大学の卒論について研究室の教授から指導という名の愚痴を延々と聞かされた後、僕は倦怠感を抱えながら帰路についていた。
「ーーただいま」
寂れた学生アパートの扉を開ける。
「おかえりー」
「……梨沙」
我が家の狭いリビングにいた先客は、パジャマ姿の妹だった。
ソファに深く腰掛けて、呑気にテレビを眺めている。
今年、専門学校を卒業して看護師になった妹の梨沙は、大学四年生になった僕のアパートにすっかり入り浸るようになった。
看護師専用の寮に住んでいるくせに、何故かことあるごとに僕の部屋に泊まりに来る。
なにかと荷物を置いていくことも多く、妹という名の侵略者によって、僕の生活スペースは徐々に浸食されつつあった。
「夕飯まだだから、お腹減ったー」
「結局それ目当てかよ……」
「今夜は何作ってくれるの?」
「……カレー」
やったー、と妹が間の抜けた声を挙げる。
まんまと良いように使われている気がする。
僕はため息をつきながら、部活から帰ってきたサッカー少年のように、冷蔵庫から取り出したお茶を勢いよく飲み干した。
今日は随分と疲れた。乾いた砂に水が仕込むようだ。
妹が見ているテレビの音を片耳で聴きながら、手にしたスーパーの袋から食材を次々と冷蔵庫に入れていく。
購入したのはカレーのルー、野菜、そして豚肉。
豚バラ100グラムあたり203円。
手を動かしながら、ふと考える。
命は金に変えられないなんて、大嘘だろう。
人以外の生物には、確実に値段がつく。
食用にせよ観賞用にせよ、グラム数にせよ一頭あたりにせよ。
或いは人間だって、考えようによってはその価値は値段に換算できる。
人身売買がどうとかそんな単純ことでなくても、世間一般では賢くよく働く人間なら高い給料が貰える。
愚かな怠け者には低い価値しかつかない。
つまらない人間とご飯は行きたくないし、可愛い女の子になら遠出して高いレストランを奢ったって良い。
人間の価値は、明らかに金銭に換算できる。
じゃあ、僕の価値はいくらなんだろう。
少なくとも、スーパーでパック詰めされた名もなき豚よりは、いくらか値段が張って欲しいものだけど。
「……どうだっていいか」
そんな与太話を頭の中で繰り広げながら、食材をさっさと片付ける。
そのままシャワーでも浴びようかと思ったけど、なんとなく気が向いて、僕もソファに腰を下ろしてテレビを一緒に眺めることにした。
テレビでは、ちょうど心霊番組が始まるところだった。
心霊といっても本格的なホラーとかではなく、再現VTRを流して芸能人が騒ぎ立てるだけのチープなバラエティだ。
「今どき珍しいね、こんな典型的な心霊番組」
「うん……」
僕の苦笑混じりの言葉に、妹はどうも気の抜けた相槌を返す。
改めて隣を見ると、妹はテレビに目をやりながらも、クッションを抱きしめて小さく震えていた。
もう二十を超えた社会人だというのに、こんなチープな心霊番組が怖いようだ。
そんなに怖いなら見なければいいのにと単純に思うけど、その視線は画面にくぎ付けになっている。
どうやらそんな理屈を超えた魅力が、この心霊番組には隠されているらしい。
テレビ画面には薄暗い寂れたマンションが映されていた。よく幽霊が出没するスポットと専らの評判らしい。
いったい誰がそんな評判を流しているのだろう。世の中には噂好きな人がいるものだ。
この建物の一室には、かつて自殺した女性が成仏出来ずに夜な夜な姿を現わすらしい。
「……ありがちだな」
おどろおどろしい効果音をバックに、カラフルで派手なテロップが流れる。
心霊現象というにはあまりに安っぽい演出で、恐怖からは程遠いように思えた。
しかし、隣に座る妹は、いちいち場面が切り替わるたびに「ひっ」とか「きゃっ」とか怯えた声を漏らしている。
「......これ怖いの?」
「ここここ怖くないわよ」
それ、怖い奴の反応でしょ。素直か。
退屈な再現ドラマがしばらく流れた後、今度は白装束を纏った胡散臭いお婆さんがなにやら霊の解説を始めた。
『悪い気が溜まることで死後の世界との境界線が――』
僕はふと、隣で沈むように丸まっている妹へ目をやる。
「――なあ、死後の世界って信じる?」
妹は恐怖を抑えるために唇を噛みしめていたのか、唇が青白く変色している。本当に根っからの怖がりだ。
たかが心霊番組でこんな様子では、看護師としてうまくやれているのだろうか。
「あるんじゃない……だって、これ見てよ」
震えた声でそう口にしながら、テレビに視線を戻して再び唇を真一文字に引き締める。
まったく可愛い奴だ。
僕は妹の動揺ぶりに呆れ笑いを浮かべながら、同じくテレビの画面を眺めた。
ーーそしてふと、もうこの世にいない、あの女の子のことを思い浮かべた。
彼女が亡くなって、もう四年も時間が経った。
時間の流れが、とても早く感じられる。
