高藪くんと別れたこと。晴臣先輩への好き以上の気持ちに気づいてしまったこと。舞菜に言うと「もったいない。…でもまあ、陽花里らしいね」と呆れ顔で言われた。

傷つけた人がたくさんいる。彼にはばかだってまた言われそう。

それでももう…何があっても、好きだと誰かに感じても、揺るがないって思う。




「槙野、巻き込んでごめんね」



意を決して会いに来ると、硝子を隔てて向かい合ったその姿は少し痩せていた。

首を横に振る。巻き込まれたなんて思ってないよ。


「あまり食べてないって聞きました。だめじゃないですか」

「あー…ヤマっしょ。あいつはおれのこと見返したいって言うくせに前から本当に心配してくれてんね」


あ、ちょっとうれしそう。きっとヤマ先輩が見たら泣いて感動すると思う。


「お父さんのこと……なんて言ったらいいかわかりません」

「ぶはは、素直~」



うそ。本当は、残念でしたねって言ってあげたい。



「あいつに刃物向けたんだって?」


う…これもヤマ先輩情報だ。



「なあ槙野。一生ひとりでいいって思ってたけど…どんなおれでも味方でいてくれる人がいるって思うといつも心強かったよ」


何もできなかったのに。

涙が落ちる。拭ってあげれないことを悔やむみたいな顔、しないでよ。


「それならあの頃にわたしのこと受け入れてくれたらよかったのに」


そうしたらずっと一緒にいられる未来があったかもしれない。手錠がかかる姿なんて見なかったかもしれない。この人はこれから、何処に行っちゃうの?



