もう一度、君を待っていた


明日は、朝陽君の誕生日だ。
そして前日の今日は海へ行く予定だ。
駅で待ち合わせをして彼に会った時、思わず声を出してしまいそうになった。
理由は簡単だ。
彼のモヤが今までにないほどに黒く濃くなっていて、それはもう死期が近づいているのを示しているような気がして全身が粟立った。

この日まで、ほぼ毎日朝陽君と会っていた。
彼女という特権を利用して毎日会って、毎日電話をする。ウザいとか思われるかな?とかそういった心配をする余裕はなかった。
毎日、毎日今日は大丈夫だと思ってほっとする。それを繰り返していた。


今日は、日付が変わるまで一緒にいるつもりだ。
もちろんお母さんには内緒でどうにか一緒にいたいけど、それを本人にも伝えていない。
各駅の電車だから空いていた。

「もう少しだ」
「うん!今日は日付が変わるまで一緒にいたい」
「…一緒に?それ、お母さん大丈夫?」
「うーん、正直に言ったら絶対反対されちゃうから…」
「わかった、じゃあ帰宅して夕飯食べたらこっそり抜け出そう。夜は危ないから俺がみずきの家の近くまで行くよ」
「ありがとう。大丈夫かな…バレないようにしないと」
「そうだね。今日が最後かもしれないから」
「…」

どうしてか、朝陽君は怯えた様子もないしそれどころか清々しい面持ちで私を見つめる。

「大丈夫、日付がね変わるまで一緒にいるの。絶対に、一緒にいたい」
「…そうだね。俺もそうしたい」

太ももに置かれる私の手をそっと握った彼の手は思った以上にあたたかくて、彼の体温が伝わってくる。
電車が揺れるたびに、彼の肩に私のそれが当たってしまいそうになる。
普段なら接触しないようにそうっと避けるだろうが今日はしなかった。
出来るだけ彼と一緒にいたかった。

駅に降り立つと、数人の家族やカップル、若い学生もちらほらリュックなど大きな荷物を抱えて私たちの横を通り過ぎていく。
賑やかな声を掻き分けるようにして私たちは目的地まで向かった。

海が到着すると私と朝陽君は感嘆の声を漏らし二人で顔を合わせた。
波は一定のリズムを保って太陽の光を受けとても綺麗に煌めいている。
すうっと息を吸うと、潮の香りが鼻孔をくすぐる。砂浜を二人でゆっくりと歩く。
今日はお互いにサンダルで来ていたから足を進めるたびに重たい砂がサンダルと足の裏に入り込む。

「綺麗だな」
「うん、とってもきれい」

小さな子供がお父さんとお母さんと一緒に水辺で遊んでいる様子を見たら私もはしゃぎたくなってしまって勢いよくサンダルを脱ぎ捨てると海に足首まで浸かった。
暑い日差しが肌を焼き付けるように照らすが海の水温がちょうどよくて気持ちがいい。
体温を下げていくように、ザーッと音を立てる。
朝陽君も続くようにして海に入る。初めて青春を送っているように感じた。
かけがえのない一瞬、とかよく聞くけれどそういう陳腐な言葉に惹かれたことなどなかったしそんな場面を体験したこともなかった。しかし、今、これがかけがえのない一瞬なのだと認識した。

しばらくした後、ブルーシートを敷いて二人で座った。
飲み物を飲みながら、海を眺めていた。

「そうだ。これ、プレゼント」
「え、いいの?」
「うん」

足を折って座りながら隣の朝陽君にリュックからクッキーとミサンガを手渡した。
不器用だから包装も綺麗にできなかったし、もう少しちゃんとしたものをあげたかったけどお小遣いもそんなにない学生にとってこれが精一杯だった。

「クッキーは手作りしたの。お母さんのいない時間帯に作ったんだ」
「嬉しい!ありがとう。大切に食べるよ。これ、ミサンガだよね?いいの?」
「もちろん。でも…重いかなぁ」
「そんなことない。つけてもいい?」

ブルー系の糸で作ったそれを朝陽君は嬉しそうに手首につけてくれた。
幸せな時間だった。
日が沈むまで私たちはお喋りをしていた。話の内容は他愛のない内容だ。
それなのに帰りの電車の中では、どんな話をしたのか鮮明に思い出すことが出来た。

