従者は永遠(とわ)の誓いを立てる

 嫌なことが待っていても日々は先へ先へと進んでいってしまうもの。令嬢であるグレイスがすることなどほとんどなかったが準備も済んだらしく、誕生日パーティーは明日に迫っていた。
 グレイスの憂鬱は晴れるどころか加速するばかりだった。もう逃げ出してしまいたい、と思う。そんなことをしたら生きていけなくなるので実行するつもりなどはないけれど。
 それにフレンにも逢えなくなってしまう……なんて、ここでもまだ彼のことを考えてしまう自分に呆れるやらのグレイスだった。
 あれから結局、グレイスは日が暮れるまで庭にいた。少し冷える日だったので流石に日の暮れかけた頃に迎えが来た。けれどそれはフレンではなくメイドの一人であった。
 てっきりフレンが迎えに来てくれると思っていたグレイスは、悲しい気持ちになってしまったものだ。自分から逃げ出したようなものなのに、迎えに来てくれないのが不満だなんて我儘な、とも思った。
 でもそのことで、グレイスが「ちょっと風にあたりたくて」と言い訳をメイドにしたことで、グレイスがフレンとの打ち合わせのさなかに飛び出していったことはおおやけになっていないようだった。知っているのはフレンばかりだが、フレンがグレイスを知っているのと同じだけ、グレイスだってフレンのことを知っている。
 このこと。父に報告などしていないに決まっていた。
 あくまでも自分とグレイスの問題であるから。それが『不和を起こした』という程度であれば、自分で解決しようとするひとなのだ。
 だからグレイスの、婚約に対するうしろ向きな気持ちを悟っているのは、父と、それからフレンだけなのであった。
 しかしきっと明日には屋敷の使用人たちにまで知れるレベルの発表がされる。そうしたらメイドや使用人たちから「おめでとうございます、お嬢様」と笑みを浮かべられることは決まっていて。そしてすぐに露見してしまうだろう。グレイスがこの話に前向きでないということは。
 隠しきって「そうなの、とても嬉しいわ!」なんて取り繕うことは、とても。
 せめてこのうしろ向きが『恋をしている相手でない者との婚約』だからであると思われることを祈るしかない。
「お嬢様」
 こんこん、とノックがされて、声がかけられる。聞こえてきたのはフレンの声だったので、グレイスは少しどきっとしてしまった。別にあれから顔を合わせていないわけでも、会話をしていないわけでもないのに。
 あのやりとり、明らかにおかしな様子だった自分。
 フレンはどう思ったかと考えてしまうと、どうしても。
「……どうぞ」
 でももう避けたりするものか。そんな子供っぽいこと。グレイスは静かに入室許可を出した。
 すぃっと扉が開けられる。入ってきたのはフレンであったが、手になにかを持っていた。
 黒塗りのトレイである。その上にはお茶の支度らしきものが乗っていた。しかしカップとソーサーだけ。ティーポットはない。直接カップに入っているようだ。このようなことは珍しい。
 そしてグレイスの鼻に良いものが届いてきた。チョコレートのような甘い香り。そのふたつのことからグレイスは、フレンが持ってきたものがなにかを知る。ふわっとフレンが微笑んだ。
「少しご休憩されませんか」
 甘い香りと、優しい声と、ふんわりした微笑。
 グレイスの心はどうしてだろう、するりとほどけていってしまった。それはまるで、漂うあたたかくて甘い、ホットチョコレートの香りが心を蕩かせたようであった。
「とてもおいしいわ」
 お気に入りのソファに腰かけて、ホットチョコレートを味わう。とろっと濃厚なホットチョコレート。なにが入っているかグレイスは詳しくないのだが、チョコレートのほかにも生クリームだとかお砂糖だとか、なにか色々入っているのだろうなとは思った。単にチョコレートを溶かしたものの味ではなかったから。
「それは良かったです。今日は少々冷えますからね」
 両手でカップを包み込んでホットチョコレートを口にするグレイスを、ソファの横に立って待機していたフレンが優しく見守ってくれていた。
