インターフォンの音がまた鳴って、俺はようやく我に返った。
愛実たちが風呂から上がっていないので、そんなに時間はたっていないらしい。
ったく、今度は誰だよ。
先程と同じようにドアアイから外をのぞく。
来訪者はまたもや女子高生だったが、ずぶ濡れではない。ちゃんと傘をさしてきたようだ。俺が入学した高校のブレザーを着ている。もちろん子連れでもない。
「懲りねぇなぁ、ほんと」
俺はもう学校には行かないって。
後頭部をガシガシと掻きながら扉を開けた。
「なんだよ?」
不愉快さを思いっきり声にのせる。
「なんだよってなによ」
切れ長の目を不満げに細めて立っていたのは、隣の家に住む幼馴染の並里莉子だ。長い髪をシュシュで一つに束ねて、右の肩から前に垂らしている。
「うるせぇなぁ。なんだよってなによってなんだよ」
「これ」
莉子は手に持っていたノートを俺の前に突き出してきた。
「今週の授業のノート」
またか。
なんでこいつは人の言うことを聞かねーんだ。
「諦めろ。俺はノートよりルーズリーフ派なんだ」
「初めて聞いたしそれ」
「大学ノート製造会社に忖度して遠慮してたんだよ」
「そんなとこに忖度するくらいなら私に忖度して受け取ってよ。これは私の自己満だから」
「皇族が自分で決めた結婚に難癖がつく時代に、一般人の自己満なんか認められるか」
「智仁は私と違って頭いいからさ、もったいないよ。最初の中間テストだって学年十位だったじゃん」
結局、莉子から強引にノートを押しつけられる。今すぐ破り捨てたかったが、それはなんとかこらえた。
ほんと、莉子のこの行動は紛れもない善意だからこそ余計にたちが悪い。学年十位という言葉も、授業内容を書き写したノートも、圧倒的な善意だからこそこの状況が生まれている。莉子みたいに『頭がいいね』と俺を褒めてくる奴らが大勢いるから、俺は学校に行かなくなった。
ちなみに、莉子が作ってくれる授業内容をまとめたノートを読んだことは一度もない。机の上に重ねられて行くだけだ。いつかそのノートの層にもチバニアンみたいな名前がつくのだろうか。リコニアン? 地層の名前って言うより犬の種類だな。
「ったく、受け取るのはこれで最後だからな」
「あ、待って!」
俺が扉を閉めようとすると、莉子が扉を掴んで抵抗してきた。少しだけ潤んだ目で、俺のことを上目づかいで見つめる。やっぱり犬じゃねぇか。
「ねぇ、智仁。保健室でもいいからさ、学校行こうよ」
「十億くらい貰えるなら行ってやるさ」
「なんでよ」
莉子が俺の手首を掴む。
「久しぶりで心細いなら大丈夫。私が智仁を一人にさせないから」
「そういう問題じゃねぇんだよ」
「じゃあどういう問題なの?」
「ミレニアム懸賞問題より難しいなぁ」
「アホみたいなことばっか言わないで教えてよ」
「むしろ天才でも解けない問題の数々なんだが」
「今日は教えてくれるまで絶対帰らないから。私は智仁と一緒に学校に行きたいの」
なんで今日に限ってこいつはこんなにも強気なんだろう。もういいや。そんなに知りたいなら、お前の無自覚がどれだけ俺の心を傷つけてきたか教えてやろうじゃないか。
「理由は、お前がさっき言った言葉だよ」
あーあ、俺が軽口をたたいている間に引き下がればいいものを。これを言って莉子が傷ついたって、知るもんか。
「あんなとこでの学年上位なんて、草野球で威張ってるやつと一緒なんだよ」
冷たく吐き捨てた。
何度も説明しているとは思うが、俺は高校入試に失敗して、ランクを落とした高校に入学している。
「俺は勉強というジャンルのプロの世界で勝負してきた。でも負けた。無理だった。プロ野球で言う戦力外通告ってやつさ」
あの時感じた悔しさがよみがえってきて、手が震え始める。
高校の合格発表の日に感じた無力感は、今でも鮮明に思い出せる。
「そいつらは野球が下手だって烙印を押されてプロの世界から去っていく。でも本当に下手かと言われたらそうじゃない。プロの中での下手。一般人の中に入れば無双するような奴らなんだ」
愛実と受験番号を見に行ったけど、俺の番号はなかった。
愛実の番号はあった。
写真撮らなきゃと愛実の手が離れた時に感じた屈辱が、惨めさが、恥ずかしさが俺の心を締め上げる。
スマホを掲げて掲示板の前に立つ愛実の背中がものすごく遠く感じた。
今もなおプロの世界に君臨し続けている愛実への憧れや嫉妬が、自分の陳腐な才能に対する憎悪や諦観が、その時からずっと腹の底に沈殿している。
「俺は草野球で勝負なんてしたくなかった。でももうはじきだされたんだ。上じゃ勝負できない。そういう才能しかないんだって思い知らされたんだよ」
莉子が目を伏せ、半歩下がるのが見えた。
今更そんな顔したって、お前らの『頭いいね』って言葉がなかったことにはならないからな。
それによって受けた心の傷がなかったことにはならないからな。
「だから、お前らの言葉は全部皮肉にしか聞こえない。お前らからしたら俺は天才なんだろうけど、天才の中にも天才がいて、その中にも天才がいて、その中にも天才はいる。星と一緒だ。離れたとこから見たら近いように見えるけど、俺はその天才たちに近づいたばかりに、かえってその遠さを、自分の無能さを思い知ったんだ」
「ごめん。私のせいだったんだね」
なんだよ!