18時過ぎというのにまだ日は完全には沈んでいない。
静かな住宅街を歩きながら朝陽君が家の前まで送ってくれた。

「家についたら!電話してね」
「もちろん」
「約束。それから夜こっそり抜け出すから…日付が変わるまで一緒にいよう」
「わかった。迎えに行くから」
「うん」

帰路につき、すぐにお風呂に入った。
そして夕飯も一気に食べ終えると朝陽君と電話をする。
繋がる電話にほっとした。もしかしたら帰宅途中に何かあったら、と最悪の事態を想像していたから。

「そろそろ家出ようかと思う。うちは別に内緒に家を出なくても怒られないけど、補導されないようにしないと」
「そうだね、電話は切らないでね」
「わかってる」

22時過ぎ、朝陽君が家を出る音が電話越しから聞こえた。

その間も、ずっと電話は繋がっていて、あと二時間で彼は誕生日を迎えてしまう。

お母さんもお父さんも22時には寝室へ行くことを知っているから、そっと二階から顔を出してリビングの電気が消えていることを確認する。

「そろそろつくよ」

彼の声を合図にそっと足音を立てずに階段を下りるが、年数の経過している木造一戸建ての家だから軋む音が響き渡る。
普段なら気にならないのに今日に限ってヒヤヒヤしながら一歩ずつ降りていく。
リビングに誰もいないことを確認して、玄関で靴を履きそっとドアを開けて家を出た。

「朝陽君っ…」

家を出るとすぐに朝陽君の姿があった。
彼の姿を目に捉えると彼の胸の中に飛び込んだ。いつの間に積極的になったのだろう。

「よかった…生きてる」
「大丈夫だよ。生きてるよ」

見上げると夜だからか、彼の体に纏うモヤはあまり気にならなかった。
彼に促されるように家を離れ近くの公園にいった。
街灯が少ないから、夜の公園は怖いというイメージしかないが今は微塵も恐怖心はなかった。それよりも彼がいなくなってしまうの方が恐怖だった。
ブランコに腰を下ろした。

「バレなかった?」
「大丈夫。お母さんもお父さんも寝てるみたい」
「よかった。もう少しだね」
「うん」

虫の音がやけに大きく聞こえた。空を見上げると真っ暗な空に星が輝いていた。

「夏の大三角形だ」
「本当だね」

二人で夜空を見上げ、蒸し暑いはずなのに今はそんなことはどうだってよくてただ彼との時間を大切にしたいと思った。

「どうして私に親切にしてくれたの?」
「ん?それは…―みずきに笑ってほしいからかな」
「ただのクラスメイトに?」
「好きな子だからだよ」
「でも会った時はそうじゃないよ。ただの友達だったし…」
「会った時からだよ。好きだった」

正面を見据え、はっきりそう言った彼に矛盾を感じるがそれ以上聞かなかった。
時間は少しずつ過ぎていく。
携帯の画面で時間を確認する頻度が多くなる。
もしも、16歳で彼が本当に亡くなるのならば、あと一時間弱しか時間は残されていない。

「私、もう死にたいなんて思わない」
「…みずき?」
「ずっと早くいなくなりたくて、ずっと溺れているみたいだった。誰かに助けを求めることも、自力で頑張ることも諦めて早く死んじゃいたかった。でも、やめる。何があっても生きる」
「うん、それがいい。俺が悲しいから」

ブランコを漕ぎながら空を見上げた。

「朝陽君のお陰でそう思うようになった。生きてみようと思う、未来のことなんかわからないけど今をちゃんと見る。今をしっかり見つめる。頑張ってみる。だから…お願い」

―置いていかないで

朝陽君の表情はみるみるうちに涙目になって堪えられなくなった彼はすっと涙を溢した。

「朝陽君…」

何も言わずに彼がブランコから立ち上がる。そして、私の正面に立つ。
ブランコに座ったままの私を見下ろした。

「好きだよ」
「…私も、好きだよ」

彼に引き寄せられて抱きしめられた。
どのくらいそうしていただろう、“置いていかないで“に彼は何も言わなかった。
その代わり、好きという二文字をくれた。
胸の鼓動が音を立て騒ぎだす。
セットしていたアラームが公園に響く。はっとして顔を上げる。