当時は世界が終わってしまったかのような気持ちだったけれど、歳月は誰にも待ってくれたりはしなかった。
まるで故障した砂時計のように、止めどないスピードで時間は流れ続けた。
遥か遠くに思っていた未来は次々と僕の前に姿を現しては過ぎ去っていき、気がつけば僕は大学生四年生になり、二十も過ぎて、あの頃よりも少しだけ大人になっていた。
彼女のいない世界で息をして。
彼女のいない世界で食事をして。
彼女のいない世界で眠る。
当たり前のはずの生活は、薄いカーテンから外の光が漏れ出すみたいに、どうにも名状し難い悲しい感情が零れていくみたいだった。
そういえば彼女は「私が死んだら化けてアナタを驚かしてやる」とイタズラっぽく笑っていた。笑えない冗談だ。
僕は彼女の冗談にいつも、どう言い返したものかと反応に困っていた。
もう彼女の死から四年が経つけれど、今のところは心霊現象に悩まされた経験はない。
彼女はもう成仏してしまったのだろうか。
それとも僕に霊感が皆無なせいで、彼女の姿が見えていないだけなのだろうか。
そうだ、彼女は騒がしいことが大好きだったから、幽霊になっても街中を彷徨ってウィンドウショッピングを楽しんだり、誰かの誕生日パーティーにでも勝手に参加したり、ふざけたことでもしているのかもしれない。
あの天真爛漫を体現したような女の子のことだ。
この心霊番組みたいに、陰気なマンションの一室にいつまでも留まっているようなことは到底考え辛い。
『この世への未練が魂を霊へと変化させるんですね――』
お婆さん霊媒師はまるでこの世の真理を語るかのように、厳かな雰囲気を醸し出しながら語っている。
その口調は演技がかっていて、どうにも信憑性に欠いた。
ーーこの世への未練。
ふと思った。
彼女はこの世に未練を残さなかったのだろうか。
今もなお生きながらえているこの僕は、彼女への未練をまだこんなにも残しているのに。
四年も経つのに、未だに何度も夢に見る。
片時たりとも彼女のことが頭から離れないくらいだっていうのに。
どんどんと時間が経ち薄汚れた大人になる僕とは対照的に、もう決して年を取らない、思い出の中の彼女の姿。
それはただただ美しく、神秘的で、この手では触れられない郷愁の原風景だった。
大学からの帰り道、葉桜の散る河川敷に、気が付けばそこにいるはずのない彼女の姿を探している。
彼女はもう、僕の前に姿を現わすことは二度とないっていうのに。
「ーーただいま」
寂れた学生アパートの扉を開ける。
「おかえりー」
「……梨沙」
我が家の狭いリビングにいた先客は、パジャマ姿の妹だった。
ソファに深く腰掛けて、呑気にテレビを眺めている。
今年、専門学校を卒業して看護師になった妹の梨沙は、大学四年生になった僕のアパートにすっかり入り浸るようになった。
看護師専用の寮に住んでいるくせに、何故かことあるごとに僕の部屋に泊まりに来る。
なにかと荷物を置いていくことも多く、妹という名の侵略者によって、僕の生活スペースは徐々に浸食されつつあった。
「夕飯まだだから、お腹減ったー」
「結局それ目当てかよ……」
「今夜は何作ってくれるの?」
「……カレー」
やったー、と妹が間の抜けた声を挙げる。
まんまと良いように使われている気がする。
僕はため息をつきながら、部活から帰ってきたサッカー少年のように、冷蔵庫から取り出したお茶を勢いよく飲み干した。
今日は随分と疲れた。乾いた砂に水が仕込むようだ。
妹が見ているテレビの音を片耳で聴きながら、手にしたスーパーの袋から食材を次々と冷蔵庫に入れていく。
購入したのはカレーのルー、野菜、そして豚肉。
豚バラ100グラムあたり203円。
手を動かしながら、ふと考える。
命は金に変えられないなんて、大嘘だろう。
人以外の生物には、確実に値段がつく。
食用にせよ観賞用にせよ、グラム数にせよ一頭あたりにせよ。
或いは人間だって、考えようによってはその価値は値段に換算できる。
人身売買がどうとかそんな単純ことでなくても、世間一般では賢くよく働く人間なら高い給料が貰える。
愚かな怠け者には低い価値しかつかない。
つまらない人間とご飯は行きたくないし、可愛い女の子になら遠出して高いレストランを奢ったって良い。
人間の価値は、明らかに金銭に換算できる。
じゃあ、僕の価値はいくらなんだろう。
少なくとも、スーパーでパック詰めされた名もなき豚よりは、いくらか値段が張って欲しいものだけど。
「……どうだっていいか」
そんな与太話を頭の中で繰り広げながら、食材をさっさと片付ける。
そのままシャワーでも浴びようかと思ったけど、なんとなく気が向いて、僕もソファに腰を下ろしてテレビを一緒に眺めることにした。
テレビでは、ちょうど心霊番組が始まるところだった。