そんな素直に謝んなよ!
こんなの八つ当たりでしかないだろうが!
俯いた莉子を見ていると、胸の痛みが増していく。
本当は、性根が腐ったような俺の考え方を糾弾してほしかった。
「今更謝ったって許してやるもんか」
「じゃあどうしたら許してくれる?」
「その質問ってさ、許さない方を悪人に仕立て上げる悪魔の言葉だよな」
「ごめん。そういう意味で言ったんじゃないの」
莉子の目尻から涙がこぼれる。その涙が眩しくて眩しくて、俺は莉子から目を逸らした。
「智仁と同じ学校に通えるってわかった時、私、すごく嬉しかったんだよ」
「俺はあんな学校、嬉しくもなんともなかったけどな」
ついに莉子の言葉が止まった。
俺が身勝手な攻撃を重ねて、口を動かす気力を奪い取ったと言うべきか。
自己嫌悪が止まらない。
劣等感を莉子にぶつけてしまった。
こんなことしたって誰も報われないってわかっているのに。
「そういうことだから、もう俺のことなんか気にすんな」
「あ、待っ――」
俺は扉を閉め、拒絶を示すために、がちゃり、とあえて大きな音が出るように鍵をかけた。
インターフォンはその後、鳴ることはなかった。
愛実たちが風呂から上がっていないので、そんなに時間はたっていないらしい。
ったく、今度は誰だよ。
先程と同じようにドアアイから外をのぞく。
来訪者はまたもや女子高生だったが、ずぶ濡れではない。ちゃんと傘をさしてきたようだ。俺が入学した高校のブレザーを着ている。もちろん子連れでもない。
「懲りねぇなぁ、ほんと」
俺はもう学校には行かないって。
後頭部をガシガシと掻きながら扉を開けた。
「なんだよ?」
不愉快さを思いっきり声にのせる。
「なんだよってなによ」
切れ長の目を不満げに細めて立っていたのは、隣の家に住む幼馴染の並里莉子だ。長い髪をシュシュで一つに束ねて、右の肩から前に垂らしている。
「うるせぇなぁ。なんだよってなによってなんだよ」
「これ」
莉子は手に持っていたノートを俺の前に突き出してきた。
「今週の授業のノート」
またか。
なんでこいつは人の言うことを聞かねーんだ。
「諦めろ。俺はノートよりルーズリーフ派なんだ」
「初めて聞いたしそれ」
「大学ノート製造会社に忖度して遠慮してたんだよ」
「そんなとこに忖度するくらいなら私に忖度して受け取ってよ。これは私の自己満だから」
「皇族が自分で決めた結婚に難癖がつく時代に、一般人の自己満なんか認められるか」
「智仁は私と違って頭いいからさ、もったいないよ。最初の中間テストだって学年十位だったじゃん」
結局、莉子から強引にノートを押しつけられる。今すぐ破り捨てたかったが、それはなんとかこらえた。
ほんと、莉子のこの行動は紛れもない善意だからこそ余計にたちが悪い。学年十位という言葉も、授業内容を書き写したノートも、圧倒的な善意だからこそこの状況が生まれている。莉子みたいに『頭がいいね』と俺を褒めてくる奴らが大勢いるから、俺は学校に行かなくなった。
ちなみに、莉子が作ってくれる授業内容をまとめたノートを読んだことは一度もない。机の上に重ねられて行くだけだ。いつかそのノートの層にもチバニアンみたいな名前がつくのだろうか。リコニアン? 地層の名前って言うより犬の種類だな。
「ったく、受け取るのはこれで最後だからな」
「あ、待って!」
俺が扉を閉めようとすると、莉子が扉を掴んで抵抗してきた。少しだけ潤んだ目で、俺のことを上目づかいで見つめる。やっぱり犬じゃねぇか。
「ねぇ、智仁。保健室でもいいからさ、学校行こうよ」
「十億くらい貰えるなら行ってやるさ」
「なんでよ」
莉子が俺の手首を掴む。
「久しぶりで心細いなら大丈夫。私が智仁を一人にさせないから」
「そういう問題じゃねぇんだよ」
