ぼんやりと温かい。僕は一人微睡んでいた。
 意識はまだあるけど、もう七割くらいは夢の中。そんな時間が、幸せだった。

「ただいま」

 霞んだ景色に、君が笑う。

「おかえり」

 僕は目を擦って、欠伸をしながら言った。
 君はお気に入りの赤いコートを一つしかない壁掛けに掛けると、僕の隣にそっと座った。

「どこ行ってたの?」

「ちょっとそこまで」

「何かあった?」

「なんにもないよ」

 ぼやけた意識が、徐々に覚めていく。
 部屋に二人。君が増えただけなのに、空気が少し変わった。華やいだとか、そう言う事じゃない。何だか空間が暖かくなった。これは多分、暖房の所為じゃないと思う。
 隣をチラッと見ると、君の頬は林檎みたいな色に染まっていて、細い指先はいつにも増して白かった。
 そっか、外は寒いんだった。
 僕は徐ろに立ち上がった。

「どうしたの?」

「温かい飲み物でも淹れようかと思って」

「それなら私、ココアが良いなぁ」

「はいはい」

 キッチンの棚を開けて、ココアパウダーと取っ手付きの小さな鍋を引っ張り出す。後は、冷蔵庫から牛乳を取り出せば準備はオーケーだ。
 鍋を焜炉の上に置いて、ココアパウダーを入れる。不思議な事に、少し溢してしまった分は、もうココアじゃなくてカカオの粉末にしか見えなかった。
 僕は急いで溢れた粉を拭き取って、目の前のココアに集中する。
 少しずつ牛乳を入れながら大きくかき混ぜていく。滑らかなチョコクリームの様になったら、焜炉に弱火で火を灯す。
 じっくりと熱せられるココアから、惜しみなく出る温かい、甘い匂いが僕をキッチンごと包みこむ。
 そろそろ良いかな。
 僕は二つ並んだマグカップにやっと完成したココアを淹れた。

「お待ちどうさま」

「わぁ、ありがと」

 君はマグカップをそっと白い掌で包んで、愛おしそうにココアを見つめた。

「火傷すんなよ」

「分かってるって」

 僕もそっと、ココアを口に含む。
 甘い。
 僕には甘過ぎる舌触り。喉の奥でくすぐったいけど、それは嫌な気分じゃなかった。
 本当は、ココアは好きじゃない。と言うか、甘い物が好きじゃなかった。
 でも君が好きだと言ったココアは、どうしてかいつにも増して甘くて、甘いのが嫌いな筈の僕を虜にした。
 多分、ココアのマーブル模様を見つめる君の目が、とっても暖かい所為なんだと思う。

「ねぇ、」

「ん?」

「おいしいよ」

「……そっか。温まった?」

「もちろん」

 得意げな微笑み。僕は飲みかけのココアをテーブルに置いた。
 何でだろう。前にもこんな景色を見た事がある様な。
 この温もりは、きっと確か……。
 また眠くなってきた。

「また寝ちゃうの?」

 意識の遠くに柔らかな声が響く。

「じゃあ、おやすみ。ココア、ごちそうさま」

 ああ、そうだった。思い出した。
 意識が閉じていくのを鮮明に感じた。

 *

 目が覚めた午後の光の下、僕は部屋を見回した。
 なんだ、大して変わってないな。
 昨日脱ぎ捨てたスーツを壁掛けに掛けて、窓の外を見遣った。
 晴れ。
 暖かい日射しが、春めいた外の気配を連れてくる。
 僕は窓をカラリと開けて、雑多なテーブルの上の片付けに取り掛かる。
 最後に冷めた飲みかけのココアを飲み干して、マグカップを一つ、流し場に置いた。