心霊といっても本格的なホラーとかではなく、再現VTRを流して芸能人が騒ぎ立てるだけのチープなバラエティだ。
「今どき珍しいね、こんな典型的な心霊番組」
「うん……」
僕の苦笑混じりの言葉に、妹はどうも気の抜けた相槌を返す。
改めて隣を見ると、妹はテレビに目をやりながらも、クッションを抱きしめて小さく震えていた。
もう二十を超えた社会人だというのに、こんなチープな心霊番組が怖いようだ。
そんなに怖いなら見なければいいのにと単純に思うけど、その視線は画面にくぎ付けになっている。
どうやらそんな理屈を超えた魅力が、この心霊番組には隠されているらしい。
テレビ画面には薄暗い寂れたマンションが映されていた。よく幽霊が出没するスポットと専らの評判らしい。
いったい誰がそんな評判を流しているのだろう。世の中には噂好きな人がいるものだ。
この建物の一室には、かつて自殺した女性が成仏出来ずに夜な夜な姿を現わすらしい。
「……ありがちだな」
おどろおどろしい効果音をバックに、カラフルで派手なテロップが流れる。
心霊現象というにはあまりに安っぽい演出で、恐怖からは程遠いように思えた。
しかし、隣に座る妹は、いちいち場面が切り替わるたびに「ひっ」とか「きゃっ」とか怯えた声を漏らしている。
「......これ怖いの?」
「ここここ怖くないわよ」
それ、怖い奴の反応でしょ。素直か。
退屈な再現ドラマがしばらく流れた後、今度は白装束を纏った胡散臭いお婆さんがなにやら霊の解説を始めた。
『悪い気が溜まることで死後の世界との境界線が――』
僕はふと、隣で沈むように丸まっている妹へ目をやる。
「――なあ、死後の世界って信じる?」
妹は恐怖を抑えるために唇を噛みしめていたのか、唇が青白く変色している。本当に根っからの怖がりだ。
たかが心霊番組でこんな様子では、看護師としてうまくやれているのだろうか。
「あるんじゃない……だって、これ見てよ」
震えた声でそう口にしながら、テレビに視線を戻して再び唇を真一文字に引き締める。
まったく可愛い奴だ。
僕は妹の動揺ぶりに呆れ笑いを浮かべながら、同じくテレビの画面を眺めた。
ーーそしてふと、もうこの世にいない、あの女の子のことを思い浮かべた。
彼女が亡くなって、もう四年も時間が経った。
時間の流れが、とても早く感じられる。
当時は世界が終わってしまったかのような気持ちだったけれど、歳月は誰にも待ってくれたりはしなかった。
まるで故障した砂時計のように、止めどないスピードで時間は流れ続けた。
遥か遠くに思っていた未来は次々と僕の前に姿を現しては過ぎ去っていき、気がつけば僕は大学生四年生になり、二十も過ぎて、あの頃よりも少しだけ大人になっていた。
彼女のいない世界で息をして。
彼女のいない世界で食事をして。
彼女のいない世界で眠る。
当たり前のはずの生活は、薄いカーテンから外の光が漏れ出すみたいに、どうにも名状し難い悲しい感情が零れていくみたいだった。
そういえば彼女は「私が死んだら化けてアナタを驚かしてやる」とイタズラっぽく笑っていた。笑えない冗談だ。
僕は彼女の冗談にいつも、どう言い返したものかと反応に困っていた。
もう彼女の死から四年が経つけれど、今のところは心霊現象に悩まされた経験はない。
彼女はもう成仏してしまったのだろうか。
それとも僕に霊感が皆無なせいで、彼女の姿が見えていないだけなのだろうか。
そうだ、彼女は騒がしいことが大好きだったから、幽霊になっても街中を彷徨ってウィンドウショッピングを楽しんだり、誰かの誕生日パーティーにでも勝手に参加したり、ふざけたことでもしているのかもしれない。
あの天真爛漫を体現したような女の子のことだ。
この心霊番組みたいに、陰気なマンションの一室にいつまでも留まっているようなことは到底考え辛い。
『この世への未練が魂を霊へと変化させるんですね――』
お婆さん霊媒師はまるでこの世の真理を語るかのように、厳かな雰囲気を醸し出しながら語っている。
その口調は演技がかっていて、どうにも信憑性に欠いた。
ーーこの世への未練。
ふと思った。
彼女はこの世に未練を残さなかったのだろうか。
今もなお生きながらえているこの僕は、彼女への未練をまだこんなにも残しているのに。
四年も経つのに、未だに何度も夢に見る。
片時たりとも彼女のことが頭から離れないくらいだっていうのに。
どんどんと時間が経ち薄汚れた大人になる僕とは対照的に、もう決して年を取らない、思い出の中の彼女の姿。
それはただただ美しく、神秘的で、この手では触れられない郷愁の原風景だった。
大学からの帰り道、葉桜の散る河川敷に、気が付けばそこにいるはずのない彼女の姿を探している。
彼女はもう、僕の前に姿を現わすことは二度とないっていうのに。