蘭帝国の後宮に、橙家のふたりの姫君が住まう宮、西橙宮があった。

 宮の中は、金や銀を惜しげもなく使った調度品が並び、赤のぼんぼりから漏れる光が、宮の中を暖かく照らし出す。

 瑠璃や琥珀の玉をちりばめられた柱には、橙家の家紋である菊の紋様が彫り込まれている。窓に張られた仕切りは、羽根のように軽い絹の紗で仕立てられていた。

 この紗ひとつで、蘭帝国の平民が一年働かなくても十分生きていける値段がするだろう。

 この豪華絢爛な西橙宮の中心に、天女と見まがう美女がいた。

 銀糸で花の文様を所狭しと刺繍された薄桃色の襦裙を着たその者の名は雀玲。橙家の一の姫であり、皇帝の妃のひとり。

 紫がかった美しい黒髪は艶やか。切れ長の目には珊瑚のように美しい紅色の瞳をたたえ、年の頃は十九歳ほど。後宮の中ではさほど若い部類ではないが、甘やかされた少女特有の愛らしさに輝いている。

 そして肘置き付きの椅子にけだるそうに腰かける雀玲の隣では、彼女の妹である煉花が爪の手入れをしていた。煉花自身のものではなく、姉である雀玲の爪だ。

 煉花の爪や指は荒れ果てているのに、己のことなど気にならないとばかりに椿油で姉の爪を磨き続けている。

 齢は雀玲の二つ下ではあるが、疲れ切ったような空色の瞳に生気はなく、若々しさは感じられない。

 服装にしても、染みや汚れで薄汚れた鶯色の襦裙で、雀玲とは比べられないほどの襤褸だ。後宮に使える宮女の方がよっぽどましな恰好をしているかもしれない。

 名門橙家の娘であり、皇帝の妃のひとりであるにもかかわらず、煉花は雀玲の召使のようだった。

 その歪な姉妹に仕える西橙宮の宮女たちは、最初こそ煉花に気を遣っていたのだが、妹が姉に傅くのが当たり前という姉妹の様子に、いつしか慣れてしまった。

 ついには宮女らも煉花を侮り、仕事を押しつけている。

 それでも煉花は文句を言わない。

 姉に尽くすことが、彼女の義務なのだ。少なくとも煉花はそう思っている。

「煉花ちゃん」
 甘ったるい姉の声に反応して、爪を磨いていた煉花は顔を上げる。

 雀玲の真っ赤な紅を引いた唇が弧を描いていた。

 生まれた時からずっと比べられてきた天女のような美しい顔を前にして、煉花は小さく震える。

 姉の雀玲の顔は確かに笑ってはいる。だがこれは機嫌が悪い時の笑みだと、いつも姉の顔色をうかがって生きてきた煉花にはすぐにわかった。

 どうして機嫌が悪いのだろうと、ただそれだけを考えて硬直していた煉花の髪に雀玲が触れる。そして、そこからなにかを引き抜いた。

 煉花の艶のない黒髪がぱさりと下りた。

「これ、なあに?」
 甘ったるい声でそう言った雀玲の手には、翡翠の髪飾りがある。

 先ほどまで煉花が髪をまとめるのに使っていたもので、先日翡翠宮の妃、緑妃からいただいた品だった。

「そ、その、これは、今度龍神様の花嫁選びのための似顔絵を描かれるから、少しでも身なりを整えた方がいいと、緑妃様がお貸しくださったもので……」
「だめよ。こんなの煉花ちゃんには似合わない。きっと嫌がらせだわ。わざと似合わないものを渡して、あなたに恥をかかせようとしたのよ。だからこれは私が預かるわね」
「けれど……」
「煉花ちゃん。私の言うことが信じられないの? これはあなたを陥れるためのものよ」
 煉花が何事かを言う前に、雀玲が遮る。これ以上はなにも言わせないとその目が語っていた