「あれ―…」
「日付、変わったみたいだ」

彼のはにかんだ笑みを見て私は崩れ落ちるようにしてブランコから落ちた。
嗚咽を漏らし、涙でぐちゃぐちゃの顔は彼が見たら引かれるかもしれない。それでも、よかったと安堵した。

「心配かけたね。ずっと眠れてなかったんじゃない?クマすごかったもん」
「うん…」
「今日はゆっくり寝て」
「うん…明日も会える?明日、この公園で待ち合わせしよう。午後13時はどう?」
「わかった」

日付か変わってから、ようやく私たちは自宅へ帰った。

暗くてよくわからなかったが、彼のモヤも消えているのだろう。しかし頭上の16という数字はまだ消えていない。つまり、これは死期ではなく、何か別の数字なのではないか。
そう考えるのがしっくりくる。
家の前で、朝陽君が手を振ってくれた。
「またね」
「うん、またね!」


よかった、よかった。彼は死んでいない。ずっとそばにいる。
家に帰るとすぐに気絶するように眠りについた。目を覚ましたのは12時前だった。
ベッドの上で目を覚ますと、瞼が異常に重くて顔を顰めた。
机の上の鏡で顔を確認すると想像以上に不細工になっていて苦笑した。
携帯を確認すると、朝陽君から今日の朝6時に連絡が入っていた。

―昨日はありがとう
それを見てすぐに返事をした。

―今日は13時ね!今お昼ご飯食べるからすぐに公園に行く

急いで準備をして、昼食を食べているとニュースで熱中症に注意とテレビ画面に映る天気お姉さんが言っているのを聞いて麦わら帽子を被って家を出た。
トートバックには、飲み物も入れて元気に家を出る。
昨日よりも日差しが強くて青空を見上げ目を細めた。早く彼に会いたくて、自然に歩くスピードが速まる。
公園に到着すると子供たちが元気に遊具で遊んでいる。
微笑ましく思いながらベンチに腰を下ろした。



彼を待っていた、ずっと待っていた。
でも、彼はこの日私の前に現れることはありませんでした。

♢♢♢

「どこ行くの、塾は?」
「休む、」

魂の抜けたような声でそう返すとスニーカーを履いて家を出る。
彼が亡くなって一週間がたった。
私はそれでも毎日公園に来ていた。


“約束”したのに、彼が来ない。

あの日、いくら待っても彼は現れることはなかった。
何度も電話したのに出ることもなくて、何通も送ったメッセージも既読になることはなかった。
彼はダンプカーにひかれてこの世を去った。
彼が亡くなった翌日、担任の先生から親に連絡があったようでそれを聞いた瞬間のことはあまり覚えていないがひどく取り乱してしまったようだ。

夕方まで公園のベンチに座って、日が沈みそうになったら帰るというのを繰り返していた。

まだ朝陽君が隣にいるような気がするのに、辺りを見渡すけどいない。
毎日声が枯れるほど泣いているのに、毎日涙が枯れるほど泣いているのに現実は変わらずに日々は過ぎていった。

「どうして、」

どうして彼は17歳で死んだのだろう。
運が悪かっただけなのだろうか。16という数字はやはり無関係だったのだろうか。
多くの疑問を残したまま、私は一歩も前へ進むことが出来なかった。
辛うじて彼の後を追わなかったのは、生きると約束してしまったからだ。

虚ろな目をしたまま家に帰ると、見知らぬ靴が玄関に丁寧に並べてあった。
来客かと思いそのまま二階へ行こうとするとリビングからお母さんが顔を出した。

「みずき!お客さん」
「お客?」

お母さんの背後から顔を出したのは、朝陽君のお母さんだった。

「みずきちゃん、どうも」

お母さんの目は真っ赤で、以前会った時よりもかなり痩せた印象を受けた。
その姿を見るだけで胸の奥が圧迫されるように痛む。
おどおどしながらリビングのソファに座る。
朝陽君のお母さんも私の正面に座りなおす。葬式にも行っていないのに、どうして私の家まで訪ねてきたのだろう。一度しか会っていない息子のクラスメイトに会いに来た理由がわからない。
朝陽君のお母さんは薄いピンク色のハンカチを握りしめたまま、口火を切った。