今でも、晴臣先輩の闇に飲み込まれそう。

そうなればいいと思っているわたしが一番、深い闇を持っている。

そう思いたい。

闇がないと、この人に構ってもらえなくなる。

わたしには闇がある。


あの頃から願い続けていた、彼を救うとか孤独から抜け出してもらいたいとかはもう描けない理想の物語。



「槙野が傍にいたら、いつか父親のことなんてどうでもよくなる気がして。そうなりたくなかったんだ。ごめんな。おれにはそれしかなかったんだ」


誰も、何も、これからも彼を救えない。

きっとたとえお父さんを殺せていたとしても。


「晴臣先輩はあの頃わたしのことは必要ないって言ったけど……本当はずっと、今でも、必要としてくれてますよね」



わたしがいる意味があった。

それは悲しい色をしていたけど、特別な意味。


「わたしがいなくちゃだめなら、そう言って」


そうしたら全部を裏切れる。捨てられる。あなたに捧げられる。理想に飛び込める。


「言わない」

「どうしてっ…」

「この前教えてくれた、槙野が思い描いた未来。おれも見てみたいから」

「っ、」


「槙野には他にもたくさん大切なものがあるし、そのことを見失なうような性格もしてない。それでいいんだよ」


彼は孤独から抜け出さない。歩いていく。そっちを、選ぶ。


「おれさ、槙野の涙、好きだ」

「…っ」

「笑ってるのも、ふてくされてるのも、追いかけてくる足音も、綺麗に伸びた髪も、あたたかい手も、やわらかい口も、正直な言葉も、……ぜんぶが、好き」


恋をしていた。届かない人に。


そしていつまでもずっと残像を追いかけていた。


「中学3年が一番楽しかった。槙野がいつもおれのこと探してるの、おれは見つけてた。真っ直ぐ想ってもらえてすごく…うれしかった」


夢みたいな言葉を、気持ちを、もらった。

手が少しでも届いたらもうその残像は消えるだけ。



「そういう思い出が、おれの全てだよ。これから先も大切にしていく。なれるかわかんないけど、まっとうになって…頑張るよ」


確かな別れの台詞だけど、あの頃の別れよりは、ずっといいね。


「…がんばってください」

「うん」

「がんばって……ずっとずっと味方でいます」

「うん。おれも」


わたしと晴臣先輩。

交わらなくて、遠くて、離れていて、繋がれなくて、かたちにしたらきっといびつ。

伝えたい。

あの頃のように、正直に。


「やっぱり、違います晴臣先輩。味方じゃなくて…わたしはたぶんもう、愛してるんです」

「愛……え?」


呆気にとられた表情を浮かべている。

これ何回目の告白なんだろう。もはや笑みがこぼれる。



「いつかもし晴臣先輩が、ひとりじゃ淋しくて耐えられなくてつらくて苦しくてまた死にたくなった時は、わたしを探しにきてください」



待ってるなんてとても言えない。

まっとうになろうと前を向こうとしてる。そんな彼は初めて見たから。

それを引き留められるほどの存在じゃない。



「二度と会うことのないように、応援してます」



それでもお互いの思い出が、お互いへの想いが、胸にある。

未来を言葉にすれば彼はいない。それが正解。だけど言葉にならないすべての中にきっといつまでもいるよ。





誰かに初恋を問われたとき、いつも上手く答えることができない。

言葉にできないんだ。その代わり頑丈に鍵をかけて奥底に仕舞っていた記憶が、昨日のことのように…昨日のこと以上に、鮮明に蘇ってくる。


そうなればもう早い。引っ張り出さなくてもすぐに浮かんでくる、彼と過ごしたたった1年間ともうひと夏の残像。

それは時間が経った今でも、最下の人だとしても、一番大切だった。


身体も心も成長なんてまるでしていなかったあの頃、まぶしくて、考える間もなく気づいたら惹かれていた。未熟ながら、強く、強く。


幼い制服姿のまま血色に染まる拳。彼の足元に転がる玩具みたいな個体。免許を取れる年齢でもないのに自由に落書きしたバイク。道から逸れたポケットに忍ばせていた刃物。先を向けて脅しのために吸っていたような煙草。


自分よりも他人を傷つけて、誰も信じないまま誰かに嘘をついて、遠ざけるために笑っていた。


最低で、最悪で、巨悪な……だけど、焦がれる夢を今でも見る、たくさんの記憶がある人。



わたしが、初めて愛を教わった人。








「え!じゃあ陽花里ちゃんはその愛する彼ともう8年も会ってないの!?」


一番の恋はいつだったのかと聞かれて思い出話をするみたいに自分のことを語ると、静かに聞いてくれていた相手は終わりを待っていたかのように目を丸くして身を乗り出してきた。

その拍子に車椅子と横のイーゼルに立てかけられていた画用紙が揺れて、わたしは彼女の宝物のほうを受け止める。


慌てて彼女のほうを見ると机にしがみついていた。転ばなくてよかった。やっぱり似ている(、、、、)のか、反射神経とか運動神経は潜在的にあるらしい。



「もう、おどろきすぎですよ。良いことなんです。彼が此処に来ないことは」


きっと晴臣先輩は、つらいことがあると、全く上手じゃないけど甘えにくる。自意識過剰だって怒るかもしれないからあの時返事も聞かずに去ったけど、さすがにあんなタイミングで会いに来られたら自意識過剰にもなるよ。



