グレイスがダージルに会いに行った頃。レイアの暮らす屋敷では色々とひとが出入りしていた。
それも穏やかなお客ではない。ひとめを忍んでくるようなお客である。
やましい理由ではないが、レイアの元へやってきて、そしていくらかの話をして、またこのあとのことを打ち合わせて帰っていく。
レイアは毎日のようにそれを迎え、聞き、次の指示を出すのだった。
執務がグレイスの父、レイシスの代に取って代わって、ある意味引退となったレイア。
領主を務めていたのは夫であったが、もうとっくに亡くなっている。それでレイシスがあとを継いだのであるし。
しかしレイアとて、領主の妻としてじゅうぶんな働きをしていたといえよう。そのことから引退という身分になったのだ。今は屋敷で僅かな使用人に囲まれて静かに暮らしていたところ。
だがこの状況である。大切な孫が苦境に立たされてしまったのだ。黙って見ていることなどできはしない。
できることなど限られている。領主の妻として領主を支えてきたとはいえ、この世ではまだ一段階身分が下の女性である身。どうしても仕方がない。
けれど、若い頃から社交的な性格であり、また行動的であったレイアには、人脈という大きな武器があった。グレイスにはその行動力がお転婆という形で引き継がれたのだろうが、それはともかく。
屋敷に出入りする人々は様々なものを持ってきた。もの、というか。形のあるものではないことが大半だったが。
少しずつ。
その『もの』たちの断片が集まってきて、まとまってくる。
可能性が見えてきたとき、レイアは思わず目を細めていた。
意外であったけれど、まったくありえないことではなかった。そういう、もの。
もう少し。
レイアは毎晩祈った。
グレイスに、大切な孫に、幸せが訪れますように、と。
夢を見た。随分昔の……もう十年以上前になる頃の夢。
グレイスがまだ子供の頃だったときのこと。
「は、はじめまして!」
緊張した面持ちの少年と初めて出逢った。やわらかな金髪に優しい翠色の瞳を持った、まだ大人には程遠い少年だ。
背も低く、傍にいたグレイスの父、領主のレイシスの肩までもなかっただろう。
父に呼ばれて、執事長に連れられてやってきたグレイスは、父の部屋で初めてその少年に出逢った。
「グレイス。ご挨拶は」
父に促されて、まだ子供のグレイスはぺこりとお辞儀をした。
「はじめまして」
当時から物怖じしない性格だったグレイスはしっかり挨拶を口にして、執事長の陰に隠れることもなく、じっと少年を見つめた。むしろ少年のほうが臆した様子を見せる。
「グレイス、この子はフレン=グリーティア。今日からこの屋敷で暮らすことになった」
父の説明に、グレイスは小首を傾げた。
このおうちで?
その様子に、父はもう少しわかりやすい説明をくれる。
「この屋敷で働くのだ。使用人だ」
そう言われれば幼いグレイスにも理解できた。屋敷で働くひとのことをそう呼ぶことはもう知っている。
当時のグレイスには、単に自分たちのお世話をしてくれるひとたち、という認識だったけれど。
「わかりました」
あどけない口調で言ったグレイス。丁寧な言葉遣いはまだ完璧なものではないが、仮にも貴族の令嬢なのだ。幼くとも言葉は丁寧にするよう躾けられている。
「それで、この子がお前の従者になる。従者とは、ずっと傍にいてお前の世話をしてくれるという意味だ」
グレイスにとっては驚きだった。使用人、と聞いたときとはまるで違っていた。
なにしろ自分の傍にずっといてくれる存在だというのだ。
いきなりそんなひとができるとは思わなかった、と幼いグレイスは驚いて目を丸くしてしまったものだ。
「アイリスがもう逝ってしまったからな……少しでも助けになると良いが」
ぼそりと父の言ったことの意味は当時のグレイスには理解ができなかったし、なんなら現在のグレイスも覚えてはいなかった。
ただ、緊張した面持ちのフレンが執事長に促されて一歩踏み出し、そろっと手を差し出してくれたことは覚えている。
