もう一度、君を待っていた

自宅へ帰る足がこれほどまでに重いのは初めてだ。
頭の中には、苛立ちを前面に押し出す母親の顔が浮かび、胃がシクシクと痛む。
家の前に立ち尽くし、静かにドアを見つめる。
謝ればいいのだろうか、そうしたらお母さんの機嫌がよくなるかもしれない。
と、肩にかけてあるこげ茶色の学生鞄の中が振動していた。
携帯電話が鳴っているのだと気づき、私はチャックを開けて鞄の内ポケットに手を入れる。

“波多野朝陽君”

とフルネームで表示されている。
はっとしてすぐに家のドアから数歩離れるとそれを耳に当てた。

「みずき、大丈夫?」

通話ボタンを押してすぐに彼の声が聞こえる。緊張しているのか、彼の声はかたいように感じた。
彼とはあの後あまり話せなくて、放課後も用事があるようで一緒に帰ることが出来なかった。

「うん。大丈夫だよ。今、ちょうど家の前で…」
「そっか」

数秒間があった。その間に家の前では数人の中学生ほどの子が友人と楽しそうに喋りながら下校している。

「お母さんにはなんていうの?怒ってたんだよね」
「…そうだね。自分の気持ちは伝えたけど、結局…お母さんが認めてくれないと更に家に居づらいし…とりあえず謝ろうかなって」

朝陽君はこれほどまでに私を理解しようとしてくれているのに、理解してくれているのに、どうして一番近い家族であるお母さんは理解しようとしてくれないのだろう。

「大丈夫だよ。絶対わかってくれる時がくる。ぶつかってもいいから自分の主張を曲げちゃダメだ」
「…でも、」

もうお母さんには言ったんだよ。もう伝えたんだよ。結果、理解してもらえなかった。私はこれからも流されるように母親のいうことを聞くのが正しいのではと思う。

「お母さんも、みずきのことが心配でみずきのことを思ってるんだろうね。ただそれにみずきの思いを乗せて考えていないから…乖離が生まれる。ちゃんと話そう。納得できないなら、何度も何度も」

私のことが心配?私のことを思っている?
それはない。自分の理想通りにならなければ欠陥品だとでもいうような目を向けられ、お母さんのいうことが正しいと思い込ませる。
それのどこが私のことを思っているというのだろう。沸々と沸き起こる感情を吐き出すようにローファーでアスファルトを蹴った。小さな小石が私の足の動きに合わせるように転がる。

「とにかく向き合ってみよう」
「…うん」
「じゃあ、また」

そう言って切れた携帯電話の画面を見つめる。そして力なく重力に従うように腕を下ろした。
ゆっくりと振りかえり、私は家のドアを開ける。
玄関に入ると夕飯のいい匂いが鼻腔をくすぐる。お腹が減っていることに今気づいた。
ぐうっとお腹が鳴ってカロリーを摂取させろと体が訴える。
夕食の匂いのせいで忘れていた空腹を思い出す。
ローファーを脱いで、とりあえず自分の部屋に向かった。スタスタと階段を上る。私が帰宅したことをお母さんは気づいているような気がした。
おかえり、とも言われないのは今日のことを怒っているのだと思う。
部屋に入り、鞄を乱暴に床に置くとすぐに部屋着に着替えた。下はジャージで上にTシャツを着てベッドの縁に腰かけた。
自分の部屋が一番落ち着く。一歩でも外に出ると、まるで別世界のように心が黒に染まる。

お母さんの圧力や学校、勉強…全部が黒く歪んで私の心を蝕む。
でも、朝陽君は違った。彼といると楽しいし元気が出る。そして胸が高鳴る。こんな気持ちは初めてだった。ずっと続いていたいじめも今のところなくなって、学校へ通いやすくなったのも、彼のお陰だ。
そんな彼が向き合った方がいいというのならば、そうなのかもしれない。それが正しいのかもしれない。

けれど、今日学校で見た母親の反応を見ると絶望的なのは安易に想定できる。
長嘆して、天井を見上げる。
どうしたら、わかってくれるのかな。

私は立ち上がって、部屋のドアノブに触れた。ステンレス製のひんやりした感触が伝わってきて自然に背筋が引き上げられるように伸びる。
緊張しながら、階段を下りる。
今夜の夕飯は何だろう。そんなことを漠然と考えながら私はリビングのドアを開けた。
すぐに今日の夕飯が何かわかった。カレーライスだ。
お母さんはチラッと私を横目で捉えるが無視してキッチンへ移動する。
その背中には怒りが滲んでいる。
恥をかかされた、そう思っているのだから仕方がない。
ソファに座ったりご飯の準備を手伝ったりすればいいのに、動けずにいた。
どうしよう、そればかり頭の中に浮かんではウロウロといつまでも居座る。

「お母さん…」

ようやく絞りだした声は、おそらく届いてはいないと思えるほどに小さく、そして震えている。

でも、お母さんの手が止まった。
お盆を持つ手が止まり、ゆっくり振り返る。聞こえていたのだろうか。

「反省、してるの?」

単調な声が私へ向けて攻撃してくる。蔑むような目を向けられ何も言えずに俯いた。
苛立ったようにため息を吐かれ、また手を動かす。
カレーライスはすでに皿に盛られていてそれをダイニングテーブルへ移動させるようだ。
お母さんがテキパキと準備する。それを目で追って動かない私を手伝えとでもいうように一瞥する。

「お母さん、話そう」
「何を?早く夕飯食べなさい。今日のことは反省しているのなら許すよ」

語尾がほんの少しだけ優しく感じた。
ここで頷いたら今までの私のままだ。これからも窮屈な人生を歩むの?ずっと、ずっと流されたまま…生きていくの?
自分に問いかける。無言の私にお母さんがゆっくりと私の前に来る。
お母さんはすでに化粧を落としたようですっぴんの肌にはいくつものシミが浮かび上がっていた。
美容にお金をかけるわけでもないし、衣服を新調することもほとんどない。
全て私の学費や塾代に消えていく。
それを知ると益々ちゃんと期待に応えなくては、そう思うのに…

「お母さん、今日は恥をかかせてごめんなさい。でも…私は私の人生を生きたい」
「…みずき?」

私の言葉は想定外だったのだろう。大きく口をあけ、眉間には深く皺が刻まれる。
この世のものではないような目を向けられて私は顔を小刻みに揺らした。

「今はやりたいこともないし、将来の夢もない。だからお母さんの言う通りT大を目指すよ」
「そ、それなら別にわざわざ宣言しなくても」

違うの、そう声を張って言葉を遮る。お母さんの唇が震え、きゅっと真一文字に結ばれる。

「違うの…お母さんの言う通りにしたくないとかじゃない。自分で決めたいの」
「そんなのただの反抗期みたいなものよ。気にしなくても、」
「違う!今の私にはどうして勉強するのかわからないし、したくないし、縛られているようで苦しいの…」


ぽろっと涙が頬を伝った。
それに続くように、輪郭をなぞるように涙があふれる。必死に堪えているのにそれは止まってくれない。
面食らったように口を開ける。そのくらい私の発言は予想外だったのだろう。

「お母さん…私の気持ちを聞いてほしいの」
「…みずき」
「別に誰に理解されたいわけじゃない。お母さんに理解してほしいっ…」

語尾が大きくなり、ビクッと肩を震わせる母親に何か言い返す様子はない。
怒りに満ちた瞳は、すでにその色を失い嗚咽を漏らす私を見据える。
私のこの感情を思いを、どうしてもお母さんには理解してほしかった。
認めてほしいのは、私のテストの点数なんかじゃなくて私自身だ。
私の表面的な部分ではなく、もっと深いところを見てほしかった。

「…お母さんは、みずきに幸せになってほしくて…子供を幸せにするために導いてあげることも親の役目なの」
「そうかもしれない。でも、私に選択させてほしい。私の…人生だから」

弾かれたように瞼を開き、そのまま大きく息を吸った。

「…後悔、しないのね」
「うん。自分の足で歩きたい」

そういうと、あきらめたようにそう、とだけ言って私に背を向けた。
理解してくれたのかどうかはわからない。お母さんの言いたいこともよくわかるからこそ、私の思いを伝えることはひどく勇気がいることだった。

お母さんの背中はどこか寂しそうでまだ怒っているようにも感じられたけど何も言い返してこないことは今までにはなかったことだ。
朝陽君が言ってくれたように大丈夫、なのかもしれない。
お母さんが冷めるから食べるわよ、と肩越しにいう。私は頷き、ダイニングテーブルに並ぶ夕飯を食べた。
食事中、お母さんは終始無言だった。
チラッと気づかれないようにお母さんに視線を向ける。
皿の上には何も残っていない状態になり、カランとスプーンが皿に接触する音が響く。
ふとお母さんもこちらに視線を向けてお互いのそれが絡む。
そのまままたカレーを食べ始め、呟くように言った。

「後悔しても知らないからね」
「…うん。わかってるよ」

自分で決めるということには、責任が発生する。見放されたような言葉だけど今までと違って急に責任感が生まれたように感じた。
私自身が決める。たとえ家族が納得していなくても、誰かの言う通りに生きることがいいことだとも思えなかった。
私は、私の人生を生きる。
お母さんは納得はしていないようだったけど、すぐに納得してもらおうとは思っていない。
今までのように頭ごなしに威圧的に私の意見を否定しなかったことだけでもうれしかった。

早く今日のことを朝陽君に話したくて夕食後すぐに二階へ駆け上がろうとしたとき、お母さんに呼び止められた。
リビングのドアの前で立ち止まり肩越しに何?と訊く。

「そういえば、今朝回覧板が回ってきて笠塚さんが亡くなったって」
「え…―」

忙しそうに皿をキッチンへ運んでエプロンの紐を結びなおしてそう言ったお母さんの言葉に一気に全身が硬直する。

亡くなった。笹塚さんが亡くなった。
つい最近、回覧板を持ってきてくれた笹塚さんが…この世にもういない。
それはもちろん近所に住む優しい人が亡くなったら誰だって悲しいだろう。でも、それだけではない。
笹塚さんを最後に見たとき、確かにあの黒い靄が見えていた。
震える唇を必死に動かして訊いた。


「どうして…亡くなったの?」
「脳梗塞だって。元気だったのにね…」

お母さんは重々しくそう言ったが、すぐにキッチンの水道の蛇口ハンドルをひねって水を流して皿を洗う。
その様子をただじっと見つめながらやはり私の能力は人の死期がわかってしまう能力なのだと悟る。
それは同時に朝陽君の死期が彼の誕生日前に来ることを示している。


