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誰かに初恋を問われたとき、いつも上手く答えることができない。
言葉にできないんだ。その代わり頑丈に鍵をかけて奥底に仕舞っていた記憶が、昨日のことのように…昨日のこと以上に、鮮明に蘇ってくる。
そうなればもう早い。引っ張り出さなくてもすぐに浮かんでくる、彼と過ごしたたった1年間ともうひと夏の残像。
それは時間が経った今でも、最下の人だとしても、一番大切だった。
身体も心も成長なんてまるでしていなかったあの頃、まぶしくて、考える間もなく気づいたら惹かれていた。未熟ながら、強く、強く。
幼い制服姿のまま血色に染まる拳。彼の足元に転がる玩具みたいな個体。免許を取れる年齢でもないのに自由に落書きしたバイク。道から逸れたポケットに忍ばせていた刃物。先を向けて脅しのために吸っていたような煙草。
自分よりも他人を傷つけて、誰も信じないまま誰かに嘘をついて、遠ざけるために笑っていた。
最低で、最悪で、巨悪な……だけど、焦がれる夢を今でも見る、たくさんの記憶がある人。
わたしが、初めて好きになった人。
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「どうして他のひとは抱くのに、わたしにはそうしてくれないんですか?」
「せっかく綺麗なのにおれの所為で汚れちゃうとか、責任とれないから」
先輩に比べたら誰でもきれいだろう。
それでも手を伸ばしているのに
今日も明日も昨日通りずるい逃げ方。
1.まばゆさとの出合い
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小学生から中学に上がり、6か月が経とうとしている。
授業ごとに先生が替わることや給食ではなくお弁当を持参するようになったこと。私服から指定の制服になったこと。クラブではなく部活動と名前が変わって、入部したものによって活動日が違うこと。クラスだけじゃなく部活動や委員会でも交友関係ができること。
彼と出会ったのは、そんな変化に慣れてきた頃だった。
「なあちょっとこれ持ってて!」
砂埃が舞う中、ライトブルーのスニーカーを履いた知らない人が声をかけてきたと思えば、学校指定の運動着ではないTシャツを放り投げてきた。
目の前には初めて見た父や弟のものではない男の人の肌。
突然のことに無心で手を伸ばしてキャッチすると「よろしく」と彼は笑ってまたグラウンドへ駆けていく。
隣にいた友人の稲場 舞菜が「おみ先輩だよっ」と跳ねるような口調でわたしの身体を揺さぶる。
その人はわたしたちにとって初めての体育祭で、おそらく1番活躍していた。騎馬戦もリレーも障害物走も、速く、たくましく、強く貢献していた。
預かった白いTシャツから、お日さまの匂い。
太陽に向かって笑う表情に釘付けになって、心臓が高鳴る。そんな感覚は初めてで戸惑いだけを残したまま体育祭は終わった。
けっきょく彼からTシャツを取りに来ることはなく、わたしの手元に残った抜け殻。
どうしたら良いかわからず、家で洗濯をして、またお日さまの匂いがするように干す。自分の部屋のベランダにあるそれが、なんだか白よりもずっとまぶしく見えた。
お年玉で買ったブランド店の服が入っていた紙ぶくろに入れて休み明けの学校に持っていって数日経つ。
何の音沙汰のなく未だ持ち主を待っている中身。机の荷物掛けに自分のものじゃないものがあるだけで変な感じ。
いつ渡そう。
「ああ、あれは久遠 晴臣先輩だったけど……もしかして知らないの?」
とうとう舞菜にあれが誰だったのか聞いてみると目を丸くした。頷くとより一層大きな円が出来上がる。
「うそでしょ!?陽花里、それはのんきすぎる!」
「あ、いや、そういえば名前は聞いたことあるかも…?」
「あるかもじゃなくて絶対あると思うよ!すっごい有名人だもん」
「有名人?」
芸能人ならさすがにわかるはずなんだけどなあ。
未だにしっくりきてないわたしに舞菜はふうとため息をつく。言葉の続きを待っていると、突然外から大きく鈍い音が鳴り響いた。
教室がざわめき出す。偶然窓際だったから少し身を乗り出して外を見ると校庭にバイクが5台止まっている。
中学校にバイク?
