「あ、おかえりー。遅かったね」

 玄関の扉を開けると、リビングから莉子だけがやってきた。

「ゆちあは?」

「もう寝ちゃった。おかーさんが帰ってくるまで起きてるって言ってたんだけど」

 その言葉を聞いて、胸が痛んだ。

 連れて帰ってくるどころか、状況は取り返しのつかないほど悪化している。

「ねぇ、それで……、どう、だった?」

「どうもこうも、愛実がいないのが結果だよ」

 そっけなく吐き捨て、莉子の横を素通りしてリビングに向かうが、そこにゆちあはいない。

 あれ、さっき寝てるって莉子言ったよな?

「ゆちあ?」

 寝顔でもいいから見て、癒されようと思っていたのに。

「ゆちあちゃんなら智仁の部屋だよ。『寝る時は俺のベッドで』って言ってたから、連れていったの」

「ああ、そっか」

 リビングに戻ってきた莉子に言われ、そういえばそうだったなと思い出した。

「ってか智仁顔色悪いよ。大丈夫?」

「別に」

 莉子の方を見ずに答える。

 大丈夫か大丈夫じゃないかと言われれば、大丈夫じゃない。

 でも、自分の体調なんてどうでもよかった。

「別にって、ここ置き薬とかないの?」

「ねぇよ、男の一人暮らしなんだから」

 この家を出たのは今日の昼過ぎなのに、その時からもう何十年もたってしまったような、そんな気がする。

 今日だけで悪意を受けすぎた。

 この家を出る前と今じゃ、俺の中の信念や価値観、心の在り方すら変わってしまった気がする。

「じゃあ私が今から家に帰って持ってこようか?」

「いらねぇ。ってかもうほっとけよ」

 言葉に嫌悪を込められるだけ込めた。

 今、俺は機嫌が悪いんだ。

 そんなことどうでもいいんだ。

「そう……」

 思いが通じたのか、莉子の声が聞こえなくなる。

 テレビ台の上にあった観覧車を模したフォトフレームが目に入ったので、思わず舌打ちしてしまった。

 家族写真?
 
 なんだそりゃ。

 ゆちあ。ゆちあ。

 もう俺にはお前しかいない。

 今すぐ俺を救ってくれよ。

「ゆちあ、ゆちあ……」

 寝顔を見て癒されるため、二階に向かおうと右足を踏み出した瞬間。

「やっぱり待って!」

 後ろから莉子に抱き着かれた。

「いいから待ってよ。智仁」

 ああうざいなぁ。

 俺にはもうゆちあしかいないんだ。

「莉子……離せ」

「離さない」

「離せって!」

「私じゃダメ?」

 後ろに引っ張られ、仰向けに倒れた。

 俺の腰の上に莉子が跨っている。

 その目からは涙がこぼれていた。

「私じゃ、ダメですか?」

 莉子の目からあふれた涙が、俺の頬の上に落ちてくる。

「……たりめーだろ。お前じゃねぇんだよ」

 今、俺に必要なのはお前じゃない。

「どうして? どうして私じゃ」

「だからどけって!」

 俺がそう叫んだ時だった。

 リビングの扉の方から、ゆちあの声が聞こえてきた。

「おとーさん。おかーさんは?」

 顔面蒼白の莉子が俺の上からすっと飛びのく。

「ゆちあ!」

 俺はゆちあの姿を見た瞬間、いてもたってもいられなくなった。

 とろんとした目をこすっているゆちあに駆け寄って、ぎゅっときつく抱きしめる。

「おとーさん帰ってきたぞ。もうゆちあを一人にはさせないから。寂しくさせないから」

「え、帰ってきてないよ」

 胸の中のゆちあの声は震えている。

 不安や寂しさに包まれている。

 いいからそんなこと言うんじゃねぇ!

「なに言ってんだよ? おとーさんがこうして帰ってきたじゃないか」

「おかーさんが帰ってきてないもん!」

 そう叫んだゆちあが俺の胸の中で暴れる。

 それを抑え込むために俺は抱きしめる力を強くしていくが、

「おかーさんがいないとやだ!」

 と駄々をこねるのをやめてくれない。

「おとーさん約束したじゃん! おかーさんと一緒に帰ってくるって!」

「わがまま言うな!」

 俺はゆちあに対して怒鳴っていた。

 ゆちあは全く悪くないというのに。

 ゆちあは俺が怒鳴った後、暴れていた手足をぴたりととめた。

「お願いだよ。これ以上、あいつの話はしないでくれ」

 いい加減わかってくれよ、と諭しながら、俺はゆちあの体から離れた。

 ゆちあに抵抗されたわけでも、押されたわけでもない。

 体が勝手にゆちあから距離を取り、知らぬ間に尻餅をついていた。

 ゆちあは、そんな俺を真顔でじっと見て。

「わがままじゃないもん! あいつじゃなくておかーさんだもん!」

 床をその小さな足でどん! と踏みつける。しゃくりあげるように泣きながら、ものすごく弱い力で俺の胸をポカポカ殴った。

「約束破るおとーさんがいけないんだっ!」

 痛い。

 たたかれている胸の表面じゃなく、胸の奥底から虚しさという痛みが湧き上がってくる。

「おかーさんがいないとやだっ!」

「もう黙ってくれ! あんなやつとはもう」

 売り言葉に買い言葉。子供に逆切れする大人。情けないことだと理解しているのに、俺は声を張り上げてしまった。

「あんなやつじゃない! おかーさんは、ゆちあのおかーさんだ!」

「もう愛実はここには来ないんだよ!」

「やだやだやだ!」

「無理なんだよ!」

「なんでそんなこと言うの!」

 ゆちあにキッと睨まれる。

 子供にこんな顔させるなんて、俺はおとーさん失格だ。

「おとーさんのばか! 喧嘩するおとーさんとおかーさんは嫌いだ! 一緒にいないおとーさんとおかーさんは嫌いだ!」

「もう勝手に言ってろ!」

 俺はわんわん泣き喚くゆちあを置き去りにして二階へ駆け上がり、自室のベッドに力なく倒れた。

「俺だって、俺だってなぁ!」

 愛実とゆちあと俺の三人で肩を寄せ合って寝たという思い出ができてしまったこのベッドでは、もう安眠なんてできないのだろう。

 俺はシーツに顔を埋めて、そのにおいをかぎながら涙を流した。