どこに行くの、と訊いた僕の手を、彼女は着くまで内緒、と引いた。彼女の目的地がわかったときは戸惑ったけれど、彼女は意外と頑固な一面があり、僕は止めても無駄だと知っていたので、彼女をひとりで行かせるのは不安で渋々折れた。
 彼女が訪れたのは、学校のプールだった。僕らは、重いローファーも靴下も脱いで、裸足になった。

「へへ、悪いことしてる気分」

 無邪気にはしゃぐ彼女に、「実際してるんだよ」と、溜め息混じりに返した。すると、僕の言葉を受けた彼女は、目を丸くして、その目で僕をじっと見た。

「な、なんだよ」

 真正面から見つめられ、僕はたじろぎ、一歩引く。すると彼女は、僕が引いた一歩分をずいと詰め、ふにゃ、と力の抜けた微笑みを見せた。

「凪がいっつも私を屋上に連れていくから、罪悪感が麻痺しちゃったみたい!」
「……。そりゃ悪かったな」

 思わぬ反撃を食らい、僕は顔を背けた。思い返せば、確かに自分は屋上に行くとき、必ずと言っていいほど彼女を連れていた気がする。無意識だっただけに、ばつが悪い。

「だから、ここに来たのは、その仕返し、みたいな……」

 ひゅっと風が吹き、彼女の長い髪が乱れる。彼女は髪をかきあげ、憂いを含んだその瞳に、夜を映した。

「……こうしてるとさ。世界に私たちふたりきりだって、錯覚しそうにならない?」

 ロマンチストだなぁ、なんて、彼女の頭に手を置いて、からかえたならよかった。けれど、昼間はにぎわっているプールサイドが、今は自分の心臓の音が聞こえるくらいに静かで。僕は、少し、そうだな、と思ってしまったから、いつもは至極簡単なそれが、できなかった。

 ふたりでプールサイドを歩いていると、不意に彼女がつるりと足を滑らせた。翻る紺色のスカート、踊る濡羽色の髪。

 慌てて支えなければと手を伸ばすが間に合わず、僕の手は何も掴まない。とぷん。彼女が水の中に消えたのを目の当たりにして、僕は焦り、ばしゃんと水飛沫を飛ばして、彼女の跡を追った。
 水中で彼女の姿を探すと、こちらを見ていた彼女と、ばちっと目が合った。彼女が笑って手を振ったので、思ったよりも余裕そうなその姿に、何だそれ、と吹き出した。
 それから僕らは、両手を広げて、沈んでいく感覚に身を委ねた。吐き出したあぶくに光が反射して、それがゆらりとのぼっていくのを、僕らはふたり、底に着くまで、無音の世界で眺めていた。





「だーるー!」

 耳に届いたそれに、は、と現実に引き戻される。見ると、世那がブラシに体重を預けて、空に向かって叫んでいた。

「なんで部活しに来たのに雑用させられてんの俺らー」
「喜べ世那、このあとちゃんと練習あるってよ」
「おぇ、地獄かよ。帰りてぇーっ」

 プールサイドから飛び降りると、腰に巻いたジャージがひらりと翻った。下だけはいたジャージの裾をまくって、薄い水たまりをつま先で踏みつける。それはぴちゃっと音を立てて、派手に飛沫を散らした。
 プールに水はたまっていない。当たり前だ、今日は水泳じゃなくて、掃除が目的なんだから。……無い水には溺れることもできない。

「うわっ、せ、世那。これ、これ。払って」
「んあー?何、虫……の、死骸?」

 今日まで放置されたプールの底には、大きなカマキリのような何かが息絶えていた。
 「よっ」と、世那がプールサイドに手をついて、下に降りてくる。

「死んでるし平気だろ。凪ちゃんったら可愛いな~」
「裸足で踏みそうになったんだよ……。無理なもんは無理」

 世那は、それを枯れ葉に乗せ、フェンスの向こうに投げた。ほぉら、これで安心だろ。子ども扱いが癪に障ったけれど、助かったのも事実なので、不本意だけれどもお礼を言う。
 彼女も、虫は平気なひとだった。僕は虫を発見すると必ず世那か彼女を呼び、そのたびに女々しいな、とからかわれていた。
 寿命だったのか、夏の暑さに殺されたのか、それとも、もっと前からここにいたのか……。知るすべはなく、いくら考えたって無駄なのに、なぜかそのことが引っかかった。

「えい」
「ぶわっ!?」

 大量の水が勢いよく顔面にぶち当たり、反射的に目を閉じて、腕で顔をガードする。何事だ、と、顔についた水を手で拭うと、世那が、少量の水が出たままだったホースを自分のほうへと引き寄せ、蛇口をひねって水量を増やし、こちらへ飛ばしてきたようだった。

「お前、なんのつもりだよ!」
「いや、なんか一瞬意識飛んでたみたいだったから?俺なりの気遣いだよ」
「嘘つけ!」

 お前ら、喋ってないで手ぇ動かせよー。遠くから、偉そうに仁王立ちをしている顧問に注意された。僕らはそろって背筋をしゃんと伸ばし、ハイ!と、腹の底から返事をする。

「……最近、暑くなってきたよな」
「まぁ、夏だからな」
「お前が変なのは、夏のせい?」

 僕は目を見開いた。自分ではいつも通りに生きてきたつもりなのに、変だなんて、そんな。……どうしてこいつは。

「へ、んって。なんだよ世那、急にどうしたんだよ」

 動揺を悟られないようにと、なんとか声を絞り出す。声が震えているのが自分でもわかって、冷や汗がたらりと額を伝って頬を流れた。
 茶化してみせれば、世那はいつものように乗ってくれると思った。……いや、本当は、乗ってはくれないんだろうなとわかっていたけれど。どうか乗ってくれと、そしてこの話題は有耶無耶になってしまえ、と祈っていた。けれど、世那はそんな甘い考えを許さず、いつになく真剣な目でこちらを見るので、僕はたじろいで、目が泳いでしまった。



「俺……話したんだ、あいつと」



 息が、止まった。

 それは、ある日を境に、どちらともなく話さなくなった、彼女の話。話題にすることを避けていた、あの夏の話。
 瞬きの瞬間、まぶたの裏に彼女がいた。

「──いつ。どこで、いつ、なんで」
「うわ、ちょ、落ち着けって!」

 世那の声で、周りの音が耳に戻ってくる。僕の両手はしっかりと世那の肩を掴んでいて、世那の部活Tシャツにしわができていた。

「あ……ごめ、」

 慌てて世那から手を放す。世那は呆れを含んだ目で僕を見た。ただならぬ雰囲気を察したらしい部員たちが訝しげに僕らを見ていて、世那が「すんません、なんでもねえっす」と頭を下げるのを、僕はぼーっと眺めていた。
 軽蔑されてしまっただろうか。世那の忠告を無視して、凝りもせずに探していること。何を言われるかと身構えていると、世那は長めの溜め息をついて、それから後頭部をガシガシとかいた。

「……。いーよ別に。どうせ、凪が期待してるようなことは言えないし」