 髪飾りをくれた時の緑妃の顔が浮かぶ。

『また雀玲妃の衣を繕っているの? 人の衣のことなんか気にしてる場合じゃないでしょう? 龍神の花嫁に選ばれないように綺麗にしなくちゃ』

 同時期に後宮に入った緑妃が、姉の衣に刺繍を施していた煉花にそう声をかけてくれた。

『龍神の花嫁に選ばれたら大変よ。公主様たちが皆逃げ出す恐ろしさなんだから』

 久しぶりに人に話しかけられて固まっていた煉花に、緑妃はそう言葉を続ける。

 蓬莱山に住まう龍神に、人族から花嫁を出すのは古よりの決まり事で、本来、強い神通力を持つ皇家の血筋の者が選ばれる。

 だが、蓬莱山に向かった公主のことごとくが恐ろしい龍神を前にして逃げ帰ってきてしまった。

 逃げた公主たちの話では、龍神は人とは異なる醜い姿の持ち主で、大きく裂けた口には鋭い牙が並び、硬い鱗に覆われた体躯は大蛇のようだとか。

 しかし、龍神に花嫁を捧げねば、国に雨が降らなくなる。仕方なく皇帝は、今度は自分の妃の中から花嫁を選ぶことにした。

 だが好色な皇帝は、自分の妃を素直に捧げることを惜しく思い、妃の中で一番醜い者を送り込もうと考えた。

 そのため現在後宮では、一番醜い妃を選ぶため、千人以上いる妃たちの似顔絵を絵師に描かせている。

 後宮にいる妃たちは、龍神の花嫁に選ばれないようにこぞって自らをめかし込み、絵師に賄賂を贈って美しく描かせようと躍起になっていた。

 ――ただひとり、煉花を除いて。

 なにせ煉花はめかし込もうにも、化粧道具も髪飾りも美しい衣もなにひとつ持っていない。煉花と雀玲の両親は、溺愛する雀玲にだけ支援し、煉花にはなにも与えられなかったのだ。

 煉花が持ってこれたのは、衣がすれて薄くなった地味な色の襦裙と、小さい頃に姉からもらった赤い珊瑚の耳飾りだけ。

『そうやっていつも雀玲妃の世話ばかりで、自分のことを後回しにしてるでしょ? 少しは着飾らないと。あなただって私や雀玲妃と同じで皇帝の妃のひとりなのだから。よかったら、これ使って』

 着飾るためのものを持ってないと言った煉花に、緑妃は翡翠の髪飾りを手渡した。

 こんな素晴らしいものは受け取れないと、押し返そうとする煉花の手にしっかりと髪飾りを握らせて緑妃は微笑む。

『使って。あなた、なんだか放っておけないのよね』

 緑妃のその言葉が、その笑みが、煉花には嘘だとは思えない。思えないが、姉はそれが嘘だと言う。陥れるためのものだと。

 姉が言うのなら、それが正しいのかもしれない。姉はいつも正しい。父も母もそう言っていた。姉はいつも正しく、煉花はいつも正しくない。

 しかし……。

「ですが、緑妃の気遣いを無駄にするのも……」
 と、つい口にした煉花がふと姉の顔を見て口を噤んだ。

 姉の顔から笑顔が消えていた。

「私の言うことが聞けないの?」
「あ、そうでは、そうではなくて……」
「黙って! ああ、悲しいわ。煉花のためを思って言ってるのに、わかってくれないなんて! 煉花のことをいつも一番思ってるのは誰? この私でしょう? 父上も母上もあなたが生まれた時、喜ばなかったけれど、私は違ったわ。そうでしょう?」
 姉がまくし立てるようにして続けた。

 煉花はほとんど泣きそうになっていた。

 姉に嫌われたくない。煉花のことを家族だと言ってくれるのは、姉だけなのだから。

 そう、煉花の不幸は、生まれる前に決まっていた。

 煉花が母親の腹の中にいた時、未来視の固有道術を持つ有名な易者が『この腹の子は、龍と並び立つ者である』と占った。

 すでに女児を儲けて、次は跡継ぎである男児が欲しかった両親は、その占いを聞いて歓喜した。強い跡取りとなる男児が生まれると思ったからだ。

 しかし実際に生まれてきた子供は女児―――煉花だった。

 家族は失望した。そしてその失望のはけ口を生まれたばかりの煉花に向けた。

 しかも、煉花が十歳になって神通力がまともに使えないとわかると、両親はさらに煉花を厭った。

 煉花の生まれた家、橙家は、男子ならば帝国の中枢を担い、女子ならば皇帝の妃として後宮にあがる有数の名家だ。

 古より続く名家では、強い神通力を持って生まれてくる者が多い。その超常の力で国を治める皇帝を助けているからだ。神通力の強さこそが、名家の証と言ってもいい。

 それなのに、煉花には神通力がない。

 煉花に神通力がないとわかり、両親は煉花を疎んじ遠ざけたが、姉の雀玲だけは違った。

 そばにいることを許してくれた。時折話しかけてくれることもあった。

 それになにより、雀玲は姉妹の証をくれたのだ。

「私がおそろいの耳飾りをつけてるのだって、あなたを思ってるからでしょう!?」
 雀玲は金切り声をあげるとともに髪をかき上げて右耳の髪飾りを煉花に見せた。

 血のように赤い珊瑚をあしらった耳飾りが妖しく光る。これと同じ耳飾りが煉花の左耳にもついている。

 煉花が三歳の時に、姉が初めてくれたもの。

 今まで家族になにかを与えられた記憶のなかった煉花は、姉とおそろいの耳飾りをもらえたことが嬉しかった。

 どんなに両親に冷たくされても、姉だけは煉花のことを家族だと思ってくれる証のように感じられた。

「ご、ごめんなさい、お姉様! 私、本当にお姉様の言うことを信じていないわけじゃなくて……」
 姉にまで嫌われたら、煉花を愛してくれる家族はこの世界に誰もいなくなってしまう。

