「叶生~!」

 ホームルームが終わり、のんびり帰り支度を進めていると、教室の後方から声がかかった。
 振り返った先では、花梨が大袈裟なくらいにぶんぶんと手を振っていた。周囲の視線を気にしつつ、私もそっと手を振り返す。

 梅雨の終わりからおよそひと月。今日で一学期が終わり、明日からは夏休みに突入する。
 長期休暇に入る前にと、花梨と書道部の部室に顔を出した。そこにいたのは顧問の細谷先生のみで、部員は誰ひとりとしておらず、つい苦笑してしまった。
 書道部は、夏休みの間の部活動が強制ではない。これまでもその緩さに甘えてやってきたけれど、挨拶にと思って訪れた先で、先生から秋に開催される書道展の話を聞いた。

 久しぶりにそういう場に自分の作品を応募してみてもいいかなと思える程度には、私の視野は元の広さに戻ってきている。そして、それを良い兆しだとも思う。
 ちなみに花梨は「あたしは応募しないよ!」といつもの笑顔で断りを入れていて、細谷先生は「はいはい」と露骨な苦笑いを浮かべていた。
 花梨は変わらない。相変わらずでほっとする。変わることと変わらないことは、大抵の場合、隣り合わせになっている。だからこそ安心できるのかもしれない。変わっていくことにも、変わらないことにも。

 細谷先生に別れを告げて部室を後にし、昇降口をくぐる。
 今日まで溜め込んでしまった持ち帰りの荷物を、私も花梨もそれぞれ手に抱えながら、茹だるような暑さの中を歩く。

「ええと。叶生、最近はお見舞いって行ってる?」
「あ……ううん。何回も行くと、向こうのお父さんとお母さんに迷惑かなって」

 そっかあ、と呟いた花梨は、神妙な顔をしたきりで黙り込んだ。
 彼女の反応はもっともだ。前日まで健康状態になんの問題もなかったと思われる男子高生が、突然風邪をこじらせて入院し、そのまま一ヶ月近くが経過しようとしているなんて、誰だって信じがたいに違いない。

「藤堂くん、早く目が覚めるといいね」
「……そうだね」

 ぽつぽつと言葉を交わしながら、私たちは帰路を歩む。
 夏特有の刺すような日差しが、容赦なくアスファルトに照りつける。その上を歩く私たちまでも焼き焦がす勢いだ。思わず、私は額の汗を手の甲で拭った。
 塾へ向かうという花梨と、途中で別れた。夏休み中にも遊びに誘ったり誘われたりするだろうに、長い別れの前みたいな感傷的な気分になる。

 小道の先を歩き、地蔵が佇む祠を過ぎ……児童公園の垣根が見えた辺りで、私はふと足を止めた。
 あれから、何度か雨が降った。雨の季節の終わりに離ればなれになった私たちは、あれ以来一度も顔を合わせていない。でも、それでいい。ふ、と短い吐息を零した後、私は再び足を踏み出した。

 児童公園の東屋には、もう立ち寄っていない。
 多分、彼はすでにそこにはいない。かつては不安や焦燥を掻き立てられてばかりだったその事実に、今の私は、確かな希望を抱いている。


   *


 ハルキが入院したことは、母から聞いた。
 六月下旬、幽霊のハルキと最後に顔を合わせた翌日。帰宅の際にたまたま、我が家の玄関前で話し込む母とハルキのお母さんのふたりと鉢合わせた。
 ハルキのお母さんは、私に微笑んだ後、母との話を切り上げて帰ってしまった。多分、気を遣わせた。私とハルキの不仲は、どちらの両親も知るところだったから。

 ただ、そのときに――あるいはそれよりも前に、以前私が風邪をひいたときにハルキが家まで送り届けてくれたことのお礼を、母は彼女に伝えたのだと思う。
 そうでなければ、ハルキを見舞いに行った市立病院のナースステーションで、面会の手続きに手間取る私を見かけた彼女の反応について、説明がつかなくなる。なにせハルキのお母さんは、びっくりした顔をして、けれどすぐに「叶生ちゃん、来てくれたんだね」と笑いかけてくれたのだから。