「朝陽と仲良くしてくれてありがとう」
「…いえ、こちらこそ…」
「これ、朝陽の部屋を掃除してたら出てきたの。あなたの名前が書かれてあるから渡した方がいいなって」
「え、」
「なんでこれを書いていたのかわからないけど、もしかしたら次に会うときに渡そうと思っていたの、かな、本当に…もう少しで誕生日だったのに…」

声を詰まらせて震える手で握りしめたハンカチで涙を拭っていた。
手渡されたのは、封筒だった。
ごくっと唾を呑んで、恐る恐るそれを手にした。


“みずきへ”

淡い水色の封筒に私の名前が丁寧に書かれていた。
堪えることが出来なくて、また涙が頬を濡らす。
見ると、それはちゃんと糊付けされていて彼の几帳面さが表れていた。

「よかったら、うちにお線香でもあげに来てね。朝陽はみずきちゃんのことが大好きだったみたいだから」

そう言って朝陽君のお母さんは立ち上がってリビングから去っていく。
封筒を握りしめたまま、瞑目する。お母さんは何も言わなかった。
私が朝陽君のことを好きだったことはおそらく今わかっただろう。でも、何も言わなかった。

二階へ行き、深呼吸をした。
ベッドの縁へ腰かけて糊付けされたそれをゆっくりはがす。

三枚にもわたる便箋を取り出し、私は読み始める。
綺麗な字だった。


みずきへ

まず、これを読んでいるときには俺は既にこの世にはいないと思う。

「えっ…―」

始まりの文章を読んで思わず声を出していた。
この世にいないことをわかっていた?そんなわけなどない。予知能力があったというのだろうか。
その瞬間、先ほどの朝陽君のお母さんの言葉が頭をよぎる。

『もう少しで誕生日だったのに』

あれは、彼の誕生日はまだ先だったことを意味している。
つまり、8月30日ではないということになる。どうして彼は嘘をついたのだろう。
そもそも私が彼に誕生日を初めて聞いたときはまだ、頭上に浮かぶ数字の話はしていない。
混乱する頭で必死に考えながら、私は手紙を読み進める。

“いきなりこんな話をしても、混乱させるだけだけどみずきに人の死期がわかる力があるように俺にもある能力があるんだ。”
背後から思いっきり何かで後頭部を殴られたような衝撃が襲う。

手が小刻みに震えだした。
視界にかかる靄が少しずつ鮮明になっていくように、絡まった糸が解けていくように、今までの違和感の謎が解けていく。

“それは、時間を戻せる力だよ。俺はみずきに二度、出会ってる。
信じられないでしょ?みずきは7月の下旬、バーベキューに誘った日に自殺しているんだ。正確に言うと、時間を巻き戻す前の俺とみずきは付き合ってなかったし、バーベキューもしていない。でも一緒に勉強したりする仲だった。「またね」って言った次の日、みずきは死ぬことを選んだ”

涙は止まっていた。
あまりにも衝撃的な内容に思考が追いついていかない。
彼は私と二度出会っている?そして時間を戻す前、私は自殺をしている。

“後悔していた。仲良くなっていたと思っていたし、何より俺はみずきのことが好きだったのに気持ちを伝えることもないまま、みずきを助けられなかった。
何度も何度も自分を責めたし、辛かった。だから時間を戻したんだ。でもそれには“寿命”を代償にする必要がある。一度時間を戻すごとに30年の寿命が削られる。一度目に出会ったみずきが最期、死ぬ前に俺に死期がわかることを伝えてくれていたんだよ。そして俺の頭上には46という数字が浮かんでいることも教えてくれた。だから悩んだけど、どうしてもみずきを救いたかった。そして、もう一度生きてほしかった、生きるという選択をしてほしかった。
これを知ったらみずきは絶望して自分を責めると思うんだ。今、これを読んでそう思ってない?でも違うことを知っていてほしい。俺が死ぬかもしれないと思った時救いたいと思ったでしょう?その方法を探したよね。同じだよ。それにね、俺は後悔してないよ。だって二度もみずきに出会うことが出来て、しかも二度目は両想いになれた。本当に幸せだったよ。もしあのまま時間を巻き戻す選択をしなかったら、後悔していたと思う。俺は、後悔しない選択をした。みずきはもう十分強くなったよ。大丈夫、何か辛いことがあったら、苦しいことがあったら、大丈夫って自分に言い聞かせてみて。それでもだめな時は、俺を思い出して。俺はずっとみずきの味方だよ。バーベキューも海も楽しかった。クッキーも凄く美味しかった。本当にありがとう。
それから、最後、書き忘れていた。俺の誕生日は8/31だよ。嘘ついてごめん。会うたびにクマがひどくなるみずきが心配で最後に嘘ついた。あと、公園も行けなくてごめん。謝ってばかりだね。でも、みずきはちゃんと自分の足で自分の人生を生きるんだ。
ありがとう。好きだよ。
朝陽”