 その視線に気づいて、グレイスはなんだかもじもじしてしまう。こういう空気。昔から何度も感じたことがある。
 主にグレイスの我儘などからだが、フレンとすれ違ってしまい、でもそのあと歩み寄ろうとするとき。こういう空気が流れるのだ。
 こういう空気のとき。フレンは「気にしておりませんよ」と言ってくれるだろう。本当のところはわからないけれど。
 ただ、グレイスは知っていた。フレンのその優しい言葉は仕事としての立場からの取り繕いがいくらか入っていたとしても、ほとんどは本心なのだ。
 そんな、うわべに塗った言葉だけで、十年近くもグレイスの傍で仕えられるものか。そういう、優しいひと。
 グレイスがここまで素敵なレディに……少々奔放過ぎるところはあるが……育ったのは、このフレンが居たからなのだ。
 我儘を言ったり、いけないことをしても、きちんと反省すること。相手と向き合って話すこと。とても大切なそれを、グレイスが育つうちに教えてくれたのだ。だから今だって。
「フレン。この間は、悪かったわ」
 その言葉はするりと出てきた。ほかほかとあたたかな温度が手の中から伝わってくる。それに後押しされるように言ったのだけど、返ってきたのは穏やかな笑みだった。
「いいえ。私こそ不躾でしたね。失礼しました」
 こうやって、グレイスが悪いと叱りつけることなどしない。教育役でもあるのに、だ。
「……お気が、進みませんか?」
 今度、フレンの言ったことはこの間と同じだったけれど、受け取る側のグレイスの気持ちはだいぶ変わっていた。あのときよりずっと、落ちついているといえただろう。
「それは……そうね」
 考え、考え、口に出す。急に親から婚約、などと言われた令嬢としての、定番の思考。それを言えばいい。
 実際その気持ちはある。内包されている密かな気持ちは言えないけれど。それを包んでいるものとしてその気持ち、『政略結婚なんて』という気持ち。
「婚約……結婚なんて、まだ先のことだと思っていたの」
 グレイスが話をする姿勢に入ったことを知ったのだろう。フレンは小さく頷いた。
「だから仰天したし……それに、見知らぬ方と、なんて」
 グレイスが口に出していったのは、どれも『定番の思考』であった。フレンだって納得するだろう、と思う。計算のようだったけれど、半分は本心なのだから許してほしい。
「どうしたらいいのか、よくわからないの」
 気持ちはすべて言葉に出せなかったけれど、言った。
 どうしたらいいのか。いや、父の言うがままに婚約して結婚することになるのだろう。それに関してはどうするもなにもない。
 どうしたらいいのか、というのは、自分の気持ちについてだ。どう、自分の気持ちに整理や納得をつければいいのか、ということについて。
「そう……ですね。私としては喜ばしいと後押しするところなのですが」
 フレンの返した言葉。グレイスの胸をひやっと冷やしていった。先日、打ち合わせをしていたとき。「おめでとうございます」と言われたときの痛みを思い出してしまったのだ。
 けれど、今度はショックだけではなかった。
「しかし、お嬢様が戸惑いになるお気持ちはよくわかります。今後の人生を左右されるようなことですし、おまけに恋のことですからね」
 寄り添うような言葉にそのショックは去ったけれど。
 恋のこと。フレンからこんな話題を出されようとは。
 急に、きゅっと胸の奥が反応した。痛みなのか、嬉しさなのか、恥ずかしさなのか、よくわからない反応だった。
 恋というものについて、フレンと話したことならある。けれどそれは幼い頃に、恋物語の本を読んでもらったとか、あるいは親族の結婚式があるとか、そういう機会だけで。『恋とはどういうものか』『どういう気持ちを恋というのか』とか、その程度で。ある意味教育の一環でしかなかったのだ。
 ここ数年はそういう話もしていない。グレイスがお年頃になってから、は。