 煉花は恐怖に震える手で姉にしがみついた。

 その憐れな様が姉の心をなだめたのか、雀玲はひと息置いてから、目を眇めて煉花を見下ろした。

「わかったわ。煉花ちゃん、そんなにこの髪飾りをつけたければつければいいわ。でも後できっと後悔するからね」
「お姉様、ごめんなさい。お姉様がそう言うなら、これは緑妃にお返しするから」
「いいえ、つけてなさい。私の言うことが正しいって身をもってわかった方がいいみたいだから」
 雀玲はそう言って冷たく微笑んだ。

 翡翠の髪飾りをくれた緑妃の、ほっと心が温かくなるような笑みとはまるで違う種類のものに見えた。



 淡い水色の生地に薄桃色の花々を刺繍した大層立派な襦裙に身を包み、煉花は冷たい床に額ずいていた。

 頭を垂れる先には、立派な美髯を蓄えた、目を見張るほどの美男子が堂々たる様にて玉座に腰かけていた。

 齢三十を過ぎてますます活力にあふれ、髪も髭も黒々と輝いている。少し日に焼けた肌と力のある黒い眼差しは野性的な魅力にあふれていた。

自信に満ちた笑みを浮かべ、煉花を睥睨するのは、蘭帝国の皇帝、その人だった。

「しかし、妃全員の姿絵を描かせたのは、よい案であったな。おかげで私は運命の妃に出会えた」
 玉座に座る皇帝から満足そうな声が響く。

 溌剌とした、自信にあふれた若い男の声。

 皇帝を前にして、顔に絹紗をつけて平伏す煉花は、なにも答えずただただ額づく。

 すると、皇帝のすぐ近くで、甘い花のような声が聞こえてきた。

「ふふふ、陛下ったら。姿絵を描かせたのは、運命のお相手を見つけるためではなかったはずでしょう?」
 皇帝の隣に座っていた女はそう言って、そっと皇帝の手に自分の手を重ねる。

 皇帝はにやりと笑ってその手を握り返した。

「ああ、そうだったな。龍神の花嫁選びのためだった。しかし、このような美女が後宮にいると知ったことは、誠に僥倖である」
 さらに笑みを深めて隣の妃――雀玲の顔を見やる。

 陛下に見つめられて、雀玲は白い頬をさっと赤らめた。

 可憐な花がパッと花開くような清廉な美しさに、皇帝は満足そうに頷く。

 蘭帝国の後宮には千人に上る妃がいる。中には、皇帝のお目通りも叶わず一生を終える妃もいるほどだ。

 雀玲も煉花も名門の家の出ではあるが、どんな名門の姫でも、皇帝に会うことなく終わる妃もいる。

 しかし、雀玲は幸いにも皇帝の目に留まることができた。きっかけは龍神の花嫁選びのために描かせた姿絵だ。

他の妃達が龍神の花嫁に選ばれないようにとだけを考える中、雀玲は皇帝の目に留まることだけを目的にして姿絵を描かせていた。

故に納得するまで絵師に賄賂を贈り、何度も何度も姿絵を描かせたのだ。

 そのかいあって、雀玲の類まれな美貌を余さず描いた姿絵が、皇帝の心を射止めた。

 そして煉花は……。

「しかし、そなたの妹を本当に龍神の花嫁として送ってもよいのか? そなたが言うなら別の者に替えてもいいのだが……」
 皇帝は、額ずく煉花をちらりと見下ろしてそう言った。

 自分の話になったことで煉花はびくりと肩を震わせる。

「仕方ありません。だって、特別な道術を使った選定で、妹が指名されたのでしょう? それを私の我儘で替えることなんて、できませんわ」
 雀玲は悲しそうに小さく首を横に振る。

「う、うむ。まあ、そうだな……」
 と皇帝は気まずそうに答えた。

 実際は、絵師が描いた姿絵をもとに、妃の美醜で龍神の花嫁を選んだのだが、表向きは道術によって選んだことにされている。

 本当の事情は後宮にいる誰もが知っているはずなのだが、雀玲はなにも知らないふりをして微笑んでいた。

 ふたりの会話を聞きながら、煉花はただただ恐怖で震えそうな体をどうにか抑えながら、黙って額ずき続けていた。

 龍神の花嫁として嫁ぐこと自体も恐ろしいが、それ以上に恐ろしいのは雀玲がいまだに翡翠の髪飾りの件で怒っていること。煉花を龍神の花嫁として送るのを止めないのも、自分への罰なのだと、煉花は理解していた。