 ハルキのお母さんは、私の母より少し齢が若く、とても綺麗な人だ。笑いかけてくれるハルキのお母さんに、私は多くを語れず、前に風邪をひいたときに助けてもらったことをぽつぽつと伝えるくらいしかできなかった。
 たどたどしい私の話を、ハルキのお母さんは終始穏やかな笑みを浮かべて聞いてくれた。子供が入院して大変だろうにと思ったら、むしろ私が泣きそうになって、病室に入るかどうか尋ねられたけれど断った。
 また来てね、と見送られ、歓迎されていないわけではないと十分伝わってきて、でも外部の人間である私が何度も見舞いに行っていいのか躊躇して……結局、今ではごくまれに足を運ぶ程度だ。

 ――以来、流れるようにして二ヶ月あまりが過ぎた。

 長かった夏休みは終わり、二学期が始まって数日。ハルキが眠り続けていること以外は、なにもかもが普段通りだ。
 街の至るところに色濃く残暑の気配が残る中、その日、私は久しぶりに市立病院へ足を運んだ。
 白いシーツが敷かれたベッドの上に、病衣を着て横たわるハルキ。その顔を、私はいつも直視できない。自発的な呼吸はできているらしく、彼の腕には点滴が繋がっているくらいで、本当にただ眠っているみたいだ。

 少しずつ、髪が伸びているのだと思う。それに、食事を摂っているわけではないから、顔だって痩せてきているのかもしれない。
 分からない。そうだとはっきり認識できるほどには、私はハルキが眠るベッドへ近寄れていないし、様子を直視できてもいない。直視すれば、その瞬間、面影に見覚えを感じてしまうのではと思うからだ。
 病室の端から遠巻きにベッドを見つめ、梅雨の終わりの日に頬に触れた指を否応なく思い出し、最後には耐えきれなくなって病室を出る。さほど数を重ねてもいない見舞いのたび、私はそれを繰り返していた。

 早く伝えたい。気が急いてならない。
 七年前の噂の出処は、証明こそ難しいだろうが判明していること。長年誤解を続けてきたことへの謝罪。話したいことは山ほどある。だから早く目を覚ましてほしいと、最後にはいつもそればかり願って……でも。
 意図せず幽霊になってしまった彼は、まさに今、失くした記憶を取り戻している最中なのだ。二ヶ月と少し前の時間を生きている、過去の私と一緒に。

 だとしたら、今の私にできるのは、彼の帰りを待ち続けることだけだ。

 たどたどしく話を続ける幽霊のハルキの顔を思い出す。『このままでいいと思ってた』と告げる声も。
 最後に交わした言葉を振り返る限りでは、ユウは――幽霊のハルキは、戻った先でも私に嫌われていると思っている様子だった。当然だ。私が謝るよりも先に、ハルキは入院してしまったのだから。幽霊のハルキが言ったように、風邪をこじらせて、この市立病院に。

 ハルキの家族に、ハルキの具体的な症状を尋ねることはできなかった。
 私はハルキの家族でもなんでもないし、それどころかつい先日まで不仲だと思われていた人間だ。彼の目覚めを今か今かと待ち望んでいる彼の家族に、そんな詳細を不躾に尋ねるなんてできそうにない。

 私とユウが出会ってから別れるまで、二ヶ月半あまり。その期間を踏まえるなら、最後に私たちが会った日――ハルキが入院した日から二ヶ月半あまり、彼は眠り続けるのかもしれない。
 あるいは、四月に私と出会うより前から幽霊になっていた可能性もある。その場合は、目覚めまでさらに時間がかかるのかもしれなかった。
 とはいえ、直視を避けながらもおそるおそる眺めた面影は、最後に見た幽霊のハルキのそれに近づいてきている気がする。そろそろなのではと心が逸る。こんなこと、彼の家族にはもちろん、他の誰にも打ち明けられないけれど。

 ユウは帰っていった。あるべき場所へ。未来のハルキの身体の中へ。
 だから、このハルキも必ず目を覚ます。帰ってくる。絶対に。

 目覚めない可能性についてなど、考える気にはなれない。

『いつだ……あんたの……から思い出して』
『赤……傘も、ノートの字も、結婚式……雑誌……も、あんたがいて……から、俺は』

 雨上がりの中、最後の最後に聞いた彼の声を思い出す。
 雨がやみそうなことと声が聞き取りにくくなったこと、両方に気を取られるあまり、じっくりとは聞いていられなかった話の内容が、今頃になって心の中で燻り始める。