 多分フレンのほうが気を使ってくれていたのだと思う。どういう意図かはわからないけれど。形にとらわれずに、自由に恋をしてほしいとか、そういう気持ちだろうか。
「そう、ね……そうよね」
 グレイスはただ相づちを打つしかなかった。
 恋について。今、フレンと話せるものか。そしてフレンも追及してこなかった。「お嬢様は今、恋しておられる方はいらっしゃるのですか?」などと。そんな不躾なことは。
 訊かれたとしても、答えられるはずがないのだから助かるのだけど。フレンが優しく、また節度あるひとで良かったと思うばかりだ。
「しかし、ひとつだけ変わらないことはございますよ」
 不意に話題が別のほうへ行った。グレイスは不思議に思ってしまう。
 この話題、恋がどうとかいう話が続いてももう話せることはなかったので幸いだったけれど。
 フレンのほうを見た。フレンは何故か、微笑を浮かべている。
 そっと近付いてきて、グレイスの座るソファの前。腰を落とした。グレイスに靴の用意をしてくれるとか、そういうときのように、だ。
 ホットチョコレートのカップをテーブルに戻していたところであったのは、ちょうど良かったようだ。何故なら、膝をついたフレンはグレイスに手を伸ばしてきたのだから。
 グレイスの手にフレンの白手袋の手が触れる。
 たったそれだけで、そんなこと、もう十年近くもしてきているのに、今ではそうされただけで胸が高鳴ってしまうのに。ここしばらくはエスコートされるときくらいしかそうされないというのに、一体、どうして、今。
 思って顔が熱くなるやら戸惑うやらのグレイスだったけれど、フレンはグレイスの手を持ち上げた。自分の手の上に乗せる。
 それだけで、手袋越しにも体温が伝わってきて、グレイスの胸をどきどきさせていたのに、そのあとのことは心臓が止まるかと思うようなことだった。
 フレンは自分の手と、乗せたグレイスの手を引き寄せて、おまけに顔を伏せて。そっとくちびるをつけてきたのだから。
 やわらかなくちびるが、一瞬だけグレイスの手に触れる。やわらかくて、あたたかくて、ひとの肌の感触。
 グレイスは本気で心臓が止まるのではないかと思ってしまう。目も丸くなっただろう。息も止まりそうになった。
 手の甲へのくちづけを落としておいて、フレンは顔をあげる。グレイスの手を取ったまま。
「わたくしは、いつでもお嬢様のお傍に」
 小さな、しかし確かな声音で言われたこと。翠の瞳は優しくも、真剣な色を帯びていた。
 その眼に見つめられて、止まりそうだったグレイスの心臓は再び走り出した。今度は胸から飛び出すかと思ったくらいだ。顔も赤くなったかもしれない。
 フレンのそれは、忠誠のくちづけだ。手の甲へのくちづけは、そういう意味を持つから。
 だからこれは、従者としてしてくれたもの。言ってくれた通り、『いつでも傍にいる』という決意のこもったくちづけなのである。
 それでも。グレイスは思った。
 それでも、いい。
 どくどく心臓が高鳴っているけれど、その速い鼓動はグレイスの体を熱くしていく。
 フレンがずっと傍にいてくれる。それだけでも、最上級の幸せではないか。
 それが従者としてだって、かまわない。少なくとも、今は。
 想い人が『傍に居てくれる』と告げてくれて、嬉しくないはずがない。
 熱くなった体は、グレイスの心にそれをしっかりと届けてくれた。
 いつのまにか、微笑が浮かんでいた。まだ顔は赤いかもしれないし、速い鼓動も治まらないけれど。
「……嬉しいわ」
 それだけで十分だっただろう。フレンは優しく目を細めて「ええ」と言ってくれたから。
「ですから、お嬢様は独りになどなりません。私が独りにしません。そこだけは信じてくださいませ」
 立場が違えばそれは告白であり、愛を誓う言葉だっただろう。
 フレンの今のものは違うけれど。グレイスに仕える立場からの言葉だけど。
 それでも、意味は違っても、相手を想う気持ちが少しでもなければ言ってくれるはずのない言葉だ。だから、『それでもいい』のだ。
「ありがとう。少し、楽になったわ」
「それは良かったです」