 どうすれば許してもらえるのだろうか。どうすれば。

 姉にまで嫌われたら、自分はなんのために、誰のために生きているのだろうか。

 それだけが煉花の頭の中をぐるぐると駆け巡る。

「それに、天候を操る龍神様に花嫁を捧げることは古よりの約束事。それが果たされなければ、蘭帝国に恵みの雨が降らなくなってしまいます。出来の悪い妹が国のためにお役に立てるのですもの。誇らしいことですわ」
「そうか、そうだな」
 皇帝は雀玲の言葉に何度も頷いた。そして、改めて煉花を見やる。

「そなた、確か煉花だったか。顔を上げよ」
 皇帝に声に応えて煉花は顔を上げる。目から下に絹紗がかけられているため、煉花の顔は皇帝には見えない。

「紗をとらせましょうか」
 皇帝の側仕えがそう声をかけた。

 皇帝は少し悩むようにして煉花を見た後、懐から四つ折りの紙を一枚取り出して広げた。

 薄い紙故に、そこに描かれたものが明かりに透けて煉花にも見えた。

 翡翠の髪飾りをした女性の姿絵だ。口は化け物のように裂け、鼻は歪に曲がっている。お世辞にも美しいとは言えない容姿の絵。

「いや、顔はわかっている。姿絵を描かせたからな。わざわざここでその顔をさらすのも……」
 思案げにつぶやく皇帝の言葉に、煉花はわずかに目を見開いた。

 皇帝は勘違いをしている。皇帝が持っている姿絵の女性と煉花は違う。

「あの、その姿絵は……」
「煉花ちゃん、陛下の許可なく話しかけるなんて、いけないわ」
 煉花の言葉を遮るように、雀玲が言った。戸惑う煉花は、ハッとして口を噤む。

 そして雀玲は甘えるように皇帝にしなだれかかった。

「陛下、ここで妹の顔を見れば、寂しい思いが増して別れがたくなります。ここはどうか、そのまま」
 雀玲が肩を震わせれば、皇帝はいつくしむようにして雀玲の肩を抱いた。

「そうだな。誠にそなたは身も心も美しい。そのようにしよう」
 皇帝はそう言うと、再び視線を煉花に走らせた。

「橙煉花。そちに龍神様の花嫁という大役を命ずる。急ぎ蓬莱山へと向かい、国のためしかと勤めよ」
 皇帝にそう命じられた煉花は、はくはくと微かに唇を動かしたが声は出なかった。