どうしたら彼の死を止められるのだろう。





7月に入った。
梅雨入りをして半月ほど経っていて例年だと中旬くらいには梅雨が明けそうだけど昨日見たニュースでは今年の梅雨明けは全国的に延びるのではと中年のニュースキャスターが話していたのを聞いてうんざりしたのを思い出す。
毎日空を見上げても曇天が広がり今にも雨が降り出してきそうだ。折りたたみ傘だって常備していないといけないし湿度も高いから衣服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
だから梅雨は好きじゃない。好きな人はいないだろうけど。

梅雨が明けたら今度は真夏日が続いて暑い毎日になるのだと思うとそれもそれで憂鬱だ。

塾には相変わらず週に3日通っていて学校で行われる全国共通模試も増えた。
全国模試では相変わらずお母さんの希望する大学の判定はDかEで成績が伸びていないように思えるがそうでもない。最近は自主的に勉強するのが楽しくなった。
お母さんが勉強についてあまり口を出してこなくなったことも理由の一つかもしれない。
もちろん塾はどうだったとか、テストの点はチェックするが普段なら何時間も同じことを言われたり嫌味っぽい言葉を何度も投げかけられるのにそういったことが少なくなった。
将来、やりたいこともないし就きたい職もない。
でも、だからこそ未来の私がどんな選択をしてもいいようにできることはやっておこうと思った。

全ては自分のため、だ。

朝陽君が言うようにお母さんが言うから、先生が言うから、そうやって周りを主語にして考えるのをやめたら以前よりもずっと気分が楽になった。

未だにいつかまたいじめの対象になってしまうのではと思っているけどもしそうなっても自分なら立ち向かえるのではないかと思えるようになった。

「午後から雨の予報だったけどすごい雨だね」
「うん。そうだね」

授業の休憩時間に窓の外を眺めていると朝陽君に声を掛けられる。
泥色の雲が外を覆い、大粒の雨が窓を打ち付ける。
雨粒が窓を叩きつけるたびにそれが弾けて形を変えるさまを見ていると違う別世界にいるように感じる。

「もう少しで連休があるけど前に行った喫茶店に行かない?」
「うん!行きたい」

朝陽君の突然の誘いに一瞬で顔色を明るくして頷く私は単純だ。
好意が彼に伝わっていないか慎重に接しようと思うのに、いざ彼と話すと楽しくて顔が綻んでしまうしこういう誘いにははしゃいでしまう。
もしかしたら賢い彼には伝わっているかもしれない。それでもいいや、と思えるほど彼との時間は楽しくて心が穏やかになる。
やっぱりこれは恋なのだと再認識する。

勉強にも身が入るようになり、学校生活も友人は朝陽君以外いないけどいじめもなくなって過ごしやすくなった。お母さんとの関係も徐々に良くなっているように感じる。
あと、一つだけ。私にはどうしても解決したいことがあった。

「誕生日パーティーはいつする?」
「あぁ、そうだったね。来月か」
「朝陽君の誕生日は8月30日なんだよね」
「そうだよ。早いよ、時間が過ぎるのはあっという間だな」

何かを思い出すように、何かをかみしめるようにそう言った彼の目はやはりどこか寂し気で、でもどこか嬉しそうだった。
いまだに彼の頭上には“16”という数字が浮かんでいて、それを見るたびに焦燥感に駆られる。
笹塚さんの件以降、それは余計に私の心を覆って焦りだけを置いていく。
未来を変えることはできないのだろうか。
数字が見えるだけで具体的に何月何日がその日なのかはわかっていない。
そしてそのくせ自分の数字は見えない。
雨はその日一日中アスファルトを叩き続けていた。

7月の連休
私たちは初めて彼と出会って一緒にチーズケーキを食べたあの喫茶店に来ていた。
傍からみたら私たちはカップルに見えていないだろうか。隣を歩く度に心配になる。
私はそう思われても嬉しいけど彼は嫌じゃないかな、とか複雑に色々と考えてしまう。
前回はチーズケーキが期間限定のスイーツとして宣伝されていたけど7月は桃のタルトらしくて私たちは即決してそれを注文した。
店内は相変わらず常連客で溢れていて、休日ということもあって混みあっていた。
奥の席に座ってゆったりした音楽を聴きながら朝陽君と他愛のない会話をする。朝陽君の私服姿は見慣れたけど他の子よりもそれを見る機会は多い気がするから少しだけ優越感に浸れる。

今日もあまり天気は良くなかった。
でも雨は降っていなくて、予報によると今週中にも梅雨が明けるらしい。

「勉強は?どう?」
「この間の模試もあんまりよくなくて。塾で受けた模試も全然ダメ。全部D判定だった」
「なるほど。でも前よりも楽しそうに見える」

そう言われて咄嗟にそうかな?と誤魔化すように返したけどその通りだ。勉強が好きというわけではないけど、頑張りたいと思えるようになった。
少し前の自分なら考えられない。

「朝陽君のお陰だよ。本当にありがとう。お母さんにも理解してもらえたかはわからないけど、前よりも私の意見聞いてくれるようになった気がする」
「それはよかった。でも全部実行したのはみずきだから俺は何もしていないよ」

そうやって私が彼に感謝を向けてもいつも全部私へ跳ね返してくる。
ちゃんと伝わっているだろうか。

「そうだ。8月、夏休み入ったら海でも行こうよ」
「いいけど…泳ぐのはちょっと…」
「わかってるよ、みずきは泳げないからなぁ。海を見るだけでもいいからさ。隣の県に遊びに行こうよ。もちろんみずきがよければだけど」
「…行きたい」

朝陽君がさらに表情を柔らかくして嬉々として「じゃあ約束」という。私が泳げないことは体育の授業で知っているのだろう。恥ずかしい。

コーヒーの香りの漂う店内でちょっぴり大人になった気分で二人だけの時間を楽しむ。
今回はコーヒーを注文した。
飲めないわけではないけどそんなに普段から飲む機会のないコーヒーを飲むことで背伸びした気分になれる。

「はいどうぞ。ゆっくりしていってね~」

店長がそう言って私たちのテーブルにアイスコーヒーにミルク、砂糖に今月の限定ケーキを並べる。
店長は私たちを覚えていてくれていて、接客業をしている大人は皆、こんなに記憶力がいいのかと脱帽する。
テーブルに並ぶケーキに頬を緩めていただきますと手を合わせてから二人同時に食べ始める。

幸せな時間だった。

それなのに心のどこかで彼の頭上の数字についてわだかまりが残っているせいでふいに苦しくなる。

「あと、今月末予定ある?」
「今月?」

朝陽君はうん、と頷いてケーキを喉に流し込んでから話し出す。

「今月30日なんだけどうちに遊びにこない?ちょうど休みだし」

そうだったっけ、と思いながらおもむろに携帯電話を鞄から取り出してカレンダーを開くと確かに休日になっている。上目遣いで彼に視線を移す。お互いフォークを持つ手を止めた。

「うちって、朝陽君の家?」
「うん。母親もいるけどよかったらうちでバーベキューやる予定なんだ。どう?」
「えっと、それは…」

ただの友人とはいえ、私は一応女子だ。
朝陽君のお母さんに変に思われないだろうか。彼女でもないのに、とか…。
険しい顔になって、首をひねる私に朝陽君はクスクス笑って言った。

「そんなに深く考えないでいいよ。うちの母親はフレンドリーだし何も言われないよ。ばあちゃんもいるけど同じような感じかな」
「そうなの?」
「うん。うちは大丈夫だけどみずきは?大丈夫?」

そうだ、朝陽君の家よりも私の家の方が心配だ。
夕飯までご馳走になってしまうとばれてしまうから絶対に話しておかないといけないし、事前に話したところで反対されるのは目に見えている。
前よりも口煩くなくなったとはいえ、男の子の家に行ってしかもバーベキューとなればそれなりに遅くなるだろう。それを許すとは思えない。

「行くけど、遅くならないうちに帰るよ。だからバーベキューは大丈夫。家族で楽しんで。誘ってくれてありがとう」
「どうして?いいじゃん、バーベキューしようよ」
「でも…」

やけに押しが強いなと思った。いつもの彼ならそこまで言わないような気がする。
そっか、わかった。そう言って引いてくれそうなのに。

「親が心配なの?」
「うん。もちろん行きたいけど男の子の家に遊びに行ってしかも夕飯までって…認めてくれないと思う」

そう思う理由もちゃんとある。小学生のころ、いじめられる前に友人の自宅に遊びに行ってついでに夕飯までご馳走になったことがあった。
事前に夕飯までご馳走になることは伝えていなかったけど友人の親から母親に電話をしてもらって承諾を得て楽しんだのに帰宅後、物凄く怒られたのだ。
事前の連絡がないことを怒っていたのではなく、勉強の時間を遊びに費やしたことに怒っているようだった。
高校生になった今、お母さんはなんていうだろうか。
昔を思い出して苦虫を嚙み潰したような顔をしていると朝陽君が前のめりになって

「ダメって言われたら俺も説得しにいくから」

そう言った。
そこまでして私を誘う理由が思い浮かばない。バーベキューがしたいのなら、家族でしたらいいのに…と思ってしまうのは普通だと思う。

「わかった…とりあえず言ってみるね」
「うん、楽しみにしてる」

バーベキュー自体小さな頃にしたことがあるようなないような曖昧な記憶しかないけどきっと楽しいものなのだろう。ワイワイと楽しむイメージが脳内を駆け巡って自然に笑みが浮かぶ。
朝陽君と学校の話やテストの話をしているとあっという間に時間が過ぎる。
暗くなる前に帰らなければいけないのにグラスの中にあった氷がすべて溶け切ってしまうほどの長く滞在していた。
またね、そう言って私たちは別れる。
自宅へ帰ってすぐにバーベキューのことをお母さんに話した。
最初、眉間に皺を深く刻み、この大事な時期に何をしているのだ、とでも言いたげな顔をしていた。
確かに高校二年生の夏休み前、成績不振の生徒が遊び惚けていたらそれは咎められてしまうのも無理はない。しかしたった一日、友人とバーベキューをすることはそんなに悪いことだろうか。
朝陽君のあんなにも必死な態度を見たことがなかったから出来るだけ行きたくて説得する。

「勉強は?最近も全然だめじゃない」

異性ということは隠して伝えたがやはり返答は想定内だった。
赤茶色の絨毯を見つめながらお母さんのいうことは事実ではあるから何て返したら了承してもらえるか深く考える。
こういう時に頭のいい賢い子であったならばもっと自分に有利に話を進めることが出来て納得してもらえるかもしれない。

「あ!あの、波多野さんはね、ものすっごく頭がいいの。クラスでもトップだし学年でも。この間の模試もT大A判定だよ」
「え?」

お母さんの顔色が変わった。
朝陽君の良いところは決して勉強ができることだけではないしむしろそんなところに惹かれているわけではない。もっともっと、素敵なところがあるのにお母さんにそれを伝えてもきっと響かないことはわかるからお母さんに響くようないい所を言った。

