──あいつがまだいた頃の話だよ。
それを聞いて、取り繕うことを忘れた僕は、あからさまにがっかりした表情をしていたと思う。そんな顔すんなよ、せっかく話してやろうと思ったのに話す気失せるだろ。そう言って苦笑する世那に、悪い、と返す。
「学校帰りにさ、うちの制服着た女子が道端でうずくまってたんだよ。具合でも悪いのかと思って声かけたんだけど、空返事でどうも要領得なくてさ。で、顔覗き込んだら、」
「……あいつだった?」
「そ」
僕の知らない彼女の話。世那の口から語られる彼女が、じわじわと僕の中に入ってくる。心臓が、きゅ、と締めつけられた。
「……顔。そうだ、あいつ、どんな顔してた?」
「え?どんな……うーん」
世那は、顎に手を添えて、首をひねった。僕は、彼の顔をじっと見つめ、その口から答えが紡がれるのを今か今かと待った。世那は、悩んだ末、ようやく口を開く──
「そういや、どんな表情してたっけ?」
「……役立たず」
「うるせ」
期待していた分、落胆を隠せない。僕がその場にいれば、と思わずにはいられない。そもそもが世那のおかげだったけれど、それでも世那を蹴っ飛ばしたくなった。
「で、どうしたのかって訊いたら、お前を待ってるんだと。じゃあ別に俺必要ないかって思って、そこを離れようとしたんだけど、今度は引き止められてさ。そんで、あいつは俺に言ったんだ」
彼女が、僕を待っていた?
僕は、世那の口の動きを、食い入るように見つめた。背格好も声も、似ているところなんて何ひとつないはずなのに、目の前の世那と彼女が、重なった。
──見つからないものを探し続けるよりも、最初からそんなものはなかったんだって諦めたほうが、楽だと思わない?
「……それが、昨日の」
世那が、何かを言いかけていたことを思い出す。話のつながりが見えて、脱力した。彼女は、そんなことを言っていたのか。
「そんときは意味わかんなくて、そういやこういう奴だったなって思って聞き流したんだ。で、さぁ。ここからは俺の想像なんだけど」
世那は、そこで一旦言葉を切って、僕のほうに向き直った。そのまっすぐな目に、僕は怯んでしまい、一歩うしろに下がった。
「探しもの、本当は、失くしもの、なんだろ」
想像と言いつつ確信を持っているような口調に、ズキ、と脳の奥が痛んだ。
探しもの、失くしもの。何かわからないけれど、とても大切だったような気がするもの。あと少しで、思い出せるような気がした。あと少し、あとほんの少しのきっかけで──
「今の話、厳密には、あいつがいなくなる前日の話だから」
付け足されたその言葉は、僕の心臓を容赦なく貫いた。
彼女が消えた日、その前後の記憶は曖昧だ。それがまったくの偶然だったのか、それとも意図的なものだったのかもわからないけれど、なぜ世那だったんだ、どうして僕じゃなかったんだ、と思わずにはいられない。たとえ、真実を確認するすべがもう残されていないんだとわかっていても。
結局、その日、記憶の空白が埋まることはなかった。
「あーあ。びしょ濡れ」
彼女は、落下を防げなかった僕を責めたりはしなかった。そのまますっくと立ち上がってスカートを絞り出したので、僕が驚いて「うわっ」と顔をそらすと、彼女は「あはは、下短パン履いてるから!」と、僕を指さして笑った。
「これじゃあ凪、電車乗れないね。どうすんの?」
「笑ってんなよ、自分はチャリ通だからって……」
小さなくしゃみが出て、鼻をすすった。いくら夏でも、日暮れ時に濡れたまま風に当たるのは寒かった。
彼女の桜色の唇は、紫がかったものへと変わっていた。それがわずかに震えていたことに、あえて気がつかないふりをした。
「……うち来る?」
今日、親いないんだけど。そんな言わずと知れた常套句に首をかしげるほど、鈍感にはなれなかった。かと言って、それに即答して、がっついていると思われるのも嫌だった。心の中では返事なんてとっくに決まっていたのに、彼女の前ではかっこつけていたいという気持ちが、無意識に僕の口をつぐませていた。
「い、いつまでもそのままじゃ風邪引いちゃうし!それにほら、どうせそんなんじゃ帰れないでしょ?だから、その……」
彼女は、いつだって僕に都合のいい言い訳を与えてくれた。
いつまでも口を結んでいる僕に、彼女は僕が返事に困っていると勘違いしたようで、その白い頬をほんのり赤く染めた。そして、弁明するように早口でそうまくし立てた後は、言葉に詰まってうつむいてしまった。自分より背の低い彼女が下を向くと、僕からは彼女の顔を確認することができなかった。
「……えっと、服乾かして、ちょっとあったまって行きなよ。ね」
袖を優しく引っ張る彼女に、抵抗する気はなかった。胸のあたりが、妙にむずがゆかったのを覚えている。
これが、最初で最後の間違いだった。