「フレン=グリーティアです。お嬢様、これからどうぞよろしくお願いいたします」
緊張した様子ではあるが、丁寧な言葉と、優しい口調。ぎこちないながら笑みも浮かべてくれていた。
きっと優しいひとね。
グレイスは嬉しくなって、思わず「ええ、よろしく!」などと、あまり丁寧ではない言葉が出てしまったほどだ。
グレイスも手を伸ばして、フレンの手に触れた。
まだ少年であるフレンの手は、子供らしくごつさがなく、むしろふっくりしていると言っても良かったくらいだ。
けれど、グレイスの手をしっかり、でも優しく握ってくれたその手のあたたかさ。
グレイスはいくら成長しても、忘れずにずっと心の中に覚えていたのである。
数年が経ち、グレイスはもう少しで十歳という頃になり、フレンは成人間近の年頃になっていた。
活発な少女なのだ、それなりに自我が確立して、したいこともできることもどんどん増えていった。
フレンも屋敷にすっかり馴染み、仕事も覚えて、一人の優秀な使用人として自立し、そして初めて出逢ったときの通りにずっとグレイスの傍にいてくれた。
実のところ、グレイスがフレンに出逢う、ほんの一年ほど前にグレイスの母のアイリスは亡くなっていたのだ。フレンがグレイスの従者として宛がわれたのも、そのことが大きかったのだろう。
グレイスはまだほんの子供だったので、母がいなくなったということは理解しても、それがどうしてなのかということまではわかっていなかった。
ただ、泣いた。寂しくて悲しい気持ちだけはよく覚えている。
そんなグレイスの傍には父と、それから当時は一緒に暮らしていた祖母のレイアとその夫の前領主、グレイスにとっての祖父など、近しいひとは何人もいた。決して独りぼっちだったわけではない。
けれど父は思ったのだろう。情緒や教育のためにも、きょうだいに似た存在が傍にいると良いとか、教育係も兼ねられる者が良いとか、歳が近くてグレイスを理解してやれるような存在を傍に置きたかったとか。
詳しい理由はわからないけれど、とにかくそういう類のことのはず。
ただ、グレイスには当時から引っかかっていることがあった。
それに関してはフレンに訊いたことがある。
「フレンのお父様やお母様は?」
自分の父のことは勿論、理解していたし、母は亡くなったのだということも既に理解していた。
そうであるからこそ、フレンはどうなのかということが気になる年頃になったともいえる。
爽やかな初夏の日だったように思う。日差しが明るくて、風が心地よかったことはほんのり覚えているから。
庭で話をしながら、ときにお茶など飲みながら、ふとグレイスはここしばらくの疑問を口に出したのだ。
「そう、ですね。もうおりません」
フレンは笑みを浮かべた。多分、ちょっと困ったような笑みだっただろうけれど。
「いないの? 私のお母様のように、亡くなってしまった、のかしら」
自分のことと照らし合わせて訊いたのだけど、フレンは首を振った。
「いえ、そういうわけではないと思います」
「生きてらっしゃるのに、いないの……?」
グレイスは不思議に思った。貴族の令嬢として生まれ、育てられたグレイスにはそのとき理解ができなかったのだ。そのあとフレンが言ったことが。
「別れてしまったのですよ。もう、会えないのです」
フレンはそう言った。ちょっと寂しそうな表情を浮かべて。
グレイスがその意味を理解するのは、更に数年後であった。
フレンはある意味、捨てられた子供、といっても良い存在であったのだ。
流石に理由までは突っ込んで訊けなかったし、もしかしたらフレン本人も知らないことだったのかもしれない。
ただ、親に育てることを放棄された。それは確かなこと。
そこからなにかの縁で、父の元へやってきて、やはりこの確かな理由はわからないが、父はフレンを雇うことにした。使用人として、グレイスの従者として。
その選択は間違っていなかった。フレンは優秀な使用人で従者に成長したのだから。