こんなことを他の誰かに話しても信じないだろう。でも私は信じる。だってそうじゃないと今までの違和感の謎が解けないから。

「…っ…ぅ、」

ぐちゃぐちゃに顔を泣きはらしながらも必死に顔を上げた。
電車に飛び込もうとした日、彼に助けられてつれられた喫茶店は、引っ越してきたばかりの彼が詳しいのはおかしい。
それだけじゃない、まりちゃんが絵具を私の机の中にいれた事件も彼は何も言わずにまりちゃんの机をひっくり返した。あれだって、本当は彼女がやっていたことを知っていたから出来たのだろう。
私の心が読めるのだろうかと疑ってしまうほどに彼の言動は不思議だった。
チーズケーキが好きなことももしかしたら一度目の出会いで知ったのかもしれない。
そして7月下旬にどうしてもバーベキューがしたいといった普段の彼とは違う行動にも納得がいく。日付が変わるまで電話をしたのも、きっと…私が一度は死んでいたからだ。

せぐりあげて泣く私の視界は既に涙のせいで何も見えない。


朝陽君、私、ちゃんと生きるよ。
もう二度と死のうとしない。あなたがくれた命を粗末にしない。
頑張ってみるね。でももし辛くなったり苦しくなったら立ち止まって朝陽君のことを考えるよ。

瞼を閉じる。
瞼の裏側には彼の優しい笑顔と、
大丈夫、きっと、大丈夫
そういう彼の声が聞こえた気がした。


エピローグ


数年後
私はT大に無事合格し、大学生として学校へ通っている。
今年で20歳になる。
毎年、春が終わると胸が苦しくなる。
夏が来るとどうしても朝陽君を思い出してしまうから。
この痛みが取れるのはもう少し時間がかかってしまうのだろう。

「ただいま」
一人暮らしをしているから、久しぶりに実家に帰省した。
お父さんもお母さんも変わりなく過ごしている。

「まさか本当にT大に受かるなんてねぇ、自慢の娘だわ」
「ギリギリだったけどね。でも就職は自分のしたいことを考えて決める。一流の企業じゃなくても、いいでしょ?」

冷蔵庫を開けて、何か飲み物を探しながらソファに座る母親にそう言った。

「勝手にしなさい。あなたの人生なんだから」
「そうする」

お母さんは未だに学歴や就職先に拘る考え方を持っているようだけど、“勝手にしなさい”そう返したお母さんはどこか嬉しそうに見えた。

「あ、そうだ。みずきは彼氏いるの?」
「な、なに言ってるの!いないよ」

突然の異性関係の話に牛乳を注いだコップを落としそうになった。
慌てふためく私の様子を見ながら、はぁ吐息を吐くお母さんと目が合う。

「そういう年齢じゃない。隣の家の息子さん、もう結婚するんですって。早いような気もするけど来年孫も産まれるって」
「へぇ、そうなんだ。でもどうせ、彼氏ができても品定めするんでしょう」
「しませんよ」


朝陽君と出会ってから、私は変わった。
あれからお母さんにも物怖じせずに自分の意見を言えるようになった。
クラスメイトにも目を見て挨拶をするようになって、返ってくることも増えたし、いじめも完全になくなった。
大学生になってからは友達が出来た。勉強も頑張っているしアルバイトも始めた。自宅近くのカフェでアルバイトをしている。朝陽君に出会う前の自分ならば…接客業など絶対に選ばなかっただろう。
でも人と接することが苦手だった自分が少しでもそれを克服したくてあえてそれを選んだ。
思った以上にアルバイトは楽しい。それは日々変化している自身を実感しているからかもしれない。



