『凪』
声がした。やけに透き通っていて、それでいて輪郭が掴めないような、ぼんやりとした声だった。そのふたつは一見反対のようでもあるけれど、僕はそのとき何の違和感も覚えずに、直感的にそう思った。
『私、もう限界みたい。私だけ生きるなんて、やっぱり無理だったよ』
彼女は、僕に背中を向け、すすり泣いていた。
お前だけのせいじゃない、必要以上に気に負うな。何度も何度も、たとえ声が枯れようと喉が潰れようと、叫び続けた。けれど、どんなに叫んでも僕の声が彼女に届くことはないとわかった瞬間、からだを引き裂くような絶望が僕を襲った。
ひとりで背負っていくには重すぎる十字架を、それでもふたりでなら、と、信じて疑わなかった。けれど、僕のとなりにいたはずの彼女は、僕が惚けているあいだに、とうにいなくなっていた。たったそれだけの理由で、僕は道しるべを見失った。
『でも、凪と一緒なら、もしかしたら大丈夫な気もするの』
暗い声から一変、何かを思いついたような明るい声に、僕は甘い期待を抱いた。もちろん、ずっと一緒だ、お前が望むなら。僕にできることなら何だってするから、どうか、僕の知らないところであんな悲しい結末を迎えないで。
すると彼女は、ああよかった、と嬉しそうな声を上げた。その彼女の変化を見て、僕は、自分は間違っていなかったんだ、と安堵した。
そんな安らぎを得たのもつかの間、彼女はゆっくり、ゆっくりと振り返り──
『凪も、私と同じになってよ』
目玉が腐り落ちた亡霊と目が合った。
「──っ!!」
それに手を掴まれる直前、僕は目覚め、勢いよく上体を起こした。心臓がドクドクと早鐘を打っている。
寝起きでぼんやりとしている頭が正常にはたらくまで、長い時間がかかった。いや、長かったような気がするだけで、実際は一分もかかっていないかもしれない。けれど、彼女のいないこの場所が紛れもない現実なんだと理解するのを、つまりはそれくらい拒んでいた。
「夢……」
口に出して確かめなければ、どこからが夢なのか、境目がわからなくなりそうだった。
夢。そうだ、あれは夢だった。僕がその手を放したんだから、彼女が僕のとなりになんて、いるはずがないんだ。
「……っ、うっ」
そう自分に言い聞かせていると、不意に吐き気が込み上げてきて。ベッドから飛び降りて洗面台に向かうと、間もなくえずいてしまった。寝起きの体温をそのまま絞り出したかのような涙が、下まぶたのぎりぎりで止まる。
嫌な汗をかいた。うなじに襟足がべたりと張りついて気持ちが悪い。ふと顔を上げると、鏡にゆらりと人影が映ったような気がして、僕はとっさに振り返る。けれど、そこにはやっぱり誰もおらず、もう一度見た鏡には、真っ青な顔をした自分が映っているだけだった。
「……この家にあいつを呼んだことなんてねぇよ……」
最悪の寝覚めだ。僕は小さく喘いだ。
ようやく落ち着きを取り戻したとき、昨夜セットした目覚ましがけたたましく鳴り始めた。そこでようやく、僕は自分が目覚ましが鳴るよりも早く目覚めていたことを知った。
目覚ましを止めに部屋に戻ると、白いカーテンの隙間から、光の泡がこぼれていた。僕は光のほうへと手を伸ばし、こぶしをぎゅっと握りしめる。手のひらに爪が食い込んでいることに、しばらく気がつかなかった。
僕はまた、何も掴めずに終わるのか。