父もフレンを一人の使用人として重宝するようになっていたし、グレイスの世話も多方面に渡って任せていたほどだ。それでグレイスにとって『半ば育ててくれた』存在になったわけだが……。
それはともかく、フレンに両親がいないと言われたグレイスは、あまり良くないことを訊いてしまったと、幼心に思ったものだ。
「ごめんなさい、それは寂しいわね」
素直に謝って、寄り添うようなことを言ったグレイス。フレンはそんなグレイスににこっと笑ってくれた。
「いいえ。もう過去のことですから。それに今、私には別の家族がおります。寂しくなどございません」
グレイスにすぐにはわからなかった。
両親がいないのに家族、とは。
そんなグレイスに、フレンは嬉しそうな顔をして言ってくれたものだ。
「お嬢様が、そしてこのお屋敷の皆様が私の家族です。お父様やお母様とは違いますが、一緒に暮らしている大切なひとたちなのです」
グレイスもそれを聞いて嬉しくなった。
「私、フレンの家族なのね!」
フレンも嬉しそうに言ったグレイスに、ほっとしたのだろう。優し気な翠色の瞳でグレイスを見つめて言ってくれた。
「はい。私にとって、一番大切なひとですよ」
昨夜の夢は長かった、と目覚めてからグレイスは思った。
子供の頃の夢。たまに見ることはあったけれど、物心ついたばかりの頃から、少女になって間もない頃のことまで。一晩で見るとは奇妙なことだ。
でも、懐かしかった。
それに嬉しかった。
夢の中であってもフレンに出逢えたことが。
まだ少年だったフレンの夢を見たのは、ただの『逢いたい』という願望だったのかもしれなかったけれど、とても幸せな夢だった。
ずっと傍にいてくれた。
誓ってくれた。
『わたくしは、いつでもお嬢様のお傍に』
あの言葉。
今では、離れてしまった今では、違えてしまっているのかもしれない。
けれどグレイスは、そんなことはないのではないか、とここしばらく思うようになっていたのだった。心の安定が前向きに捉えさせてくれるようになっていたのかもしれない。
再会できるかはわからない。いくらレイアが「任せてほしい」と言ってくれたとはいえ、保証もない。
でもグレイスは落ちついていた。
フレンは嘘をつくようなひとではないから。
それはもう、出逢ってからずっとそうだった。
グレイスに対して真摯で、真っ直ぐで、とても優しくて、そしていつも手を伸べてくれるひと。
だからあの言葉。嘘になんてならない。
夢の中のフレンからそう伝えられた気がした。
グレイスは良い気持ちでベッドから出て、カーテンを開けた。
さぁっと陽の光が差し込んでくる。もう秋も深まって少々寒いのだけど、まだ陽は明るい頃だ。朝日ならば尚更。
グレイスは目を細めた。レイアの言ってくれた通り、なにもかも上手くいく、気持ちになれたのである。
今日は憂鬱な日。それもだいぶ憂鬱な日、である。
ダージルの屋敷に再度招かれていたのだ。
今回は父も一緒に、である。
ダージルからの文が父の元に来てそれを聞かされたとき、グレイスは理解した。
婚約について。続けるにしても、破棄されるにしても、どちらかに決まるのだろうと。
今日も執事長と一緒に馬車に揺られながら、グレイスは自分の手を見ていた。そこにはダージルからもらった婚約指輪が嵌っている。
けれどこれがいつまで嵌っているかどうかはもうわからないのだった。今日、返せと言われてしまうかもしれないもの。
グレイスとしてはどちらでも良かった、けれど。
本音を言えば、婚約など破棄されてしまったほうがいいに決まっている。
想い人のフレンしかもう愛せないと思い知ってしまったのだし、それに祖母のレイアも認めてくれた。どうにもならない状況ではない。
けれど。
ダージルのオーランジュ家のほうが身分が上なのは変わりやしないのだ。向こうから『婚約の解除は許さない』と言われてしまえば、反論などはできない。
そこはなにか、レイアによって変わるのかもしれないのだけど、不確かなことには今のところ縋れないのだった。
だからどちらでも良かった。