 救いを求めてちらりと皇帝の隣にいる姉を見た。

 家に居場所がなく、姉と一緒に後宮に入りたいと願った煉花のために、親に口添えをしてくれたのは姉だった。

煉花が本当に困っている時には、姉が必ず助けてくれるのだ。

 今からでも助けてくれるかもしれない。遠くに行かないでと言ってくれるかもしれない。ここまでのことは冗談なのだと言ってくれるかもしれない。

 そう願って。

 煉花の視線に気づいた雀玲は微笑んだ。そして道術を使って、煉花に直接声を送った。

『ほら、私の言った通りだったでしょう。あの髪飾りをつけたからこんなことになったのよ。私を信じなかったあなたが悪いのよ』

 姉の言葉に、煉花の希望はついに消えうせた。

 雀玲は、まだ怒っている。許してくれる気がないのだと煉花はわかった。

 あの髪飾りは、姉の言うように緑妃の罠だったのだろうか。

 わからない。わからないが、あの時の緑妃の笑顔が偽りだとしたら、人というのはなんと恐ろしい生き物なのだろうか。

 いや、人が恐ろしい存在だということを煉花は身に染みてわかっていたはずなのに、それでも人の温もりを求めてしまう己の愚かさが恐ろしい。

 どんなに煉花が求めても、人は、誰も煉花のことなど求めないというのに。

「……はい、承りました」
 すべてを悟った煉花はそう言って、改めて皇帝と雀玲に額ずいた。

 龍神の花嫁になれば、国に雨が降る。

 誰にも求められない己でも、誰かの役に立てるのなら、それはそれでよいことかもしれない。



 ◆



 広大な渤海に浮かぶ五神仙山のひとつ、蓬莱山。

 人々が畏れ敬う龍神が住まう神域だ。

 人族の国からは蓬莱山が遠くにあり見えぬため、お伽噺や作り話だと思う者もいるが、確かに存在する。

 だが人の住処と神の住処を区別するかのように、蘭帝国と蓬莱山の距離は遠く、船を使って三日以上はかかる。

 加えて蓬莱山を囲む渤海の潮は、神山への立ち入りを拒否するかのように流れるため、蘭帝国からの特別な船を使わない限りたどり着けない特別な場所だ。

 そして特別な神山の奥地には、切り立った岩壁があった。その岩の隙間からはさらさらと糸を引くように水が流れ落ちて造られる巨大な滝つぼが広がっている。

 滝つぼは雲のように白くふわふわとしていて柔らかく、滝の音はその柔らかさに包まれてゆく故に静か。

 そしてその不思議な岩壁に沿うようにして、大きな木造りの屋敷が構えられていた。

 屋敷の土台、朱塗りの柱の一部が滝つぼの中にあるが、湿気で傷むこともなく堅牢で、二段構えの軒反りの屋根が実に優美である。

 ここは蓬莱山を治める龍神、青嵐の住まいだ。

 本来の龍の姿が大きすぎるため、彼は常日頃より人型を成している。

 人型の彼は、誰もが目を見張るような美丈夫で、鋭い金色の瞳を持っていた。

 そして青嵐は、屋敷の外廊下で白い滝つぼを見下ろす。霧のような水のしぶきが青嵐の銀色の長い髪を濡らした。

 さらさらと優しく流れる水の音が心地よい。

 しばらく滝の音に耳を傾けていた青嵐だったが、騒がしい音を聞きつけて顔を上げた。

 どたどたと外廊下を駆ける音が、ふたつ。

「青嵐様ー! 青嵐様ー! 蘭帝国から花嫁がまいりましたぞ!」
「まいりましたぞ!」
 三歳ほどの人間の男児の見目をした者がふたり。白い髪に赤い目、まったく同じ顔をした彼らは、青嵐の身の回りの世話をする眷属で、蓬莱山に住まう白蛇の化身だ。

 前髪を左に寄せている方が左白、右に寄せている方が右白と言う。

 白蛇の化身たるふたりはそわそわと楽しそうに笑みを浮かべてやってきた。

「お迎えに行きましょうぞ」
「しょうぞ!」
 左白と右白は楽しそうに手をつないで、くるくるその場で回って嬉しさを表現した。

 それを見やって青嵐は顔をしかめる。

「また来たのか。まったく懲りないやつらだ」
 花嫁だと言って人族の女がやってきては青嵐の姿を見て逃げ出していく、という一連の流れが、数か月前から三日おきの頻度で繰り返されている。

 逃げ出した女の数をいちいち数えてはいないが、その数、十、二十では済まない。

 吐き捨てるように言う己の主人の言葉に、ふたりの化身はぴたりと踊りをやめて仰ぎ見た。

「青嵐様! まさかまた花嫁を追い返す気で!?」
「追い返す気で!?」
「当たり前だ。私に花嫁は不要」
 青嵐がそう切り捨てると、左白も右白もあわあわと口を開いた。

「いけませんいけません青嵐様! お世継ぎができませぬ!」
「お世継ぎができませぬ!」
「世継ぎなど、まだ……いらぬ」
「そんな! 龍神様の血はすべからく後世に残すべし! 龍神様のお力が失われたら、恵みの雨が降らなくなってしまいます! そうなれば生きとし生けるものすべてが死に絶えてしまいますぞ」
「絶えてしまいますぞ!」
 蛇の化身の必死の訴えに、龍神はむすっと少しばかり唇を尖らせた。

 蓬莱山の龍神の務めは、天を治めること。

 天とはつまり、天候。雨や雲や風、雷などを支配し、生物に繁栄をもたらすことだった。

「……天については、私が万でも千でも生きて治めればよいことだ」
「それは無理というものです! 体は平気でも、魂はすり減りまする! 先代様も長年、天を治められましたがやはり魂が摩耗し、今は奥の国で眠りについてしまわれましたのですぞ!」
「しまわれたのですぞ!」
 青嵐の先代の龍神、つまり青嵐の父親は、数年前に龍神の任を青嵐に譲り、奥の国と呼ばれる蓬莱山の頂上の向こう側へと還っていった。

 奥の国とは、この世にある場所ではない。

 一度行ってしまえば、龍神といえどもそう簡単に戻ることはできない遠い国だ。 神である龍神は不死の存在ではあるが、力の酷使、配偶者の死、さまざまな要因で魂は疲弊する。疲弊した魂を癒すために、奥の国で安らかな眠りにつくのだ。