「じゃあどういう問題なの?」
「ミレニアム懸賞問題より難しいなぁ」
「アホみたいなことばっか言わないで教えてよ」
「むしろ天才でも解けない問題の数々なんだが」
「今日は教えてくれるまで絶対帰らないから。私は智仁と一緒に学校に行きたいの」
なんで今日に限ってこいつはこんなにも強気なんだろう。もういいや。そんなに知りたいなら、お前の無自覚がどれだけ俺の心を傷つけてきたか教えてやろうじゃないか。
「理由は、お前がさっき言った言葉だよ」
あーあ、俺が軽口をたたいている間に引き下がればいいものを。これを言って莉子が傷ついたって、知るもんか。
「あんなとこでの学年上位なんて、草野球で威張ってるやつと一緒なんだよ」
冷たく吐き捨てた。
何度も説明しているとは思うが、俺は高校入試に失敗して、ランクを落とした高校に入学している。
「俺は勉強というジャンルのプロの世界で勝負してきた。でも負けた。無理だった。プロ野球で言う戦力外通告ってやつさ」
あの時感じた悔しさがよみがえってきて、手が震え始める。
高校の合格発表の日に感じた無力感は、今でも鮮明に思い出せる。
「そいつらは野球が下手だって烙印を押されてプロの世界から去っていく。でも本当に下手かと言われたらそうじゃない。プロの中での下手。一般人の中に入れば無双するような奴らなんだ」
愛実と受験番号を見に行ったけど、俺の番号はなかった。
愛実の番号はあった。
写真撮らなきゃと愛実の手が離れた時に感じた屈辱が、惨めさが、恥ずかしさが俺の心を締め上げる。
スマホを掲げて掲示板の前に立つ愛実の背中がものすごく遠く感じた。
今もなおプロの世界に君臨し続けている愛実への憧れや嫉妬が、自分の陳腐な才能に対する憎悪や諦観が、その時からずっと腹の底に沈殿している。
「俺は草野球で勝負なんてしたくなかった。でももうはじきだされたんだ。上じゃ勝負できない。そういう才能しかないんだって思い知らされたんだよ」
莉子が目を伏せ、半歩下がるのが見えた。
今更そんな顔したって、お前らの『頭いいね』って言葉がなかったことにはならないからな。
それによって受けた心の傷がなかったことにはならないからな。
「だから、お前らの言葉は全部皮肉にしか聞こえない。お前らからしたら俺は天才なんだろうけど、天才の中にも天才がいて、その中にも天才がいて、その中にも天才はいる。星と一緒だ。離れたとこから見たら近いように見えるけど、俺はその天才たちに近づいたばかりに、かえってその遠さを、自分の無能さを思い知ったんだ」
「ごめん。私のせいだったんだね」
なんだよ!
そんな素直に謝んなよ!
こんなの八つ当たりでしかないだろうが!
俯いた莉子を見ていると、胸の痛みが増していく。
本当は、性根が腐ったような俺の考え方を糾弾してほしかった。
「今更謝ったって許してやるもんか」
「じゃあどうしたら許してくれる?」
「その質問ってさ、許さない方を悪人に仕立て上げる悪魔の言葉だよな」
「ごめん。そういう意味で言ったんじゃないの」
莉子の目尻から涙がこぼれる。その涙が眩しくて眩しくて、俺は莉子から目を逸らした。
「智仁と同じ学校に通えるってわかった時、私、すごく嬉しかったんだよ」
「俺はあんな学校、嬉しくもなんともなかったけどな」
ついに莉子の言葉が止まった。
俺が身勝手な攻撃を重ねて、口を動かす気力を奪い取ったと言うべきか。
自己嫌悪が止まらない。
劣等感を莉子にぶつけてしまった。
こんなことしたって誰も報われないってわかっているのに。
「そういうことだから、もう俺のことなんか気にすんな」
「あ、待っ――」
俺は扉を閉め、拒絶を示すために、がちゃり、とあえて大きな音が出るように鍵をかけた。
インターフォンはその後、鳴ることはなかった。