これが賢く生きるということなのかもしれないと頭の片隅に思った。
お母さんが唸り、あごに手を添えて黒目を動かす。
悩んでいる、そう確信した私は畳みかけるようにつづけた。

「それでね!その子に最近勉強を教えてもらっていて…友達も全然いない私に親切にしてくれるの。だからバーベキュー誘われて嬉しいんだ。行ってもいいかな」
「…そうねぇ。でも行くなら何か持っていないと。ご馳走になるんでしょう?」

心の中でガッツポーズをしてなんとか承諾してもらった。
男の子だと知ったらいくら成績が良くても反対するだろう。大事な時期に彼氏がいると思われてしまう。
実際は彼氏でも何でもないただの友人なのだけど。
私はすぐに朝陽君に連絡をした。早速返事が返ってきてとても喜んでいるのが文面から伝わってくる。

同じように私もすごく楽しみだった。
お母さんに嘘をついてしまったのは罪悪感が残るがそれ以上にバーベキューが楽しみだった。



♢♢♢
バーベキュー当日

私は彼の自宅へ向かっていた。
ちょうど梅雨が明けて日差しが強く日光が地面を熱しているせいで実際の気温よりも体感温度の方が高く感じた。午後1時歩道を歩きながら朝陽君のお母さんにあったらなんて挨拶しようとか、そういうことを考えていた。
公園が目に入るとキャッキャッと子供の遊ぶ声が聞こえてくる。
真夏日で非常に暑い今日もこうやって子供は関係なくがむしゃらに遊んでいる。

昔は私もこうだったなと思いながらスニーカーでアスファルトを強く踏む。
手には百貨店の紙袋が握られていて、中身は洋菓子のセットらしい。
これは今朝お母さんから渡されたものだった。

しっかり百貨店で購入するあたり、お母さんらしいなと苦笑した。
彼の家に近づくにつれて、緊張が増してくる。朝陽君だけに会うのならば緊張はしないがお母さんに会うとなれば話は別だ。
彼の家が視界に入ってくるとドクドクと心音が激しくなる。
以前も来たことがある彼の家の前に立ち、深呼吸をすると背後からお客さん?と声を掛けられて驚いて後ろを振り返る。

「あら。もしかして朝陽の友達?」
「は、初めまして!クラスメイトの天野みずきです」
「あぁ、いつも朝陽と仲良くしてくれてありがとうねぇ」

穏やかな声の主は、朝陽君のおばあちゃんだった。彼の話だと父方の方のおばあちゃんらしい。
目尻の皺をいっそう深くし嬉しそうに頷かれて私もペコペコ頭を下げる。
どうぞ、入って、促されておばあちゃんに続くようにして玄関に入る。

「お邪魔します…」

中に入るとすぐに朝陽君が二階から階段を下りてきている最中で目が合った瞬間「みずき」と名前を呼ばれて照れてしまう。
陰と陽のような対照的な私たちが仲良くしてることは周りからはどう見えているのだろうか。

お辞儀をして式台を上がる。
朝陽君がそんなにかしこまらないで、と声を掛けてくれるが親に会うのだから普通はこうなるだろう。
いつか私がもう少し大人になって恋人が出来てそしてご両親に会うときが来るのだとしたら今と同じような気持ちになるのだろう。
未来を想像したらどうしてか胸が痛んだ。鈍くて徐々に広がる痛みに下唇を噛んでいた。

その未来には、朝陽君がいてほしいと思ったから。
大切で大好きな彼にそばにいてほしい。生きる意味も希望もなかった私に寄り添って明るい道を照らしてくれた彼と一緒に生きたい。
“いつか”訪れるかもしれない未来には、彼が隣にいてほしい。

「どうしたの?」
「あ。ううん、何もないよ」

きゅっと口角を上げて笑って見せると朝陽君はほっとしたように目じりを下げる。
リビングのドアを開けるとすぐに「あら!こんにちは、みずきちゃんよね?」と年齢を感じさせないほどの明るい声が返ってくる。
私は瞬間的に頭を下げて自己紹介をした。
朝陽君のお母さんはブラウン色の髪をポニーテールで纏めて、体にフィットした黒いチノパンに白いモックネックの半袖シャツを着ていた。

私のお母さんと同年代だと思うけどずっと若く見えた。
色素の薄い明るい瞳も相まって若く見えるのかもしれない。朝陽君とはあまり似ていないからお父さん似なのかもしれない。

「今日はバーベキューに呼んでいただきありがとうございます。あの、これよかったら…」

朝陽君のお母さんに近づき、百貨店の紙袋を渡す。

「気にしないでいいのに!もともと朝陽がどうしても今日バーベキューがしたいっていうからしたのよ?聞いたらクラスメイトを誘いたいからって。朝陽に無理やり連れてこられたんじゃないかって心配してたんだから」
「そんなことありません!すごく楽しみにしていたので」
「そう?それならいいけど」

朝陽君のお母さんは朗らかで彼と同じように余裕があるように感じた。
女手一つで朝陽君を育てているのに、どこにそんな余裕があるのだろうかと思った。

「バーベキューはもう少ししたらやるからそれまで二階にいていいのよ。朝陽に飲み物もっていかせるから」
「ありがとうございます。あの、でも手伝えることがあるなら言って下さい」
「ありがとう」

朝陽君のお母さんのお言葉に甘えて、とりあえず二人で二階へ向かった。
挨拶をするだけで緊張して手汗がひどく、苦笑した。
二人で彼の部屋へ行く。
二度目ということもあって朝陽君の部屋に入ることは緊張しなくなっていた。

「座ってて。今、飲み物持ってくる」

ありがとう、とお礼を言って彼がドアを閉めて出ていくと同時にふぅと息を吐いた。
朝陽君のお母さんは私のことを彼女とか勘違いしていないだろうか。いや、それはないか。
でも、もしかしたら私が朝陽君に好意があることは見透かされているような気がする。
そう思うと恥ずかしさで赤面してしまう。
ドアが開いて朝陽君が飲み物と私が持ってきたフィナンシェをお盆の上に乗せて運んできた。
お母さんが買った洋菓子のセットの中身の一つはフィナンシェなのだと知った。ローテーブルにそれらを並べて二人で食べた。
ちょうど昼食後のおやつになった。

「15時過ぎに準備に行こう」
「そうだね」
「今日は来てくれてありがとう」
「こちらこそだよ!お母さんもおばあちゃんもいい人だね。優しいし明るいし」
「そうかな。中学生くらいの時は反抗期で結構反発したんだよ。喧嘩何て何度したかわからないくらいにね」
「そうなの?朝陽君にもあるんだ」

興味深そうに頷き、朝陽君が持ってきてくれたアイスティーのグラスを手にした。
前回と違って生のカットされたレモンがグラスの中に入っていてオシャレだなぁと感嘆する。

「最近は嫌なことしてくる人はもういない?」

まるで親が子を心配するような目を向けてくる朝陽君に大丈夫だよと答えた。もしかしたら朝陽君にとって私は妹のような存在なのかもしれない。
こうやって心配してくれるのも、そういう理由だからかもしれない。

私は、違うけど…―。

一階から朝陽君のお母さんが私たちを呼ぶ声が聞こえる。
行こうと、彼が言い私たちは一階へ行く。
朝陽君のお母さんとおばあちゃんがリビングの一番大きな窓を全開に開けていて、縁側にすでにカットされている野菜や、お肉、おにぎりが置いてある。
朝陽君がバーベキューコンロや鉄板を手慣れたように組み立てて火起こし器を使って火を起こす。
すぐに火がついて目を見開いて驚いた。
バーベキューなんか久しくしていなかったから、吃驚の声を上げる。(もっと火を起こすのは時間がかかるものだと認識していたから)

「今日も暑いねぇ」

おばあちゃんが縁側に座りながらうちわで扇ぎながら空を見上げていた。
まだ日光がジリジリと肌を照らしていて黙っていても額に汗が滲む。
縁側に近づくと家の中の涼しい風が体を掠めて少しばかり体温を下げていく。
おばあちゃんが独り言を話すように口を開く。

「朝陽と仲良くしてくれてありがとうね」
「…いえ、こちらこそ…その、助けてもらっているというか」

視線はずっと空を見上げたままだから私に話しているとは思わず一瞬聞き流してしまうところだった。
慌ててそう返すとにっこりと顔の皺を濃くして頷く。

「うちの男はみんな早く逝ってしまうものだから…しかもあの人も息子も誕生日の前日にねぇ」
「…」

どこか遠い目をしていて哀愁すら漂う瞳は何かを思い出しているようで、そしてその発言は私の心臓を圧迫するのには十分すぎた。
朝陽君の頭上には今も16という数字が浮かんでいる。
家系的に何かあるのだろうか。あまり長く生きられないような遺伝の病気でもあるのだろうか。
訊きたいことが頭の中をグルグルと回っているがそれを言葉にして伝えることはできなかった。

「よーし、どんどん焼いていこう!」

お母さんの明るい声とともに私の顔が自然にそちらへ向く。
朝陽君がお母さんと笑いながらトングをもってお肉を焼いていた。

「私が焼くよ、何も手伝ってないから」
「いいのよ!今日は招待客なんだから。ほら食べて」

気さくで陽気で誰からも愛されるような存在の朝陽君のお母さんは、朝陽君と似ていると思った。

「ったく、朝陽がどうしても今日バーベキューやりたいっていうから仕事もずらしたのよ。みずきちゃんも無理に誘われたんでしょう?」
「え、いえ…私もバーベキューしたかったので」

鉄板の上では質のいい肉が焼かれ、その脇にはナスや玉ねぎ、トウモロコシなど野菜が置かれている。
トングを手にしたまま、一瞬体が止まる。
朝陽君を見ると彼は「バーベキューどうしてもやりたかったんだからいいじゃん」と言いながら、目配せする。

やはり“違和感”があった。
どうして彼は、バーベキューをやりたがっているのだろう。誘われた時も何としてもバーベキューをやりたいという意思が伝わってきた。それだけじゃない、私に参加してほしいと明確に伝えてきた。
何かが喉の奥に引っかかっているような表現しにくい“不透明さ”を感じながらも
「肉焼けたよ、みんな食べて」
という朝陽君の声で我に返る。

いや、せっかくこうやって招待してくれたんだから今はただ、楽しもう。そう思った。


日が沈んできて茜色に辺りを染め、気温も徐々に落ち着いてくる。
「そうだ!スイカもあるのよ!」
お母さんの言葉に頬を緩ませた。
お肉だけじゃなくて手作りの醤油バターと紫蘇を混ぜ合わせたおにぎりも鉄板の上で焼いて焼きおにぎりにして食べたが、本当に美味しくて目を丸くさせて驚いた。
辺りが少し暗くなる頃には、皆すでに満腹でお母さんの用意してくれたスイカを縁側に座りながら朝陽君と一緒に食べる。