「父上の御魂が摩耗したのは天を治める務めのためではない。あの女のせいだ……」
 青嵐は苦々しくそう答える。金色の瞳に、微かに憎しみの色が混じっていく。

 それを見て左白も右白も、しゅんと眉尻を下げた。

「青嵐様……。先代の奥様のことは、もうお忘れくだされませ……」
「お忘れくだされませ……」
 忘れられるわけがないと、青嵐は心の中で憎々しげに愚痴る。

〝先代の奥様〟というのは、つまり青嵐の母親のことだ。

 己の母親のことを〝あの女〟と言う青嵐の憎しみは、時を経てもいまだに消えることはない。

 青嵐の母は、蘭帝国の公主だった。

 人族の公主として育てられた青嵐の母親は気位が高く、自然に囲まれた蓬莱山での暮らしにもなかなか慣れずに不平不満ばかりを口にするような有様だった。

 気の優しい青嵐の父は、我儘ばかりの妻の心をどうにかなだめ、ともに過ごしてきたが、青嵐が生まれてしばらくするととうとう妻は出ていってしまった。

 理由は至極単純で、自分が産んだ子が気持ち悪いからだという。

 生まれてきた青嵐の頭には龍の角が生えていた。それが気持ち悪いと、まず育児を放棄し父親にすべて投げた。

 だがともに暮らせばどうしても青嵐のことが目に入ってしまう。異形の角はどんどん大きくなり、醜くなるばかりで気が滅入る。

 そして青嵐が五歳になり、本来の龍の姿に変ずることができるようになると、もうだめだった。

『なんと醜い! お前が私の腹から生まれたと思うだけで死にたくなる!! もう二度と私の前に現れるでない!』

 龍に変じた青嵐を前に、母はそう言って家族を捨て、蓬莱山から去っていった。

 どうやって渤海を渡ったのかわからないが、蘭帝国の公主である青嵐の母親は強い神通力を持っており、宙歩という固有道術で空中を歩くことができた。

 神通力を持つ者の中には、固有道術という特別な力を扱える者がいる。

 修行で身につける通常の道術とは違い、生まれながらに持った特別な力だ。青嵐の母親はその道術をもって、蘭帝国へと戻ったのだろう。

 そうして青嵐と父親は捨てられ、蓬莱山に残された。

 青嵐の父親は、母を追いかけはしなかったが、責めもしなかった。ただ、父は妻に出ていかれてからふさぎ込みがちになり、青嵐が天を治める力を得たとわかるとすぐに奥の国に還ってしまった。

 それから青嵐は、自分の眷属である左白と右白と三人だけで暮らしている。

 母を、人を憎みながら。

 青嵐は、人族の女を信用していない。人を妻に娶りたいとも思わない。

 蘭帝国から花嫁が送られてくるたびに思い出すのは、母との苦い記憶と父の寂しそうな背中だ。

「……私は絶対に、人の女を妻にはしない」
 青嵐が小さくそうつぶやくと、頭の上に生えた二本の鹿のような角がすらりと伸びた。

 螺鈿細工のような白濁した輝きを放つ角を青嵐はさらりと撫でる。

 母が気持ち悪いと疎んだ角は、霧に濡れてひんやりと湿っていた。



 ◆



 花嫁が来たと青嵐が知らされた頃、煉花は蓬莱山の麓にある門の前で、四肢を地面につき頭を垂れていた。

 煉花の後ろでは、ここまで煉花を連れてきた蘭帝国の兵士たちが、煉花が逃げ出さないよう見張るかのようにずらりと並んでいる。

 別に逃げるつもりもなければ逃げる手段もないというのに、と煉花は地面に伏しながら思った。

 そうこうしていると、雨がぽつぽつと降ってきて、すぐに大雨となった。雷の音も轟く。

 後ろにいた兵士たちは濡れるのを嫌って、乗ってきた船へと戻っていった。

 彼らは雨風を凌げる屋根付きの船の中で、龍神が花嫁を迎えに来るのを待つらしい。

 ただ煉花ひとりだけ、門の前で雨風にさらされながらぼろぞうきんのように濡れて待ち続ける。

 蓬莱山の雨は冷たく重い。

 もう顔を上げることすらできないほどの強い雨と風、そしてその冷たさが煉花の体温を容赦なく奪ってゆく。

 雨風にさらされながら煉花は、ここでも役立たずなのかと、歪に唇をゆがめた。

 今まで煉花は誰にも必要とされなかった。だからこそ、誰かに必要とされたいという思いが人一倍強かった。今もその思いは変わらない。

 自分が龍神の花嫁になることで、国に恵みの雨が降るのだとしたら救われる人は多いだろう。なにもできない卑しい自分でも、誰かのためになれるなら、龍神の花嫁になることなど怖くないと思った。

