせるわけには行かない。
生きているうちに、みんなの心の中に何かを残したい。
人生ってこんなに面白いんだぞ!
日向佳乃はこんなに後悔のない人生を最後まで送ったんだぞ!
そう伝えようと思ったんです。
それ以来、なんとか服薬を続けながら、学校に通いました。
所属していた陸上部も最後の大会まで続けたし、活動時間が持つうちは塾にも通い続けました。
もちろん、お母さんと先生たち以外には病気のことは内緒で。
でも、だんだんと限界は近づいていました。
服薬の量が増えて、副作用で身体が上手くコントロールできなくなってきました。
体を動かしたりすることも難しくなって、放課後病院に通う日も増えました。
もう、そろそろ普通の生活は難しいかもしれない。
そんなことを考えているとき、染谷君に出逢いました。
まさか、君の方からやってくるなんて思っても見ませんでした。
それも、眠っている私を起こしにやってくるなんて。
この不思議な縁を失いたくなくて、私は思い付いたお願いをすることにしました。
宇宙ロケットの夢の正体を一緒に探して欲しい。
我ながら、無茶苦茶なお願いです。
でも、君は何も言わずに付き合ってくれました。
それからは楽しい日々でした。
身体のことを、病気のことをなんとかバレないように気をつけながら、染谷君と遊びました。
そう、遊んでいたんです。
小学校低学年の頃に戻ったような、そんな不思議な感覚でした。
でも、染谷君は昔と変わっていました。
その理由が、脳の障害にあると知ったときは本当に驚きました。
月並みなセリフになってしまうけれど、病気が治って良かったです。
本当に、本当に良かった。
そして、天文台に行って、一緒に夜空を眺めましたよね。
嬉しかったです。
嬉しかったのです。
もう、私はカーテンの閉まった医療機器に閉じられた部屋から出ることはできません。
あの天に広がる夜空が、私にとっての最後の夜空です。
あの夜、私が伝えたことは本心です。
優しくて、賢くて、手先が器用で、他人の痛みが分かる染谷君なら。
染谷君ならきっと、周りの人を幸せにすることができます。
大切な誰かのために頑張ったり、戦ったりすることができます。
日向佳乃は、染谷悠介のことを、信じています。
どうか、いつかの私みたいな、世界のどこかで眠っている存在を、起こしてあげてください。
染谷君のことは、好きとか、なんだかそんなありきたりな表現では説明できません。
染谷君との関係は、上手く言い表すことはできそうにありません。
それでは、そろそろ検査の時間なので、ここらで手紙を書き終えようと思います。
ありがとう、出会ってくれて。
誰にも見つけられない星を、見つけてくれて。』
◆
手紙を読み終わった僕は、そっと理科準備室の机に便箋を置いた。
「読み終わったか?」
「……はい」
五十嵐先生は、そっと問いかけるように声をかけた。
僕は潤む目を必死に抑えながら、ゆっくり頷いた。
「まあ、これ以上は無粋だから、俺からは何も言わないでおくよ」
僕は俯きながら、涙がこぼれないように必死に耐えた。
「五十嵐先生、あの世ってあると思いますか」
「……自殺でもする気か?」
怪訝な表情を浮かべる五十嵐先生。
しかし僕は即座に首を振って否定する。
「いや、死にません。むしろ、めちゃくちゃ色んなことを経験して、めちゃくちゃ面白いこと探して、周りの人間幸せにしまくってから、百歳まで絶対生きるってきめました」
「……そうか」
僕の馬鹿げた決意表明に、五十嵐先生は納得したように笑った。
宇宙ロケットを作ろう。
僕のこの手で作った宇宙ロケットが、地球の大気圏を飛び出して、この地球の重力を振り払って、美しい宇宙空間に向かう。
そんなイメージが、頭の中で浮かんだ。
でも、作る方だから、自分が宇宙ロケットに乗って、地球を見下ろすことはちょっと難しいかもしれない。
もし日向さんがいたら、文句を言われそうだけど、こればっかりは仕方ない。
「じゃあ、俺はもういくよ」
「あ、あの、ありがとうございました」
「ーーおう」
五十嵐先生は椅子を立ち上がって、理科準備室の扉をガラガラと開けた。
去り際、五十嵐先生はこちらを振り返った。
「もし、あの世があったら、どうするんだ」
「それはーー」
僕はあえてその先は何も答えず、静かに顔を上げて、窓から見える外の景色を眺めた。
もう二度と出会うことはない君へ。
探しに行こう。
この宇宙のどこかで光っている君を見つけよう。
いつかどこかで、君にまた出会えたなら、真っ先に伝えようと思う。
誰にも見つけられない星を、やっと見つけたと。