このまま婚約状態が続くにしても、もうグレイスの心は決まっている。心が決まってしまっただけ、結婚に対しても覚悟ができたといえるだろう。
完全に政略結婚の形になる覚悟、である。
それで、ダージルも婚約を破棄しないというのなら、その、形だけの夫婦で良いと。そういうつもりなのであろうし。
かたかたと馬車は僅かな振動だけで順調に走っていく。
窓の外から見える景色は穏やかだった。冬も近いが、小春日和でぽかぽかした日。
オーランジュ領へ入るには、山をひとつ越える必要があるのだが、その山も起伏が少なく、道もそう荒れていないところだった。オーランジュ領は平和で豊かなのでそのためだ。
よって、山の中へ入っても、振動は少し強くなっただけであまり変わらなかったのだけど。
「うわぁっ!!」
唐突に外から声がした。男の、それも知っている人間の声である。
家の使用人の一人、御者を務めている男だ。
「なんだ、貴様たちは!」
もうひとつ、声が聞こえた。こちらは護衛についていた警備の男。
グレイスは一瞬、なにが起こったのかよくわからなかった。
けれどすぐに息を呑むことになる。外から一気に嫌な空気が漂ってきたのだから。
なにか、悪いことが起こったのは明白だった。
「お嬢様、お静かに」
執事長の顔が固くなる。立ち上がりかけたグレイスの体の前に手を出して、制してきた。
グレイスは立ち上がるのをやめて、再び長椅子に腰掛ける。どくどくと心臓が跳ねてきた。気持ちの悪い跳ね方で。
執事長は外の様子を伺っているようだった。グレイスも息を潜めて同じように外の気配を探る。
「オーランジュ伯爵家への冒涜を働いた罪により、貴様らの命、もらい受ける!」
男の低く、鋭い声があたりに響き渡った。息を呑んだのはグレイスだけでなく、この場の全員が、だっただろう。
しかし一番心臓が冷えたのはグレイスだった。
言われた言葉。思い当たらないはずがない。
冒涜、それは自分のおこない、なのだから。
「覚悟!」
それが最後だった。
ザッと地面を蹴る音、なにかが壊れる鋭い音、ひとの叫び声。
グレイスは真っ青になって震えるしかなかった。
なに、これは、襲撃、こんなところで。
自分の命が危ういことも理解して恐ろしくなったけれど、それ以上に、外のひとたち。
御者や護衛についていてくれた使用人。
それに、父。
父は別の馬車に乗っていた。同じようにお付きを伴って、である。
……殺されてしまう、のかしら。
血の気が引いた。
けれどグレイスにできることなどない。おまけに見つからないよう隠れるなんてことも無理な話である。馬車は開けた道を無防備に走っていたのだから。
「うぉぉ……!」
「ギャァァッ!!」
外からは聞いたこともないような恐ろしい声のやりとりが聞こえてくる。武器を交わして戦闘状態になったのは明らかだった。
優勢なのは勿論、体勢をじゅうぶんに整え、待ち構え、襲い掛かってきた賊だろう。
だが、グレイスの一行のアフレイド家も手練れの護衛がついている。戦闘になったとしてもじゅうぶんな能力を持つ者たちばかり。
お願い、助かって、誰も、死なないように。
グレイスは手を組んだ。神に祈るように、ぎゅっと、強く。
突然、グレイスの乗った馬車に大きな衝撃が走った。
ダァン! となにかがぶつかったような音。馬車が大きく傾ぐ。
「きゃ……!」
グレイスは思わず悲鳴を上げていた。その体を執事長がしっかり抱きしめる。
「お嬢様! わたくしから離れぬように……!」
途端、がしゃん、と大きな音がして馬車は横転した。グレイスは馬車の壁にしたたかに背中を打ち付けて呻いた。
けれど執事長が抱いていてくれなかったら、体はまともに叩きつけられていたに違いない。
そしてグレイスたちにとっての幸い。出口は上向きになった状態で止まったのである。
「……くそっ!」
執事長が聞いたこともないような低い声でひとこと言い、バンッと扉を開けた。馬車の壁に乱暴に足をかけ、グレイスの手を掴む。
「お嬢様! 脱出いたします!」
「え、ええ!」