 だが、それすら叶わないらしい。

 ならば、ここでこのまま眠りにつくのも悪くないのかもしれない。

 煉花は疲れていた。

 それはこの蓬莱山の雨風のせいではない。

 もうずっと、心が疲れていたのだ。

 求めても手に入らないとわかっているのに求め続けるのは、ひどく疲れる。

「……いつまでそうしているつもりだ」
 凛とした男の声が聞こえた。

 気づけば先ほどまで体を打ちつけていた雨がやんでいる。風もやんで、体に当たるのは穏やかな日の光のみ。

 どうやら煉花はずいぶんとこうして地面に平伏したまま、気を失っていたらしい。天気はすでに晴れ上がっていた。

 煉花はぼんやりとした頭で顔を上げた。

 きらりきらりとなにかに反射したような光が煉花の目に入る。そのまぶしさに思わず目を眇めた。

 この光はなんだろうかと思った矢先に答えは目の前に現れた。

 綺麗な、青白銀の鱗だ。玉のように磨かれた鱗が連なっていて、その鱗に陽の光がちかちかと反射していた。

 その様があまりにも美しく、煉花はただただ呆けたようにそれを見つめた。

「なにをしている。後ろのやつらはとっくに帰ったぞ。お前も早く去るのだな」
 底冷えするような、冷たく重い声。

 先ほど目覚める時に聞いた男の声と同じだ。

 鱗に魅入っていた煉花は、さらに顔を上げた。鱗が連なった先にあるものを確かめるために。

 そしてそこには―――。

 煉花は、思わず息をのんだ。

 煉花の視線の先には、蛇のような、獣のような生き物がいた。

 顔だけで煉花の身の丈の半分以上はある。裂いたような大きな口には鋭い牙が見えており、その口の周りには空色の長い髭が風になびくようにして揺れている。

 金色の瞳は美しいが、瞳は憎々しげに煉花を捕らえていた。

 そして顔の上には、鹿のように枝分かれした大きな角が二本。

 どのような力でかわからないが、蛇のように長く太い体をふわふわと宙に浮かせて軽くとぐろを巻いている。

 初めて目にしたその姿に圧倒されながらも、煉花は気づいた。

 今目の前にいるのが龍神であることを。

 そして、煉花は安堵した。その異形の姿を見て、目の前にいる者が人ではないことに安堵したのだ。

 煉花は、ずっと誰かに必要とされたかった。

 しかし父にも母にも疎まれて、そばにいてくれた姉ですら、とうとう煉花を見捨てた。

 どんなに煉花が欲しても、人は煉花を見てくれない。

 今までずっと人に愛されないことの積み重ねだった。

 だが、今煉花の目の前にいるのは人ではない。

 人の愛を求めることに疲れ果てていた煉花は目の前の相手が人外であることに安堵して、だからこそ純粋にその龍の美しさに、目を奪われた。

 そして龍は煉花と目が合うと、唸るように声を出した。

「いつまで呆けてる。去っていった者たちを追って早く出ていけ」
 それほど大きな声ではないのに、空気が大きく震えた。煉花の肌にもピリピリとした振動が走る。

 魅入ってしまっていた煉花はハッとして顔を上げ、それから龍神の言葉を反芻してゆっくりと後ろを振り返る。

 龍神が言うように、後ろにいたはずの兵士たちがいなくなっていた。渤海に船が一隻も浮かんでいないのを見るに、どうやら煉花を置いて蘭帝国に戻ったようだ。

 置いていかれたことに、もう国には戻れないということに寂しさを感じたが、一瞬だけ。

 もともと煉花は龍神の花嫁として嫁ぐために来たのだ。蘭帝国に戻るつもりはない。

 煉花は、改めて龍神と向き合った。

「私は、龍神様の花嫁になるべくまいりました。船に乗って帰るつもりはありません」
「……なに?」
 一瞬、間を置いて龍神がそう返す。意外だとでもいうように、少し戸惑って聞こえた。

「私の名は、煉花と申します。妻としておそばに」
 名乗って額ずくが、なぜか向こうはなにも言ってこない。長い無言に戸惑いながらも、煉花は声がかかるのを待ち続けた。

「……私の姿を見なかったのか?」
 しばらくしてようやく龍が口を開いた。

「申し訳ありません。突然のことでしたので、許可もなく御身を見てしまいました。今後はそのようなことがないよう気をつけますので、どうかご容赦を……」
「いや、そういうことではなく……。わかった。もう一度顔を上げて私を見ろ」
 龍神にそう言われて、煉花は戸惑うように顔を上げた。