 あの言葉は、それぞれに見覚えがあったという意味だったのだろうか。
 赤色の傘。ノートの字。結婚式の雑誌。初めて赤い傘を見せたとき、初めてノートに書いた文字を見せたとき、初めて結婚式の雑誌を見られたとき。いわれてみれば、彼は確かにその都度考え込むような仕種を見せていた。
 中でも雑誌は、彼の記憶がある程度戻ってきてから見せたものだ。そのとき、彼は『見覚えがある』と実際に呟いていた気もする。

 赤い傘……以前失くしたお気に入りの傘も赤色だった。それを失くしたショックから、今の赤い傘を購入するまで、愛着が湧かないようにとあえて安価のビニール傘を使っていた。もしかしたら、彼は以前の私の傘を見ていて、そのことを思い出したのかもしれない。
 ノートの字はどうか。例えばそれに見覚えがあったとして、細かな筆跡は齢を重ねるにつれ多少変わってきていると思う。けれど、変わらない部分もあるのかもしれない。
 後は、結婚式の雑誌だ。小学生の頃から眺めていた気もするけれど、ハルキに見せたかどうかまでは覚えていない。でも。

 ……笑ってしまう。
 でも、けれど、もしかしたら。その繰り返しだ。幽霊でなくても、小学生の頃の記憶なんてどんどん忘れていく。
 けれど、ハルキにとっての私の記憶は、おそらく小学四年生のまま止まっている。そう思えば途端に胸が痛み出す。

 だからだ。だから、早く会いたいと思う。
 話したいことが積もり積もって、私こそがそれに埋もれて呼吸ができなくなってしまう前に。


   *


 九月中旬。
 月半ばの連休が明けた直後の放課後、市立病院前のバス停から病院までの歩道を、私は息を切らせて走っていた。

『日曜日に目を覚ましたそうよ』

 帰宅と同時に母に伝えられ、私は制服から着替えることも忘れて再び玄関を飛び出した。後ろで母が叫ぶような声をあげていたけれど、のんびりと聞いていられる余裕は私にはなかった。
 バスの中、エレベーターの中、なにかを考えたそばから忘れていく。碌に考えがまとまらないまま、病室の引き戸を開く羽目になってしまった。

 ノックに応じたのは、聞き覚えのある声だった。
 元々のハルキの声でもあり、別れの寸前に聞いた幽霊の彼のそれにもよく似て聞こえ、私はやはり考えがまとまらないまま静かに引き戸を引き、そして。

 目が、合った。

 看護師か彼の家族が訪ねてきたと思ったのだろう。ベッドから背を起こして座るハルキは、間抜けなくらいにぽかんとして見えた。
 目を見開いて、呆然と口まで開けて……笑ってしまいそうになる。

「……おかえり」

 引き戸の取っ手に指をかけたきり、一歩も動けない。そんな状態で口をついて出てきた言葉はそれだけだ。
 もっと言うことがあった気もしたけれど、生憎、事前に考えていた内容など少しも思い出せそうになかった。

「え……と、ただいま……?」

 眉を軽く寄せて答えるハルキの声があまりにも怪訝そうだったから、私はつい噴き出してしまって、だというのに頬を伝う水滴の感触も覚えて、なにがなんだかわけが分からなくなる。
 そんな私を、ハルキはベッドの上からじっと見つめ、それから気が抜けたように頬を緩めた。

「なに泣いてんだ。あんたが『帰れ』って言うから帰ってきたのに」

 呆れの滲む声に、本当ならムッとしてもいいくらいで、けれど不服を告げる声などわずかにも出てきそうにない。湧いてくるのは涙ばかりだ。笑っている自覚はあるのに。
 ハルキが目の前にいる。起きている。生きている。
 触れれば肌の感触も体温もはっきりと感じられるだろうその身体で、今、ハルキは私を「あんた」と呼んだ。

 ユウは――ハルキは、雨の間に私たちが重ねた時間を取り零すことなく、帰ってきてくれたのだ。

「……ユウ」

 声が勝手に零れ、思わず私は口元を押さえた。まるで他の人を呼ぶような感じになってしまったからだ。それなのに、ハルキは平然と笑っていて、私はいよいよ溢れる涙を抑えきれなくなる。
 なにから伝えたらいいだろう。
 謝らなければならないことがある。お礼を言わなければならないこともある。伝えたいこと、教えてもらいたいこと、なにからなにまで頭の中は君のことだらけで、結局、ひとつとして言葉に置き換えられなくなる。

「……おかえりなさい……」

 もう一度、噛み締めるように小さく呟く。
 頬を伝い落ちた涙を拭うことも忘れ、私は病室の中へ足を踏み入れた。



〈了〉