「今日はありがとう」
「ううん、こちらこそ、無理に誘ってごめん」
「無理になんかじゃないよ!すっごく楽しかったよ。ありがとう」

朝陽君は物思いにふけるように空を見つめていた。
その横顔を見ながら気になっていたことを聞いた。

「変なこと聞いてごめんね、あの…さっきおばあちゃんから聞いたんだけど…朝陽君の家系って…その、男の人が早く亡くなってるって…聞いて、ええと、」

もう赤い部分が消えているスイカを手に持ったまま、恐る恐る聞いた。
遺伝的な病気があるとしたら、彼の数字にも納得できる。もしかしたらそれを回避できるかもしれないと思った。未来を変えられるかもしれないと、そう思った。
数秒無言だった朝陽君がゆっくりと口を開く。

「そうだね。みんな結構早く亡くなってるかも。でも父さんもじいちゃんも死因はそれぞれ心臓発作と事故だったし」
「…」
「偶然だとは思うけどね」

普段よりも事務的な、無機質な声に不安は消えなかった。

「あ、そうだ。花火する?あるんだ」

先ほどとは打って変わって口調が軽くなり笑いかける朝陽君に頷く。
ちょっと待っててと言って立ち上がる。
そりゃそうか、早くに亡くしてしまったお父さんのことを聞かれていい気はしないだろう。
人のパーソナルスペースにずかずかと上がり込むようなことをしてしまったことを反省した。
しばらくすると、彼が大き目の青いバケツと袋に入った花火を持ってきた。

「わぁ、久しぶりだなぁ」
「俺もだよ。いつぶりかな」

庭に出て、椅子に腰かけながら花火を取り出して火をつける。
すぐに一瞬で様々な色を放ち、私たちを照らす。
一気に夏の気分になる。スイカに、バーベキューに、花火、どれも夏の定番だ。

「すっごく楽しい一日だったよ。ありがとう」
「まだ花火終わってないよ」
「ふふ、そうだね。でも、ただの友達なのに…こんなに良くしてくれて…ありがとう」

ちょうどほぼ同時に花火が消えて明かりが消える。
線香花火を袋から取り出して朝陽君にも差しだす。

花火自体好きだけど一番好きなのは線香花火だ。儚くてすぐに消えてしまうのにその名残惜しい感じが好きだった。あと少し、あと少し頑張って、とつい心で応援したくなる。

朝陽君の花火の日を借りて、線香花火に火が灯る。
しゅわっと音を立て、小さいながらも一生懸命に火の玉を作る。

「友達、か」
「え?」

聞こえなくて聞き返してしまった。
朝陽君の端正な横顔を見つめると彼も目線を私に向ける。
ドキッとしてすぐに花火に視線を戻した。

「友達とは思ってない」
「え…―」

その瞬間、線香花火が音を立てずに地面に落ちた。
朝陽君の花火も同様に光の線を消す。
何も言わずに再度、花火を手にする朝陽君にどういう意味?とも聞けずに目をしばたたく。

「会った時から、友達だとは思ってない」
「…っ」

独特の音を立て、朝陽君の手元を照らす花火が七色に光る。
友達ではない、それは…文字通り受け取るなら私たちの間には友情はないということになる。
こんなに一緒にいるのに、たくさん笑い合ったのに友達じゃないと言われたショックが大きすぎて眩暈がする。
どんどん視界がぼやけていくのを感じながらも何も言えない。

「あ、違う。そういう意味じゃない」
「…朝陽君…」
「みずきのことを友達以上に見てるってこと」

その瞬間、彼の回答が想像をはるかに超えたものだったから間抜けな声を出してすでに色を無くした花火と朝陽君を交互に見る。

「どういう…」
「そのままだよ。好きなんだ、みずきのこと」
「っ」
「迷惑かもしれないし、みずきはこのままの関係でいいって思うかもしれないけど俺は気持ちを伝えたい」
そして、あんぐりと口を開けたままの私に言った。

―好きなんだ、誰よりも




もう少しで夏休みが始まる。

八月に入ると更に気温は高くなり、人々のやる気や体力を根こそぎ奪っていく。
登下校ですら体力を消耗するほど暑さが本格的になっていた。

あのバーベキューの日、朝陽君から告白を受けた私はそれはとてもとても驚いたし、まさか両想いだとは知らなかった。
だって、朝陽君はみんなに優しいし私に親切なのも彼の元々持っている“優しさ”があるからだと思っていた。
でもあの日、確かに彼は言った。

『好きなんだ、誰よりも』


何度も頭の中で彼のセリフがリピートされる。そのたびに胸がキュンとして、今までにない感情が全身を支配する。それはどこにいてもすぐに再生されてしまうし、再生されたら最後、頬が上気して他人から見ると完全に頭のおかしいやつと思われているだろう。

バーベキューのあった日、帰宅後も彼と日付が変わるまで電話をしていた。
眠くなって電話を切ろうとしても、彼はあと少し、そう言って切ってくれなかった。結局日付が変わって睡魔に勝てなくなった私の声で電話を終えた。
私自身も彼に好きだと伝えた。

当然もうバレてしまっているのかと思ったが、そうではなかった。
普段から大きいのにさらに目を大きく見開き、信じられないという表情を見せた彼の顔は忘れられない。

あれから数日が経過していた。

八月の第一週、告白されてからまだ彼と会っていなかった。
高校生のうちは好きな人とは基本学校でしか会えない。
もちろんつき合ったらデートだったり休日に会う口実が増えることは確かだけど、親の管理下にある学生が頻繁に会うことはできないだろう。ましてや、進学校で勉強の忙しい毎日でアルバイトすら基本認められていないのだから。

既にいじめが無くなって数か月経過しているのに教室のドアを開けるのは非常に緊張する。
教室のドアに手を掛けると一瞬体が震えるし、教室が視界に入るとお腹の奥がきゅうっと痛む。
それでも、こうやって毎日休まず学校へ通えているのは朝陽君という存在があるからだ。彼がいれば大丈夫だと思えるから。

「おは、よう」

ドアを開けるとすぐにクラスメイトの男子が駆け足で教室を出るところで危うくぶつかりそうになった。
挨拶は一応するようにしていた。どうせ返ってこないと卑屈になって前を向けなかったけど、もしかしたら誰か返してくれるかもしれないから。
でも、
「おはよー」
「っ」

私の脇を颯爽と走り去っていく喋ったこともない男の子は普通に、まるで今までもそうだったように、軽く挨拶をして教室を出ていく。
呆然と立ち尽くす私は今の言葉を何度も頭の中で反芻させ、瞬きをする。

今のは、挨拶を返してもらえたということだろうか。聞き間違い?私じゃない誰かに言った?
そう思って辺りに視線を巡らせるがやはり私しかいない。

バクバクと心臓が音を立てているのを抑えるように首からかかるリボンを強く掴んだ。
嫌な痛みではなかった。
これから挨拶をしたら返してくれる生徒が増えるかもしれない、淡い期待だろうか。でも、今確かに挨拶を返してもらえたんだ。
自然に頬が緩んでいくのを隠すように視線を窓の外へ向ける。
と。


「おはよう、みずき」

朝陽君の声が頭上から聞こえ、顔を上げた。
好きだと言われて、好きだと伝えた、両想いになった彼に私は視線を合わせる。
自分には勿体ないほどのこの現実を彼と共有したくて口角を上げたのに…―。

「どうかした?」
「…っ、朝陽、くん―…」

言葉を失っていた。
一瞬で目の前が真っ暗になった。彼の声が遠くなる。焦点の合わない目を必死に彼を捉えようとするのに本能的にそれを拒んでしまう。
そう、笹塚さんの時と同じように、あの電車内で見たサラリーマンと同じように。
私の体がガタガタと震え、涙があふれた。
すぐに朝陽君が私の手を引いて教室から出る。声が出なかった。
理由は一つだ。

「どうして…っ…」

まだ薄いが彼の体には黒いモヤが巻き付くように覆っていた。

「みずき?とりあえず保健室に行こう」

動揺する朝陽君は強い力で私の手を引く。
それでも、涙は止まるどころかどんどん溢れ、輪郭をなぞるように伝って落ちていく。
拭う力も出なかった。
彼の頭上に見える16という数字は消えていないし、やはり彼はこの世を16歳の若さで去るのだ。
この数字が見えてしまう能力は人の死期を表しているのではなくて、別の何かだったらいいと願っていたしそうだと思いたくてしょうがなかった。
でも、彼の体が黒いモヤで包まれているのを見てやはり逃れられない未来が来るのだと悟った。
私を置いていかないでほしいのに、できるならばずっと彼の隣にいたいのに、どうしてこんなにも現実は残酷なのだろう。
どうして。

「とりあえず休もう」

保健室のドアをノックして、中に入る。相変わらず消毒液の匂いがしてでもそれが妙に落ち着く。
保健室には誰もいなかったが、朝陽君は勝手に中に入っていく。
奥の誰もいないベッドの縁に座るように指示し、それに従うようにゆっくりと座った。
嗚咽を漏らすほど泣きじゃくる私を見て朝陽君は何も言わずに手を握ってくれた。

「何かあった?」

首を折れるんじゃないかというほどに横に振った。

「どうして泣いているの?」

優しく、子供をあやすように訊く彼に私は何も言えなかった。こんな能力があることを信じてもらえるとは思えないし、信じてもらえたところで朝陽君自身にもう少しで死んじゃうんだよと伝えるのはあまりにも酷だった。

「誕生日…っ今月だよね、」
「そうだよ」

やけに抑えた声が耳朶を打ち、彼が保健室内に置いてあるティッシュの箱を私の前に差し出した。
ありがとう、そう言ってそれを受け取るが声が震えていた。

「8月の…30?」
「そう。できれば一緒に過ごしたいね」
「過ごす、絶対に過ごすっ…だってっ…」
彼のシャツにしがみついた。こんなことを急にされたら驚くだろうに彼は驚くどころか悲し気に眉尻を下げた。
「何があったの?聞かせて」
「…言えない」
「どうして?それはどうしても言えないことなの?」
「うん、言えない。でも…おいていかないで…」
「…」
「朝陽君がいないと私は何もできないし、臆病者なの」
「そんなことない。みずきはもう自分の足で立ってる。前を見てるじゃん」
全力で、違う、そう叫ぶ。私は彼がいなかったら何もできなかったし今頃死んでいたと思う。

どうやって死のうか毎日考えていた。どうやってこの世から去ろうか、それしか考えていなかった。
それを変えたのは彼だった。

「そんなことないよ。俺はアドバイスしただけで、実行したのはみずきだ。自信をもって」
「…ちがうよ…ちがう」
「違わない。そうだ、海に行こうよ」
「…海?」
「うん。夏休みに入っても講習あるけどそのあとでもいい。一緒に海に行こう。別に泳ぐっていうわけじゃないよ?海の音とか景色っていうのかな好きなんだ。一緒に見に行こう」
「…うん。朝陽君、朝陽君は…私の心読めるの?」