 再びきらりきらりと反射した陽の光が目に入る。そしてその光の中に、青銀色の龍がいる。綺麗な金の瞳を煉花は見つめた。

「……私が、この姿が、恐ろしくないのか? 醜いだろう?」
 小さな声だった。つぶやくような龍神の声。

「醜い? なぜでしょう。龍神様は、私が今まで見てきたものの中で……最も、美しくていらっしゃいます」
 世辞ではなく、これは煉花の本音だ。

 龍神は思ってもみなかったことを言われたのか、その鋭い目を見開いた。

 煉花は、戸惑っている様子の龍神を見て不思議で仕方がなかった。

 なぜそんな顔をするのだろうか。美しいものを、美しいと言っただけなのに。

 絶句したような龍神の姿に、煉花も戸惑う。

 謝罪をした方がいいかもしれないと思い始めたが、なぜか声が出ない。

 いや、声どころか、瞼を、顔を上げているのも難しい。

 長い間、雨風にさらされていた煉花の体力はすでに限界だった。

 ふっと意識が途絶えて、煉花はその場で倒れ伏した。

 意識を手放す瞬間、龍神が慌てたようにこちらに近づいてくるのが見えた気がした。



 ◆



 荒れ狂うような嵐がやみ、穏やかな風に雲が流されて陽の光が見えていたはずなのに、今再び天に雨雲が立ち込め始めていた。

 蓬莱山の天気は、龍神である青嵐の心がそのまま反映する。

 一時晴れたはずの天気が急に曇っているのも、青嵐の心が戸惑っているからに他ならなかった。

「ご安心くださいませ、青嵐様。気を失っただけのようです」
「ようです!」
 倒れた煉花の肩を抱き支えながらどうしたものかと息をつめていた青嵐は、眷属の言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろした。

 今の青嵐は煉花を支えるために龍の姿から人の姿へと変じていた。

「しかし早く屋敷の中にお連れしないといけませぬ! 人の体は脆弱です。濡れた姿のままでは体を壊しまする!」
「体を壊しまする!」
 続いて聞こえた左白の声に、青嵐は眉根を寄せた。

「屋敷の中!? いや、しかし、こやつは人間だ……。私の屋敷に入れるなど……」
「なにをおっしゃいます、青嵐様! 花嫁として参った女性、つまり青嵐様の妻ですぞ! 妻!」
「妻ですぞ! 妻!」
 左白の言葉をいつものように右白は繰り返す。妻という言葉が何度も繰り返され、青嵐はなんとも居心地が悪い。

「つ、妻などと、私は認めていない……」
「では、このままこの女性を放置するつもりですか! なんとヒドい! 青嵐様がこんなに無情な龍だったなんて!」
「こんな無情な龍だったなんて!」
 左白、右白に同時になじられて、青嵐は言い返す言葉もなく、あきらめのため息をついた。

「……わかった! とりあえずは連れてゆく。だがこの女の体調が回復したら追い出す」
 捨て台詞のように悔しそうに言うと、左白と右白はちらりと目配せをし合って、大きくため息を吐き出した。

 まったく青嵐様は仕方のない方だ、とでもいうように。

「はいはい、わかりましたわかりました。とりあえず急いでお運びしないと!」
「急いでお運びしないと!」
 左白と右白がそう言って、青嵐に支えられている煉花をふたりがかりで抱えようとする。だが――。

「……大変です! 青嵐様! この方、青嵐様の袖をしっかり握っていて離しません!」
「離しません!」
 左白に言われて見やれば、煉花が青嵐の袖をひしりと握りしめている。

 袖を引っ張るも、煉花の手から抜けない。

 すがるように袖を握り、青白い顔で眠る煉花を見つめると、庇護欲とでもいうのだろうか、一瞬今まで感じたことのないなんとも言えない心地がし、思わず戸惑いで青嵐は瞳を揺らした。

「これは青嵐様が直接お運びするしかありませんね」
「お運びするしかありませんね」
「わ、私が、このまま抱いて運べと言うのか!?」
 ふたりの眷属の方を見れば、によによと笑みを浮かべている。

 先ほど感じたなんとも言えない心地が思い出されて、青嵐は眷属から視線を逸らした。

 すると今度は再び眠る煉花が目に入る。

 水に濡れて体温を奪われた煉花の顔色は青白く、唇の色も悪い。このままにしていれば、左白らの言う通り、その儚い命を失うだろう。

「……体調が戻れば、蘭帝国に返すからな」
 誰に言うでもなく青嵐はつぶやき、肩を支えていた手をそのまま背中に滑らせ、もう片方の手を太ももの下に置いて煉花を持ち上げた。

 抱き上げてみると、その軽さに青嵐は目を見開いた。

 恐ろしいほどに軽い。よく見れば、手足も細すぎるような気がする。

 あまりにも儚く脆そうで、壊してしまわないかと彼女を抱く手が緊張で少々強張った。

「本当に公主なのか? ろくなものを食べてないような感じだが……」
 今までここに花嫁として来ていた公主たちと違いすぎる。

 彼女たちは派手な化粧をして臭いほどに香をつけ、自分が最も尊い女だとでも言いたげな態度だった。

 だが、今目の前で眠る煉花は違う……。

 しかし問いかけても、彼女は眠りについていて答えない。

 気づけば青嵐は、寒くないようにと優しく煉花を抱き寄せていた。