何重かに重なる排気音は鈍く鳴り続き、先生たちが慌てて外に出ていく姿が見える。
落書きされたバイクの羅列の中、後ろに座っていた1人が軽やかに地面に降りた。
「あ……」
今はお昼休憩だ。
そんな中、明らかに遅刻の彼。
「本当だ、うわさをすればおみ先輩だね」
みんなからはおみ先輩と呼ばれているらしい。あのTシャツの持ち主が先生たちと対峙する。誰かが教室の窓を開けたのか、あの声が聴こえた。
「だーかーら、これ以上遅れないよーにセンパイたちに送ってもらったんですよ」
校則違反の緑がかかった茶色い髪が風で泳ぐ。
もう充分な遅刻なのにサボらず、むしろあんな堂々と登場している。
わざとらしい澄ました態度。その口元は弧を描いているのに、目は笑っていなくて、近づいてくる彼に先生たちは遅刻や違反を注意する様子もない。
もしかしてあの人。
「有名って、芸能関係とかじゃなく?」
「そんなんじゃなくて見ての通り、不良だからだよ」
まあ芸能人にいそうなくらい顔はかっこいいけどさーと軽く言っている。小学生の頃、あんな人はいなかった。初めて見た。学校にバイクで来たり、周りの人も柄が悪くて、あんな派手な恰好したこともない。
心臓がどきどきしている。危険な存在だということは一目でわかる。
近づかない方がいいし、もともとそんな勇気ない。
「このTシャツ…どうしようかなあ」
取りに来てくれる気配もなさそうだ。
「先生に預ければ?確か真波先生が副担任のクラスだったと思うよ」
さすが。とても詳しい。
真波先生はわたしが所属しているバスケ部の顧問。頼みやすくてよかった。
その日の放課後、部活が終わってすぐに紙ぶくろを先生に渡した。返しておいてもらうように頼むと「めずらしい」と可愛い顔で言った。
「久遠くんって人に物を頼むってことほとんどしないんだよー。きっと槙野さんが話しかけやすかったのね。返しとくから安心して」
あの時たまたま近くにいたのがわたしだっただけだと思うんだけどなあ。
新米で若い真波先生は気さくで話しやすい。彼の性格を話すその口ぶりから、不良と教師という間柄でも今朝みたいな空気ではなく普通に話せる様子が伝わる。
あの人の副担任が真波先生で良かった、となんとなく思う。
これでもうあの人とわたしを繋ぐものはない。むしろあんな一瞬の出来事、繋がりとも言えないだろう。彼だって忘れてるから取りにこなかったんだ。そう思っていた。
次の日は昨日のようにバイクの音はしないまま、平凡な時間になるはずだった。
舞菜とひとつの机を分け合ってお弁当を広げる。これもいつものことで、おかずをひとつ交換することもいつものこと。
くるくると表情を変えながら明るく話す彼女に相づちをうつこの時間が気に入っている。
「槙野、次実験の準備頼まれたから少し早めに食える?」
クラスメイトの高藪 鈴央くんとは同じ理科係でこうして度々話しかけられたり、話しかけたりする仲だ。
「わかっ───」
「待って。きみ、槙野陽花里だよね?」
会話を遮る突然の声に顔を上げると、想定していなかった人物が教室のドアに寄りかかりながら立っていた。
久遠晴臣先輩。
わたしを呼んだ?聞き間違い?びっくりして返事もままならないくせに、言葉遣いは悪くなさそうだなあとか、やっぱり少し高めの声色だなあとか、背はあまり高くないんだなあとか、髪が透き通るようで綺麗だとか、瞳が笑わないまま水面みたいに光っているなあとか……そんなどうでもいいことをぼんやり思う。
「あれ違った?確か黒髪で、髪を綺麗に繕ってて、色白な子に体育祭でコレ預かってもらった気がしたんだけど」
そう言われてはっと立ち上がる。わたし、呼ばれているらしい。