彼女は確かにそこにいた。
 妄想や幻想の類なんかじゃなくて、確かに、そこに存在していた。


「やあやあ。浮かない顔してどうしたよ」

 ぼーっと見つめていた床に、新たに僕以外の影が落ちる。僕はその声に誘導されるがまま、ゆっくりと顔を上げた。
 その先にいたのは、やっぱり世那だった。僕に話しかける奴なんて、世那と彼女くらいしかいなかった。彼女だったらよかったのに、なんて言ったら、世那は怒るだろうか。……拗ねて、しばらく口を利かなくなりそうだな、と思った。口をとんがらせている様子が簡単に目に浮かぶ。

「そう見える?」

 自覚がないわけではなかったけれど、いちばんに世那に気づかれるとは思わなかった。大雑把なようでいて、世那はそういうところをよく見ている。

「見える見える。それにひでークマ」

 世那は、頷きながら自分の目の下を指した。つられて僕も自分の目の下に手を当てると、ピクピクと痙攣していることに初めて気がついた。

「何、最近夜遅いんだ?勉強?」
「そんな真面目な性格してねぇよ。知ってんだろ」

 僕の性格を知らないわけではない彼のそれは、間違いなく確信犯で。僕は、世那を肘で軽く小突いた。
 確かに、自分でもここのところよく眠れていない自覚はあった。寝不足の原因は、考えるまでもない。

「まーな。凪って基本無口なせいで勘違いされやすいけど、実際ずば抜けて頭いいってわけじゃないし、むしろポンコツだよな」
「うるせ」
「あと、案外口が悪い」
「んだと」

 反射的に口を開くと、世那は「ほらそういうところ」と、人差し指を立てた。自覚があるだけに言い返す言葉も見つからず、僕は口をつぐむ。その代わりにキッと睨みつけると、世那は項垂れて両手を上げた。

「はいはい、降参降参」
「どうせ滅多に開かない口だし、そんくらい見逃せ」
「そうだなー。凪が喋るのなんて、俺と、あとはあいつくらいで──」

 からだがぴくりと反応して、直後、しまった、と思った。僕が、動揺を隠せるくらい器用だったらよかったのに。世那が僕の反応に気づかないはずもなくて、今から聞こえなかったことにするのは難しいだろうなと悟る。
 それまで饒舌だった世那は、珍しく言葉に詰まっているようだった。やっべ、うっかり口が滑った。彼の表情からは、そんな焦りがうかがえる。

 世那の口から出た“あいつ”が指すのは、彼女しか有り得ない。いったい何を言う気かと、彼の次の言葉を待った。
 世那は、しばらく黙り込んでいた。そして、まっすぐ、僕を見た。

「無謀な探しもの(・・・・)なんて、やめちまえよ」
「…………!」

 ひゅっ、と息が詰まった。どうして、世那がそのことを。問い詰めようとしても、喉が凍りついて、一文字も言葉を発せない。

「俺さ」

 世那の唇が、ぴくりとわずかに動く。その視線は揺れていた。言いかけたくせに迷いが見えるその態度に、僕は眉をひそめた。

「──。明日の部活、プール掃除だってさ!」

 結局、その続きが世那の口から紡がれることはなかった。
 ぽんっ。世那は、僕の肩に軽く手を置いて、それから横をすり抜けていった。
 言いかけの言葉の続きほど気になるものはない。そこまで言ったなら最後まで聞かせろ、と詰め寄るつもりで振り向くと、タイミングを見計らったかのようにチャイムが鳴り響き、思わず舌打ちをした。