「えええ…でもお……。まあ、私的にはね、助かってるけれど」

「どういうことです?」


「だって私のお気に入りのモデルさんのこーんな儚くて美しい表情をつくっているのはその彼のおかげだってわかったから」



そういたずらっ子がする笑みをして、また手を動かしはじめた。

今描いてるものはまだ見せてもらっていないけど、きっとえんぴつの線に、ところどころだけ色が塗られたわたしを描いた絵。

懐かしくて、でも絵のモデルになんてなったのは初めての経験だから新鮮で気恥ずかしい。


「いつまでわたしのこと描くんですか?もう5枚目ですよね」

「ふふ。どうしよう?本当に彼が迎えにくるまで描いちゃおうかなあ…陽花里ちゃんのこと大好きだから飽きなそうだし」

「それは…永久に描き続ける羽目になっても知りませんからね」


語らなきゃよかったかも。完璧にいじってきてる。

逃げるように立ち上がって、空いたマグカップにふたたび甘いハーブティーを淹れた。




お砂糖よりいちごとバナナとオレンジでできたシロップを合わせたものが彼女の舌にはよく馴染むみたい。

甘いものが好きだったあの人にもいつか飲んでもらいたいな、なんてささやかなことだけが今の願いだなんてちょっと情けない。


「ねえ陽花里ちゃん、そのおふたりはいつ頃に結婚されたの?」


マグカップに口をつけた後に指差してきたのは以前この場所で開かれた二次会パーティーの集合写真。


「2年前ですかね。ふたりとも中学の同級生で」

「微笑ましくてお似合いねえ」


うん。わたしもよくそう思っていた。


次はわたしの番だと結香子と高藪くんから渡されたブーケは、あの思い出のスカーフを背景にして押し花にして額に飾っている。

高藪くんが体育祭で器用に次に繋げていたリレーのバトンみたいには上手くいかなくて申し訳ない。



「陽花里ちゃーん!お店いったんクローズして!あ、羽田さんはゆっくりしてていいですからね」


マスターに返事をして鍵を持ってウッドデッキへ出た。

店の看板に立てかけられたフダを「In preparation」にする。戸締りをしてこれからディナータイムの支度をはじめるんだ。


生まれた街からあの島が見える街へ移って4年が経ち、今は丘の上にあるカフェでアルバイト中。

就職は少しだけしたけど、紅茶やコーヒー、お菓子を作るほうが気になってしまって、アルバイトをしながら資格をとってあの夢のために準備をしてる。



「もう終わりですか?」

「はい。でもまた18時からディナータイムですので……」


何気なく顔を上げて、映り込んできた姿にはっとした。


「久しぶり」


なんてことない、だけどあの頃は似合わなかった大人みたいな笑顔でそうつぶやく。


緑がかかった茶色い髪は少し短くなっていた。

心臓が高鳴る。

声ってどうやって出すんだっけ。

涙の流し方は忘れていなかったみたいで、意思を持つ前にぽとんと落ちてきた。




さっきまで、もう会うことはないのかもと考えていた晴臣先輩が立っている。

白いシャツを着ていてずるい。出会った頃と変わらず、まぶしくて、どこにも行かないようにと手を掴んだ。


目の前にいる。


「ねえ息してる?」


泣くのと手を掴むこと以外に何もできずにいると、本気で心配している顔が覗き込んでくる。

いや、どうしてあなた、そんな平然としているの。



「晴臣先輩……ひとりじゃ淋しくて耐えられなくてつらくて苦しくてまた死にたくなっちゃったんですか…?」


どうしよう。あげたことのある未熟な甘いクッキーと彼女が好きな甘いハーブティーと、ピアノはこのカフェにはないからもうひとつのアルバイトでお世話になっている教室に連れて行って元気付けたいけど、けっきょくはあの島で、今度こそ…?本当にわたしはそうしたいの?


したいこと、ちゃんとしよう。

もうあの頃とは違う。

彼は3度、自分の足でわたしに会いに来てくれた。

これが4度目。

あの頃持っていなかったものを、わたしは持ってる。


この人のこと、すごく愛してる。だから抱きしめた。強く、ギリギリ壊れないくらい。すると懐かしいお日さまのにおいがした。



「嫌です。生きましょうよ、これからは一緒に」


海に向かうしかなかったあの頃とは違うの。甘えに素直に従うなんて正直に言うともう嫌だ。


会いに来てくれたなら今度こそ救ってみせるよ。


「いや、そのために来たんだけど」

「へ……」

「ひとりで頑張ろうと思ってやってみて、今は絵本書いたり文章書いたりしてる」

「え…読みたいです!」


何それ。どうして、抱きしめ返してくれるの?


「けどもうそろそろひとりじゃ淋しくて耐えられなくてつらくて苦しくて、あんたの笑顔も涙も記憶に残ってて…会いたくて。だから一緒に生きてもらおうと思って、ヤマにこの場所聞いて、甘えに来た」


嘘じゃない。夢じゃない。




そんな甘え方は初めてしてもらった。

ひとりで生きようと決めていた人が。誰かを殺すことが幸せだと言っていた人が、わたしと幸せになろうとしている。


「愛を教えてくれた責任とって。おれも、この愛あげるから。…陽花里がもらってくれなきゃ困るんだよね」


その言葉に強く、深く、何度も頷いた。



やっと、ずっとなりたかった特別になれた。

顔を上げると、あの頃にはしてくれなかった長いくちづけをされた。

なんだか呼吸を奪われるみたい。でもいくらでもあげる。ぜんぶ渡すから受け取ってほしいよ。



「陽花里ちゃん、戻ってこないからマスターが心配してるよ……あっ!」


車椅子を自在に操る彼女の画用紙もどうやら自由らしい。ひらひらと風に舞う。

彼の腕から一度抜けて慌てて駆け寄る。


「さっきからそそっかしいですよ晴瀬さん!いつも言ってますけど画用紙はいちいち持ってこなくても誰も盗まないですって」

「一心同体なのよーっていつも言い返してるでしょ?これで私は何回も夢を見て、それを描いてるの」


たしかに、ピアノ教室で出会って意気投合して気づけばこのカフェの常連にもなっていた彼女から何度か聞いた言葉に、敵わないなあと息をつく。

怪我させないようにしなきゃと思いながら宝物を拾ろい上げた拍子に、見てしまった最新作。



「夢といえば、私、もしかして予知夢でも見られるのかしら。そちらの彼はなんだかずっと前からよく夢に出てくるし…ふふ。お似合いね、あなたたち」



“そちらの彼”は目の前の出来事におどろきと戸惑いを浮かべながらわたしが抱えた画用紙を覗いて涙をそこに溢こぼす。

きっとお金にならない作品。


羽田晴瀬の記憶のかけらである夢によく出てくるらしい晴臣先輩と、ピアノを弾くわたしが楽しそうに並んで笑い合う光景が描かれていた。



彼の涙で溶けた淡いピンクが、その絵のなかで優しくにじんだ。





END𓂃⋆ ꙳