彼から表情が消えた気がした。
すぐにいつもの彼に戻ったけど一瞬、消えた気がした。

「まさか。そんな力はないよ」
「…そうだよね。海、約束だよ」
「うん、いつにする?」
「じゃあ、誕生日あたりはどう…?でも誕生日の前がいいな。29日とか!」
「俺はいつでもいいいよ」
「もちろん30日も一緒にいたい」
「そうだね」


30日が誕生日ならば既に17歳になっていて彼の死を止めることが出来ない。
その前がいい。私の能力は、日付までぴったりわかるわけではない。
ただ、モヤの濃さで死期が近いのかどうかは判断できる。
彼の体を覆っているそれはまだ薄かった。今はまだ、大丈夫なのだと思う。
おそらく彼の誕生日の週あたりに靄のピークが来るのではないか、それから彼のおばあちゃんの言っていた朝陽君の家系の男たちは皆、早く亡くなってしまうと聞いたがもう一つ妙なことを言っていた。

”誕生日の前日に死んでいる”

もし、理由はわからないが朝陽君も同様の何かで死ぬのだとするならモヤの濃さとあばあちゃんの話していた内容を照らし合わせると誕生日の前日、29日に亡くなる。もしかしたらズレる可能性もある。

ただ、どの道タイムリミットはすぐそこにある。


彼を力強く見つめた。
朝陽君は普段通りの優しい顔に戻っていた。
彼にも何か不思議な力があるような気がしていたのは、別に何か根拠があるわけではなかった。
ただ、アドバイスが適切だったり、私の考えていることを察してくれているように喋るから心を読む力でもあるのではないか、そう思った。


この日は、午後の授業まで保健室を出ることが出来なかった。彼の死が近づいていることを彼に伝えるかどうか迷っていた。
どうするのがいいのか、何を選択するのが最適解に近づくのか、必死に頭を使って考えるのにわからなかった。
悩んで悩んで、そのうち夏休みに入ってしまった。

想いを伝えあうことが出来たのに、私は彼と会うのが億劫になっていた。いや、正確に言うならば会いたいのに会うと辛くて泣きそうになってしまうから避けてしまう。


会うたびに、彼のモヤが黒くなっていく。それは彼を少しずつ蝕んでいるようで直視できない。
夏休みに入ると塾の夏期講習もあるし、学校の講習もあって課題に追われていた。
「あら。随分最近は勉強熱心ね」
お母さんに褒められたがちっとも嬉しくはなかった。確かに勉強にここまで集中して向き合ったのは初めてだった。でもそれは、彼のモヤを死期を忘れたいからだ。こうでもしていないとふいに襲ってくる虚無感に耐えられない。
考えたくもない未来を私は見ないように目を閉じる。
毎日、彼から電話が来ていた。
私を励ますようにその声は明るかった。元気のない理由を聞いてこない彼はやはり私の心が読める力があるのではないだろうか。その理由を、知っているから何も聞いてこないのではないか。
夕食後、ルーティンのようにかかってくる電話に出る。
ごろんとベッドに背をつけて目を閉じながら彼の声を携帯を通して訊く。
16歳で死ぬのだとすると、あと何日だろう。明日かもしれないのに、明後日かもしれないのに、それを認めたくないから考えることをやめる。
数日前、夏期講習で会った時、モヤは結構濃くなっていた。
「海、楽しみだね」
「うん…楽しみ」
「そういうふうには聞こえないけど。行きたくない?」
「そんなことない!ないけど…」
またふいに涙が浮かぶ。
いっそのこと彼にすべてぶちまけてしまおうか。でも、そんなことを言ったらきっと彼は絶望する。あと一か月もない命何て知ったら…。
でも、未来は本当に変えられないのだろうか。例えば、病気じゃないのならば、交通事故ならば次の誕生日が来るまで家から出ないでもらう。しかし死因まではわからないから病気や発作的なもので亡くなってしまうかもしれない。
「みずき、何を隠してるの?俺には教えてよ」
「…」
「ダメかな、」
携帯電話を握る力が自然に強まる。静かな部屋に私の呼吸音が響いた。
「私ね…―その人の、」
―死期がわかるの
朝陽君は数秒無言だった。声だけだから相手の顔は見えない。どんな顔をしているのかわかればいいけどわからない。
「そうなんだ。そっか、それで?どうして元気がないの」
「信じるの?」
「そりゃ、、好きな子の言うことは信じるよ」
「…うん」
やっぱり言えないや。
例えばあなたはあと数日の命ですと言われたら嬉しいだろうか。確かにやり残したことをやりたいと願い、実行する時間を増やせるけど、その現実を受け入れることは可能だろうか。
あと半年ですとか、あと数年ですとかそのくらい長ければまだわかるが、今月中なのは確かだ。
彼には、言えない。
「それでね、親戚の人が…近々死んじゃうんだ。わからないけど、もしかしたら外れるかもしれないけど」
「そっか。外れてほしいね」
「うん」
私はベッドから体を起こして、瞑目して思いを巡らせる。
―人生は、選択肢の連続である
私はどういう選択をしたらいいのだろう。



♢♢♢
夏期講習期間は朝陽君と会うことが出来たけど、それ以外は私の塾のせいで毎日は会えなかった。
蒸し暑い日々が続き、窓を閉めていても蝉の音が聞こえる。クーラーの効いた部屋でもそれは容赦なく鼓膜を揺らして夏の暑さから逃げたいのにそうはさせてくれないから、困るのだ。

刻一刻と彼の誕生日が近づいている。
毎日朝起きたら彼に電話をするのもルーティンになりつつあった。彼が今日はまだ生きている、ということを確認する作業になっている。
今日は課題を一緒にやろうと私から誘って図書館で勉強をしていた。
受験生だろうか、同じような学生が過去問とにらめっこしている学生もいるし社会人風の人もたくさん図書館にはいた。
課題をやりながらも朝陽君のことが気になって手をとめてしまう。
やはり彼の周りを纏っている黒いモヤは消えていない。
「…この間言ってた話なんだけど」
シャープペンを走らせる手を止めて、顔を上げる朝陽君と目が合う。
どうしたの?と訊くと彼は言葉を選ぶようにして口を開いた。
「あの能力の話。あれって俺のことじゃない?」
「…っ」
呼吸の仕方を忘れるほどにその発言は私に衝撃を与えた。
あんぐりと口を開け、まるでもう知っているとでもいうようにそう言った彼は既に確信している様子だった。
その目は、瞳は、もうわかっているという意思を伝えてくる。
「ちが、うよ…」
動揺しているのが誰だってわかってしまうほどに私の声は震えていたし焦っていた。
「違う…違うよ」
自分の能力を否定するように何度も何度も違うといった。彼はそれ以上は何も言ってこなかったけど、もう気づいているだろう。
それでも、違うとしか言えなかった。
帰り道、二人で肩を並べて歩いていたがお互い無言だった。
「海、もう少しだ。晴れるといいね」
「…うん。ねぇ、朝陽君」
アスファルトの上には私と朝陽君の影がしっかり伸びていて、それを見てあぁ彼はまだ生きているのだって思った。
「さっきの話だけどね、ごめん。嘘ついたっ…」
ポロリ、また涙が零れる。
朝陽君が足を止めるから私も同じようにした。じっとりと嫌な汗がシャツの中を流れる。
鼻をすすりながらも、しっかり彼を見上げる。
「うん。それで?」
「ごめん…朝陽君、もう死んじゃうかもしれないっ…お願い、死なないでっ…」
泣きじゃくる私をなだめるようにそっと頭の上に手が置かれる。
大丈夫、何度もそういう彼は落ち着いていて私の方が興奮して冷静になれなかった。
死の宣告を受けて泣きたいのは彼の方だというのに。
「うん、死なないよ。大丈夫。ちゃんと目の前にいる」
「でも…っ16っていう数字が…っ」
「それは何かの間違いかもしれないし、もし本当なら…そうだな、じゃあ毎日みずきに会いたい」
「…朝陽君、」
「明日から時間がなくても毎日会おう。朝はいつも通りみずきが電話してくれて、それで…夜は、俺が電話する。塾があっても会おう、少しでも」
「うん、会う。たくさん、会いたいっ…ねぇ、どこも悪くない?病気とかないよね?」
「ないよ。元気だよ」
「じゃあ…どうして、」
「違うことを祈ろう。あとはみずきと思い出を作る」
「うん…」
頷くが納得はしていない。彼の死を認めたくないし、思い出という言葉が切なく聞こえてさらに涙があふれる。
みずき、そう名前を呼ばれた瞬間、体が大きく揺れた。
抱きしめられていると気づくまで数秒時間がかかった。
細く見えていた彼の体が密着すると意外にも大きくて私の体などすっぽりと埋めてしまう。
「よかった…生きてる…」
「え、あさひ、君?…」
抑えた声が鼓膜を揺らす。
「ありがとう。後悔はないよ」
「後悔…―」
彼の大きな背中に手を回す。少し汗ばんだ彼のシャツを握る。彼の存在を確かめるように目を閉じて願った。
―どうか、明日も彼が生きていますように
―もう死にたいなんて考えないから…だから、神様どうか彼の未来を変えてください。


私たちは電車に揺られながら長い時間をかけて海へ向かっていた。
泳ぐわけではないから水着は持ってきていないが、座って海を眺められるようにブルーシートを持参していた。


明日は、朝陽君の誕生日だ。
そして前日の今日は海へ行く予定だ。
駅で待ち合わせをして彼に会った時、思わず声を出してしまいそうになった。
理由は簡単だ。
彼のモヤが今までにないほどに黒く濃くなっていて、それはもう死期が近づいているのを示しているような気がして全身が粟立った。

この日まで、ほぼ毎日朝陽君と会っていた。
彼女という特権を利用して毎日会って、毎日電話をする。ウザいとか思われるかな?とかそういった心配をする余裕はなかった。
毎日、毎日今日は大丈夫だと思ってほっとする。それを繰り返していた。


今日は、日付が変わるまで一緒にいるつもりだ。
もちろんお母さんには内緒でどうにか一緒にいたいけど、それを本人にも伝えていない。
各駅の電車だから空いていた。

「もう少しだ」
「うん!今日は日付が変わるまで一緒にいたい」
「…一緒に?それ、お母さん大丈夫?」
「うーん、正直に言ったら絶対反対されちゃうから…」
「わかった、じゃあ帰宅して夕飯食べたらこっそり抜け出そう。夜は危ないから俺がみずきの家の近くまで行くよ」
「ありがとう。大丈夫かな…バレないようにしないと」
「そうだね。今日が最後かもしれないから」
「…」