「私、好きな人がいるから」
「え?そうなの。付き合ったら今度連れてきなさい」
「んー、それは無理かな」
「どうしてよ」
頬を緩ませて微笑んだ。
「それは、秘密」

小さく笑って私は遠くへ視線を移した。
これは私と彼だけが知る秘密、だ。
私と朝陽君だけが知っていたらそれでいい。それで、十分だから。

「人生は、選択肢の連続である」
「どうしたのよ、急に」
おせんべいを食べるお母さんは、呆れたように首を傾げる。
「私の好きな言葉なの。シェイクスピアの名言だよ。知ってた?」

そうなの、と興味なさそうに返事をするお母さんを見て目を細めた。


朝陽君のくれたすべてを大切にして生きるよ。
“そういう”選択をする。
もう少しで夏が来る。お母さんが暑くなるわねぇ、と漏らすのを聞きながら瞼を下ろす。
彼との時間は決して忘れない、彼が命を懸けてくれた時間を忘れない。

やっぱりまだあなたのことを思い出すと胸が苦しくて切なくて、泣きたくなります。
やっぱりまだ、夏が来るのを素直に喜べないのです。
それでも私は、前を向いて生きていく。







夢を見た。

『友達になろう』

そう声を掛けてくれる人が現れて、私に手を差し伸べる。
ぼやけて顔の細部は見えないがその人は笑っているようで私が頷くとその人も嬉しそうだった。差し出された手に自分のそれを重ねるとそれを強く握り返された。

大丈夫、そう聞こえた気がした。


桜の花びらが風に揺られてアスファルトの上に落ちていく。一生懸命に、その一瞬を生きた桜は、アスファルトにピンク色の絨毯を作り次の季節へバトンを渡していく。

転校初日、緊張しながらも駐輪場へ自転車を止めるために辺りを窺うように視線を巡らせる。
突然ふざけている男子たちが自転車にぶつかり、ドミノ倒しのようにそれらが崩れていく様を目の当たりにした。
「やべ、」と言って逃げるようにして去っていく彼らを見ながら10メートルほど倒れている自転車の列に近づく。
しかし俺より先に無言で自転車を立て直している女の子が目に留まった。

「あ、手伝うよ」

すぐに声をかけた。艶のある黒いセミロングの髪が春の風でなびいている。髪のせいで顔がよく見えない。
それでも、俺の声に反応することなくそれらを元に戻す彼女に近づいてもう一度声を掛けた。
リボンの色を見て同じ学年だと知ったからもしかしたら同じクラスになる子かもしれない。

「おはよう」

もう一度声を掛けると彼女はゆっくりと振り返った。
丸いぱっちりとした目を更に大きくさせて唇を半開きにして固まる彼女の反応に困った。
同い年だと思うが他の女の子よりも幼い印象を受けるのはきっちりと揃った前髪のせいなのかそれとも周りの子と違って一切の化粧もしていないからそう思うのかわからない。

「おはよう、手伝うよ」
「…っ」

別に彼女が倒したわけじゃないのに当たり前のようにそれを直そうとするのが素直にすごいと思った。
しかし、彼女の顔色は硬いままですぐに視線を逸らされてしまう。黙々とそれらを小さい体で起こしていく彼女に続くようにして俺も直した。

「同じ学年だよね。俺今日から転校してきた波多野、よろしく」
「…よろしく」

何かに怯えるようにおどおどしながらも言葉を返してくれてほっとした。ようやくそれらを終えて縮こまった背中を伸ばすように背伸びをした。

「一緒に昇降口まで行こうよ」
「…いいです。一人で行けるので」
「どうして?」

口数の少ない彼女は俺と目を合わせない。
壁を作っているという言葉をこんなにも体現している人を初めて見た。
先に背を向け歩く彼女に声を掛けた。その瞬間、大きく風が吹いて桜の花びらが視界を遮った。

風が一瞬だけ、止まった。急に開けた視界に彼女がいた。
「なに…?」
聞こえなかったのか、怯えるような目で俺を見据えながらそう訊く。
もう一度言った。
「友達になろうよ」
すると彼女は一瞬嬉しそうに口元を緩めたがすぐにそれは横一文字に結ばれた。
その顔を見たとき、どうしてか胸のずっと奥底がズキズキと痛みだした。
嬉しいはずの顔がすぐに曇っていくのを目の当たりにしたから、だろうか。