 見つめ合って、微笑み合う。
 やわらかく、優しい空気が流れていた。その空気のままか、フレンは最後にそっとグレイスの手を包み込み、そしてグレイスの膝の上に乗せて戻してくれた。
 触れていたのが離れて寂しくなるけれど、グレイスの手には確かにあたたかさが残っていた。
「さぁ、今夜は早くお休みなさいませ。明日、お迎えに参ります」
「ええ。お願いするわ」
 それでおしまいになった。グレイスの身を、眠る支度をするべくメイドに引き渡して、フレンは「では、お休みなさいませ」と出ていってしまった。
 プライベートの世話をしてくれる同性であるメイドに着替えをされて、眠る前の手洗いや歯磨きを手伝われて。そうされている間もグレイスの心はあたたかかった。
 不安はすっかり、ではないが、だいぶ小さくなっていた。
 フレンが伝えてくれたから。
 独りにはしないと。
 そういう類でも、グレイスのことを大切に想ってくれていると。
 その気持ちがグレイスの体を満たして安心をくれていた。
 誕生日パーティーを明日に控えて、ベッドで眠りにつくときも。少しの緊張や不安はあったとしても、あのときフレンに包んでもらった手がまだほかほかあたたかい気がして、グレイスを安らかな眠りに誘ってくれた。
 その日は朝から屋敷の中がざわざわしていた。令嬢のグレイスは細かな作業などはあるはずがないが、屋敷のひとたちは朝から仕事に大わらわだろう。
 パーティー会場の装飾やセッティング、料理の手配や仕込み……パーティーは夜からだが、支度は朝から、いや、もう前々からされていたことだってあるだろう。グレイスはその様子を眺めつつ、思った。
 自分はたくさんのひとたちの世話になっている。それは自分がこの家の、アフレイド家の令嬢だからであるに決まっているけれど、そうであれば、自分もその役目を果たすべきなのではないか、と。そういう想いが生まれていた。
 フレンが昨日伝えてくれたことから安心できて、自分が不安な気持ちだけではなく、よそに目を向ける余裕ができたからかもしれない。
 そうであれば、自分の『役目』はこのアフレイド家の存続なのであった。婿養子を迎えて、子供、できれば世継ぎになる男の子が理想的だが、そういう存在を作って、アフレイド家を存続させていていく。繁栄もさせられればもっと良い。
 そうでなければ父や親族が困るだけではなく、今、支度をしてくれている使用人だって路頭に迷ってしまうのだ。
 それなら、自分の中にあるひとつの恋なんてしまっておいて、家のために尽くすべきなのだろうか。そうすると決めてしまう気持ちはまだないけれど、選択肢のひとつとしては浮かぶようになっていたのだ。
 そして昼頃、父に呼ばれた。
 まだドレスではないけれど、上等の部類に入る服で支度をしてやってくるように申しつけられていたのでわかっていた。
 会うひとがいるのだ、と。
 そのとおり。広い客間には既にひとがいた。ソファにゆったりと腰掛けているのは、以前、父に婚約の話をされたときに見せられた釣り書きに載せられていた通りの人物であった。
 横にはお付きらしき、かっちりした使用人服を着ているひとたちも控えている。アフレイド家よりも上級のお家の方であることはひと目でわかった。
「娘のグレイスです」
 同じようにソファの向かいの自分の席に座っていた父が立ち上がり、グレイスを示してくる。
 言うべきことはわかっていたグレイスは、スカートを持ち上げ礼をする。
「グレイス=アフレイドと申します。どうぞお見知りおきを」
 グレイスが大人しく、きちんと挨拶をしたことに、父は満足げな顔を浮かべた。
 そして次は、ソファに座っていた男性を示した。彼も立ち上がり、姿勢を整え、礼をしてくれる。
「ダージル=オーランジュ様だ。本日はわざわざオーランジュ領よりご足労いただいた」
「お越しくださり、ありがとうございます」
 グレイスはもうひとつ礼をしてお礼を口に出す。ダージルという彼は、にこにこ笑っていた。優しそうなひとだ。
「グレイスさんだね。どうぞよろしく」