どうしてか、朝陽君は怯えた様子もないしそれどころか清々しい面持ちで私を見つめる。

「大丈夫、日付がね変わるまで一緒にいるの。絶対に、一緒にいたい」
「…そうだね。俺もそうしたい」

太ももに置かれる私の手をそっと握った彼の手は思った以上にあたたかくて、彼の体温が伝わってくる。
電車が揺れるたびに、彼の肩に私のそれが当たってしまいそうになる。
普段なら接触しないようにそうっと避けるだろうが今日はしなかった。
出来るだけ彼と一緒にいたかった。

駅に降り立つと、数人の家族やカップル、若い学生もちらほらリュックなど大きな荷物を抱えて私たちの横を通り過ぎていく。
賑やかな声を掻き分けるようにして私たちは目的地まで向かった。

海が到着すると私と朝陽君は感嘆の声を漏らし二人で顔を合わせた。
波は一定のリズムを保って太陽の光を受けとても綺麗に煌めいている。
すうっと息を吸うと、潮の香りが鼻孔をくすぐる。砂浜を二人でゆっくりと歩く。
今日はお互いにサンダルで来ていたから足を進めるたびに重たい砂がサンダルと足の裏に入り込む。

「綺麗だな」
「うん、とってもきれい」

小さな子供がお父さんとお母さんと一緒に水辺で遊んでいる様子を見たら私もはしゃぎたくなってしまって勢いよくサンダルを脱ぎ捨てると海に足首まで浸かった。
暑い日差しが肌を焼き付けるように照らすが海の水温がちょうどよくて気持ちがいい。
体温を下げていくように、ザーッと音を立てる。
朝陽君も続くようにして海に入る。初めて青春を送っているように感じた。
かけがえのない一瞬、とかよく聞くけれどそういう陳腐な言葉に惹かれたことなどなかったしそんな場面を体験したこともなかった。しかし、今、これがかけがえのない一瞬なのだと認識した。

しばらくした後、ブルーシートを敷いて二人で座った。
飲み物を飲みながら、海を眺めていた。

「そうだ。これ、プレゼント」
「え、いいの?」
「うん」

足を折って座りながら隣の朝陽君にリュックからクッキーとミサンガを手渡した。
不器用だから包装も綺麗にできなかったし、もう少しちゃんとしたものをあげたかったけどお小遣いもそんなにない学生にとってこれが精一杯だった。

「クッキーは手作りしたの。お母さんのいない時間帯に作ったんだ」
「嬉しい!ありがとう。大切に食べるよ。これ、ミサンガだよね?いいの?」
「もちろん。でも…重いかなぁ」
「そんなことない。つけてもいい?」

ブルー系の糸で作ったそれを朝陽君は嬉しそうに手首につけてくれた。
幸せな時間だった。
日が沈むまで私たちはお喋りをしていた。話の内容は他愛のない内容だ。
それなのに帰りの電車の中では、どんな話をしたのか鮮明に思い出すことが出来た。

18時過ぎというのにまだ日は完全には沈んでいない。
静かな住宅街を歩きながら朝陽君が家の前まで送ってくれた。

「家についたら!電話してね」
「もちろん」
「約束。それから夜こっそり抜け出すから…日付が変わるまで一緒にいよう」
「わかった。迎えに行くから」
「うん」

帰路につき、すぐにお風呂に入った。
そして夕飯も一気に食べ終えると朝陽君と電話をする。
繋がる電話にほっとした。もしかしたら帰宅途中に何かあったら、と最悪の事態を想像していたから。

「そろそろ家出ようかと思う。うちは別に内緒に家を出なくても怒られないけど、補導されないようにしないと」
「そうだね、電話は切らないでね」
「わかってる」

22時過ぎ、朝陽君が家を出る音が電話越しから聞こえた。

その間も、ずっと電話は繋がっていて、あと二時間で彼は誕生日を迎えてしまう。

お母さんもお父さんも22時には寝室へ行くことを知っているから、そっと二階から顔を出してリビングの電気が消えていることを確認する。

「そろそろつくよ」

彼の声を合図にそっと足音を立てずに階段を下りるが、年数の経過している木造一戸建ての家だから軋む音が響き渡る。
普段なら気にならないのに今日に限ってヒヤヒヤしながら一歩ずつ降りていく。
リビングに誰もいないことを確認して、玄関で靴を履きそっとドアを開けて家を出た。

「朝陽君っ…」

家を出るとすぐに朝陽君の姿があった。
彼の姿を目に捉えると彼の胸の中に飛び込んだ。いつの間に積極的になったのだろう。

「よかった…生きてる」
「大丈夫だよ。生きてるよ」

見上げると夜だからか、彼の体に纏うモヤはあまり気にならなかった。
彼に促されるように家を離れ近くの公園にいった。
街灯が少ないから、夜の公園は怖いというイメージしかないが今は微塵も恐怖心はなかった。それよりも彼がいなくなってしまうの方が恐怖だった。
ブランコに腰を下ろした。

「バレなかった?」
「大丈夫。お母さんもお父さんも寝てるみたい」
「よかった。もう少しだね」
「うん」

虫の音がやけに大きく聞こえた。空を見上げると真っ暗な空に星が輝いていた。

「夏の大三角形だ」
「本当だね」

二人で夜空を見上げ、蒸し暑いはずなのに今はそんなことはどうだってよくてただ彼との時間を大切にしたいと思った。

「どうして私に親切にしてくれたの?」
「ん?それは…―みずきに笑ってほしいからかな」
「ただのクラスメイトに?」
「好きな子だからだよ」
「でも会った時はそうじゃないよ。ただの友達だったし…」
「会った時からだよ。好きだった」

正面を見据え、はっきりそう言った彼に矛盾を感じるがそれ以上聞かなかった。
時間は少しずつ過ぎていく。
携帯の画面で時間を確認する頻度が多くなる。
もしも、16歳で彼が本当に亡くなるのならば、あと一時間弱しか時間は残されていない。

「私、もう死にたいなんて思わない」
「…みずき?」
「ずっと早くいなくなりたくて、ずっと溺れているみたいだった。誰かに助けを求めることも、自力で頑張ることも諦めて早く死んじゃいたかった。でも、やめる。何があっても生きる」
「うん、それがいい。俺が悲しいから」

ブランコを漕ぎながら空を見上げた。

「朝陽君のお陰でそう思うようになった。生きてみようと思う、未来のことなんかわからないけど今をちゃんと見る。今をしっかり見つめる。頑張ってみる。だから…お願い」

―置いていかないで

朝陽君の表情はみるみるうちに涙目になって堪えられなくなった彼はすっと涙を溢した。

「朝陽君…」

何も言わずに彼がブランコから立ち上がる。そして、私の正面に立つ。
ブランコに座ったままの私を見下ろした。

「好きだよ」
「…私も、好きだよ」

彼に引き寄せられて抱きしめられた。
どのくらいそうしていただろう、“置いていかないで“に彼は何も言わなかった。
その代わり、好きという二文字をくれた。
胸の鼓動が音を立て騒ぎだす。
セットしていたアラームが公園に響く。はっとして顔を上げる。

「あれ―…」
「日付、変わったみたいだ」

彼のはにかんだ笑みを見て私は崩れ落ちるようにしてブランコから落ちた。
嗚咽を漏らし、涙でぐちゃぐちゃの顔は彼が見たら引かれるかもしれない。それでも、よかったと安堵した。

「心配かけたね。ずっと眠れてなかったんじゃない?クマすごかったもん」
「うん…」
「今日はゆっくり寝て」
「うん…明日も会える?明日、この公園で待ち合わせしよう。午後13時はどう?」
「わかった」

日付か変わってから、ようやく私たちは自宅へ帰った。

暗くてよくわからなかったが、彼のモヤも消えているのだろう。しかし頭上の16という数字はまだ消えていない。つまり、これは死期ではなく、何か別の数字なのではないか。
そう考えるのがしっくりくる。
家の前で、朝陽君が手を振ってくれた。
「またね」
「うん、またね!」


よかった、よかった。彼は死んでいない。ずっとそばにいる。
家に帰るとすぐに気絶するように眠りについた。目を覚ましたのは12時前だった。
ベッドの上で目を覚ますと、瞼が異常に重くて顔を顰めた。
机の上の鏡で顔を確認すると想像以上に不細工になっていて苦笑した。
携帯を確認すると、朝陽君から今日の朝6時に連絡が入っていた。

―昨日はありがとう
それを見てすぐに返事をした。

―今日は13時ね!今お昼ご飯食べるからすぐに公園に行く

急いで準備をして、昼食を食べているとニュースで熱中症に注意とテレビ画面に映る天気お姉さんが言っているのを聞いて麦わら帽子を被って家を出た。
トートバックには、飲み物も入れて元気に家を出る。
昨日よりも日差しが強くて青空を見上げ目を細めた。早く彼に会いたくて、自然に歩くスピードが速まる。
公園に到着すると子供たちが元気に遊具で遊んでいる。
微笑ましく思いながらベンチに腰を下ろした。



彼を待っていた、ずっと待っていた。
でも、彼はこの日私の前に現れることはありませんでした。

♢♢♢

「どこ行くの、塾は?」
「休む、」

魂の抜けたような声でそう返すとスニーカーを履いて家を出る。
彼が亡くなって一週間がたった。
私はそれでも毎日公園に来ていた。


“約束”したのに、彼が来ない。

あの日、いくら待っても彼は現れることはなかった。
何度も電話したのに出ることもなくて、何通も送ったメッセージも既読になることはなかった。
彼はダンプカーにひかれてこの世を去った。
彼が亡くなった翌日、担任の先生から親に連絡があったようでそれを聞いた瞬間のことはあまり覚えていないがひどく取り乱してしまったようだ。

夕方まで公園のベンチに座って、日が沈みそうになったら帰るというのを繰り返していた。

まだ朝陽君が隣にいるような気がするのに、辺りを見渡すけどいない。
毎日声が枯れるほど泣いているのに、毎日涙が枯れるほど泣いているのに現実は変わらずに日々は過ぎていった。

「どうして、」

どうして彼は17歳で死んだのだろう。
運が悪かっただけなのだろうか。16という数字はやはり無関係だったのだろうか。
多くの疑問を残したまま、私は一歩も前へ進むことが出来なかった。
辛うじて彼の後を追わなかったのは、生きると約束してしまったからだ。

虚ろな目をしたまま家に帰ると、見知らぬ靴が玄関に丁寧に並べてあった。
来客かと思いそのまま二階へ行こうとするとリビングからお母さんが顔を出した。

「みずき!お客さん」
「お客?」

お母さんの背後から顔を出したのは、朝陽君のお母さんだった。

「みずきちゃん、どうも」

お母さんの目は真っ赤で、以前会った時よりもかなり痩せた印象を受けた。
その姿を見るだけで胸の奥が圧迫されるように痛む。
おどおどしながらリビングのソファに座る。
朝陽君のお母さんも私の正面に座りなおす。葬式にも行っていないのに、どうして私の家まで訪ねてきたのだろう。一度しか会っていない息子のクラスメイトに会いに来た理由がわからない。
朝陽君のお母さんは薄いピンク色のハンカチを握りしめたまま、口火を切った。