これが、最初の出会いだった。

転校初日、5組に入ってすぐに気がついた。
みずきと同じクラスだと知って嬉しかった。あんな風に誰も見ていないとわかっていても誰に知られることなく、人のために何かできる人を尊敬する。
彼女を観察していると誰からも気づかれていないのに、誰かが倒したゴミ箱を直したり学校の庭の花に水を与えたり、そういった小さいけど誰かのためにそれを当たり前のようにできる人物だと知った。


それなのに彼女は人と関わらないようにしているようだった。
せっかく席も隣になったのに、挨拶くらいしか返ってこない。それどころかいつもみずきはボーっとして虚ろな目で窓の外を見ていた。
その理由は転校して一週間で気づいた。
彼女はいじめにあっているようだった。それに気づいてから、俺はさらに彼女にかかわるようになった。
最初こそそれに抵抗感を示していた彼女だが、徐々に笑顔を見せてくれるようになる。
今思えば初めて会った時から気になっていて、彼女を知ればしるほど惹かれていたのかもしれない。

笑顔を見るともっと見せてほしいと思ったし、泣きそうな顔を見るとどうにかして泣き止んでほしいと思う。これが恋だということに気づくのは意外にも早かった。


みずきは色々なことを俺に話してくれた。
親と上手くいっていないこと、学校ではずっといじめられていること、何度か自殺未遂をしたがいつも未遂で終わってしまうこと。
少しでも彼女に生きやすい環境を作りたくて、俺なりに頑張ったつもりだった。
しかしそれは“自己満足”でしかなかったのかもしれない。
頑張って笑顔を作るみずきを更に追い込んでしまっていたのかもしれない。

7月下旬、ちょうど”熱中症に警戒”とテレビニュースで報じられたほど気温が高く、日差しも強い日だった。

また好きなケーキを食べに喫茶店に行こうと約束をした翌日
『またね』
そう言ったのに、彼女は自殺をした。徐々に元気になっていたと思っていた。
思っていたのに、彼女は死を選んだ。
彼女がこの世からいなくなった後、まだいじめは続いていたこと、それからこれはあくまでも憶測でしかないが三者面談も上手くいってなかった様子だったから家庭の問題も解決していなかったのだと思う。
それでも俺を心配させないように笑っていたみずきのことを思いだすと、自分の不甲斐なさに怒りがこみ上げ、そして絶望した。

想いを伝えることもないまま、みずきを失った。みずきはどんな思いでこの世を去ったのだろう。
どうしても彼女を救いたかった。もう一度会いたかった。もう一度、やり直したかった。

彼女は死ぬ直前、俺にある秘密を打ち明けてくれた。
それは人の死期が数字でわかるというものだった。
俺に最後に『体には気を付けてね。朝陽君は…46って見えるんだ。だから体には気を付けてほしい』と悲しそうに伝えた。
つまり、俺は46歳で亡くなるということだ。
それを知っているからこそ、“巻き戻す”ことを一瞬躊躇した。
それでも、俺は…―
君にもう一度逢いたい。
だから、やり直す選択をする。


♢♢♢

俺自身に時間を戻せる力があるのではないかと思ったのは、母親が車で事故を起こし意識不明の重体に陥った時だった。
当時、俺は小学生だった。
父親が亡くなったばかりで寝る間も惜しんで働く母親は、ある日過労により運転中に居眠りをしてしまい事故を起こして意識不明の重体になる。天候も悪く、一日中雨が降っていた。
そのとき、強く、今までにないほど強く時間を戻してほしいと願った。声に出して、何度も叫んだ。

すると、急に事故を起こす前日に時間が戻っていた。
当時は混乱したし一体どうなっているのかわからなかった。それでも母親が事故を起こすことを知っていたからどうにかしてその日、家から出ないでもらって睡眠時間を取ってほしいと懇願した。
母親が事故を起こす予定だった日は何事もなく過ぎ去り、俺の強い希望により仕事を減らしてもらった。幸いにも父親が巨額の保険を掛けていたおかげで俺が成人するまでのお金については問題はないようだった。
俺が時間を戻せたことを話してももちろん信じてくれる人はいなかった。
徐々に記憶が薄れていき、輪郭を失うとおれは予知夢みたいなものを見ていたのではないかと思うようになった。