「朝陽と仲良くしてくれてありがとう」
「…いえ、こちらこそ…」
「これ、朝陽の部屋を掃除してたら出てきたの。あなたの名前が書かれてあるから渡した方がいいなって」
「え、」
「なんでこれを書いていたのかわからないけど、もしかしたら次に会うときに渡そうと思っていたの、かな、本当に…もう少しで誕生日だったのに…」

声を詰まらせて震える手で握りしめたハンカチで涙を拭っていた。
手渡されたのは、封筒だった。
ごくっと唾を呑んで、恐る恐るそれを手にした。


“みずきへ”

淡い水色の封筒に私の名前が丁寧に書かれていた。
堪えることが出来なくて、また涙が頬を濡らす。
見ると、それはちゃんと糊付けされていて彼の几帳面さが表れていた。

「よかったら、うちにお線香でもあげに来てね。朝陽はみずきちゃんのことが大好きだったみたいだから」

そう言って朝陽君のお母さんは立ち上がってリビングから去っていく。
封筒を握りしめたまま、瞑目する。お母さんは何も言わなかった。
私が朝陽君のことを好きだったことはおそらく今わかっただろう。でも、何も言わなかった。

二階へ行き、深呼吸をした。
ベッドの縁へ腰かけて糊付けされたそれをゆっくりはがす。

三枚にもわたる便箋を取り出し、私は読み始める。
綺麗な字だった。


みずきへ

まず、これを読んでいるときには俺は既にこの世にはいないと思う。

「えっ…―」

始まりの文章を読んで思わず声を出していた。
この世にいないことをわかっていた?そんなわけなどない。予知能力があったというのだろうか。
その瞬間、先ほどの朝陽君のお母さんの言葉が頭をよぎる。

『もう少しで誕生日だったのに』

あれは、彼の誕生日はまだ先だったことを意味している。
つまり、8月30日ではないということになる。どうして彼は嘘をついたのだろう。
そもそも私が彼に誕生日を初めて聞いたときはまだ、頭上に浮かぶ数字の話はしていない。
混乱する頭で必死に考えながら、私は手紙を読み進める。

“いきなりこんな話をしても、混乱させるだけだけどみずきに人の死期がわかる力があるように俺にもある能力があるんだ。”
背後から思いっきり何かで後頭部を殴られたような衝撃が襲う。

手が小刻みに震えだした。
視界にかかる靄が少しずつ鮮明になっていくように、絡まった糸が解けていくように、今までの違和感の謎が解けていく。

“それは、時間を戻せる力だよ。俺はみずきに二度、出会ってる。
信じられないでしょ?みずきは7月の下旬、バーベキューに誘った日に自殺しているんだ。正確に言うと、時間を巻き戻す前の俺とみずきは付き合ってなかったし、バーベキューもしていない。でも一緒に勉強したりする仲だった。「またね」って言った次の日、みずきは死ぬことを選んだ”

涙は止まっていた。
あまりにも衝撃的な内容に思考が追いついていかない。
彼は私と二度出会っている?そして時間を戻す前、私は自殺をしている。

“後悔していた。仲良くなっていたと思っていたし、何より俺はみずきのことが好きだったのに気持ちを伝えることもないまま、みずきを助けられなかった。
何度も何度も自分を責めたし、辛かった。だから時間を戻したんだ。でもそれには“寿命”を代償にする必要がある。一度時間を戻すごとに30年の寿命が削られる。一度目に出会ったみずきが最期、死ぬ前に俺に死期がわかることを伝えてくれていたんだよ。そして俺の頭上には46という数字が浮かんでいることも教えてくれた。だから悩んだけど、どうしてもみずきを救いたかった。そして、もう一度生きてほしかった、生きるという選択をしてほしかった。
これを知ったらみずきは絶望して自分を責めると思うんだ。今、これを読んでそう思ってない?でも違うことを知っていてほしい。俺が死ぬかもしれないと思った時救いたいと思ったでしょう?その方法を探したよね。同じだよ。それにね、俺は後悔してないよ。だって二度もみずきに出会うことが出来て、しかも二度目は両想いになれた。本当に幸せだったよ。もしあのまま時間を巻き戻す選択をしなかったら、後悔していたと思う。俺は、後悔しない選択をした。みずきはもう十分強くなったよ。大丈夫、何か辛いことがあったら、苦しいことがあったら、大丈夫って自分に言い聞かせてみて。それでもだめな時は、俺を思い出して。俺はずっとみずきの味方だよ。バーベキューも海も楽しかった。クッキーも凄く美味しかった。本当にありがとう。
それから、最後、書き忘れていた。俺の誕生日は8/31だよ。嘘ついてごめん。会うたびにクマがひどくなるみずきが心配で最後に嘘ついた。あと、公園も行けなくてごめん。謝ってばかりだね。でも、みずきはちゃんと自分の足で自分の人生を生きるんだ。
ありがとう。好きだよ。
朝陽”

こんなことを他の誰かに話しても信じないだろう。でも私は信じる。だってそうじゃないと今までの違和感の謎が解けないから。

「…っ…ぅ、」

ぐちゃぐちゃに顔を泣きはらしながらも必死に顔を上げた。
電車に飛び込もうとした日、彼に助けられてつれられた喫茶店は、引っ越してきたばかりの彼が詳しいのはおかしい。
それだけじゃない、まりちゃんが絵具を私の机の中にいれた事件も彼は何も言わずにまりちゃんの机をひっくり返した。あれだって、本当は彼女がやっていたことを知っていたから出来たのだろう。
私の心が読めるのだろうかと疑ってしまうほどに彼の言動は不思議だった。
チーズケーキが好きなことももしかしたら一度目の出会いで知ったのかもしれない。
そして7月下旬にどうしてもバーベキューがしたいといった普段の彼とは違う行動にも納得がいく。日付が変わるまで電話をしたのも、きっと…私が一度は死んでいたからだ。

せぐりあげて泣く私の視界は既に涙のせいで何も見えない。


朝陽君、私、ちゃんと生きるよ。
もう二度と死のうとしない。あなたがくれた命を粗末にしない。
頑張ってみるね。でももし辛くなったり苦しくなったら立ち止まって朝陽君のことを考えるよ。

瞼を閉じる。
瞼の裏側には彼の優しい笑顔と、
大丈夫、きっと、大丈夫
そういう彼の声が聞こえた気がした。


エピローグ


数年後
私はT大に無事合格し、大学生として学校へ通っている。
今年で20歳になる。
毎年、春が終わると胸が苦しくなる。
夏が来るとどうしても朝陽君を思い出してしまうから。
この痛みが取れるのはもう少し時間がかかってしまうのだろう。

「ただいま」
一人暮らしをしているから、久しぶりに実家に帰省した。
お父さんもお母さんも変わりなく過ごしている。

「まさか本当にT大に受かるなんてねぇ、自慢の娘だわ」
「ギリギリだったけどね。でも就職は自分のしたいことを考えて決める。一流の企業じゃなくても、いいでしょ?」

冷蔵庫を開けて、何か飲み物を探しながらソファに座る母親にそう言った。

「勝手にしなさい。あなたの人生なんだから」
「そうする」

お母さんは未だに学歴や就職先に拘る考え方を持っているようだけど、“勝手にしなさい”そう返したお母さんはどこか嬉しそうに見えた。

「あ、そうだ。みずきは彼氏いるの?」
「な、なに言ってるの!いないよ」

突然の異性関係の話に牛乳を注いだコップを落としそうになった。
慌てふためく私の様子を見ながら、はぁ吐息を吐くお母さんと目が合う。

「そういう年齢じゃない。隣の家の息子さん、もう結婚するんですって。早いような気もするけど来年孫も産まれるって」
「へぇ、そうなんだ。でもどうせ、彼氏ができても品定めするんでしょう」
「しませんよ」


朝陽君と出会ってから、私は変わった。
あれからお母さんにも物怖じせずに自分の意見を言えるようになった。
クラスメイトにも目を見て挨拶をするようになって、返ってくることも増えたし、いじめも完全になくなった。
大学生になってからは友達が出来た。勉強も頑張っているしアルバイトも始めた。自宅近くのカフェでアルバイトをしている。朝陽君に出会う前の自分ならば…接客業など絶対に選ばなかっただろう。
でも人と接することが苦手だった自分が少しでもそれを克服したくてあえてそれを選んだ。
思った以上にアルバイトは楽しい。それは日々変化している自身を実感しているからかもしれない。



「私、好きな人がいるから」
「え?そうなの。付き合ったら今度連れてきなさい」
「んー、それは無理かな」
「どうしてよ」
頬を緩ませて微笑んだ。
「それは、秘密」

小さく笑って私は遠くへ視線を移した。
これは私と彼だけが知る秘密、だ。
私と朝陽君だけが知っていたらそれでいい。それで、十分だから。

「人生は、選択肢の連続である」
「どうしたのよ、急に」
おせんべいを食べるお母さんは、呆れたように首を傾げる。
「私の好きな言葉なの。シェイクスピアの名言だよ。知ってた?」

そうなの、と興味なさそうに返事をするお母さんを見て目を細めた。


朝陽君のくれたすべてを大切にして生きるよ。
“そういう”選択をする。
もう少しで夏が来る。お母さんが暑くなるわねぇ、と漏らすのを聞きながら瞼を下ろす。
彼との時間は決して忘れない、彼が命を懸けてくれた時間を忘れない。

やっぱりまだあなたのことを思い出すと胸が苦しくて切なくて、泣きたくなります。
やっぱりまだ、夏が来るのを素直に喜べないのです。
それでも私は、前を向いて生きていく。







夢を見た。

『友達になろう』

そう声を掛けてくれる人が現れて、私に手を差し伸べる。
ぼやけて顔の細部は見えないがその人は笑っているようで私が頷くとその人も嬉しそうだった。差し出された手に自分のそれを重ねるとそれを強く握り返された。

大丈夫、そう聞こえた気がした。


桜の花びらが風に揺られてアスファルトの上に落ちていく。一生懸命に、その一瞬を生きた桜は、アスファルトにピンク色の絨毯を作り次の季節へバトンを渡していく。

転校初日、緊張しながらも駐輪場へ自転車を止めるために辺りを窺うように視線を巡らせる。
突然ふざけている男子たちが自転車にぶつかり、ドミノ倒しのようにそれらが崩れていく様を目の当たりにした。
「やべ、」と言って逃げるようにして去っていく彼らを見ながら10メートルほど倒れている自転車の列に近づく。
しかし俺より先に無言で自転車を立て直している女の子が目に留まった。

「あ、手伝うよ」

すぐに声をかけた。艶のある黒いセミロングの髪が春の風でなびいている。髪のせいで顔がよく見えない。
それでも、俺の声に反応することなくそれらを元に戻す彼女に近づいてもう一度声を掛けた。
リボンの色を見て同じ学年だと知ったからもしかしたら同じクラスになる子かもしれない。

「おはよう」

もう一度声を掛けると彼女はゆっくりと振り返った。
丸いぱっちりとした目を更に大きくさせて唇を半開きにして固まる彼女の反応に困った。
同い年だと思うが他の女の子よりも幼い印象を受けるのはきっちりと揃った前髪のせいなのかそれとも周りの子と違って一切の化粧もしていないからそう思うのかわからない。

「おはよう、手伝うよ」
「…っ」

別に彼女が倒したわけじゃないのに当たり前のようにそれを直そうとするのが素直にすごいと思った。
しかし、彼女の顔色は硬いままですぐに視線を逸らされてしまう。黙々とそれらを小さい体で起こしていく彼女に続くようにして俺も直した。

「同じ学年だよね。俺今日から転校してきた波多野、よろしく」
「…よろしく」

何かに怯えるようにおどおどしながらも言葉を返してくれてほっとした。ようやくそれらを終えて縮こまった背中を伸ばすように背伸びをした。

「一緒に昇降口まで行こうよ」
「…いいです。一人で行けるので」
「どうして?」

口数の少ない彼女は俺と目を合わせない。
壁を作っているという言葉をこんなにも体現している人を初めて見た。
先に背を向け歩く彼女に声を掛けた。その瞬間、大きく風が吹いて桜の花びらが視界を遮った。

風が一瞬だけ、止まった。急に開けた視界に彼女がいた。
「なに…?」
聞こえなかったのか、怯えるような目で俺を見据えながらそう訊く。
もう一度言った。
「友達になろうよ」
すると彼女は一瞬嬉しそうに口元を緩めたがすぐにそれは横一文字に結ばれた。
その顔を見たとき、どうしてか胸のずっと奥底がズキズキと痛みだした。
嬉しいはずの顔がすぐに曇っていくのを目の当たりにしたから、だろうか。


これが、最初の出会いだった。

転校初日、5組に入ってすぐに気がついた。
みずきと同じクラスだと知って嬉しかった。あんな風に誰も見ていないとわかっていても誰に知られることなく、人のために何かできる人を尊敬する。
彼女を観察していると誰からも気づかれていないのに、誰かが倒したゴミ箱を直したり学校の庭の花に水を与えたり、そういった小さいけど誰かのためにそれを当たり前のようにできる人物だと知った。


それなのに彼女は人と関わらないようにしているようだった。
せっかく席も隣になったのに、挨拶くらいしか返ってこない。それどころかいつもみずきはボーっとして虚ろな目で窓の外を見ていた。
その理由は転校して一週間で気づいた。
彼女はいじめにあっているようだった。それに気づいてから、俺はさらに彼女にかかわるようになった。
最初こそそれに抵抗感を示していた彼女だが、徐々に笑顔を見せてくれるようになる。
今思えば初めて会った時から気になっていて、彼女を知ればしるほど惹かれていたのかもしれない。

笑顔を見るともっと見せてほしいと思ったし、泣きそうな顔を見るとどうにかして泣き止んでほしいと思う。これが恋だということに気づくのは意外にも早かった。


みずきは色々なことを俺に話してくれた。
親と上手くいっていないこと、学校ではずっといじめられていること、何度か自殺未遂をしたがいつも未遂で終わってしまうこと。
少しでも彼女に生きやすい環境を作りたくて、俺なりに頑張ったつもりだった。
しかしそれは“自己満足”でしかなかったのかもしれない。
頑張って笑顔を作るみずきを更に追い込んでしまっていたのかもしれない。

7月下旬、ちょうど”熱中症に警戒”とテレビニュースで報じられたほど気温が高く、日差しも強い日だった。

また好きなケーキを食べに喫茶店に行こうと約束をした翌日
『またね』
そう言ったのに、彼女は自殺をした。徐々に元気になっていたと思っていた。
思っていたのに、彼女は死を選んだ。
彼女がこの世からいなくなった後、まだいじめは続いていたこと、それからこれはあくまでも憶測でしかないが三者面談も上手くいってなかった様子だったから家庭の問題も解決していなかったのだと思う。
それでも俺を心配させないように笑っていたみずきのことを思いだすと、自分の不甲斐なさに怒りがこみ上げ、そして絶望した。

想いを伝えることもないまま、みずきを失った。みずきはどんな思いでこの世を去ったのだろう。
どうしても彼女を救いたかった。もう一度会いたかった。もう一度、やり直したかった。

彼女は死ぬ直前、俺にある秘密を打ち明けてくれた。
それは人の死期が数字でわかるというものだった。
俺に最後に『体には気を付けてね。朝陽君は…46って見えるんだ。だから体には気を付けてほしい』と悲しそうに伝えた。
つまり、俺は46歳で亡くなるということだ。
それを知っているからこそ、“巻き戻す”ことを一瞬躊躇した。
それでも、俺は…―
君にもう一度逢いたい。
だから、やり直す選択をする。


♢♢♢

俺自身に時間を戻せる力があるのではないかと思ったのは、母親が車で事故を起こし意識不明の重体に陥った時だった。
当時、俺は小学生だった。
父親が亡くなったばかりで寝る間も惜しんで働く母親は、ある日過労により運転中に居眠りをしてしまい事故を起こして意識不明の重体になる。天候も悪く、一日中雨が降っていた。
そのとき、強く、今までにないほど強く時間を戻してほしいと願った。声に出して、何度も叫んだ。

すると、急に事故を起こす前日に時間が戻っていた。
当時は混乱したし一体どうなっているのかわからなかった。それでも母親が事故を起こすことを知っていたからどうにかしてその日、家から出ないでもらって睡眠時間を取ってほしいと懇願した。
母親が事故を起こす予定だった日は何事もなく過ぎ去り、俺の強い希望により仕事を減らしてもらった。幸いにも父親が巨額の保険を掛けていたおかげで俺が成人するまでのお金については問題はないようだった。
俺が時間を戻せたことを話してももちろん信じてくれる人はいなかった。
徐々に記憶が薄れていき、輪郭を失うとおれは予知夢みたいなものを見ていたのではないかと思うようになった。



そんなある日、荷物を整理していると父親の日記のようなものが見つかった。
埃が被ってあって俺が触れるとそこだけ色を変えた。
真っ黒い10センチほどの厚みのあるそれは他愛のない日常が書かれた日記で、俺が小学生の頃に亡くなった父親のことが自然に脳裏に浮かび目頭が熱くなる。
と、あるページに封筒のようなものが挟まっているのが見つかる。
人の手紙を読むのは気が引けるが(日記もそうだが)気になった俺は黄ばんだしわくちゃの封筒を覗く。
そこには一枚の便箋が入っていた。

一行目には
時間の戻し方
と書かれてある。
眉間に皺を寄せて、訝し気に読み進める。
父親は何か小説でも書いていたのか、そう思った。しかし読み進めるとその予想が違うことに気づく。



”時間の戻し方
時を戻したいとき、
1 強く心で3回願う。それは本気で願わないと戻らない。
2 心で3回願った後に、言葉に出してそれを発する。これもまた、3回
3 時間帯はいつでもいいがこれらは雨の日でないといけない
4 これらは戻したい事象が起こってから一週間以内にしなければ時を戻せない
ただし副作用がある
一回戻す毎に30年の寿命が失われる。波多野家の長男だけがその能力を手にすることが出来る。他言は禁止(波多野家の長男にだけは可)他言した場合、時を戻す能力は消える”


「え…」
ひんやりと冷たいものが背中を流れていく。
俄かには信じがたいが、パズルのピースが合わさっていくように疑問が解けていく。

父親は俺と同じ能力があったのではないか。
もしかしたら祖父もあったのかもしれない。父親は誕生日の前日に亡くなった。確か祖父も同じだ。
父親が高額の保険を残していたのも納得がいく。
誰かのために、寿命をつかって時間を巻き戻したのではないか。

それだって明確な証拠があるわけではない。
だけど、もうそうとしか考えられない。

「だとすると、」

もう30年分の寿命を使ってしまっていることになる。
だけど後悔しているかと問われればそんなことはなかった。母親が意識不明の重体になって二度と会えなくなるかもしれない。
俺の能力は、誰かを助けることが出来た。
大切な人を、失いたくない人を。



みずきが死んでから、すぐに時間を戻した。
ちょうど翌日に、梅雨が明けたばかりなのに大雨が降った。まるで俺の心情を表わしているようだと思った。

古い紙に書かれていたことを行ったら本当に転校の前日に戻っていた。やはりあの紙に書かれていたことは本当だった。
自転車通学だったが、みずきが電車で通学しているから二度目は電車通学にした。

ただ、俺自身の行動が一度目と異なったからなのかやり直す前と比べると若干日々に違いがあった。

例えば電車通学の際、みずきが電車に飛び込もうとしたのを見た。すぐに彼女の腕を引いて阻止したが1度目はそもそも俺は助けていない。
これは推測だが、俺らの近くにいたサラリーマンが酷く怒った様子で声を掛けてきた。
もしかしたら、1度目はその人に助けられていたのかもしれない。


必ずしも一度目とは同じ展開を巡るとは限らないようだ。だから慎重に二度もみずきを失わないように行動しなけばいけない。
そう思うと少しだけ胸が苦しくなるが、それよりもまたみずきに会えることの喜びの方が大きかった。




また、会える。
もう一度出会えたら…―俺は君になんて言おうか。

…―…


転校初日の朝、先生の後に続き教卓前に立つ。
挨拶をする前にみずきと目が合った。すぐに逸らされたがそれを見た瞬間涙が出そうになった。
俺自身の行動がやり直す前と違うからか、所々一度目とは違う。一度目も席は同じだったが二度目はどうだろうか。心配になったが、ちゃんと隣の席だった。

「おはよう」
何かに怯えるように下を向く彼女に声を掛けた。一瞬反応したように思えたが一向に俺の方を見てくれる気配はなかった。

「聞こえてる?おはよ」
「…」
もう一度声を掛けた。
みずきが顔を上げる。
驚いたように目を見開き、固まる。
あの時と、同じ顔をしていた。
「おは、よう…」
かすれた声だったけど、それが俺の鼓膜を揺らしたとき、あぁよかったとそう思ったんだ。
後悔など微塵もしていない。

だって、俺は…―もう一度、君に会えたから。
不安そうな瞳が揺れながらも俺を映したとき、心の底からそう思った。







END

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