そんなある日、荷物を整理していると父親の日記のようなものが見つかった。
埃が被ってあって俺が触れるとそこだけ色を変えた。
真っ黒い10センチほどの厚みのあるそれは他愛のない日常が書かれた日記で、俺が小学生の頃に亡くなった父親のことが自然に脳裏に浮かび目頭が熱くなる。
と、あるページに封筒のようなものが挟まっているのが見つかる。
人の手紙を読むのは気が引けるが(日記もそうだが)気になった俺は黄ばんだしわくちゃの封筒を覗く。
そこには一枚の便箋が入っていた。

一行目には
時間の戻し方
と書かれてある。
眉間に皺を寄せて、訝し気に読み進める。
父親は何か小説でも書いていたのか、そう思った。しかし読み進めるとその予想が違うことに気づく。



”時間の戻し方
時を戻したいとき、
1 強く心で3回願う。それは本気で願わないと戻らない。
2 心で3回願った後に、言葉に出してそれを発する。これもまた、3回
3 時間帯はいつでもいいがこれらは雨の日でないといけない
4 これらは戻したい事象が起こってから一週間以内にしなければ時を戻せない
ただし副作用がある
一回戻す毎に30年の寿命が失われる。波多野家の長男だけがその能力を手にすることが出来る。他言は禁止(波多野家の長男にだけは可)他言した場合、時を戻す能力は消える”


「え…」
ひんやりと冷たいものが背中を流れていく。
俄かには信じがたいが、パズルのピースが合わさっていくように疑問が解けていく。

父親は俺と同じ能力があったのではないか。
もしかしたら祖父もあったのかもしれない。父親は誕生日の前日に亡くなった。確か祖父も同じだ。
父親が高額の保険を残していたのも納得がいく。
誰かのために、寿命をつかって時間を巻き戻したのではないか。

それだって明確な証拠があるわけではない。
だけど、もうそうとしか考えられない。

「だとすると、」

もう30年分の寿命を使ってしまっていることになる。
だけど後悔しているかと問われればそんなことはなかった。母親が意識不明の重体になって二度と会えなくなるかもしれない。
俺の能力は、誰かを助けることが出来た。
大切な人を、失いたくない人を。



みずきが死んでから、すぐに時間を戻した。
ちょうど翌日に、梅雨が明けたばかりなのに大雨が降った。まるで俺の心情を表わしているようだと思った。

古い紙に書かれていたことを行ったら本当に転校の前日に戻っていた。やはりあの紙に書かれていたことは本当だった。
自転車通学だったが、みずきが電車で通学しているから二度目は電車通学にした。

ただ、俺自身の行動が一度目と異なったからなのかやり直す前と比べると若干日々に違いがあった。

例えば電車通学の際、みずきが電車に飛び込もうとしたのを見た。すぐに彼女の腕を引いて阻止したが1度目はそもそも俺は助けていない。
これは推測だが、俺らの近くにいたサラリーマンが酷く怒った様子で声を掛けてきた。
もしかしたら、1度目はその人に助けられていたのかもしれない。


必ずしも一度目とは同じ展開を巡るとは限らないようだ。だから慎重に二度もみずきを失わないように行動しなけばいけない。
そう思うと少しだけ胸が苦しくなるが、それよりもまたみずきに会えることの喜びの方が大きかった。




また、会える。
もう一度出会えたら…―俺は君になんて言おうか。

…―…


転校初日の朝、先生の後に続き教卓前に立つ。
挨拶をする前にみずきと目が合った。すぐに逸らされたがそれを見た瞬間涙が出そうになった。
俺自身の行動がやり直す前と違うからか、所々一度目とは違う。一度目も席は同じだったが二度目はどうだろうか。心配になったが、ちゃんと隣の席だった。

「おはよう」
何かに怯えるように下を向く彼女に声を掛けた。一瞬反応したように思えたが一向に俺の方を見てくれる気配はなかった。

「聞こえてる?おはよ」
「…」
もう一度声を掛けた。
みずきが顔を上げる。
驚いたように目を見開き、固まる。
あの時と、同じ顔をしていた。
「おは、よう…」
かすれた声だったけど、それが俺の鼓膜を揺らしたとき、あぁよかったとそう思ったんだ。
後悔など微塵もしていない。

だって、俺は…―もう一度、君に会えたから。
不安そうな瞳が揺れながらも俺を映したとき、心の底からそう思った。







END

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